34、悪びれない人
「エ、エルさん?」
勘違いのないよう述べておくが、エルは断じて人様に暴力を振るうような人ではない。本人も暴力は嫌いと宣言していたし、少なくともペンを投げるなんて暴挙に及んだのを見たのは初めてだった。
しかしいまの彼女は虫けらでも見るような眼差しでシスを睨み付けている。彼に駆け寄ったかと思えばその股間を蹴ろ……うとしたところで、間一髪シスが避ける。
「あ……っぶないなぁ!? エル君、きみ、そういう子じゃないだろう!」
「気安くエルなんて呼ばないでもらえますか、屑」
「だって彼女にはきみがここにいる説明が必要だろう、きみを発見し、推薦した者として……」
「いりません。お引き取りください」
「私はきみの上司のはずなのだけれど?」
「覚えがありませんね。わたしの前に姿を見せるな」
エルが、あのエルが大の大人を足蹴にして追い出している……。彼女は言葉通りシスを追い出すと扉を閉め、席に着き直したのである。
「エル、え、あんなに蹴って大丈夫なの」
「大丈夫、いつものことだから」
いつもなの?
「ココシュカさんは本気で斬ったことがあるみたい。それでもあいつはいつの間にか復活して戻ってくるし、わたしが蹴るくらい大したことない」
うん???
突っ込みがおいつかない。斬ったってなに、ココシュカさんが、シスを?
「あの人、いったいあなたになにをしたの?」
「それを説明するにはね、まず、なんで私がカレンの前から姿を消したのか、から話さなきゃいけない」
「どんな話でも平気だから教えて」
エルはなにか諦めたような眼差しで天井を仰ぐ。
「……本当は適当に誤魔化そうと思ったんだけどさ。さっきも聞いたけど、カレン、あんたなんで、こちらのことをしってるの?」
「それは色々あって話すことができないのだけど……。でも、さっきのヘリングさんという人だって、あの方のことを閣下と呼んでたでしょう」
「そういえばそうだった。……ああ、じゃあカレンがこちらのことを知ってるのは、上の人たちは織り込み済みなのか……」
この様子では詰所の出来事をエルは知らないのだろう。ライナルトの管轄下といっても部署や部隊が違うだろうし、人数が多ければすべての情報が伝わるわけではない。
「まあ、ね。簡潔に言ってしまうと、我が家はあの糞野郎に借金を背負わされたのよ」
借金? 借金って、あの借金か。
エルが糞野郎とはっきり断言してしまう相手と言えば……。
「……アヒム……ええと、私の身内なのだけれど、その人にあなたの行方を調べてもらっている間に、行方がわからなくなったと聞いていたのだけど……」
「そうそう、それ全部、さっきのシクストゥスっていうやつのせい」
「はい?」
さっきからぜんぜん理解が追いつかない。
混乱しきりの私にエルはシクストゥスの悪行を暴露する。
「わたしが魔道院に進路が決まったっていうのは知ってたよね」
そこは勿論覚えている。エルのことだから将来性確実な魔道院でしっかり勤めていると思っていたら、あの有様である。
「なーんーだーけーど、わたしは優秀だったからね。正式にお勤めに入るまでは、一応他のところからもお誘いが来てたの。アレもその一人。……その時は帝国所属だとは特に知らされてなかったんだけど」
シスは自分を著名な魔法使いとして自己紹介し、さる場所で魔道院よりも上の待遇でエルを迎え入れたいと述べた。魔道院よりはかなり良い給金だったらしい。実力さえ伴えば自身の研究室と資金さえ用意されるのも約束された。
ところが、エルはそれを断った。
「そりゃあ、わたしは他の連中よりも主の贈り物を多くもらってる。こう言ってはなんだけど、いまならちゃんとした手順さえ踏めばそこらの山賊よりも強いとも思ってるわ。才能もあるし、優秀な人材を欲しがる気持ちはわかるけど、なんの見返りもなくそんな約束をされて、はいそうですかと信じられるほど人間できてない」
前世で信心深かった彼女なりの言い回しだ。この世界で授かった力をエルは神からのギフトとして捉え感謝しているようだ。
エルはシスのみならず外部の誘いを断った。魔道院で堅実な出世街道を歩むと決めていたのに、しばらくして実家の経営が傾いた。
信頼していた商人に裏切られたらしい。資金繰りに困り、気付くと借金ができて手の付けられない状況に陥っていた。いくらか金の都合を頼んだ相手にもすぐに断られるようになった。
「キルステンかコンラートに言ってもらえたら……」
「それ、本気で言ってる?」
「……ごめん。考えが足りなかった」
たとえ親しい間柄だろうと、金の貸し借りが発生した時点で人間関係は揺らぐ。特にエルはお金の苦労を知っているから尚更だったのだろう。
そういう点で言えば、エルが私に借金を申し込まなかったのは、彼女なりの友情の気持ちだったのだろうか。
エルの家族では話し合いが持たれた。店を畳んで多少なりとも借金を返し、エルが生計を支える。到底返しきれる金額ではないが、返し続けられるうちはなんとかなるだろう。そういう方向でまとまりかけたとき、悪魔がやってきた。
『私の元で働いてくれるのであれば、借金を帳消しにして差し上げよう』
シスは大金を携え、笑顔でそう言った。
『裏はないよ。私はただきみの手を必要としているだけだ。まあ、それには少々手間があり、住居を変えてもらわなければならないが。……なに、いまのどん底、これからの地獄よりはずっとずっとマシだ』
このような悪魔らしい申し出だったらしいが、シスは両親の保護も約束した。借金を帳消しにする代わりに魔法の誓約書にサインしたのだ。
彼女はそこで帝国のことを知った。彼女の両親はファルクラムにおいて帝国側に付く意味を理解していたらしく、周囲にばれた際や、さらには万が一に備えて帝国に住居を移したらしい。
「……人質?」
「ぶっちゃけそうでしょうね。でも他はいい人も多いし、働く環境としては悪くないわ。……あの野郎はいつか潰したいと思ってるけど」
「よ、容赦ないね」
「当然でしょ、わたしの家族を害したやつよ?」
エルは借金の肩代わりの代償としてシスの管轄下に入った。実際は魔法使いとして望まれているのだが、しっかりとした設備は本国にあるらしく、いまのところは文官待遇で細々と働いている。
アヒムに散々探してもらったのに、まさか国内にいたとは驚きが隠せなかった。
「元々貴族に知り合いなんていなかったし、一カ所に閉じこもって生活してたから。たまに城にはお使いで来てたけど、それだって内部の方。顔見知りなんていやしないし、わかるわけない」
本人は緊張しっぱなしだったらしいが、意外にも新しい勤め先の人々はエルに良くしてくれたらしい。とりわけ別部署であるはずのエレナさんが気遣ってくれたそうだ。エレナさんは生粋の武官、接点はまるでないはずだがと首を捻っていたのだが、ある日理由が判明した。
お使いで書類を届けるべくモーリッツ・アーベラインを訪ねた。その際、彼はエルに同情的だったような気がしたそうだ。
「彼に目を付けられたのは不運だったが、貴女の才は高く買っているつもりだ。どうか我が国のために力を尽くしてほしい」
エルはモーリッツさんのような、遙か身分が上の上官に声をかけられたのが意外だった。その上で彼の言葉を吟味し、そういえばエレナもやたら自分に同情的だと至った。
調べてみればなんのことはなかった。
借金の件、シスが商人に手を回してエルの両親を陥れていた。本人に詰め寄ったところ、悪びれなく言われたらしい。
「ああ、うん。借金ね。やったけれど、それがなにか?」と。
そこまで聞いて頭が痛くなった。
「……エルを引き込むためにそこまでやったの?」
「そう、やられたのよね」
エルは激怒してシスを追いかけ回した。具体的に記すと初めて拳を振るった。
彼女の両親は膨れ上がった借金に怯え、首を吊ろうかという手前まで追い詰められていたからだ。そこを必死に説得したのが娘である彼女だ。エルの両親は帝国に移住する直前まで苦労を負わせてしまった娘に謝罪し、シスに感謝しながら別れていた。
大暴れの末、ひととおり落ち着いたところでエレナといった人々に確認したらしいのだが、シスは時折こういうことをやらかすらしい。
「独自の人脈があるらしくて、その上いつも何か企んでフラフラしてる。帝国にいるはずがファルクラムに立ち寄ってたり、いつのまにか砂漠の向こうの国に行ってたり……。なのに必要な時には大抵ちゃんと顔を出す。……もうわけがわからない」
シクストゥスは自由すぎて制限がかけられないのだ。しかしライナルトに大きな迷惑をかけるわけでもない。国付きの魔法使いというのは伊達ではないらしく、何をしようが大抵お目こぼしをもらえる。もっとあくどい計画を立てているとの噂もあるらしいが、全容の把握は難しい。
「私、ライナルト様にあなたのことを知らないかと尋ねたのだけど……」
「知らないでしょ。あいつが勝手にやったことだし、所属しちゃえば私だってただの下位文官だしね。報告もしてないと思うけど」
「……思ったより、あの人って自由なのね?」
「あいつに限っては自由も自由。というかあれの被害者って結構いるみたいだし、いちいち把握もしきれないんじゃないの」
「あれ、じゃあなんでエルのことが自分の部下だってわかったんだろ」
「……え?」
「ダヴィット殿下に私の部下がって言ってたじゃない」
「ああ、もしかして知らないの? うちは黒や黒っぽい装いが基本。他もどの方の所属かわかるように、なにかしら特徴付けしてる」
……そういえば、ダヴィット殿下の配下はごてごてした飾りを身につけていたような気がする。
ともあれ、エルはシスへの怒りを再発させたらしい。私の肩を掴み、力強く忠告した。
「アレの様子だと面識があるんだろうし……利用するのはいいけど、間違っても信用しないようにね」
「わかった。……けど、エル、どうしても確認したいことがあるのだけど」
「うん?」
「……元気なのよね?」
本人は環境に満足しているようだし、嵌められたとはいえ本当に嫌だと感じたらしっかり逃げおおせる人間だ。いまの表情からもシス以外については不満のないように思える。故に細かいことは置いておくが……。
「大丈夫。カレンにも会えたし、ちゃんと元気よ」
仲直り……というわけではないが、ここで再度ハグを交わした。エルには状況を把握したところで私の状況もある程度は説明したのだが、場所が場所なので、すべて話すのははばかられた。
「いつかコンラート領を出ていくって本気? そんなのが断った理由って、あんたそれは……ううん。その頃には私は向こうに行ってるだろうから、なにかあったら帝国にきなさいよ。働く場所くらいは融通できるわ」
事情を察してくれた上に理解してくれるのは嬉しかった。今後の連絡の取り方を確認していると、今度はライナルトやニーカさんだ。
「話が落ち着いたようだ、終わりましたか」
「おかげさまでエルを見つけることができました。ありがとうございます」
「貴方は友人を助けただけなのだろうが、私にしてみれば部下を助けてもらった形になる。感謝するのはこちらの方ですよ」
「……結局助けてもらう形になってしまいましたが」
「その行動こそが大事だ。無謀ではあったが勇気ある行動だった」
ライナルトはいちいち私を褒めてくれるが、無力だったのは自分が一番よくわかっている。ありがたいけれど、むず痒いような心地だ。
「先ほど夜会の方は解散したようです。暇な者達はあちこち集うだろうが、私たちには関係ないでしょう。コンラート家の方々には先にお戻りいただいた」
「助かりました。皆には私の方から説明させて頂きますね」
「それと貴方が途中から姿を消した件だが、表向きは不調にしているが、一部の人間には殿下が貴方に非礼な態度を取ったと伝わっているだろう。いまの貴方は心労で休まれていることになっているので、このことを覚えておいてもらいたい」
ただし、とライナルトは付け加える。
「いくらか話が漏れる可能性は高い。その点においては留意しておいていただきたい」
「踊れない、なんて話がばれてしまうのに比べれば充分すぎるくらいです。ライナルト様の配慮に感謝いたします。……けれど、殿下の事を伝えてしまってよろしかったのでしょうか?」
「私はなにもしていません。ただ、偶然にも、ダヴィット殿下がコンラート辺境伯夫人に暴言を吐いていたのを聞いてしまった者がいた。不幸なことに、その者の会話をサブロヴァ夫人の侍女に聞かれてしまったのです」
それって……いいや、なにも言うまい。
「侍女から夫人に話が伝わるだろう。……私は忠実な臣下ですから、尋ねられては事実を伝えるしかない。貴方は体調を悪くして下がってしまったと、これをどう夫人が受け取るかは別ですが」
「姉でしたら、それは……」
「元々殿下は女性関係にだらしのない方で、陛下も頭を痛めておいでだった。このくらいは構わないでしょう」
案外、いい薬になったくらいに考えているのかもしれない。
「とても、とても不幸な事故ですね」
「まったく悲しい事故です。もしかしたらファルクラム王家の先祖の霊が、殿下の無体に嘆き下した罰なのかもしれませんよ」
「意外、ライナルト様は霊といった存在を信じていらっしゃる?」
「どちらでも良いのですが、もしいたとしても害はないでしょう。祟りがあるとしたら、私はとっくに死んでいるはずだ」
冗談だったのだろうが、地味に怖いことを言うものである。
シスによる被害者は優しく扱われます。