76、皇女来訪
兄さんは悩んだ。いまこの人の中をしめているのはファルクラム貴族としての誇りと、家を存続させなければならない責務である。
「私とて彼に逆らうのがどれだけ拙いのかは理解している。けれど、それとこれとは別だ。……別なんだよ」
兄さんは語る。必要なのは姉さん達だけであって、自分は在れば便利程度の添え物くらいでしかないこと。ライナルトの妹が軍を預かるということは、彼の立場がどのようなものなのかも重々承知しているのだと頭を抱えていた。彼からの心証を良くしたいなら即決するべきであったが、あえてしなかったのだ。その姿は、人によっては優柔不断な態度と断じるかもしれない。けれども自国がなくなるということは、本来兄さんのような憂いが本来のありようなのだ。むしろ私や姉さんのようにすんなり受けいれようとしている方がごく少数なのである。
「ゲルダ、お前はあまり動揺してない様子だったが、彼に従うのかい」
「驚かなかったわけではないわ。けど、いまは泣いてるわけにはいかないし、私の目的はひとつだけだから」
「……子供、だね」
「そうね。この子を生かすことが優先」
男の子か女の子かもわからないが、まだ見ぬ将来の我が子のために思考を止めないようだ。
「いまはまだ、どうなってしまうかわからないけれど……もしも、いつか私たちが必要とされなくなったときがきたら、私がこの子を守ってあげないと」
「滅多なことをいうものじゃない」
「あり得ない話ではないでしょう?」
兄さんのみならず、姉さんにもとっくに未来を見据えている。
「……カレンも、それでいいのかい」
「コンラートは彼に後見人を託そうとしていました。話は広まっていましたし、こうなってしまえばいずれにせよ繋がりがなかったとは言えません。……元々、助けていただいたこともあっていくらかは懇意にさせていただいてましたから」
ただ、疑惑の眼差しを向けてくるであろう家族にこれだけは伝えておく。つい溜息交じりになったのは、互いの今後の関係を考えてしまったからである。
「私も知ったのは今朝方です。彼の行動を知っていたわけじゃありません」
そしてこれからライナルトに関する噂が広まる以上、彼以上の後見人を望めるかといえば答えはノーだ。
「……ライナルト殿は帝国と繋がりがある。そして、その帝国はコンラートの領地を落とした。それでもかい」
「それでも、です」
不確定情報だから話さなかったが、モーリッツさんの話しぶりでは帝国も一枚岩ではなさそうなのだ。ラトリアと手を組んでコンラートを潰したのは彼の妹による一派で、それに対してライナルトがいる、という構図なのかもしれない。よくよく考えれば、この国でさえ派閥が分かれ各々が権力を争っていたのだ。この国よりも大きな帝国にも派閥はあるはずで、私やひいては姉さんは彼の一派に属する、いや属さねば後がないという話になる。
「……お前達は思い切りがいいなぁ。私など、いまだに陛下の崩御で混乱しているというのに」
羨むような、悔しいような、そんな想いを含んだ声音だった。
「兄さん、ゲルダ姉さんを支えてあげられるのは兄さんだけよ」
「わかっているさ。お前達がいなかったら、なにも振り返らずに済んだだろうが……」
ふらりと立ち上がった兄さんは一人になりたいと言って部屋に戻ったのだが、夕方頃にはキルステンに戻っていった。夜が更ける前に使いを走らせたようだ、とウェイトリーさん経由で聞いている。
その頃私はウェイトリーさんとヴェンデルに事情を説明し、改めて今後について話し合った。ヴェンデルは途中、エミールからお呼びがかかって席を外してしまったが……。そこでウェイトリーさんにはラトリアの件を含め説明させてもらった。いくらかお怒りを見せるであろうことは覚悟していたが、反応はいくらか予想外だった。
年老いた家令は「あり得ない話ではなかった」と嘆息ついただけだったのである。
「もし帝国が二派にわかれているのであれば、旦那様達を手にかけた彼らに属さない、というのであればそれで結構です」
「それでウェイトリーさん、帝国についてはどのくらい知っていますか……?」
「皇女が一人いるということだけは存じております。彼の方の発言が事実であれば、軍を従えるには十分なお立場でありましょうな」
「……じゃあ、それほどの人を妹と言うのなら」
「間違いないでしょう。嘘をつく理由もございません」
ここまで来ると、一部の人たちの中でライナルトの立場は目に見えて明らかとなっていた。何気にモーリッツさんも口を滑らせていたし、これはもう確定事項だろう。
昔、ファルクラム王族や貴族らがライナルトの母を差し出した相手は皇族であり、その皇族がいまは皇帝として帝国に君臨している。ライナルトはその人の実子だった。
「もしかしたらって……そういう予感というか考えはあったのですけれど、目の当たりにすると、表現しにくい気持ちですね」
そういう立場の人とは無縁だったから、ライナルトがそれほど偉い人だったというのは納得…………できるな。うん、あの飄々とした態度は納得の貫禄である。
「そんな立場の人がどうしてずっとファルクラムで生活してたんでしょうか」
「わかりません。ただ、皇帝に皇子がいるという話は聞いたこともありますが、皇帝は側室も多いのです。そのような噂はいくらでもありましたし、正式に認められた実子は皇女一人のはず。なにより皇女の母方は帝都でも有数の名家です」
「……嫌な予感しかしませんね」
「ご安心ください。わたくしも良い予感などひとつもありません」
お互い、笑い声を重ねる余裕があったのが救いだったと述べておこう。
何故彼がファルクラムにいたのか、疑問は頭の端に留めておこう。いまは情報を集めていくのみだ。ただ、元外交官の家令は念のために、とひとつ忠告した。
「おそらくですが、あの方に関与する以上、帝国の権力争いに巻き込まれるのは必定でしょう。目立った行動は控えてくださいませ」
「必要とされているのは姉さんですし、私はただの橋渡し役だから大丈夫だと思うのですけれど……。ええ、善処します」
なんにせよ、事態は嫌でも進んでしまうのだ。
私の説得など必要とせず、姉さんはライナルトに逆らうような真似はせず、兄さんはその手助けのために傍に残った。ファルクラム王家の世継ぎはこうして彼の軍門に降ったわけである。
……まさか異世界転生を果たした上で、ひとつの領地と、ひとつ国の崩壊を見届ける羽目になるとは思いも寄らなかった。日本にいた頃の私がこの現状を知ったのならきっと鼻で笑っていたに違いない。
これからわずか一両日後、ファルクラム市民は一様に驚くことになった。
国王崩御の噂が流れる中で王都外への外出禁止令が報じられていると、王都の外を帝国兵が囲み、あまつさえ正門から堂々と何百騎もの軍が道の往来を闊歩したためである。
王国軍はなにをやっているのか、そんな声もどこかで上がっただろう。混乱が起こらなかったのは、あらかじめ命令された王国兵が彼らを留めたためである。衛兵の態度に市民も思うところがあったらしく、表だった非難はまだ起きていないようだ。
市街の様子については後にヴェンデルから聞いた話だ。この時の私は王城でライナルトと同じ空間に立っていた。
その場にはモーリッツさん達を始め、ファルクラムの有力貴族や兄さん姉さんもいたが、この日は兄姉の随従ではなく、単なる一個人としての同席を許されている。これを知ったときの兄さんやアヒムの表情は複雑怪奇を極めていたが、最後には悲しそうに瞳を沈めるに終わっていた。
ライナルトの風格のある佇まいはもはや隠しきれていないようで、その場の誰よりも目を引いている。彼が私に声をかけることはなかったが、一度だけ視線が交差していた。
お通夜のように静まりかえった広間にその人物が足を踏み入れたとき、こころなしかライナルト旗下の人々の眼光が鋭くなった。
随従を引き連れやってきたのは女性。
それも男装だ。身長は高かった。皺の見あたらない軍服をぴったりと着こなし、一つに纏められた金髪は綺麗にまとまっている。ぴんと伸ばされた背筋はその人の性格を現しているようだった。
腰には意匠の凝った鞘、金銀刺繍入りの外套を羽織った女性は、カツカツと音を鳴らしながら、まっすぐに中央へ向かって歩みを進める。
一同が固唾を呑んで見守る中、ライナルトの目前でその人は足を止めた。ひと組の男女は互いに一歩も引くことなく互いを見つめ、否、にらみ合ったのである。
ライナルトはもちろん、女性も凜とした気品を纏わせる存在感を放っていた。
容姿は似ていないが、どことなくだがその雰囲気が似通っている。
その護衛の多さ、周囲を引きつける佇まいからして、この人が誰であるかは明白である。
「…………なるほど、うまくやったものだ」
口を開いたのは女性だった。ライナルトに向かって不敵に笑うとあたりを一瞥し、わずかな時間の間に諸侯の姿を目に入れて回ったのである。
「たしかに、貴兄は陛下が望まれた条件を満たされた。無駄に兵力を損ねることなく、望むべく形でファルクラムを落とされたようだ。これでは私の出る幕はない」
誰も喋らないから、女性……オルレンドル帝国皇女ヴィルヘルミナの声はよりいっそう響きを増す。彼女は悠々と微笑んでみせ、対するライナルトはそんな相手に対し、うっすらと口角をつり上げることで応えた。
「まったくつまらん。最悪な状況だが、ああ、いいだろうよ。兄上、久方ぶりの再会だ。兄妹だけでゆっくり話をしようじゃないか」
なぜだろうか。皇女がライナルトを「兄上」と呼んだ際、皇女の付き添い達があからさまに動揺した。逆にヘリングさんなどは瞳に力が宿り、勝利に喜ぶように拳を固めている。
「ヴィルヘルミナ、お前は変わらないな」
「それをいうなら貴方もだとも、ライナルト。忌々しい兄上め。今日ほどこの辺境でくたばってくれていたらと願ったことはないよ」
「私はお前の無事を願っていたがね」
「はっ。それはそうだ、私がいなくなれば貴兄にとって都合の悪い虫が分散するからな」
……会話だけ聞くとハラハラさせられるというか、実際帝国の人たちは真っ青になっているのだが、その実両者ともに機嫌は良いようで、歓談程度の気軽さで並び歩いて去って行く。
これでヴィルヘルミナ皇女との面通りは済んだ、ということなのだろうか。ともあれ彼女の機嫌を損ねることはなかった。首をはねろ、と言われなかったことに、その場にいたファルクラム貴族達がそれぞれ安堵の息を漏らしている。
各々、いつ呼び出しがあってもいいように城内で待機するらしく、兄さんや姉さんも身体を休めるために移動するようだ。さて私はどうするかと考えあぐねていると、背後からそっと声がかかったのである。
「よろしければこちらへどうですか。お茶でよろしければご馳走いたしますよ」
声をかけてきたのは栗色の巻き毛が可愛らしいお嬢さんと、褐色の肌を持つ青年である。どちらも年若く愛嬌のある面差しをしているのだが、気に留めなくてはならないとしたら、二人ともニーカさんと同じような軍服を纏っていたという点だろう。
青年は苦笑気味に少女を叱りつける。
「ジルケ、それは突然失礼だ」
青年の方は言葉になまりがあった。言うなれば発音が不慣れのようである。少女は困ったように微笑むと、すみません、と小さく謝った後にこう続けた。
「あまり目立ったお誘いをしてはいけないと思って。向こうで、ニーカさまがお話をしたいと言付かっています」
思わぬ人の名が出たが、誘いを断る理由はなかった。是非お伺いさせていただきたいと返事をしたのである。