55、残った希望
伯の亡骸をエマ先生の隣に並べてもらった頃に、この時期に降るには早すぎる粉雪が舞いはじめていた。白い結晶は、コンラートの崩壊を包み込む。
「これで街は鎮火し、兵の作業も楽になりましょう」
モーリッツさんは相変わらずだ。ニーカさんの咎める声にもまるで揺るがないしたたかさは、少し羨ましい。
四人の遺体は後ほど運び、しかるべき場所に埋めてくれる。この冷え込みなら身体の傷みも遅れるだろうし、ヴェンデルに会わせられないということはなさそうだ。
本当はまだ傍らにいてあげたいけれど、やらねばならないことが残っている。
「……また後できますね」
その前に、と。エマ先生の指に触れたところで気がついた。左右の指と、申し訳ないがポケットを探したのだが、彼女が嵌めていたはずの指輪がない。伯の指には……嵌まったままだ。死後硬直は始まっていたが、指輪を嵌めた手はまっすぐに伸びていたから外すのは苦労しなかった。
「……なにか探してるんですか?」
エマ先生の服を漁る姿が怪しかったのだろう。エレナさんが上からのぞき込む。
「あの、指輪を」
「指輪?」
「そう、ええ、指輪。指輪です。エマ先生と伯に揃いの指輪をお渡ししたんです。……お帰りになるまで身につけていたはずなの。お揃いだねって二人とも喜んでいたから、どこかにあるはずなのに」
「……カレンちゃん、それは」
揃いの指輪と髪を形見としてもらうつもりで、指輪だけでも先に回収しようと思ったのだ。なのにエマ先生は指輪を身につけていないし、どこにも持っていない。焦りに駆られる私の手に、エレナさんがそっと手を重ねた。
「探すのは私がやっておきますから、カレンちゃんは、いまは早く戻りましょう」
「でも……ヴェンデルに、渡さないといけないんです」
「はい、だから隅々までしっかり調べておきます。……それに、早く生き残った皆さんを確認しないといけないでしょう?」
「……それは」
「このお屋敷の中でも、生存者を何人か保護しました。使用人さんにしては立派な衣類に身を包まれた方です」
使用人にしては立派な衣類に身を包んだ人物?
エレナさんの台詞に該当する人物、私は一名しか思い当たらない。反応を示した私にエレナさんは満足げに頷くと、ゾフィーさんに私を託した。
……もしかしたら、せめてあの人くらいは生きている?
ヘリングさんが案内してくれるようで、足早に去ろうとすると声がかかった。
「カレン嬢」
ライナルトがひたりとこちらを見据えていた。他になにかあっただろうか、言葉を待つ私に、ライナルトは難しそうな顔でしばらく沈黙を守り通す。
「……いえ、引き留めて申し訳なかった。また後ほどお会いしよう」
急を要する用事ではなかったのだろう。歩き出したところでライナルトに礼を言うのを忘れていたことに気がついた。……あとでしっかりお礼を言おうと心に留める。
肝心の生存者を集めた野営地だけれど、雪が降り始めたためか寒さに備え始めたようだ。たき火を囲む生存者達、現場の状態は思った以上に悪かった。
皆が疲れ切った顔をしているのは想像通りだ。きっと自分も同じような顔をしていただろうから、そこはいい。絶句してしまったのは、その人数だ。
「……これだけ?」
コンラート領は地方領ではあったが、それでも領主が統治する塀の内部には多くの人が住んでいた。コンラート家の人々は助からなくとも、生存者は百や二百を優に超えているはずだと思っていた。血と涙で彩られた阿鼻叫喚が待ち受けている、武官に守られながら、のこのことやってきた辺境伯の妻に怒鳴る誰かがいるだろう。……そんな覚悟でやってきたのに、生きている人がほとんどいない。皆が皆、暗い目をして俯いて、怒鳴る気力すら失っていた。生き残った者同士が抱き合い、意識を失った大切な誰かに必死に語りかけている。
…………五十にも、満たないのではないだろうか。
「これだけなの?」
ヘリングさんが残念そうに頷く。
「初めはもっと生存者がいたのです。ただ、しばらくすると泡を吹いて倒れてしまった。原因はわかっていません」
きゅ、っと心臓が縮むような痛みが走った。戦の爪痕は、後から後から追いかけてくるのに、それに心がまるで追いつかない。呆然と周囲を見渡していたのだが、その中に見知った顔を見つけた。間違いない、庭師のベン老人である。
老人は力なく項垂れ座り込んでいたが、私の顔を見るなり腰を浮かした。
「奥様……カレン奥様……生きておいででしたか」
「そちらも無事だったのね、よかった。ここにはいないけど、ヴェンデルも無事よ」
「おお、おお、左様でしたか。ヴェンデル坊ちゃまは無事で……」
もはや流す涙もなく、疲れ切った顔で両手を震わす庭師。彼の傍らには驚くべきことに、再会は叶わぬだろうと思っていた家令の姿だ。
「ウェイトリーさん!」
服は土に汚れ、頭部に巻かれた包帯が血に滲んでいたが、触れると微かに息があった。意識を取り戻す気配はないが、確実に生きている。無事に生き残ってくれたのか、深く息をはく私に、ご老体が教えてくれた。
「……ウェイトリーを偶然みつけたもので、わしがお運びしました」
みたところ、他にコンラート家の使用人の姿はない。他に生存者がいないのか尋ねると、力なく首を横に振った。
「厨房の奥に隠れた子らは、皆殺されました」
何故この人が生き残ったのかといえば、襲撃直後、他の使用人達は厨房の奥の部屋に逃げたようだが、ご老体は皆のようには走れなかったためらしい。逃げそびれてしまったらしく洗濯部屋のシーツに埋もれて隠れていたようだ。しばらくそうしていたようだが、孫や娘夫婦の様子が気になって外に出たところ、厨房近くで血を流し倒れているウェイトリーさんを発見した。そして、厨房の奥へ向かう扉は開け放たれていた。隠れていたはずの使用人達は全員亡くなっていた。
これについては、屋敷内部を捜索したらしいヘリングさんが教えてくれる。
「扉の前にはなにかを燃やした跡がありました。……火を焚き、隙間から煙を流したのでしょう。部屋に窓はありませんでしたから、屋敷に火を付けられたと思ったのでは」
恐慌状態に陥り、パニックになって外へ飛び出していったところを……という推測だ。真偽は定かではないが、屋敷の生存者が彼らなのは受け入れた。不安に空を仰いでいると、ゾフィーさんがウェイトリーさんの首筋に手をあてた。
「この天候では体力がもたないでしょう。この方は優先して天幕に運ばせましょう」
「お願いします」
ウェイトリーさんが生き延びてくれるのなら、ほんのわずかでも希望は残る。ベン老人にも同じ天幕に移動するよう勧めたが、ご老体は同行を拒んだ。
「孫が……娘夫婦がまだ来とらんのです。孫は聡い子です、隠れんぼも上手でしたから、あんな状況でも助かってるかもしれない。……わしはここであの子達を待ちます。ですから奥様、ウェイトリーをお願いします。あいつはきっと皆を逃がそうとしていたはずだ」
そう言うと毛布を身体に巻いてたき火の傍に戻った。ヘリングさんが痛ましげに老人を見送りつつ、そっと呟いた。
「生存者はほぼ保護し終えています。生きている可能性は……」
「…………わかっています。たぶん、あの人自身も……」
けれど事実を突きつけるだけが優しさではないはずだ。あの人が受け容れられるまではそっとしておく。そして、もう帰ってこないのだと認めるしかなくなったその時のために、なにか一つでもできる限りのことをしておこう。
「……死者はどうなさる予定ですか」
「もちろんできる限り埋葬するつもりですが、まだはっきりとは決まっていません。この場に残り続けるのも危険かもしれませんので」
協議中、といったところか。もう少し周辺の捜索を終えたら、生存者には本隊近くの野営地に移動してもらうつもりだとヘリングさんは語った。この地を守る要の人材と塀がなくなった現在、留まり続けるのも意味がないという。
「そちらの被害は、どのくらいでしょう。怪我はありませんでしたか?」
「こちらは、さほど。……ご安心ください、ココシュカが躓いてかすり傷を作ったくらいですよ」
言葉を濁された。やはりいくらかは犠牲も生じたのだ。
「戦あってこその我々です、争いに無傷で勝てるとは思っていません。気にするなというのは言い過ぎですが、もし労ってくださる気持ちがあるのなら、いつかのニーカのように酒でも振る舞ってやってください」
「そんなことでいいのでしょうか」
「我々も仕事柄恨まれる事が多い。それだけでも充分救われます」
「……じゃあ、そのうちお酒を差し入れますね。飲みきれないくらいに、たくさん」
「お待ちしております」
大事な人や家を失った領民のすすり泣きが風に乗って流れていく。もうしばらくしたら私たちが逃げていた間、塀の内部でなにが起こっていたか判明するだろう。今後についても聞かねばならないし、待ち受けている問題は山積みだ。
まったくどれから手を付けていいのかさっぱりだけれど、皆の死を知ったいま、次にやるべきことははっきりしていた。
「……ヴェンデルに会いに行きます」
そろそろ起きている時間だろう。少年に家族の訃報を伝えるのは私の役目だと腹を括ったのだけれど、予想に反してヴェンデルは冷静だった。
野営地に戻ると、少年はすでに身を起こしていた。顔の汚れは拭ってもらったのか綺麗になっていたけれど、やつれた顔は隠せない。
ヴェンデルにはまずウェイトリーさんが生きていたことを伝えた。まだ助かる見込みがある、後で話をしようと約束したところでいわれてしまった。
「父さん、死んじゃったんだね」
言葉が詰まって、肯定するのに時間がかかった。待っている間、ヴェンデルは一人で心の整理を付けていたのだろう。私はわかりやすすぎる、とまで笑って指摘した。
「だって父さん達のこと全然話したがらないし、顔なんて歪んでるし……」
「そんなことないわ、これでも誤魔化すのは得意なんだから」
「僕らどれだけ一緒にいたと思ってるのさ」
ヴェンデルは家族との対面を望んだが、希望がかなったのは昼を過ぎてからである。見える範囲の遺体は片付け終えたらしく、私たちは再度コンラートの家に足を踏み入れた。彼らは本来別の場所に運ばれる予定だったが、私たちが家の近くに埋葬を、と望んだのだ。裏手には空き地があったし、そこならいずれ戻ってきたとしても邪魔にはならない。
伯と、エマ先生、スウェンにニコ。横たわった彼らを前にしたヴェンデルは無言だった。
……ニコは、私の独断だがスウェンの近くに埋葬させてもらうことにした。これはコンラート一家が特別なだけで、領民はいくらかのグループでまとめて埋葬されるためだ。彼らと共に埋葬するとなればスウェンの傍にはいさせてあげられない。彼女の母親の遺体を探し出すのは苦労したが、ニコの髪の毛を一房頂戴し手の内に握らせておいた。
ヴェンデルは長い間、母親の手を握りしめていた。少年を見守る大人達はじっと後ろ姿を見守りつつ、故人に哀悼の意を捧げる。この後に埋葬を行うため、ライナルト達も立ち会うようだ。彼らの厚意か、伯の身なりは整えられており、見た目刺し傷もわからないようになっている。
コンラート家の遺児は兄の名を呼び、幾度か弱々しく頬を叩いただろうか。最後に父親の胸に顔を埋めると嗚咽を漏らし始めた。声は段々と大きくなっていく、泣くことしかできない子を抱きしめてずっと背中を撫で続けた。
最期まで残り続けた領主と犠牲になったその家族に剣が掲げられ、簡素な葬式はあっという間に終わってしまった。夕方までならという条件付きで屋敷に滞在することが許され、その間に身支度を調えるよう言い渡された。生き残った領民は少なく、塀の復旧も時間がかかるとの理由でこの土地は放棄されるようだ。コンラート領にはいくらかの兵を駐在させ、周辺の村々には彼らから警戒を走らせるとも伝えられた。
早すぎる決断に戸惑い、もう少し協議してほしいと頼んだけれど、モーリッツさんの首が縦に振られることはなかった。
「あなた方の元に参じるべく物資を置いてきてしまった。回収すればしばらくは滞在できましょうが、怪我人の輸送や陛下への報告も踏まえ早急な撤収が必要だ」
「ラトリアの侵攻はどうされるのです」
「彼らは既に撤退した。仮に再侵攻するにしても時間がかかるでしょうし、問題ないでしょう」
「その仰りよう、彼らについてなにか判明したのですか」
「まだ推測の域を脱してはいない。皆を不安にさせたくないので、お話しできませんな」
仮に自分たちが残ったところで大規模な軍勢が押し寄せてしまえば到底相手にできない、救援も期待できないであろうこと。すべてはファルクラムに軍事力が足りないためだとモーリッツさんは語る。
どこか確信を得た言葉に不信を抱かなかったわけではない。けれど生き残った領民を安全な場所まで移送せねばならないのも事実である。迷っていると、感傷を理由に留まるのは愚かであるとも指摘された。
「理由は説明させていただいた。防壁としての価値をなくした要塞など意味がない。味方と合流を果たすのが最善であると、領主代理を名乗るのであれば状況を見据えていただきたい」
などと言い始めたところで、ヘリングさんが間に入り場はお開きになった。
泣き終えたヴェンデルはしばらく一人になりたいとのことで、自室に籠もっている。部屋の前に人を置いてくれたようだから、大事にはならないはずだ。
私も、しばらく一人にさせてほしいとお願いした。
随分久方ぶりに戻ったような気がする部屋はあちこちが荒らされている。机や洋服棚は荒らされ放題、宝石類は根こそぎなくなっていた。避難のためにと用意していた鞄も開け放たれ、衣類があたりに散らばっている。奥底にしまい込んだはずの腕飾りもなくなっていた。
ゆっくり、息を吐きながら椅子に腰掛けた。柔らかい椅子の感触は、これだけで贅沢なのだと感じたのは初めてだ。天井を見つめ続けているとドアがノックされる。来訪者はライナルトだった。
拒む理由はないだろう。迎え入れると、散らかった部屋に彼は僅かに目を丸める。
「この部屋は金品が多かったから、隅々まで探したのでしょうね。すみません、せっかく直してもらった腕飾りも盗まれてしまいました」
あまり人に見せたいものでもないと察したのだろう。お付きの人の入室は遠慮してもらったが、あたたかい飲み物と飴を差し入れてくれたのは嬉しかった。
「……あ、公庫利用権は王都に置いてあります。そちらは無事ですから、悪用されたりはしません。ご安心くださいね」
「カレン嬢」
「はい」
「休まれましたか」
てっきり用事があって訪ねてきたと思ったのに、ライナルトの質問は簡易的で、なおかつまったく見当違いの疑問だった。ライナルトは憮然と、なにかが気に食わない様子で腰掛けている。
「休み……ましたが」
「そうだろうか。私の知る限り早朝にお会いして以降、貴方は休んでいないようだが」
悪いことをしたつもりはないのだが、不思議と叱られているような気分になる。
「ニーカに確認しましたが、被害状況の確認や領民への声かけ、遺体の確認に走り回っていたと。昨晩、休めた時間は僅かでしかなかったはずでは」
「……よくご存知ですね」
「貴方に休んでもらうよう部下から頼まれた。無茶をされては困るのです」
……なるほど、私がひっきりなしに動くからとんだ迷惑をかけてしまったらしい。すみませんと謝ってはみるが、本心でないのが伝わってしまっている。
「エレナさんやゾフィーさんにご迷惑をかけているのはわかるのですが、動いていないと気が滅入りそうなので……」
「貴方が倒れては意味がないはずでは」
「そうなのですが……。せめて王都にいるコンラートの秘書官達や兄達に相談するまでには、状況を纏めなくてはと思って」
「……知ることを止めろとは申し上げていない。私は休んでほしいとお伝えしている」
ライナルトは珍しく困り顔で、だからこそ困ってしまった。だって実際、朝の疲れが嘘のように吹き飛んでいる。奇妙なくらいに目が冴えているし、横になっても眠れそうにない。いっそ動いていた方が楽なくらいなのだ。困り果てた結果、素直にそう伝えてみたのだが、ライナルトは納得していない。
「まだ泣いていないのでしょう、感情の発散は大事です」
「ああ、涙ですね。お恥ずかしながら、ええ、最初はどうしようもなかったのですが、段々とそういう感じもなくなってきまして」
ヴェンデルを抱きしめているときも不思議なくらいに落ち着いていた。困惑しなかったといえば嘘になるが、こうなったら事態に収拾をつけてから思い切り泣けばいいと考えを改めたのだ。
ライナルトは呆れてしまい、私も苦笑しきりだ。
「……呆れられてしまったのなら、本当に自分でもそう思うのですけれど」
「まだなにも申していませんが」
「だってお顔が、なにを言ってるんだっておっしゃっています」
ライナルトは意外とわかりやすい人なのだと、自分でも理解した方がいい。面食らったような顔がおかしくて、つい笑ってしまう。笑われたのが不快だったのか、憮然とされてしまったが、不意にこんなことを口にした。
「辺境伯について教えていただけますか」
「はい?」
「辺境伯です。なんならご子息でもよろしいが、彼らについて教えていただきたい」
ライナルトが伯に興味を持った。この人は一体なにを知りたいのだろう。
「……伯にご興味があったのですか?」
「いいえ、あの御仁には以前申し上げた通りだ。すでに私の興味の対象外にある」
「では、なぜ?」
「聞きたいからですよ、貴方の口から」
足を伸ばして座り直すと、膝の上で両手を組み合わせる。ライナルトはこちらをじっと見据えるばかりで理由を話そうとはしない。
……興味もないのに何故知りたがるのか。謎は尽きないが、どうも追い返しても帰ってくれそうな気配がない。居座るつもりだろうか、散らかった女性の部屋を見ても顔色一つ変えなかったし、豪胆にも程がある。
「話、といわれても……なんでしょう。なにを話したらいいのか」
「なんでも構いませんよ。例えば朝食や夕餉の会話、印象的な思い出があればそれでいい」
……印象的、ねえ。そうなると私と伯が共有する思い出といえば、一つしかない。
「私があの方に教えを乞うていたこととか、でしょうか」
「教えとは?」
「雑談から教科書に載っていないような話まで、それこそなんでも。私は生まれてこの方ファルクラムを出たことがないもので、余所の国について色々教えてもらいましたね。……あ、もちろんコンラートを放ってたわけではありませんよ。どこにいってもやっていけるようにと、領地運営についても教わっていました。おかげで数字には強くなったんじゃないでしょうか」
ライナルトの眉が動き、余計な事を喋ってしまったと理解した。出ていく前提で教わっていたなどとは決して話せまい。幸いライナルトが口を挟む様子もないし、言い訳してもわざとらしいし。ここは素知らぬふりで押し通そう。
……他には、なんだっけ。エマ先生に薬についても教わっていた。結局知識は中途半端、薬草の配合なんてヴェンデルの足下にすら及ばない。
「……伯の気分が乗って戦争の話になると、いつの間にかエマ先生……いえ、第二夫人が鬼のような形相で入ってきて、なんて話を聞かせるのだと怒るのです。きっと私付きの侍女頭が報告してたのでしょう」
……夫人。ヘンリック夫人。
彼女は森の中で首から下だけが発見された。服装を確認したので間違えてはいないはずだ。頭部の行方はいまだ不明である。傍らでは彼女と共に囮となった護衛が見つかっており、幸い息はあったものの片腕を失っていた。いまはウェイトリーさん同様生死の境を彷徨っている。
「楽しかったのですね」
「ええ、とても楽しかった。私も昔の話に興味があったから、ある日など使用人の目を盗んで、こっそり書斎にお邪魔してたんです」
いまにして思えば、あれは完全に悪巧みをする孫と祖父の図だ。ウェイトリーさんもこちらに協力的だったし、相談もなく示し合わせて書斎に忍び込むのは楽しかった。
……そんなとりとめのない話をしているだけなのだが、ライナルトは面白いのかな。
「王都じゃ間違いなく出来ないような事を教わったんです。少し厳しかったですが、私はあの人達に色々なことを」
言いかけて気付いた。少し、喋りにくい。
声が詰まってしまったようだった。話すことはたくさんある、愉快なエピソードには事欠かない。スウェンの盗んできたとっておきのハムを、ニコと分けて盗み食いして、あまつさえ発覚後の罪を彼一人に押しつけ逃げた、なんてくだらない話だってある。
……そんな話をしてもライナルトが困るだけか。
喉が震える。思わず口元をおさえたのだが、どうやら手まで震えているらしい。
「教わり、まし、た」
目頭があつくなって、ぼたぼたと涙が落ちてはスカートに染みを作っていく。客人の前だ、みっともなく泣くにしたって一人で泣けばいいのに、胸の裡でせき止めていた感情が決壊したようだ。せめて顔を見せるのはやめておこうと俯いたのだが、肩は震えるし、喉の奥から声が漏れ出るわでまるで制御がきかない。
ライナルトが隣に座ったかと思えば、無言で頭を引き寄せられた。
「貴方の兄君でもいればよかったのだろうが、いまは私で我慢してもらいたい」
ああ、もう。そうか、頭の働きが鈍っていたせいでようやく気付いた。この人、はじめから私を泣かせるつもりでやってきたのだ。なんてことをしてくれたのだろう、せっかく頑張っていたのにこれじゃ無駄になる。
文句を言ってやりたかったが、抱きしめられたぬくもりが恋しくて離れがたかった。私たちを死なせないと言ってくれた夫人も、こんな風にあたたかかったはずなのに。
嗚咽は酷くなるばかりで発音もままならない。
「私は貴方の無様な姿など見たくないのです、以前もそう伝えたでしょう」
もう返せる言葉はない。目の前にある優しさに縋ることだけが唯一許された逃げ道のような気がして、しがみつくことしかできなかった。