54、あの忘れえぬ日々は遠く
はじめは地震と勘違いしたのだ。目を覚ますと僅かに視界が揺れており、震度いくつだろうとうつらうつら、あまりの倦怠感に二度寝に入ろうとしたところで、毛布を敷き詰めただけの床と覚えのない天井に身を起こす。
全身が痛いし汗と汚れで気持ち悪い。うっかり左肩を使いかけて腕が痺れたところで半覚醒くらいに至っていた。
異常なくらいに眠たかった。おぼつかない足取りで外に出ると、外はまだ真っ暗である。さほど時間は経っていないはずだ、いまだ続いている振動の正体を確かめようとしたところで、女性に呼び止められた。
「まだ動いてはなりません」
ヘリングさんと一緒におんぶで運んでくれた女性だった。私よりも頭一つ分は身長の高い彼女は片腕で軽々とこちらを支える。
「あれは……」
「予定より大分早いのですが、ライナルト様と共に先発隊が到着されたご様子。このまま走り抜け、コンラート領へ進軍いたします」
「あれから、どのくらい経ったんですか」
「もうすぐ夜が明けるくらいでしょうが、ご心配されるほどは経っておりませんよ。……さ、こちらでどうか……」
「夜が……」
襲撃を受けた時間を考えても、もう八時間以上経っているのは確実である。それだけの間に一体どれだけの犠牲が出てしまったのか、想像するだけでも恐ろしい。天幕へ下がろうとする女性の腕を掴むと懇願した。
「お願いします。どこか、どこかコンラートが見える位置に連れて行ってくださいませんか」
「いえ、それは……」
「皆さんの邪魔をしたいわけではないんです、決して騒ぎません。大人しくしていますから……」
「そのように弱った状態では危険です。失礼ですが、熱があるのではないですか。一緒にいた子もまだ眠っていますし、なんでしたら傍でお休みになった方が……」
「いいえ、走り抜けたから疲れてるだけ。……お願い、せめてどうなってしまったのかをちゃんと見たいんです」
この世界に生まれ変わる前も、生まれ変わった後も、私は戦争というものを読み物か、テレビや映画でしか知らない人間だ。だからいくらコンラート領の救援のためとはいえ、これから攻められるであろう住処がどんな光景に変わりゆくのかをまだ知らない。知っているのは目の前で死んでいった人たちくらいで、だからこそ逃避したくないと強く願ったのだ。
ただ、私の願いは無茶が過ぎるのだろう。女性は始終困り顔で、絶対に首を縦に振らない私に手を焼いていた。彼女はそういう命令を受けているのだろうから責められるわけないのだが……。
「なにをしている」
問答に夢中で気付かなかったのだが、複数人の配下を連れてやってきたのはモーリッツさんである。馬からおりようとはせず、駆け寄ってきた男性から丸めた紙を受け取っていた。内容を確認すると「これを閣下に」と配下に手渡し、改めてこちらを見下ろすのである。その瞳は以前と変わらず感情の類が抜けていて、声の抑揚もおさえられているから聞き取りにくい。
「コンラート伯夫人ですか。見たところ、手負いのようだがなにか無礼でもあったか」
「申し訳ありません。お休みいただいていたのですが……」
「私が無理を申しておりました。モーリッツさん、改めてあなたにお願いがあります」
下が駄目なら上の人間に直接交渉するしかない。モーリッツさんにも先ほど同様の頼みを伝えると、一同はぎょっとしたようだが、モーリッツさんは相変わらずの様子だった。
「お気持ちは理解して差し上げたいが、ここから先は我ら将兵の仕事であり、また御身は国王陛下の義妹の立場でもあらせられる。この上なにかあれば、我々は辺境伯並びに陛下に申し開きができなくなるだろう。どうか我々を信じ、そこでお待ちいただきたい」
「私は、私の領民がどうなったかを見届ける義務があります」
「ならばなおさらそこで待たれるべきだ。それとも我らが信用できぬと申されるか」
やはり簡単に了承は得られない。考えろ、ここで食い下がらないと私は本当になにも知らないままだ。
陛下だ。そうだ、私は国王陛下の義妹になる。
「ファルクラムでのお立場を心配しておいでなら、陛下だけでなく皆様方にライナルト様に大変良くしていただいたと伝えましょう」
「それは……」
「ローデンヴァルトのライナルト様は我が領に侵入するだけの理由があった。これで如何ですか」
ここで相手に迷いが生まれた。同時に、彼の気を引けたと感触を得たのだ。
「辺境伯があらかじめ我が軍と接触を図っていたと……そういう配慮を願えると?」
彼はファルクラムに帰還してから先の話を考えている。命令なしに兵を動かしたのが拙いのであれば、理由を作れ。彼はライナルトが批判を浴びるのを避けたいのだから、私が思う存分動けるようにしてやればいい。
「これならあなた方が表立って不利益を被る事態にはならないはずです」
コンラート辺境伯は身の危険を感じ、事前に近くにいたライナルトに報せを飛ばしていた。ライナルトは辺境伯の救援要請に応じ、演習を切り上げた。そういうことになる。
……すでに事後処理を考えているこの人にとって、コンラート領の侵攻など二の次だとわかった事実が悔しくないわけではないが、こちらも領内に侵入したラトリアの脅威を追い払うには四の五の言ってはいられない。
「いまはコンラート領の領主代理としてあなた方に辺境伯並びに領民の救助を望みます。そして領主代理として、私は顛末を見届ける義務がある」
「決まりですな。では好きになさるがいい、この陣地において私がいる限り、貴女の行動を邪魔するものはいないでしょう」
話は決まった。もとより彼にとっては私に人を付ければいいだけの話、そう難しくない話だったのだろう。私の傍らにいた女性に馬を一頭与えると、野営地を去って行く。
モーリッツさんの許可が下りた後は早かった。ヴェンデルのことは残った人たちに任せ、私は改めて女性……ゾフィーさんに身を守ってもらいながら移動を開始した。
「痛み止めが効いているでしょうが、揺れる以上どうしても痛みはぶり返します。よろしいのですね」
「お願いします」
彼女は命令された以外に純粋にこちらを案じてくれている気配がある。馬には二人乗り、ゾフィーさんに支えてもらう形で乗せてもらったのだけど、彼女の体躯も相まって包容力が桁違いだ。
移動は……正直、きつかった。最初はなんともないと思っていたが、揺れが続くだけ、内側から針を刺すような痛みが脳髄を刺激する。痛いと言えば止まってしまうから、唇を噛みしめ続けた。
道中、待機中と思われる軍勢といくらかすれ違った。彼らはどう見ても武官ではない私を連れたゾフィーさんを咎めかけたが「アーベライン様の指示だ」の一言ですべて黙らせていった。
……そういえば、モーリッツさんはバッヘム一族の人間だといっていたが、姓が違うのは何故なのだろう。
気になりはしたが「もうすぐ着きます」の一言で疑問は彼方へ飛んでいった。到着したのは森を抜け、コンラート領の街がある丘を下ったあたり。空は暗くてまだ見えにくいが、一帯がどうなっているかは知ることができた。なぜなら坂を上がり、コンラートへ向かっている騎馬や歩兵が灯りを手にし、我先にと駆け上がっていた。
嗚呼、と思わず声が漏れた。霧の向こうにコンラート領を取り囲む壁が見える。轟々と煙が上がっているのは、かがり火だけのものではないはずだ。
「燃えてる……コンラートが……」
尋常でない量の黒煙があちこちから空に昇っている。時間が経ち、空が白み始めるにつれてそれは明らかになっていく。寒々とした灰色の空の下、ただただ煙が立ち上る光景を、私は守られながら見つめることしかできない。
天はぼんやりとした白い雲でふさがりながらも、徐々に明るさを取り戻し始めた。乳白色の薄霧がゆらめきながら辺りを漂っていたが、こんな状況でなければ、きっと感嘆に息を呑んでいたのだろう。白く冷たげな霧が地面をうねりながら流れる光景はいつみても美しいけれど、視界を奪うのはその姿を露わにしていく守りの壁だ。
寒空の下、ただただコンラートを見つめ続ける私を、ゾフィーさんはなにも言わず支え続けた。
数時間は経ったのだろうか。完全に朝を迎え、コンラート領へ駆ける馬の足取りもゆっくりになった頃だ。賊は追い払えたのかもしれないと教えてもらっているところで、モーリッツさんの使いだという兵が駆け寄ってきた。
「領内の鎮圧を完了しました。コンラート辺境伯夫人には、もしご了承いただけるのであれば領内の様子を確認していただきたいと……」
意外なことに、これに激怒したのはゾフィーさんである。鎮圧したとはいえど、まだ黒煙が止んでいない。そんなところに怪我人を連れて行くのかと激怒したが、その気持ちだけを受け取った。
「連れて行ってください。中がどうなっているのか、確認しないと」
実を言えば、このときは侵略された街に突入する現実をよく理解していなかった。愚かにも彼らの抱いていた危惧を理解したのは、門に近づくにつれ漂う焦げ臭さを鼻で感じ取ってからである。
開け放たれた正門前にはエレナさんが待機していた。私の顔を見るなり険しい表情で、彼女は「行くのか」と念押ししてきた。
「気分のいい光景じゃありませんよ。まだ鎮火も済んでいないし、瓦礫も片付いてません」
「……賊は、もういないんですか」
「いくらかは始末しましたが、大半は撤退しました。あらかじめそういう手筈だったんでしょう」
ここまで来て引き下がる選択はないけれど、ソレを見てから、正門を潜る前に胃の内容物をすべて吐き出した。
正門前には、まだ片付けられていない衛兵の遺体があったのだ。この門前に立ち、よく出迎えをしてくれた門番の顔を覚えている。どこが潰れているとはあえて記さないが、うつろな瞳が生気を宿すことは二度とないのだけは確実だ。
「目を瞑っててもいいんですよ」
エレナさんも、付き添ったゾフィーさんも、この混沌とした有様を見せたくないようだった。鼻をつく焦げ臭さは、きっと木が焼け落ちるものだけではない。正門からの道沿い、焼け崩れた瓦礫の下敷きになった人々はとっくに息絶えていた。井戸端会議をしていた主婦達、玄関口で藁を編んでいた老婆、母と妻のために薬を頼んだ男性、威勢のいい声で露店を開いていた商売人達。……なにもかもが崩壊している。誰も彼もが死んでいる。いまは街中を兵が走り回って鎮火に勤しんでいるのに、規模の割に悲鳴が一つも届かない。
「……エレナさん、ここでなにが起こったのか、わかりますか」
「それは……」
「全部包み隠さず教えてください。私には必要なことなんです」
聞きたくない。知りたくない。だが知らねばならない。どうしてこんなに死んでいるのか、私にはまるで理解できないからだ。私の質問に、彼女は躊躇いながらも答えてくれた。
「油を撒いて火を点けた……のは見ればわかりますね。ただ、それ以外にも計画的に住民を殺めた気配があります。なぜならいまのところ、陵辱の痕跡が一切見当たりませんから。とにかく金品を集めて奪っていった形跡があります」
「……生存者は」
「外に避難させましたが、多くはないです。証言を集めていますが、いまのところはこれといって……それと、あれ」
エレナさんが指さしたのはとある方角だ。
「襲撃人数はきっと多くありません。ですがその割に殺された人数が多すぎる。おそらく賊の中に魔法を使う者がいたはずです。そうでないと説明がつかない点が多いですから」
……本来、街中から大森林を見るには物見櫓に登るか、街を囲む塀に登るなどするしかない。例外はコンラートの屋敷の三階くらいだろう。なぜなら街は高い壁で覆われており、これらが外敵から住人の命を守っていたからだ。ところが彼女が指さした方角は色鮮やかな大森林がのぞいていた。
「…………壁がない」
一部だけれど壁が崩壊している。頑丈で、砲弾でも投げられない限り決して崩れないだろうと信じていた分厚い壁が崩れ、瓦礫が散乱している。
「瓦礫はかなり遠くまで飛んでいった形跡があります。深夜、私たちが聞いた音はあれだったのかもしれません」
賊から逃れたと思しき無傷の住人もいくらか発見していたらしいが、ほとんどが物言わぬ骸となっていた。斬りつけられた形跡もないのに口から泡を吹いて死んでいた者がいたという。彼女はこれが極端に生存者が少ない理由だと語った。
「ココシュカ、それ以上は……」
「大丈夫ですゾフィーさん。ありがとう、続けて」
どこもかしこも地獄だ。
目を閉じても肉の焼ける臭いからは逃れられない。目を背け上を向いたら、窓枠にぐんにゃりと上半身を預けぶら下がった住人が飛び込んだ。横を見れば子供と共に斬られた母親が転がっている。誰も彼もが無念と絶望を抱いて散っていた。映画だったら眉をひそめる程度ですんだだろうに、実際目の当たりにすると段々と表情も動かなくなる。
ここにいた人、あったもの。なにもかもすべて、伯が守りたかったはずの人々だ。
街から屋敷に行くまでの道だけは亡骸も綺麗に避けられていた。時折赤黒い汚れを踏みながら、一歩一歩と進んでいく。つい昨日通過したばかりの柵門を潜れば、懐かしい顔ぶれの代わりに無骨な黒い軍服が並んでいる。
「エレナ」
「……夫人をお連れしました」
ニーカさんやモーリッツさんを含む複数人には覚えがあるが、どこで見たかまでは思い出せない。それに記憶を掘りかえすよりも、彼らの足下に並び寝かされていた人たちのほうが重要だ。
三人、寝かされている。
全員が私にとってなじみ深い人たちだ。試しに腕を取ってみるとすでに固くなっており、人の体とは思えぬほど冷え切っていた。頭上からはモーリッツさんの淡々とした声が降りかかる。
「夫人には彼らの顔をご確認願いたい。辺境伯のご子息であらせられるスウェン殿は確認できたのですが、生憎、こちらのご婦人方には覚えがありませんのでな。こちらは第二夫人で相違ないか」
「モーリッツ! お前は少し物言いを考えろ!」
「感傷的になれば死者が蘇るとでもお思いか。夫人も覚悟をもって足を踏み入られたのだ、状況が理解できぬわけではない」
「そうではない! お前はもう少し人の心を考えろ!」
「せ、先輩、落ち着いて……!」
ニーカさんが感情を露わにし、どちらをも制止する声が右から左へと流れていく。そのせいか、私の呟きは耳を寄せてきたゾフィーさんにしかとどかなかった。
「……スウェンと、彼の婚約者と……お母様です」
記憶の限りでは、彼らは目を見開いたまま亡くなったはずだが、全員の瞼が閉じられていた。死者の濁った瞳はみるに耐え難く、彼らの心遣いはありがたかったけれど、もう二度と目を合わせられない事実が、胸にぽっかりとした空白を作り出していくようだ。
「ごめんなさい。こんなところじゃ寒い、ですよね」
しばらく彼らの頬を撫でていたけれど、ある言葉を耳打ちされて立ち上がった。
向かったのは建物の二階だった。普段何気なく使っていた廊下は何かが擦ったような赤い線が走っている。
壁に背を預け座っていたのは、地下通路を抜ける前に別れた伯の護衛だ。きっと最期まで抗ったのだろう、剣の柄を握ったまま事切れていた。
開け放たれたその部屋の中で、ひとり異彩を放つ金の長髪がある。一瞬だけその人と目が合ったけれど、視線はすぐに奥へ攫われた。
……それを見つけたときの胸中は、なんと告げていいかわからない。
その人は膝をつくことを許されなかったようだ。胸や腹を剣で貫かれ、壁に縫い付けられるように息絶えていた。どうやら妻子のように瞼を下ろすのは許されなかったようで、ただでさえあちこち傷だらけで痛々しいのに、濁った魚のような瞳があって、手足はだらりと胴体に付随しているだけの肉の塊と化している。
流れ出してしまった命の水は絨毯をべったりと赤く染め、踏むとべちゃり、と嫌な音を立てた。
ここに彼がいる以上、この人が誰か、だなんてわざわざ説明する必要はない。だから困った。彼らになにかを説明する必要などなかったし、それ以外の言葉は浮かばない。かといって、このご老体になんと声をかけたらいいのだろう。
泣くべきかもしれなかったが、不思議と視界が霞むだけで涙は一粒も流れない。自分でも戸惑ってしまったくらいだ。
「……ヴェンデルへの説明も丸投げって、ちょっとあんまりですよ」
聞いてももう答えてくれないし、笑いかけてもくれない。なんだかひどく可笑しくなってしまって、よくわからない微笑さえ浮かべていた有様だ。振り返ると、沈黙を守っているライナルトにお願いした。
「これ、抜いてあげてもらえませんか。せめてエマ先生とスウェンの傍にいさせてあげなきゃ、この方がここまで頑張った意味がありません」
しばらく私から視線を外さなかったライナルトがそっと瞑目する姿は、彼らしくなく、ほんの僅かだが苦々しげだ。すぐにいつもの顔に戻っていたから気のせいかもしれなかったが、もしほんの少しでもコンラートを惜しんでくれていたのなら、それは少し嬉しい。
ゆっくりと息を吐く。ようやく寒さが身にしみてきて、冷たいという感覚が蘇ってきた。
もう、彼らがいた日々は帰ってこない。皆、手の届かない場所に行ってしまった。なつかしくも幻燈画のように胸に到来する思い出はすべて過去となってしまったようで。
――どうやら故郷をひとつ、なくしてしまったようだった。