今夜、星をみにいこう
さわさわと風が草木を揺らす。月明かりなんて、とうの昔に届かなくなった。
あるのは眩しいばかりの人工の光りだけ。チカチカとイロトリドリに輝くネオンも、街を覆う街灯も、24時間消えることのない工場やビルの灯りも、吐き気がするほど鬱陶しい。
華やかさも賑やかさも僕には毒でしかなかった。
あまりにも眩しく、いつしか俯いて歩く癖がついた。
「なぁ、星が見たいんだろ?なら、あっちだ」
見知らぬ少年が男の顔を覗き込んだ。
くりっとしたつり目が印象的な、どこか懐かしい雰囲気の少年だ。12~13才くらいだろうか?
夜だというのに、彼からはふんわりと、おひさまの匂いがした。
艶々とした真っ黒な髪が、泣き出したいほど男の目を引いた。
何故か、初めて会ったとは思えなかった。
「この街に星はないんだよ」
男はしゃがみこんだまま、少年に告げた。それ以上声を発してしまったら、涙が零れてしまいそうで、顔をあげることはできなかった。
膝を抱え、うつむく男の手にはスーパーのビニール袋が握られている。
中には缶詰や、つまみのようなものが入っているようだ。
少年はそんな男の横にしゃがみこみしばらくこちらの様子を伺っていた。
少年の仕草が男の記憶を刺激する。あぁ、前にもこんなことがあったな。あれは、いつのことだっただろうか。
開きかけた記憶の扉は、少年の声によって男の意識から離された。
「でも、見たいんだろ?あるよ!こっちだ!ついてこいよ!」
少年は男の手を引っ張り、坂の上を指差した。
少年が指し示したのは、この街で一番長い坂だ。坂を登ると、その先は深い山に繋がっており、頂上には展望台がある。
「この街に、星は、ないんだ」
男は首をふりつつ、もう一度ゆっくりと告げた。
それでも少年は、にんまりと笑う。
ゆっくりとまばたきをすると、「いくよ」と、男をおいて歩きだした。
数メートルほど進んだところで、こちらを振り返り立ち止まる。
髪をすいたりあくびをしたりしつつも、男を待っていた。
男はなんとなく逆らえないような気がしてしぶしぶと立ち上がった。
ゆっくりと、踏みしめるように、少年の後を追う。
「ねぇ、君は誰?僕のことを知ってるの?」
少年に問うと、忘れちゃったの?と、少し拗ねたような声が返ってきた。
「薄情なやつめ」
言葉とは裏腹に、前を行く少年の足取りは軽やかだ。まるで重力など感じていないかのようだった。
少しずつ街の明かりが遠のき、周りにはぽつりぽつりと街灯がともるのみとなった。
「どこまで行く気だい?」
暗闇がじわじわと距離を詰めてくるようで、男は不安になってきた。足元を照らす街灯も、少なすぎではないだろうか。
前を行く少年の肌は浅黒く、服装だって真っ黒だ。
少し目を離したら、少し気を抜いたら、今にも闇に溶けてしまいそうで、男は必死に足を進める。
「行けるところまで」
少年は歌うように答えた。
「どうして星が見たいの?」
今度は少年が問う番だった。
男は少し迷いつつも言葉を探した。
何てことはないありふれた話だ。
それでも男にとっては大切な思い出で、ぼんやりとした思いは灯火のように男の胸を暖めていた。
言葉にしたら薄っぺらく消えてしまうような気がして……誰かに聞かせたことはない。
誰かに話して陳腐なものへと貶めてしまうことが怖かった。
「僕には昔、気まぐれな友がいてね、そう、丁度キミみたいに真っ黒な毛の……尻尾の生えた友達だ。時折会いに来ては、好き放題遊んで、メシを食ったらさっさっと帰る酷いやつだった。いつだって姿を見せるのは、あいつからでさ、俺がどんなに呼んでも、気が乗らなけりゃ、返事すらしないんだ」
「へぇ、そいつは酷いや。その友達はさ、気が乗らなくても、ちゃんと返事くらいはしてたんじゃない?キミが聞こえてなかっただけだろ。それに、大事な時は見逃さなかったハズさ」
少年はつまらなそうに1つあくびをした。
「あぁ。そうだね。アイツは僕が泣いていると、ふらりと現れてさ。そう……僕の故郷にはまだ、空があったんだけどね、夜になると星が見れたんだ。空は広くはなかったけれど、それでも星空の下にいたらさ、いつの間にか隣に座ってて……黙って話を聞いてくれてた」
「失礼な!ちゃんと相槌は打ってたさ」
「つまらなそうにあくびをしながら?」
「耳はそっちに向けてただろ」
少年はずんずんと坂道を登っていく。
どれほど登ったんだろうか。少しだけ周りの空気が暖かくなってきた。
「なぁ、あの日、どうして来てくれなかったんだ?」
少年に友の面影を見つけ、ずっと胸の奥底に沈めていた言葉がでてきてしまう。
「ちゃんと行ったさ。涙も舐めてやってた。気付かなかったのはお前の方だ」
少年はさらりと答えた。
「姿が見えなきゃ気付けないよ」
そんなはずはない。彼が、かつての友であるはずはない。そう思うのに言葉は止められなかった。
「薄情なやつめ」
少年の足取りはやっぱり軽く、どんどんと距離は離れて行った。
それでも、見失わない距離で彼は待っていてくれた。いつだって彼は待っていてくれたのかもしれない。
地下シェルターへの移住が決まった日だって、僕が見つけられなかっただけで彼はあの場所で待っていてくれたのだろうか?
それでも、人間の体力には限界がある。
「なぁ、僕にはこの坂は登りきれないよ」
何の準備もなしに夜中の登山は無理がある。
「何言ってるんだよ?見てみろよ」
指差した先には、展望台の塔が、遥か彼方に、それでも目視できる位置にまで近づいていた。
これを、「あとちょっと」と捉えていいのかわからない。わからないが、自分で思っていたよりも遠くまで来れたのかもしれない。
思わず天を仰いだ。ここからなら、これだけ天に近ければ、少しの隙間さえあれば、星は見えるだろうか?
そんな希望がわいてきた。
「もう少し、頑張れそう?」
少年は僕を見上げると、嬉しそうにぐりぐりと頭を擦り付けてきた。
胸に、懐かしい暖かさと、おひさまの匂いが広がった。
彼の進む道は展望台に続く道ではなかった。
道を逸れ、道なき道を進む。
瓦礫の山や、歯車に、鉄骨。
人工の自然物は消えて、この街の本来の姿が露になる。
前を行く少年は、細い道も、不安定な足場も、ものともせず器用に進んでいく。
生身の人間には、難しいなんてもんじゃない。少しでもバランスを崩したらお終いだ。けれど、不思議と怖くはなかった。今ならなんだってできそうな気さえした。
「ほら、見て。
ここが、この街で一番空に近い場所だ」
大きな歯車の隙間で彼は、にんまりと笑った。
そう言われて見上げるも真っ暗な空間が広がるばかりだ。
男はおそるおそる天に手を伸ばした。
今は光が見えなくとも、曇っているだけかもしれない。歳をとって目が悪くなっただけかもしれない。空があると、まだ扉は開いていると、希望が持てれば充分だ。
祈るような気持ちで伸ばした掌には、無情にも冷たく硬い感触が伝わった。
あぁ、この街でさえも閉ざされてしまっているのか……。
心のどこかではわかっていた。知っていた。
この街に、この世界に、空なんて、もう、どこにもなく、一生のうちに星を知ることができただけでも幸運だったのだ。
知っているだけで、充分すぎるほどに。
「なんて顔してんだよ。星が見たいんだろ?この街で一番天に近いのはここだけど、一番、星に近いのは、あっち」
少年が指差した方向には、さっき登ってきた坂がある。
ぽつりぽつりと街灯がともる暗い道
「違うよ、その先だ」
道の先には男の住む街がある。
「あぁ、そうか」
眩しすぎると感じていた街の明かりも、24時間消えることのない工場の明かりも、歩いてきた坂道の街灯さえも、少し離れて見ればこんなにも美しいのか。
「な?あっただろ?」
少年は満足げに、にんまりと笑った。
「お前ら人間は小さな光の点を星なんて呼ぶけどさ、光る点ならどこにだってあるんだ。振り返ってみろよ。普段は眩しすぎて見えないかもしれないけど、少し離れてみたら見つかるかもしれないぜ。星の下が待ち合わせ場所だろ?いつだって一番近くで待っててやるからさ」
少年はゆっくりとまばたきをすると、にんまりと笑って闇に溶けていった。
足元にはいつかの夜のように瀕死のネズミが転がっていた。
何が『一番近くで待っててやる』だ。
「お前の時間と僕たちの時間は違うんだよ。バーカ」
薄情者はお前の方だ。いつだって僕をおいていきやがって。
男は手に持っていたビニール袋から缶詰を取り出すと、蓋は開けずに、隣に置いた。
「一番、星に近いところ……か」
男は腰をおろし、ゆっくりと街を見渡した。
なぁ、いつか、この街を好きになれると思うか?
お前がいなくても、また、ここに来れるかな?
また、星を見つけられるかな?
また……また、会えた時には
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蛇足
やぁ、こんばんは、おチビさん。素敵な毛並みだね。
こんなところに1人でどうしたんだい?
見ない顔だね。最近越してきたの?
迷子かな?心配しなくていい。
キミの迎えが来るまでお兄さんとここで待っていよう。
それまでそうだな。少しだけ話でもしないか?
僕には昔、四つ足の友がいてね
キミみたいに真っ黒な毛をしたやつだった。
そいつは狩りが得意でさ、僕が泣いているといつも、慰めるように涙を舐めて、元気付けるように獲物を置いていってくれたんだ。
そうだ、オヤツがどちらかの手に入っているよ。選んでごらん?
正解だ。どうぞ。
腹が満たされれば少しは気も安らぐだろう?あいつもこんな気持ちだったのかな?
その友達は今どこにいるのかって?
どこだろうな?きっとすごく遠いところにいるはずだ。
もう、会えないくらい遠くに。
戦争で街が、世界がぐちゃぐちゃになっちゃってさ、地表には人間が住めなくなったんだ。
生き残ったのはお金や権力のある一部の人間だけでね。地下に逃げ込んで、前もって技術者に作らせておいた装置で元の世界に近い生活を作り上げた。
僕?ここにいるってことは僕もその一人なんだろうね。
この街の明かりは僕には少し眩しすぎてさ、ここから逃げ出したいっていつも思ってた。
故郷の星空が恋しかったんだ。いや。本当に恋しかったのは、星空の下で待ってくれてた……あいつだったのかもしれないね。
でもね、ここはこの街で一番、星に近い場所だから、今は気に入っているよ。
キミにも、いつかこの街を好きになってもらえたら嬉しいな。
さぁ、今度はキミの話を聞かせておくれ