332:「次女もか」と父が呟いていた
叫びたい気持ちはあれど、いまは怨みつらみに囚われている場合じゃない。いますぐ、いますぐ逃げなきゃいけない。
「父さん! いますぐ帰ってもらって!」
「あまりこういうことは言いたくないが、昨日の話の限りでは陛下とろくに話すらしていないのだろう。一度話し合うべきではないかね」
「勝手をしたのは向こうです! 私が応じる必要はありません!!」
しかし、と父さんはとうとう姿が見えなくなった庭を見ながら言った。
「あれは難しくないだろうか。娘の頼みではあるが、私では止めきれる自信が無い」
「父さんのばかーーー!!」
叫びながら部屋を飛び出した。
だめだこれはだめだ説得に時間をかけてる暇はない。
ライナルトの姿が見えないとは、即ち彼が屋敷の玄関に到着した証。あの勢い、使用人すらはね除けてくる可能性がある。
こうなったら見つからない場所に逃げるしかない。いつの間にか肩に座っていたルカが呆れた様子で話しかけてくる。
「ねえ、ちょっとお待ちなさいよマスター、いったいどこにいくつもり」
「どこかよ! 隠れられるならどこでもいい!」
「隠れたいのならワタシの話を聞いてよ。止まってちょうだいな」
「そんなこと言ってあなたも足止めする気でしょう!」
「あら、あんまりな言いようだわ」
悲しげに囁くけれど、笑い声を含んでるのは気付いてるんだからね!?
「シスのこと黙ってたの怒ってるんだから! 私よりあいつにほだされて、絶対許さない!」
「うーん疑心暗鬼。まあ言うこときかなくったってワタシは構わないのよ。でもね、そっちの方向って」
逃げるなら自室より図書室だ。あそこはごちゃっとしてて、それでいて視界が利きにくい。もし見つかっても出口が二つあるし……と、廊下を渡りながら思い出した。
つい慣れた道を使っているけど、この方向って玄関ホール側のような――。
「あれ、姉さん」
いままさに階段を昇っている最中のエミールがいるけれども、そちらに気を配っている暇はない。何故なら弟の後ろには、この世でもっとも会いたくなかった人がいる。やや怒った様子で眉を寄せた、オルレンドル帝国の皇帝陛下が――。
「カレ――」
「いやあぁぁぁぁ!?」
理性とか品位とか皇帝陛下への礼とか、恥や外聞なんてどうでもよかった。ライナルトを追いかけてきていたニーカさんや近衛さんも見えたけど関係なかった。ほとんど条件反射で叫ぶと走り出す。
なのに、なのに……!
「なんでついてくるの!?」
「そりゃあマスターが逃げるからじゃないの」
エミールを振り切ったライナルトが迫ってくる。従ってこちらも逃げるのだが、三階に駆け上がっても一向に撒ける気配がない。
三階の端から端の階段へ、今度は一階に下ってみたものの、振り返れば必ずライナルトがいる。しかも走ってないし、早歩きの速度だと見て取れてしまった。
いくら歩幅に差があるからってこんなのはあんまりだ。息が上がって苦しい中、なんだか運動下手がばかにされてるみたいで、悔しくって腹が立ってくる。
大体逃げたと思ったのに、なんで半日も経たずにばれるのだ。
どうしてこうも上手くいかないの、なにもかも駄目に思えてきて泣けてきた。
「カレン、いいから待――」
「待たない! 帰ってください!!」
逃げる最中に止まれと言われて止まる馬鹿がいるものか。
しかしながら巨大なお屋敷、階段を使って逃げ回るとなれば私の体力が持たない。仕方なしに当初の予定通りに図書室に逃げ込んだが、そうなるとやはりと言おうか、ライナルトもまたやってくる。
やや悲しそうな顔をしていたのはわかるけれども、そんなのではほだされない。さっきから帰ってと言ってるのにまったく言うことを聞いてくれないのはこの人だ。
敵意はない、と言わんばかりに両手を挙げる。
「落ち着け、話をしに来ただけだ」
「その話すことがないって私は言ってます!」
……が、その態度がやたらと癪に障った。本当に意味がわからないけど腹が立った。
どうにかして反対の出入り口から出てやろうとしたら、そちらの方面から登場したのはニーカさんだ。
語らずともわかる。彼女は私に申し訳なさそうな顔をしていて、だからこそ私の味方にはならない。
「ニーカさん、そこどいてください!」
「今回ばかりは陛下だけでなく私共にも非があったのです。ですからどうか、話だけでも……」
「ですからぁ! 話し合うことなんてないって言ってるんです!」
ほらそうやってこっちのことなんて知らずに話を始めようとする!
ライナルトに向かって走り出したのは、大した理由はない。強いて上げるなら油断のしやすさを考慮したくらいで、もっと言ってしまえばどちらが私に乱暴を働かないか――といったずるい考えだ。
もちろんライナルトは扉の前に立ちはだかるし、逃がしてくれないのはわかっている。私の運動神経では到底彼に叶わないが、捕まらないくらいだったら私にだってできるのだ。
「おいで!」
投げつけたのは黒鳥。嫌々そうに――本当に自我ないの?――大きくなった一つ目の巨大な鳥はライナルトの前に立ちはだかった。私を捕まえようとした手をぱちんとはね、私達の間に立ち塞がる壁になる。
その間に私は扉を開けて、逃げる!
「奥さんだったら他にして、風除けなんて私はお断りです!!」
捨て台詞が精一杯の悪態だった。息を切らせながら階段を駆け上がって、今度こそ自室に逃げ込む。鍵を閉めて、寝台に倒れ込んだ。
走りすぎて心臓が痛いし、汗が止まらないし、もう全身が辛くてたまらない。
「あーあー、とうとう逃げ切っちゃったのね」
「うう、うるさいな。ひ、ひとの、私生活に口だししちゃ、だめよ」
「はいはい、マスターったら余裕がなさすぎね」
逃げきったと言われたけど、私ははっきりきっぱり意思を伝えた。このくらいあからさまに逃げて、そしてお断りすればさしものライナルトとて帰るはずだ。
でもそれだけじゃ不安だから、私もついさっきまで迷っていたあることを決めた。
「ファルクラムに戻るわ」
「あら」
「姉さんの様子が気になるし、どうせいまは私がいなくても回ってるし、皆には申し訳ないけどオルレンドルを離れる」
「ふぅん。ワタシは反対しないけど、コンラートのことはどうするの。まさか一生逃げ続ける気?」
「そんなわけない。コンラートを返すって約束したし……あくまで一時的なものよ。ちょっとだけ向こうに滞在するだけ。あの人が皇妃を欲してるなら、改めて断りを入れて、皇妃が立つのを待つわ」
「待っても立たなかったらどうするの。マスター、本当は気付いてるでしょうに」
返事が出来ない。
声を詰まらせると、両手を組みながらルカは天井を仰ぐ。
「意地悪言ったわけじゃないのよ。だから泣かないで」
その仕草がどこかエルに似ている。やはり製作者と被創造物は似るのか、思いを馳せていると、突然少女人形の片眉だけが器用につり上がった。
「でもねえマスター、あなた、ひとつ読み違えてるのよ」
読み違え?
意味深な笑みにぞわっと背筋が粟立った。少女人形の予言者めいた言葉が事実になったのは、それからわずか十数秒後だ。
「カレン、そこにいるな」
「ひぇ」
扉の向こうで声がした。声の主は……言わずもがな。
先ほどとは打って変わって静かで――そしてはっきりとした怒りを伺わせる。思わず逃げ腰になったところで、ぎゅっと拳を握りしめた。
「か、かか帰って下さいって申し上げたはずですが!」
「扉を開けろ」
「なんでですか!」
「話がある」
「私はありません!!」
「そういうわけにはいかない。まだ伝えてないことがある」
「皇妃の件なら返事はしましたよ、私はなりませんし、ぜっっっ……たいにお断りです!」
「……話をするだけだと言っている」
「話すことはこれだけで充分です。帰ってください、もう会うこともありません!!」
……は、オルレンドルの臣下である以上無理な話なんだけど、勢いというやつだ。
これでもかってくらいに声を張り上げると扉の向こうは静かになった。「あちゃあ」なんて顔をしているルカと黒鳥が非常に目障りだが、これで一件落――。
「使い魔……ルカ、そこにいるな」
「なによー普段は存在を無視するくせにこんなときだけ!」
問いの対象がルカになった。冷淡な声音にもルカは余裕を崩さない。
「ルカ、話をしないの!」
「一時的で良い、音を消せ。カレンの目と耳を塞げ」
「なんでよ。ワタシがアナタの命令を聞かなきゃならない理由を言いなさい」
「塞げと言っている」
「だから理由を……あ、なるほど、はいはいわかったわよこの乱暴者」
視界が真っ黒になった。周囲から音が消えて、一瞬軽くパニックになる。普通耳を塞げば筋線維が動く音が聞こえるが、それすらも聞こえないのだ。
自分の発する声すら聞こえなかった。寝台から逃げようとしたらふわっとした感触が私を押しとどめると、魔力の流れで黒鳥を感知した。
ルカにはやめなさい、と言ったはずだ。目が塞がっていた時間は長くなかったはずだけど、視界を取り戻した瞬間は唖然とした。
扉がない。
正真正銘そのままだ。
扉がなくなっている。扉と壁を繋ぐ蝶番ごと吹き飛んで、ついでに調度品を壊して転がっている。あり得ない光景を目の前に顔を上げると、肩で呼吸をしている犯人がいた。
手には斧があるが、それだけで扉がこうもなるとは思えない。ということは、斧を使ってはいるけど、扉自体は――。
「ライナルト、あとで直しなさいよ」
「弁償する」
蹴破った。
……え? そんなのあり?
彼は廊下にいる誰かに向かってしばらく近寄らぬよう伝えたが、真正面を向くとまともに目が合った。もう逃げ場がない、ないというか、黒鳥がそっぽを向いて非協力的な態度を出している。
やっぱり考えを改めよう。
この黒鳥、基本的には私の思うとおりに動いてくれるが、いまは全部私の意思通りに動いてるわけじゃない。どこかで明確な自我が発生している。
だっていまもライナルトを追い返せって本気で命令してるのに、全然言うこときかない……!
「まず、訂正しておきたい」
倒れた扉を踏みつけ一歩踏み込んでくる。
「風除けなどとふざけた理由で選んだつもりは、ない」
怒っている。
その剣幕は非常に不穏で思わずすくんでしまいそうだった。まるであのとき――目を強く押さえられたあの時を思い返してしまう。
――が、今回は私も引くつもりはない。
「あ、痴話喧嘩かしら」
外野の声は無視。
寝台から飛び降り距離を取った。
※ライナルトは途中の追いかけっこは本気になれば捕まえられた。




