321:ただ生きたい/生かしたいだけなのに
これには案の定ヘリングさんに猛反対された。当然だ、私にとってトラウマの場所だし、ライナルトだって行かせたがらなかった。これ以上は踏み込みすぎになるのは承知の上だけど、決めたからにはしっかりやり遂げなければ。
二人を説得しおおせるのにどのくらい時間を要するか。けれど予想に反し了解の意を示したのはニーカさんだった。
「連れ出すだけというなら反対はしませんから、彼女を連れて行ってもらえると助かります」
「ニーカ!?」
「よろしいのですか」
「よろしいもなにも、彼女を連れて行ってくれるのなら、私共も皇太后の連行が楽になる」
「……お言葉に甘えてもよろしいのなら、通らせていただきます」
「甘やかしているのではありませんよ。ライナルトは貴女がここに残る許可を出した。なら私も、私なりに必要だと感じたことをするだけです」
「ニーカさんもですが、お会いするみなさま抽象的なことばかりおっしゃるので、いささか混乱しています」
「いずれわかります……意地悪ではありません、本当です。向こうに戻って、私も貴女と向き合えるようになったらきちんとお話しします」
冗談めいた仕草で肩をすくめるが、嫌味っぽさはない。どちらかと言えば親しげな人に対するリラックスした状態だ。
「ヘリング、お前は彼女達が無事帰れるよう準備を進めておけ。あと言われたことはちゃんと進めておけよ。さっきから隙を見ては戻ってきて、新妻ばっかり見てるんじゃない」
「そんなわけあるか。……また悪い癖が出たな。陛下にお叱りを受けても知らないぞ」
「はん。叱れるものならやってもらおうじゃないか」
不敵に笑うと、最後に一つ付け加えた。
「いまのライナルトは、すこしおかしいところがあると思いませんか?」
「あ、そうですね。ちょっと……違和感は……」
「……あいつも戸惑ってるんです。海よりも深い心で見逃しておいてください」
ニーカさんの話はいまいち要領を得ないのだが、これまで言われているライナルトの責任だとか、非があるといった発言に関連しているのだろうか。答えを求めようとすると熱が上がってくる気がする。動悸が激しくなるし、いまはキヨ嬢だけに目を向けていよう。
「ありがとう、ニーカさん」
「礼はやめた方がいい。私は……きっと貴女が思っているよりも悪い人間です」
ニーカさんの様子がおかしいのは、魅了のせいだけでもない気がする。彼女の許しを得れば両開きの重い扉が開き始める。
ここまでお膳立てしてもらえる幸運なんてそうそうない。
我が儘を言って和を乱したのだ、やるとなったらきちんと締めくくろう。
ホールには想像通りの位置に彼らはいた。少し変化があったとしたら、ライナルトとバルドゥルがいなかった点だろうか。私の足は真っ直ぐに彼女の元へ、周囲への警戒を隠そうともしないキヨ嬢に向かっていた。
「おい、小便女!」
ニクラスの罵声が飛んだが、多分すぐに押さえつけられた。多分、となったのは私が彼の方を向いていなかったためだ。
卑怯な男に与えるのは怯えではなく無関心。
虎の威を借る狐でも、お前になど目をくれてやる価値がないと見せつければ男はさらに暴れ出した。罵り言葉が単調になるが、やがて口も塞がれ手出しも出来ない。
まなじりをつり上げた皇太后クラリッサが口を開けば、やはり罵りが始まる。
「知っているのよ、お前よ、お前のせいで箱が壊れたのだ! 卑賎の身で陛下の、わらわの地位が追い込まれた!」
「お義母さま、いけません!」
「わらわから皇妃の座を奪っただけでは飽き足らず、挙げ句お前の兄が我が娘を誑かした。だから陛下に言ったのです、お前のような者を帝国に関わらせるなと……!」
「お義母さま!」
キヨ嬢の制止も聞かずまくしたてる。
彼女が罵倒を繰り返せば繰り返すほど、頭の中はひんやりと、同時に苦々しい感情が浮かび上がる。もちろん玄関ホールからこの人達の姿を見たときは震えていたからそういった類の感情もあったけれど、いまは少し違う。
目的があったから、かもしれない。なによりいざ踏み込んでしまえば、跪き、囲まれていたときと違ったのだ。
意外と……皇太后クラリッサは小さい人だ。
「あなた方の親子関係には一切興味はありません」
「黙りや! お前達兄妹が……」
「箱についても同様です。あんなものがあったから皇帝カールの悪政が助長された」
「あれは我らの栄華の象徴だった、それをよくも……!!」
「壊されて然るべきものよ。……それよりも、己ばかりを可愛がって娘を盾にする愚かさを恥ずべきだとは思わないの」
キヨ嬢が驚き、皇太后クラリッサの瞳が見開かれた。カッとなった彼女が鬼気迫る表情で飛び出してくるが、躱すのは難しくない。なにせ彼女は通常よりもさらに豪奢な衣装や宝飾品に身を包んでいるから、相当な重さに耐えているのだ。足を一歩引くだけで片手を振りかざしていた体勢は崩れ、大理石に頭から飛び込んだ。
過ったのは悪魔の囁き。
いま無防備な皇太后の腕や背中を踏みつければ自尊心を砕けると悪魔は言ったが、『娘』の前で『親』の矜持を砕く行為に理性が働き、後者に従った。
皇太后クラリッサは自ら地面に伏せたのだ。
私までこの女と同等になる必要はない。床に転がる女を捨て置き、義母へ駆け寄ろうとするキヨ嬢の腕を取る。
「離しなさい!」
案の定キヨ嬢は激昂する。それもわかりきっていたことで、いまの私の声はなにをいっても彼女には届かない。
こういうとき、私が身を以て得た体験として、相手の頭を真っ白にさせる方法はひとつだけだ。
パン、と乾いた音がホールに響く。
叩いたのは私、打たれたのはキヨ嬢。
彼女はきっと叩かれたことがないだろうと踏んでいた。賭けには勝利したらしく、キヨ嬢はぽかんと口をまるめ、左頬を押さえている。
「おいでなさい」
「あ……?」
思考がまとまらぬうちに手を引いていた。義娘を連れて行かれることに気付いた皇太后クラリッサが叫び、キヨ嬢は義母と私を交互に見るも、ショックからは立ち直れず歩く。
用意されていた部屋の椅子に座らせると目の前で膝をついた。
叩いた頬に触れてみても、彼女はやはり混乱したままだ。
「ほかに方法が浮かばなくて……叩いてごめんなさい。赤くなっていないから跡は残らないはずだけど、気になるなら氷嚢を用意してもらいます。……痛い?」
「え……い、痛くは、ない」
「うん。ならよかった」
借りてきた猫みたいに大人しかったが、時間が経つにつれて叩かれたことをしっかり理解しだした。瞳はまた火花が滾っていたが、逃げられないよう、彼女の手を握って膝の上に置いている。顔と顔の距離は三十センチにも満たないかもしれない。私が下から見上げる形で目線を合わせていた。
「あなたは死にたい? それとも生きたい?」
「は?」
マグマが噴火する直球に投げていた。何を言っているんだこいつ、と隠さない形相だが、その怒りもどこか幼さを感じさせる。
「貴女と話すことなんて無いわ。キヨをお母さまのところに帰しなさい!」
「死にたいか、生きたいか。まずはそれを教えて」
「……失礼な女ね、手を離しなさいよ!」
「答えてくれたらね」
私と話すのも不快だと言わんばかりだ。抵抗は予測していたから、私も全身全霊で食い止めていたが、たったそれだけでも私たちは汗だくだ。
「ああもう……! ふざけるのも大概にしなさいよ、生きるか死ぬかですって? そんなの答えは決まってる。キヨは皇太后クラリッサ様の養女なのよ、娘が母と運命を共にするのは当然よ!」
「いいえ」
「なにがいいえよ! なによ、この答えが不満足? 貴女は生きたいって言わせたいだけじゃないの!?」
「いいえ、キヨ嬢。私は皇太后クラリッサの養女キヨ様には質問していないの。ただこの国に流れてきた一人の人間として、貴女がどうしたいかを聞いている」
質問の意図が伝わるには時間を要した。
怪訝そうな顔つきは言葉をかみ砕くのに時間を要し、表情は奇怪にも歪んでいく。
「意味がわからない。キヨは皇太后様の娘なのよ、あの方以外のところに居場所なんてあるわけないでしょう」
「ではそのまま彼女を庇って共に死ぬ?」
「あ、当たり前……」
「ライナルト様は相当お怒りよ。皇太后も、バルドゥルも、きっとただでは死なせてもらえない。その養女だったあなたも、同じ扱いを受けない保証はどこにあるの」
「陛下はそんなことなさらないわ」
「するわ。あの人はそういう人ですもの」
「いいえ、いいえそんなこと……! たしかにちょっと怖かったけど、そんな酷いことするわけない。あの人はお義母さまがキヨに相応しいと言ってくれた、キヨの……」
「ではその義理の母はどうですか。貴女が誰よりも信じていた人が私の爪を剥いだ」
「お義母さまはそんなことしない、それはバルドゥルとニクラスがやったものだわ!!」
「知ってたわよね」
怒鳴られ耳鳴りがするも、その反応にはやはりと得心した。過剰なまでの怒りは、キヨ嬢がクラリッサの凶行を知りながら目を瞑っていた証だ。
キヨ嬢も自らの怒鳴り声に失態を悟ったが後の祭りだ。
低い声で問えば黙り込んだ。
「……目を瞑っていたことを問い詰める気はないの。ただね、いくらあなたの義母があなたに優しくても、違う貌も持っていると、あなたは目をそらすのではなく直視する必要があった。ライナルト様もそういう人、でも怒るともっと怖い人」
悲痛に歪んだ瞳に追い打ちをかけるが、口は止めなかった。
「ぼろぼろだった私を覚えている? あれより……酷い目に遭わないと言えるかしら。それでもなお死にたいなんて言えるの。医療に従事していた人なら、誰よりも怪我を負う人の辛さを知っているのではない」
おそらくこの言葉が効いたのは、彼女が元いた時代が影響している。彼女は傷ついた「兵隊さん」を看てきた医療従事者だ。酷い傷などいくらでも知っており、黙り込んだのも昔を思いだしたからに違いない。彼女は死の恐怖を知っている。想像力の欠如した人間ではなく、おそらく本来はもう少し思慮深いはずなのだと思える一面だった。
すでに手に力が入っていない。
これで彼女が理想と現実の死に向き合った。
「お義母さまは……わ、私が一緒にいてあげないと」
――なら、あの方は一度たりとも盾となった貴方の前に出ようとした?
そう言おうとして、やめた。
これはただの感想だから確証はないが、例え魅了効果だろうと、皇太后は「娘」のキヨ嬢を愛している。そこは疑わないが、果たしてそれはすべてが完璧なのだろうか。
ライナルトが自身の本質を変えがたかったように、皇太后もまた心の根にある本質は変えられなかった可能性がある。
……つまり、娘よりも我が身が可愛いと思う本質まで変質するのか。
彼女も薄々感づいている事実を突きつける必要はない。いずれ伝えられるだろう『魅了』の真実は必ずキヨ嬢を絶望に落とし込む。彼女は錯乱するだろうし、それよりも生をつかみ取らせなければ先は生まれない。
疑問は尽きないが、代わりに出たのはずるい言葉だ。
「あなたが彼女を慕うのは別にいい。でも大切な子供が、ただ生きたいと願うのを怒る母親はいない」
理想の母親ならの話だけど、これにキヨ嬢はとうとうぐしゃりと顔を歪める。
「死ぬことの痛み、恐怖をあなたは知っている」
「キヨ、は、皇太后、クラリッサの娘の、義務を……」
「このままだと皇太后の信用は地の底に落ちるでしょう。もし彼女の名誉を守りたいと願うのなら、それはもうあなたにしか出来ない仕事よ」
「どうして、そんな、キヨだけなんて」
「いいえ、あなたしか残らない。ここの人たちはみんないなくなるけど……あなたが知っている中に、この館以外で、皇太后のことを擁護してくれる人はいる?」
正攻法で人を生かすための説得なんてしたことがない。人生二周目であっても生きるなんて事は当たり前すぎて学んだこともなかった。
たったひとりを生かそうとする行為がどれだけ難しいのか。殺すことより生かすことの方が何倍も難しい。
「あなた、本当にこのまま死んでも良いの? 皇后になりたかったというなら、あなたなりにやりたいことがあったのでしょう」
「あ、貴女……」
「このままだと何も成さず、何も残せず、ただ皇太后クラリッサの養女としてしか記録に残らない。ほんの一時期しかいなかったあなたは、名前すら人々の記憶に残るか怪しいとわかっている?」
キヨ嬢はすでに汗だくだった。拳は震え、自分の存在意義を問うている。皇太后クラリッサの愛情と生との渇望に揺れている。
「貴女は、ひどいことを言ってるわ。ここでキヨが生き残ったって……」
「知ってる。だけどこれだけは断言できるわ。死ぬよりも、生き残る方が辛くったってなにかを残せる。こればかりは生きた人の特権なの」
「お義母さまは……」
「もう助からない。助ける方法も、私は知らない」
「だったら貴女がお義母さまを――」
咄嗟に口を開きかけたのは、おそらく「助けて」の一言だったはずだ。しかし彼女は言葉を呑み込んだ。
「……どうしてキヨを説得しようとしてるの。キヨは馬鹿じゃないから、貴女に助けてもらえるはずないことくらいわかってる。もっと、もっと酷いことだって言えたはずなのに、馬鹿みたいに丁寧に……」
「あなたに死んで欲しくないから」
「……それだけ?」
「他に理由がほしい?」
目は決して逸らさず、長い時間見つめ合った。先に視線を下げたのは彼女の方であり、瞳を伏せた折、ぽつりとひとしずくの涙が落ちる。
「……偽善者ね」
「それでもいいわ。諦めるよりはずっとマシだもの」
押さえつけていた手を離すと、キヨ嬢は両手で瞼を覆い、固く唇を噛みしめる。
そこにもう一度問いかけた。
「もう一度聞くわ。あなたは死にたい、それともまだ生きていたい?」
答えはわかっている。
元より彼女は死にたいはずはないのだ。
「…………死にたくない」
生存本能すら罪とした信徒が如く告解していたが、私にはそれで充分だった。




