第1話 予定外のフルダイブ
「おーきーろー! おーい、起きろってば!」
時は少し戻って、初心者講習会の数時間前。
真宮涼美はベッドに横たわる兄を、グイグイと踏みつけながら完全に呆れていた。
兄は顔にVRバイザーを付け、『こっちの世界』では無意識の状態。
なので、呼んでも起きなければ、体を踏んづけても起きない。
「ほんと毎日毎日、飽きもしないでVRに入り浸ってるんだから」
時は2036年、バーチャルリアリティは人々にとって当たり前の技術になり、一般家庭にも普及していた。
VR空間に入るための手段も、最初は高性能なパソコンとトラッキング機器が必要だったが、2028年にフルダイブと呼ばれる技術が完成。
人間の意識を機械につなぎ、直接VR空間へ入り込むことが可能になったのだ。
……と、それまでベッドで寝ていた兄が、急に起き上がって顔からVRバイザーを取り外す。
「よっしゃあ、今日も勝ったぜ!」
「うわあああっ!?」
「ん? おい、スズ!
また勝手に俺の部屋へ入ったな!」
「うっさい、バカ兄貴!
ドアの向こうから呼んでも出てこなかったでしょ、お母さんが晩ごはんだって何度も呼んでるのに」
「げっ、マジか!
いっけね~、もうこんな時間!?」
時計を確認し、ドタバタと部屋を出ていく兄の真宮勇治。
その姿に再び呆れながら、ベッドの上に投げ出されたVRゴーグルに目をやる涼美。
「ほんっと、何が楽しいんだか」
毎日のようにVRの世界で遊ぶ兄と違って、涼美はあまりゲームをやらない。
いや、やらなかったと過去形にするべきだろう。
このVRがきっかけで、彼女の人生は大きく変わったのだから――
■ ■ ■
「え~っ? やだよ、そんなの!」
一般的な日本の中流家庭、真宮家。
そのキッチンで冷蔵庫から出した牛乳を片手に、涼美は抗議の声を上げた。
「でも、お母さんたち、VRなんてやらないから全然分からなくて……
お兄ちゃんが向こうで何をしてるのか、見てくるだけでいいから、ね?」
「いーやーでーす!
あたしだってVRに入ったのは学校の体験授業くらいだし」
「お兄ちゃんと一緒に機械を買ったでしょ?
全然使ってないの?」
「うん……まあ……あたしには、ちょっと」
涼美と話し合っているのは真宮兄妹の母。
妹の涼美は勉強もスポーツもできる優等生だが、兄は学校から帰ってくるなり深夜までVRに入り浸り。
同じ血を分けた兄妹なのに、どうしてここまで違う道に進もうとしているのか、親としては不安がつのる一方だ。
「お兄ちゃん、高校に入ってからも成績が落ちっぱなしで……
毎日ずっと寝転がってばかりでしょ、心配なのよ」
「それはそれ、あたしには関係ない。
兄貴の成績なんだから、本人の問題じゃないの?」
「兄妹なのに冷たいこと言わないで。
どうして、そんな風になっちゃったのかしら?
昔はお兄ちゃんお兄ちゃんって、あんなに懐いてたのに」
「ブフッ! コホッ……コホン!
それは子供のときの話でしょ!」
急に昔のことを掘り返されて、飲んでいた牛乳でむせ返る涼美。
決して仲が悪いわけではない。勇治は高校1年生、涼美は中学2年生。
それぞれに心身が成長し、いつしか距離を取るようになっただけなのだ。
「ちょっと様子を見てくるだけでいいのよ。おこづかいをあげるから」
「むっ……」
「VRの機械も使わないままじゃ、もったいないわよね。せっかく買ったのに」
「それは、その……ううっ」
「次のスズちゃんのお誕生日、欲しいものがあったら、お父さんに相談してあげるんだけどな~」
「ぐぐぐ……!」
どう考えても母のほうが優勢である。
あれこれと言葉を重ねられ、涼美がVRバイザーを装着するのは時間の問題だった。
このところ兄が入り浸っているらしい『ラヴィアンローズ』というカードゲームは、基本プレイ無料なのでインターネットからソフトをダウンロードできる。
世界的な大ブームだそうで、CMや広告、ニュース番組でもよく耳にしていた。
「まったく、あたしまで巻き込まれるなんて。
向こうで会ったら何か言ってやらなきゃ!」
愚痴を言いながらソフトをバイザーにインストールし、かなり細かい部分まで初期設定を行う。
このゲームはセキュリティを徹底しているらしく、予想以上に入力項目が多かった。
「え……アバター名?」
ここで涼美の手が止まる。
『VR世界でのあなたの名前です。本名は避けましょう!』と書いてあるのだが。
「涼美……涼……リョウ……なんだか、男の子っぽいかな。
いつもスズって呼ばれてるし、鈴……風鈴のリン……リンでいいかも!」
アバター名に『リン』と入力して先に進む。
思った以上に手間取ったが、ようやくラヴィアンローズの世界に入ることができた。