93、変化を案じていたもの
どうにも朝からおかしかった。
遠足前の小学生かと突っ込みたくなるのだけど、ここのところ寝坊がちだった身体がすっきり覚醒したというか、ウェイトリーさんに驚かれる程度には寝起きが良かったのである。おかげでその日はアヒムやヴェンデル達と朝食を囲めたし、いいことではあったのだけれど、それはそれで弊害がある。
「……報告忘れとかないわよねぇ」
「問題ないと存じますよ。わたくしどもはできうる限り殿下に尽くしておりますので、お人柄でも変わっていない限り、これで難癖をつける方ではないでしょう」
「いやあどうでしょう。天上人になっちまいましたからね、いつでも最悪は想定するべきですよ」
「アヒム様の仰ることももっともですが、この短い月日でそう変わる方とはとても……」
「アヒム、不安にさせるようなこと言わないで」
「はいはい。申し訳ありませんね」
アヒムは若干不機嫌顔でカリカリに焼いたベーコンを口に運ぶ。予定を変更してもらって護衛を頼んだの、そんなに気に食わなかったのだろうか。だって兜被っているとはいえ、ジェフを連れて行くわけにはいかなかったし。
「心配いりませんよ。この魔都において、その程度で人格が変わるようならそれまでです」
ほほほ、と笑うウェイトリーさんはどこか怖い。
「そうだウェイトリーさん、お隣の空き家って本当に誰もいないのですよね?」
「そのはずでございますが……」
「あ、それ僕も気になってた」
挙手するのはヴェンデル。ということはヴェンデルも聞いたのかな。
昨日、お隣の老夫婦にご挨拶に行ったあとはお茶をして、明日の準備をしてベッドに入ったのだけれど、夜中にトイレに起きた後、変な音を聞いたのだ。ヴェンデルはなんとなく目が覚めてしまったらしいが、この子が語る内容も私と同様のものだった。
「深夜にさ、窓の外からすっごい怒鳴り合いが聞こえてきたんだよね。僕らの部屋、三階だし、ここも大きい家だからそんなの聞こえるわけないと思ったんだけど――」
「やっぱり聞こえたのよね? 外の方からだし、方角的に空き家になってる方の家じゃないかと感じたのだけど……」
「だよね? 僕もそっちじゃないかなって……すぐに静かになったからまた寝たけど、エミールやアヒムは聞かなかった?」
「僕はそういうのは聞いてないなぁ」
「おれもちょっとわかりませんね。……そんなの聞こえるとは思えないんですが」
部屋割りとしては私とヴェンデルといった主人一家が三階。客人やウェイトリーさんが二階だ。
エミールはうちに住むのだし、三階でいいと伝えたのだけど、本人が二階を希望したのだ。
エミール曰く「お世話になっている立場なのを忘れないように」らしいのだが、姉弟間でそんな遠慮されても……と思うので、いずれ三階に移動してもらうつもりである。
ともあれ、音を聞いたのは私とヴェンデルだけのようだ。
「……ふむ。誰か入り込んでしまったのでしょうか。空き家なのは変わりませんし、気になるのは確かです。確認しておきましょうか」
「じゃあおれも暇なときに見ておきましょうか。新しい足跡でもついてたらわかるでしょ」
「アヒム様。不法侵入はご遠慮くださいませ」
「わかってますよ。調査調査。ははは」
ウェイトリーさんとアヒムが調べてくれるので、ひとまずこの問題は解決だろうか。
「ところでお嬢さん、今日は楽しそうですね」
「宮殿を見るのが楽しみだからかも。大図書館は一般に開放されてるらしいし、帰りに寄れたらいいなぁ」
「あ、それなら僕も行きたい」
「途中まで一緒に乗っていったら?」
「……それはいいや」
「なんで? 来たら良いじゃない」
「僕、カレンと違ってまだこっちの服買ってない。一通り揃えたら行く」
「服って、男の子の服ってそんな違いあった?」
「あるよ。見たらわかるじゃないか」
「……そうかしら」
「その辺カレンには期待してない」
ヴェンデルは不満げにお茶を啜る。私の目から見るとそう違いはないのだけれど、子供らにしてみたら「かなり」違うのだそうだ。……若い子の感性の違いってやつなのだろうか。そういうわけでヴェンデルは買い出し、エミールはウェイトリーさんに学校の転入手続きを教わるようだ。
「家主であるカレン様はすでに名誉帝国市民であらせられます。そのご子息たるヴェンデル様の移住も問題ありませんが、そうでないエミール様の場合は色々と手続きがかかるのです」
なお、名誉帝国市民の件は、手続きを任せる以上は教えなければならなかったのだ。これって、名誉帝国市民じゃなかったらもっと手続きに時間を要していたのかなぁ。
エミールの買い物は、「面倒だからヴェンデルに任せた」だそうである。弟よ……お姉ちゃんは、流石にそれはどうかと思う……けど、ヴェンデルも平然としてるのでなにも言えない。
ところで今日は私だけがお呼ばれしたのだけど、ヴェンデルを連れていかなくて大丈夫だろうか。いずれ会ってもらわないとなぁと考えながら支度をして、出かける前に渡された各種手続きに目を通していると、すっかり出発の時間である。
爪等は昨日寝る前に手入れを終えている。櫛に通した髪に花香油でなでつけて、派手にならない程度に白粉と薄い紅、元の造形がいいのでこの程度で十分。服装はマリーの見立て通りに、派手すぎず地味になりすぎず、な勤め人風。お洒落をしなくていいかとエミールに問われたけれど、きっと目の保養的な意味で呼ばれたわけではないのだろう。だからこれで問題ないはずだ。
なお、我が家にはまだお抱え馬車や御者がいない。中央に向かう道はわかっても、宮殿内の地理なんてあるわけもないし、ではどうやって向かうのかと言えば、当然お迎えが来るわけである。
護衛は最低限、決して華美ではないが細かい金の意匠が施された二頭立ての四輪馬車だった。栗毛の馬は骨格と肉付きも充分で、背面からでもさぞ立派な馬だろうと想像である。玄関を叩いたのは壮年の男性で「お迎えに上がりました」と恭しく頭を垂れた。
「それじゃああとはお願いしますね」
ある護衛の一人に気付いた。肩幅が立派な凜とした佇まいの女性は、たしかゾフィーさん。
コンラート陥落の際、保護された私とヴェンデルに親身になってくれた女性である。表情一つ動かさず前を向いているけれど、こちらの視線に気付いたのか目が合った。
こんにちは、と手を振ると、目元が和んだようである。
覚えていてくれたのがちょっと嬉しい。
帝国の馬車で面白いのは、ファルクラムと違って様々な種類がある点だ。
開閉式のフードで開放感が感じられるものや、大勢の人を乗せる遊覧専用もあちこち走っている。
今回の馬車は窓が大きく開閉できるから、景色を楽しめそう。いつか前開き式で風を感じてみたいものだ。
中央区に近づくにつれて、街並みは変化していく。宮廷近くに住まうのは昔からの帝国市民がほとんどで、その顔ぶれも昨日の街路の人々より余裕が溢れている。
衛兵の数は増え、大きな屋敷も増えていくから、中央に近づくほど安全が約束されているのだろう。
肝心の中央区だが、さらに塀と堀で隔たりができていた。
内部とは橋で行き来するようで、仕組みは跳ね橋になっている。昼の間は降りているようで、出入り口では少々の確認だけであっさり通された。
大勢の馬車と同じように中央に向かうと思いきや、道を逸れて左の小道へ。窓から覗く宮殿は意外にも石造りの堅牢な建物が目立つようにそびえ立っている。どうやら一番大きな塔である『目の塔』に繋がっているようだった。『目の塔』を中心に目新しい建物が建築されて広がっており、規模はファルクラムと比べるまでもなく大きい。街中と違ってあちこちに植物が植えられているし、すべてが手入れされているようだった。どこもかしこも目を楽しませることに長けているようである。
私が連れて行かれたのは建物を奥に行った先にある、小さな玄関口だった。小さいといっても宮殿に比べたらの話で、この建物だけでも辺境のコンラート邸くらいあるので侮ってはいけない。
中はやはりと言おうか、調度品から壁掛け絵画まで値の張りそうな品々ばかりである。木どころか大理石が敷き詰められた床を踏みならしながら案内された部屋は一面硝子の窓で覆われた部屋。遊覧、あるいは談話室だろうか。薄い白カーテンが掛かった部屋の端、開け放たれた窓の前にテーブルと皿がセットされている。
どうやらここが今日の昼食会場らしい。主賓はまだ登場していないらしく、しばらく待つよう伝えられた。
一人になったところで周囲を見渡した。……日本でこんな部屋を利用しようと思ったら貸し切り何万円かかるのだろう、なんて疑問はともかく、こういうのを見ていると改めてライナルトは偉くなったのだなあと実感してしまう。以前と変わらないノリで手紙も出していたけど、やっぱりこれからは遠慮した方がいいのか。考えているとやがて扉の向こう側から足音が響き、そして扉が開かれた。
その中心にいたのは、当然と言おうかライナルトである。すぐに目が合い、向こうもにこりと口角をつり上げた。
「久方ぶりに見る顔だ。息災だったろうか」
「はい、殿下のお陰をもちまして、一同元気にしております。本当に、お久しぶりでございます」
礼の形をとると、ライナルトは鷹揚に頷いて背後に振り返った。
「こちらは不要だ、必要な者以外は下げろ」
ライナルトの一声で、四名ほどいた男性が頭を垂れて下がる。内二名が衝立の向こうに消えたのだが、おそらく護衛の為なのだろう。一応目に見える範囲の人は消えた。
「堅苦しくてすまない。彼らはどうにも心配性のようだ」
「気にしておりません。殿下の御身を守るのがお役目ですし、もちろん私にやましいことなどございませんから」
ライナルトが低く喉を鳴らし、意味ありげに衝立の向こうを見ていた。
席に座ろうというとき、どこからともなくやってきた給仕が椅子を引いていた。葡萄酒の瓶を空けるとグラスに中身を注ぎ、すぐにまた室外へ消えていく。
ライナルトには気にしないといったものの、始終人がいるとやっぱり気になる。だから必要なときだけ来てくれるのはありがたい。
彼らもそつなくこなしているけれど、これ、タイミング計るの大変なんだろうなぁ……。
「モーリッツさんからお聞きでしょうが、帝都に到着したのは三日前でした。ご挨拶が遅れましたのに、昼食にまでお声をかけていただいて、殿下のお心遣いに恥じ入るばかりです」
「ああ、どのみち私は不在でしたから気にされなくても問題ないでしょう。それに長い旅程をこなされたのだから休まれるのは当然だ。それよりも、思ったよりも元気そうで安心しましたよ」
「ありがとうございます。実は初日、家に入るなりみんな一斉に寝入ってしまいまして……やはり長旅が堪えていたのでしょうね。旅行なら必要な荷物を持っていくだけで済みますが、移住があんなに大変だとは思いませんでした」
「カレン嬢の場合は育った地を離れなくてはならなかったというのも大きいでしょう。見知らぬ土地へ移住を決めるのは、本人が考えている以上に堪えるものです」
「まあ、では殿下も?」
「寝付きが悪くなるのは認めなくてはならないでしょうね。と、呼び方は以前のように戻してもらえますか。カレン嬢に殿下と呼ばれるのはからかわれているようで居心地が悪い」
「ライナルト様、私にどんな印象を抱かれてるんですか?」
突っ込みはあれど、私もライナルトの方がしっくりくる。
「やはりその方が馴染み深い」
「それではお言葉に甘えまして、以前のままで」
注がれた葡萄酒は美味しかった。アルコールもほとんどないようで、辛すぎず甘すぎず、すっと喉を通っていくのが心地良い。
「美味しい」
素直な感嘆は彼の機嫌を良くしたらしい。
あたたかい眼差しが慣れないけれど、それもお酒のおいしさで誤魔化せる。
彼は以前までの軍服ではなかった。仕立ての良い黒いシャツに白が美しい上着に意匠が施されている。一目見たら、立ち居振る舞いで身分の高い人だとわかる出で立ちだ。
最初見たときは以前と変わったと思っていたけれど、どうやら杞憂だったようである。
だって、これは私が飲めるように合わせてくれたのだ。彼の好みはもっと渋みがある辛口なのを覚えている。以前彼と出席した舞踏会で、さんざん揶揄われたのだ。
「ライナルト様はお変わりないようで安心しました」
思わず口をついていた。ライナルトは些か驚いたように目を見張ったが、なんでもない表情で葡萄酒を一口嚥下し、柔らかに吹いてくる風に乗せてそっと呟いたのである。
「貴女は変わらないようでよかった」