40、ひとは矛盾のあつまり
「な、なんのことでしょうか」
「誤魔化さなくてもいいよ。カレン君が個人的に資産を持っていることはしっている。モーリッツ・ラルフ・バッヘムから権利書を受け取っただろう」
驚く私に、伯こそ意外そうな顔をする。
「バッヘム一族からお金を受け取っていたよね。僕は口止め料だと思っていたのだけれど、違ったかな」
「モーリッツさんから大金を……受け取ったのは事実です。ですが、その、バッヘムとは……」
よく考えたら私、モーリッツさんのフルネームを知らない。大金の出所が気になって調べようとしたことはあったのだけれど、秘密の口止めを約束した以上、私の力では調べきれなかったのだ。そんなご大層な名前だったのか、あの人。しかし伯は彼の姓を知らなかったことに驚いたようだ。
「バッヘム一族を知らない?」
「知りませんでした」
「……バッヘム一族が公庫取引権を担っている……わかりやすくいえば帝国の金庫番ともいえる権限を皇帝から任されているといえば伝わりやすいかな。彼はその一族の後継の一人だよ」
……そんな凄い人だったの、あの人?
「後継の一人、ですか……」
「規模が大きすぎて一人が統括するようではないみたいだからね。けれどいまはそんな話はいいんだ。……本当に知らなかったのかね」
「……すみません」
「君はしっかりしているようで、意外なところが抜けているねぇ」
これには伯も首を傾げてしまったようだ。
「……ううむ? そうなると……ライナルト殿については……」
「すみません。それについては……非常事態というわけでもないので、何も言えません」
口を割ってしまった方が早いけれど、約束は約束だ。決まりの悪さに黙ってしまうと、思案をめぐらした老体は顎に手を当て、難しそうに眉を寄せた。
「謝らなくていい。そういうことなら、僕もある人物については直接的な表現を避けて話そう。カレン君なら伝わるだろうと信じるよ」
「り、理解につとめたいと思います」
伯は椅子に深く座り込む。ただ座り直しただけだというのに、まるで告解に訪れた信者のように、その瞳は昏く沈んでいた。
「なんと伝えたらいいのかな。エマ以外に喋るのは慣れていないのだけど……そう、そうだな。僕はね、僕は、彼が怖いんだよ」
それは、普段温厚な老人からは聞いたことのない弱音だった。同時に私も信じられなかった。あの、優しく温和な、しかしコンラート伯としての側面を見せる際は堂々とした態度で皆を励ます領主が、怖いと吐露した瞬間、まるで小さな塊になって萎縮したのだ。
「こわ、い?」
思わず口をついていた。ライナルトの何倍も年を重ねた老練家が、たった一人の若造に怯える理由がわからなかったのだ。
老人にはそんな疑問お見通しだったのだろう。
「不思議そうだね。まあ、それもそうか。カレン君とライナルト殿は親しかったからね」
「親しいとまではいきませんが……。いえ、いまはそんなことはどうでもいいです。怖いとおっしゃるからには伯となにかあったということですよね。……でしたらコンラート伯夫人である私に良くしてくださるのはおかしくないですか?」
「不思議かな? 僕は君に接する彼の姿を見て、一族郎党を恨む人物ではないのかもしれないと安心したのだけどね」
伯はおかしそうに喉を鳴らすが、恨む、などと不穏な台詞を聞かされた側としてはまるで笑う気にはなれない。
「……彼がカレン君に笑いかけるのは、なんとなくわかるよ。いまの世代の子たちは帝国に対する忌避感や偏見が薄く、君に至っては帝国人への嫌悪なんてないようなものだ」
「他の人達は違うと?」
「違うね。僕達の世代は違う。長年ローデンヴァルトとは交流すらなかったけれど、あの子は偏見と敵意に晒され続けた。周りも……帝国には家族を奪われた人が大勢いただろう。そうせずにはいられなかったのが手に取るようにわかる。だから間違っても僕らが彼に好かれる理由はない」
わからない。親の代に少し交流があった程度だというのはローデンヴァルト侯であるザハールとのやりとりで確定している。伯がライナルトを見たのも母親の腕の中にいたという幼少時の筈だ。
「彼は不義の子だ」
驚きはしなかったが、伯の口からはっきりと言葉にされたのは閉口した。コンラート伯は自らの行いを振り返るように語る。
「けれどその不義を勧め、ローデンヴァルト侯爵夫人を差し出したのは我々だ」
などと、決して聞き逃してはならない一言も告げた。
もうかけられる言葉はなかった。私はただ、怖がるように、後悔するように縮こまる老人の話に耳を傾けるだけだ。
「……僕たちは自国の平穏を維持したかった、いつ破られるかわからない条約に怯えていたくなかった。あの時はまだ国力もすり減ったままで、攻められてしまえば負けてしまうのはわかりきっていたから」
平穏、という言葉でなんとなく合点がいった。ライナルトは終戦後の生まれだ。
「戦争が終結した頃、外交官がうまくやったと話したけれどね。現実問題、和平が結ばれてからの方が難しかった。なにせ僕たちには力がなかったし、平和なんてただの紙切れ一枚がもたらしたもの。周辺国は既に統合されてしまった後だ、我が国が再び侵略されたところで、条約違反に軍を挙げる国などありはしない」
一応隣国と呼べそうな大国ラトリアはファルクラムの侵略を狙っている。協力を求めたところで逆に滅ぼされる落ちが見えていたし、この頃になると帝国内の反乱は鎮圧されていた。帝国を挟んだ砂漠向こうの国は接点がない。つまり彼らには後ろ盾がなかった。失った兵力を補充しようとも、下手な行いは帝国に睨まれる。自国の弱体化を憂い、軍備補強を訴えた将軍もいたが更迭されていた。
力で勝てぬのなら知で渡り合うしかない。帝国に渡り合うために奔走する中、ある日、さる御仁がローデンヴァルト侯の奥方を美しいと褒め称えた。
愚策かもしれないだろう。けれど当時の彼らは天啓を得たような心地だった。
「僕たちは喜んだ、そして、迷わなかった」
さる御仁にローデンヴァルト侯爵夫人を差し出した。罪悪感はない、やっと本当の安全を確保できるかもしれないという錯覚に喜びが勝っていた。夫人が泣いて夫に助けを求めても構いはしなかった。
ローデンヴァルト侯爵夫人は数年にわたり差し出され続け、その男の寵愛を受け、結果、子を身篭もった。
……ライナルトの出生については複雑な事情が絡んでいると知っていた。だが、それに伯が関わっていたというのは想定外だ。しばらく、どう声をかけていいのかすらわからず黙っていたのだが、結局、口をついたのは陳腐な質問だ。
「だから、恨まれていると?」
「ローデンヴァルト侯や夫人に陛下の命を伝えたのは僕だ。反対すらしなかった、それが最善だと疑わなかったよ」
そしていま、ライナルトは大規模な演習を行えるほどの軍勢を従えている。彼の従える配下はほとんどが帝国の出身者だ。
いま、目の前の老人は怯えている。
過去から逆襲がやってきたかもしれないと震える老人に優しい言葉をかけるのは容易いだろう。けれどきっと、この人が望むのは陳腐な励ましではない。大体、それは私の役目ではなかった。
「一つ、確認を。もしもの場合ですが、我が領の抱える兵力では、あの人の軍勢にはかないませんか」
「籠城すればいくらかは持ちこたえられるだろう。けれど、おそらくは兵の練度が違う。長年戦から遠ざかった状況では、すぐに内部から瓦解するだろうね」
「事情はわかりました。ライナルト様がいらした際は、私も立ち会いましょう。……挨拶に来られるだけですから、大丈夫ですよ」
「……すまないね」
「いいえ、伯には恩がありますし、この身でお役に立てるのなら、やっとご恩返しができるのだと安心してます。話してくれて、ありがとうございました」
差し出された侯爵夫人の同性として、卑怯だ悪魔だと罵るのは簡単だ。実際、ひとりの女性の人権を歪められた行いには胸が痛んだ。当時の情勢を知っていたとしても、私がそのまま十代の女の子だったら、軽蔑と共にこの人を非難していただろう。
けれど、言葉通りだ。
私はこの人に匿ってもらい、教えを受け、様々な施しを受けている恩がある。ただむやみやたらと罵倒するには相手を知りすぎた。
さりとてかけられる言葉もない。結局、ご老体と忠実な家令を残して去ることだけが、私にできた唯一の行動だ。
いつ駆けつけていたのか、廊下にはエマ先生が立っていた。工房の方は良かったのだろうか。
「あとをお願いします」
入れ替わるように出ていくと部屋に戻るが、もう一通手紙が残っていたのを思い出す。
ほとんど無感情で読む兄さんの手紙は、姉さんの懐妊の報せと、私の一時帰宅の願い。加えて、伯に伝えていたよりも精神状態がよくないらしいと記されていた。
妊娠発覚時に毒を盛られたらしく、そのせいで神経質になっているようだ。薬物は特に堕胎に効果のある代物で、犯人は信頼の厚かった侍女。ショックが大きかったらしく、以降、身につける衣類にすら毒針が仕込まれていないか目を光らせているらしい。
飲食関係は必ず毒味が入るようだが、それでも心は安まらない。安心していられるのは兄さんか弟のエミールがいるときくらい。こういうとき、母が頼れるのなら間違いないのだが、残念ながら母娘関係は亀裂が入ったままである。
現在は忙しい兄さんに代わって、エミールが住み込みのような形で傍にいる。しかしエミールも学業もあるし、ずっと一緒というわけにはいかない。
「赤ちゃんの命がかかっているものね」
実感は薄いが、私にとっても甥か姪になるし他人事ではいられない。この内容を見るに長期滞在の可能性が出てきたし、ライナルトの件が片付き次第都へ向かおう。
「できたら、演習の間も残っていたいけど……」
それはライナルトの伯に対する態度次第、といったところだろうか。
コンラート伯夫人としては有事に備えなくてはならないけれど、個人としては、ライナルトという人間へは嫌悪より好意の方が勝っている。正直、信じがたい気持ちが半々だ。 兄さんへは返事を出して、ああそうだ、エルの手紙も見なくては。せめて元気でいるとわかるような内容であれば嬉しいが、こんな紙質ではろくなものが期待できそうにない。
汚れた封を開封して、やっぱり、と呆れてしまった。
「なぁにこれ、どうしろっていうのよ」
中身はノートを破ったような紙切れに短い走り書きがあった。文字は、間違いなくエルの筆跡だ。学校で何度も見ていたから間違いない。
『ファルクラムは危険、帝都に来い』だなんて、前後の文を省くにも程があるだろう。
乾いた笑いが零れる。決してばかにしているわけではなく、そうするしかなかったためだ。
ごめん、とこれを送ってくれた友人に心の中で謝った。なにかの警句なのだろうけれど、そういうわけにはいかなさそうだ。十六の頃ならいざ知らず、いまは人との繋がりをいくつも獲得した。放っておけないものが増えすぎたのである。
ヘンリック夫人が紅茶と自慢の焼き菓子を運んできてくれたが、その芳香は気分をよくしてくれなかった。
嗚呼、とため息を吐く。
異世界転生なら単純な話であってくれないものだろうか。この世界が絶対的な善と悪に分かれるか、或いは絶対善と絶対悪が存在していたのなら、単純にいきられたことだろうに。
憂いも、胸の奥底の霧も晴れない。おそらく晴れることはないだろうと確信していた。
いいだけでもなく、わるいばかりでもない。
カミルの「いいひと」は色々あってからの結果。
そういう話を書くのが好きです。いつもお付き合いありがとう。