315:もはや手放せないがために
何も言えなかった。無我夢中でしがみ付いていたら、それまで我慢していた感情が溢れかえってくる。あちらで散々泣いたはずでもまた顔がぐしゃぐしゃになっている。もう何にも憚らずともいい、怯えなくてもいい、嫌悪と好奇の視線に晒されない。人以外の扱いを受けることもなかった。
なにより見捨てられるんじゃないかと好きな人たちを疑う心に囚われなくてもいい。
「すまなかった」
絞り出すような声がかかり、抱きかかえられたまま頭を撫でられた。
詳細はあちらで、とヘリングさんの声がする。馬が遠ざかっていく寸前に、アヒムからライナルトへ声がかかった。
「言われたとおり、なるべく殺さずにおきましたよ。どうせなにか考えがあるんでしょうから主犯達もそのままだ」
「ご苦労だった。それと貴公のおかげで取り戻すことが出来た、感謝しよう」
「別にあんたのためじゃないしその言い草も腹が立つんですが、まぁ皇帝陛下から直々に礼を言われる機会なんざないんでしょうね。感謝くらいは受け取っておきましょうか」
こんな会話をしていたのをうっすら耳にしている。
連れて行かれたのは天幕の中だ。とても天幕のものとは思えない寝台は綿が敷き詰められ、ふわふわで心地良い。寝かされたあともずっと抱きしめてくれていたし、背中に回された手がただただ嬉しかった。
「ここにはカレンを傷つける者はいない。もうどこにも連れて行かせはしない」
まともに返事が出来ないから、代わりに何度も首を動かす。
怖かった、本当に怖かった。あらゆるものが限界だった。
情けない声で痛い、怖い、と繰り返していても優しい声だけがかかっていた。ようやく涙が引っ込んだあたりで、腫れぼったくなっているだろう目元を拭われる。
「寝かせてやりたいが、傷の状態を看たい。シャハナを入れても構わないか」
緊張状態が解けたことで自身の状態に目を向けることができた。そういえば不必要に力を込め続けたせいで痛みがぶりかえしている。
同意するとしばらくしてシャハナ老と、師に続いたバネッサさんが入ってくる。手に持った桶からは湯気が昇っていた。
「陛下、本当に天幕をお借りしてもよろしいのですね」
「構わん。続けてくれ」
遅れて入ってきたのはエレナさんと……マルティナ?
どちらも普段着とは違い、動きやすい装いに身を包んでいる。腰には剣が下がっていたが、持っているのはタオルや洋服、水差しと様々だ。
シャハナ老に手を取られ、丁寧に包帯が剥がされていく。バネッサさんが額に手を当て熱を測っていた。
「魔力が枯渇してますね。身体に薄い膜が張られているみたい。回復してないのに……どうしてかしら、生きるのに必要な量だけは確保されてる」
「詳しいことを調べるのは後ですよ。治療できるのならば出来うる範囲で手早くすませてしまいましょう。首の封印はどうですか」
「……すみません。私では難しいです」
「ではわたくしが代わりましょう。……やはり封印はアルワリアのものですね、だけどこの首輪は……」
後半は独り言らしいが、シャハナ老の口にした名前は聞き覚えがある、たしか前皇帝カールのお気に入りで、ライナルトの戴冠と共に追い出された魔法院の長老の名前だ。追放の直接的な原因はエルの……。
記憶を辿っていると、エレナさんがバネッサさんに話しかけていた。
「傷を看るのは構いませんが、その前に身体を拭いてあげても構いませんか。あと唇が乾いてます、お水を飲ませてあげましょう」
「ああ、そうでした。すみませんがお願いできますか」
「ご覧の通り準備済みです。他のことはこちらが引き受けますから、治療を優先してあげてください。手早く終わらせちゃいましょう」
四人に介抱してもらえるなんて至れり尽くせりだ。シャハナ老がライナルトに振り返った。
「陛下、これから傷を看とうございます。申し訳ありませんが、殿方は一時席を外していただけますか」
「わかった。後は任せる」
一方で、エレナさんが近づけてくるのが……。
「カレンちゃん、これ飲めますか。ちょっと甘めにしてあるから飲みやすいですよ」
硝子でできた器。
中に入った液体は少し黄色がかっていて、その瞬間、シャハナ老の手を振り払っていた。
何かを叫んだ。
手の甲にぶつかって硝子カップは床に落ち、当たり所が悪くて割れて中身が地面に散らばった。
次に思ったのは吐かなきゃ、だ。
とにかく胃の中のものを全部出さなきゃいけない。気持ち悪い、臭い、どこかから嘲笑が飛んでくる。すぐ近くで扉がガンガン蹴りつけられている。
何日も何日も続いたのだ。振動する扉を全身で押さえる中で、もう帰れない、ここで死ぬと言われ続けた声が反芻する。
なのに指を喉の奥に突っ込もうとすれば、誰かに押さえつけられた。布団に縫い付けられて焦りがやってくる。逃げないと男達の玩具にされる、早く隠れないと本当に犯される!
やめて、いやだ、吐かないと。
「カレンちゃん、カレンちゃん! 大丈夫ですから、なんにもないですから落ち着いて!」
「バネッサ、貴女は左手を押さえなさい!」
「やってます! ちょ……師匠、早く指なんとかして、噛んじゃってる!! マルティナさんは足をお願い!」
なんで揃いも揃って邪魔をする。あなた達もあの侍女たちみたく私を蔑むのか。
助けて、と助けを求めた先に金髪の人がいた。
大きく目を見開いて立ち尽くしているが、この人だったら絶対大丈夫だ。そう思って指を伸ばすと老女の柔らかな声が降ってくる。
「いまはお眠りなさい。誰も、なにも、もう貴女を傷つけはしません」
本当は眠りたくない。
寝るのは嫌。起きたときに暗いと辛くなる。ひとりぼっちで誰も私を助けてくれないのだと思い知らされるから嫌。
なのに睡魔はやってくる。全身から力が抜けると視界がぼやけ、現実との境界があいまいになってくるのだ。
抗う術はない。
最後に、私は錯乱したんだなと思い至ったけど、気付いたときには手遅れだった。
重い頭を持ち上げたとき、ひどく焦った。
中が暗かったせいかもしれない。きっと良く眠れるようにする配慮で、そのためか外は少し騒がしいけど、天幕の周りには人がいない。
もう眠りに就く前ほど慌てたりはしないけど、シーツを寄せると身を縮こめて小さくなる。
頭では知っている。もう危険はないし、ここはライナルトの天幕だから危険がないのは誰よりも自分がわかっている。
近くには洋燈がある、火を点ける手段もある。手を伸ばせば灯りはすぐそばにあるのに、私は暗がりを恐れている。何故動けないのかが自分でもわからない。ただ出入り口にほんのわずかに開いた隙間から漏れ入る光をじっと見つめていた。
息を殺して、静かに待っている。
聞き耳を立てても情報は入ってこない。
いま外はどうなっているのか知るべきか迷っている最中、私の状況に気付いたのはマルティナだった。
様子を見に来たのだ。そっと天幕の様子を伺う彼女と目が合った気がするのは間違いじゃなかった。
「起きていらしたのですか?」
うん、と言ったつもりがあまり声になっていなかった。
彼女はおそるおそるといった様子で手を取り、目線を合わせるためにしゃがみ、顔を覗き込んでくる。
「ご気分はどうですか。どこか痛いとか、苦しいとか、そういうところはありませんか」
「ない……と、思う」
「そうですか、まだバネッサさんがいますから、なにかあったらちゃんと言ってくださいましね。……どうしますか、まだ疲れているのならこのまま寝ますか。お腹が空いているならご飯を持ってきます」
「まだ、どれも。ごめん、それよりマルティナ」
「はい?」
「……明かりをつけて、お願い」
思ったより切実になってしまった。彼女は期待に応え、すぐさま明かりを灯してくれるどころか、部屋中を照らしてくれて、ようやく全身に入った力を抜くことができた。
彼女は私が暗がりを恐れたことに気付いている。だが何も問わず、優しくゆっくり問うた。
「喉が渇いているなら準備してございますよ。ウェイトリー先生からカレン様の好きなお茶を預かっておりますが、お飲みになりますか。蜂蜜をたっぷり入れた香りの高いお茶です。あたたかくしますから心も落ち着きますよ」
「あ、うん。それなら」
「少しひとりにしますが、すぐ戻ります。ご安心くださいましね」
にっこりと笑顔でたたずむ彼女はとても力強い。準備のため出て行こうとした背中に、ひとつ、思いだしたことを訊いていた。
「ゾフィーさんと、チェルシーはどうなったの」
「ご安心くださいまし。いまはすっかり元気でございますよ」
「あの怪我で助かった?」
「ゾフィーさんを看たバネッサさんがカレン様の魔力の残滓に気付かれました。おかげで一命を取り留めたと感謝してございます。いまは無理を押さないため待機してもらっていますが、ずっとカレン様を気にかけておりましたよ」
違う。襲われたのは私が一緒だったせいだ。怒りこそすれ感謝されるいわれはない。
「マルティナ」
「コンラートのことでしたら心配はいりません。皆、カレン様の帰りを待って」
「チェルシーは助からなかったのね?」
返事には数秒間が空いた。
彼女に感じたのは迷いだ。嘘を騙るか、真実を告げるか。
そんな逡巡だったからおのずと答えも知れてくる。
「……ごめん。いまは聞きたかっただけだから」
治癒のために黒鳥を移した対象はゾフィーさん。チェルシーには何もできなかったから、彼女の生死についてはずっと不安を抱いていた。確信を得たのは心配かけまいとするマルティナの態度と、そしてジェフがここにいないこと。
彼は私の護衛だ。私に剣を捧げてくれると約束してくれた人だ。
だから知っている。彼が主の危機に、この状況にあって彼が顔を見せないわけがない。マルティナだって真っ先に無事を教えてくれるはずだと至ったら、答えはわかりきっていた。
「いいの、ありがとう」
「……違います!」
必死の形相だった。駆け寄り手を握ってくる彼女は、違うと何度も繰り返す。
「ジェフさんは怒っていません。カレン様を責めたりもしていません。ただ、ただ、いまあの方には時間が必要なんです」
かぶりを振って説得してくれる彼女は、心底私たちを心配してくれている。持つのを好まないと言った剣もそう、きっとこのためにわざわざ来てくれた。
その心遣いが嬉しい。彼女のためにもその言葉を信じたいと思う。けど……。
「……ごめん、いまはそれ以上聞けそうにない」
「いいのです。わたくしの迷いが嘘を嘘と気付かせてしまった。貴女様はいまとても疲れている、ゆっくり心を落ち着けるべきなんです」
用意してもらった飲み物は、少し離れていてもわかるくらい香りが強かった。無骨な木のカップになっていたのは彼女の気遣いだが、それ以外にも変わった点は見受けられた。
硝子製の水差しに杯と、ここにだったら置いてあってもおかしくない調度品が全部避けられ、皇帝陛下の天幕にしては不揃いな安物に入れ替わっている。
寝台に座っていた。
特になにも考えていない。過去を思い返していたわけではない。ただぼうっと座っていたらいつの間にかマルティナの姿が消えていて、沈黙に耐え難かったのかな、とお茶を一口啜る。
蜂蜜をたくさん入れてくれたらしい。甘くて、そしてすっかり冷めている。
何をしたら良いのかまったく浮かんでこない。
眠くはならないけど思考はぼんやりしている。心地よい疲労感とも、重い倦怠感とも違う中間地点。なにをしよう、と考えては全部が霧散して散っていく。
そんな中でやってきたのはライナルトだ。
否、正確にはここを間借りしているのは私だから、帰ってきたが正しい。
供は付けていない。一人で入ってくると断りを入れて隣に腰掛ける。
「具合は?」
尋ねながら額に手を当てる。
ライナルトがこんなことをしてくるのは珍しくて、内心驚いたけど、ひんやりとした手が気持ちよかった。
彼が顔を顰めたのは少し熱っぽかったせいだろう。
横になるか勧められたが、ゆっくりと首を振るだけに留めた。
「顔、疲れてます。無理してないですか」
私がここにきたのが朝方。あれからどのくらい経ったか不明だが、ライナルトが休んでいないのは言われずとも知れている。疲労が濃いのが気になってみれば、困ったように手の平を向けてくる。
……握ってもいいのかな。
大分痛みが和らいだ手を乗せれば握り返された。
「どうして私を案じている。心配するべきなのはそこではない」




