314:諦めかけたぬくもりに手を伸ばす+イラスト
モノクロイラスト:https://twitter.com/airs0083sdm/status/1540534565206650880
作者2022/6/25ツイート
※カレン、ライナルトで比較的親密なイメージ
イラスト:しろ46(書籍公式イラストレーター)
「アヒム、それ……」
怪我をしている。顔の傷はいまだに血を流し続け、生々しい傷口を晒している。来る途中に無理をしてきたのは明らかなのに、アヒムは「ああ」と軽い調子で言うのだ。
「ちょいとヘマしちまいまして。でも逃げる分には問題ないですから心配いりませんよ。さ、とっととこんなところからはおさらばしましょ」
「おさらばって、でもどうやって……。ねえ、せめて血を止めないと」
「心配してくれるのはありがたいですが、込み入った話は後です。急いできたもんで、いつ気付かれるかわかりません」
手かせの鍵もちゃんと取っていたらしく、拘束も無事解放された。
アヒムは鉤爪のついたロープを持っている。分厚い手袋を嵌めると窓枠に鉤爪をひっかけ、手招きしてきたのだ。
「色々探ってみたんですが、正面や裏口は警備がきつくて難しい。すみませんが、降りる間だけでもふんばってください。いまならおれの首に腕を回すくらいはなんとかなるはずだ」
「う、ううん。助けに来てくれただけでも充分だから……頑張る」
怪我に動転したが、いつ連中が入ってくるかもわからない。言われた通りアヒムにおぶさると、腰のあたりをつぎはぎで繋げた簡素なベルトで固定される。
「ちっと足元が不安定ですが、おれは絶対縄から手を離しません。慌てず騒がず、目を瞑っててもいいんで、とにかくおれにしがみ付いててください」
三階から宙ぶらりんの形で降りるなんて恐ろしいが、アヒムがいるならそれだけで信用に足りる。
人ひとり負ぶさるのは重いだろうに、そんな苦労も感じさせない足を窓枠に置いた。「よっと」というかけ声と共にブーツが壁に接着する。とたん足場を喪失した私には重力が仕事を始め、ぶら下がった身体に冷風が全身に体当たりしはじめる。
「大丈夫です。壁くだりは想定してました、ちゃんと降りられますよ」
「うん」
階下の窓にぶつからないよう、音を立てすぎないよう慎重に降っていく。気を落ち着かせようと思考が巡り、飛び出ていたのはこんな質問だった。
「ね、ねえアヒム」
「いまちょっと集中してるんで後に……」
「なんでお嬢さんって呼んだの?」
どうということはないくだらない質問だ。ただアヒムは私をもう「お嬢さん」とは呼べなくなった。なのにあのときは昔の呼び方に戻ったから気になったのだ。
「……その方がおれだってすぐわかったでしょ?」
緊張状態に関わらず、口調はほんのり優しい。
実際、彼の言うとおり、名前で呼ばれるより、あの「お嬢さん」の方がすぐ気付けた。そこまで見抜いて声をかけてきたのなら頭があがらない。
途中、二階の部屋大きな笑い声が響くと心臓が止まりそうになった。
彼は降りることにだけ集中しているけど、私は淡い期待と不安とで落ち着かない。もし部屋に入った誰かが下を覗き込んだら、どこかの窓が開いて私たちを見つけてしまったらと気が気じゃなかったのだ。
この動揺に小さく、何度も何度も「大丈夫」と言ってくれるのは、背中に目でもついていたのかと思ったくらい。
足が地面に着地しベルトが外れると、多量の汗をかいていたことに気付いた。ただ掴まっていただけなのにこの震えはなんなのか。上手く理解できずにいると、頭の上に手が乗った。無遠慮にわしゃわしゃとかき混ぜられて、顔を上げた先にはお兄さんじみた力強い笑みがある。
「よく頑張った」
長らく見ていない、だけど子供の頃はいつでも見ていた顔だった。
手を引かれ、裏庭の小さな建物の裏に入ったとき、遠く……建物の上部から絶叫が聞こえてくる。はっきりと「逃げた」と誰かの叫びが聞こえて来た。
「やっぱ気付くよなあ……。あ、顔出したら駄目ですよ、いま窓から顔出してるだろうから見つかっちまう」
もちろん確認する勇気はない。逃げようにも建物はすべて塀に囲まれているし、これからどうするのだろうと思っていたら、アヒムはチラチラとある方向を見つめている。周囲を探っているのか、叫び声が聞こえなくなったタイミングで走り出した。
追いつくのも精一杯だけど泣き言は言っていられない。真っ先に安否を確認してくる彼が、私の容体などそっちのけで脱出準備を始めたのが証拠だ。
走るにつれ段々と獣臭が濃くなってくる。臭いには覚えがあったのだが、到着したのは馬小屋だ。私たちはやはり建物から見えない裏手に身を置いたが、問題はまだ残っていた。
「中にいち、外にいち……かねえ。ちょいとそこで待っててくださいよ」
馬小屋の中に炎の揺らめきが見える。
足音を殺した背中が闇に紛れる。角で様子見をしていたのだが、身体が向こう側に消えると、ものの五秒後には男を引きずり、影に放り投げる姿があった。呆気にとられているとアヒムが人差し指を動かし合図を送ってくる。
「こっちに来い」と受け取るのだが、闇に慣れた目は放り投げられた男を見る機会を得た。気絶させたのかと思っていたら、男の瞳孔は開ききっている。絶命しているのは明らかだ。
馬小屋の入り口にやってくると、今度は後ろ手が「待ってろ」の合図を送る。
奥には棚が設置されているのだが、作業着姿の男が馬具を持ち、なにかに苦戦していた。
ちょうどこちらに背を向ける形になるのだが、そこに近寄っていったアヒム。
「よう、大将」
声をかけた瞬間、男が振り返る前に口を塞ぎ、持っていた短剣で背中を刺した。
一瞬暴れていた男はそれだけでぐったり動かなくなった。彼の合図で馬小屋に入るが、馬が若干興奮状態だ。
「ふぃ……なんでこんな時間に活動してるんだ。肝が冷えた」
「アヒム、この人……」
「入り口のはともかく、こっちはただの馬番でしょうね。悪いことしちまいましたが、暴れられても面倒です。運がなかったと諦めてもらいましょう」
言いながらも目は冷静に馬を選別している。転がった男はやはり目を見開いて絶命していた。
「あんまり見ちゃ駄目ですよ」
まるで事前に把握していた動きで馬具を見つけ出し、馬へ手早く装着していく。駄目ですよ、と言いながら隠そうともしないのは、やはり余裕のなさの現れなのだろう。ひっそりと伝うこめかみの汗に、こちらも無言を貫き通した。
「馬で駆け抜けます。かなり揺れるでしょうが、この難所さえ越えちまえば迎えと合流できますから」
「私も馬を操った方がいい?」
「俺が乗せます。これ以上はまたがって馬にしがみ付くだけの力出ないでしょ」
「はは……実はそう……」
アヒムに背中を守られる形で騎乗する。彼の手が手綱を引いたとき、後ろから怒声と松明の光が追ってきた。
「どこに逃げるの!?」
「ご心配なく、手は打ってますよ。そのせいで遅れちまったんですがね!」
気付かれたのなら大人しくするのは無用だ。そう言わんばかりに手綱を引き、馬の腹を蹴った。二人乗り用の鞍ではないせいか非常に乗りにくいが、そこはアヒムのカバー力が生かされる。馬術に長けているなんて予想していなかったが、このことを思いだしたのは大分後になってからだ。
塀沿いに馬を走らせ、使用人しか使わないような道を抜け、見えてきたのは木材で出来た門だった。松明に照らされた門はすでに開門状態になっており、スピードは緩められることもなく無事通過するが、その刹那、抜刀状態で転がった衛兵の死体を見た。
もしかして「ヘマをした」はこれのことだったのだろうか。頭を過ったけれど、問おうにも馬上では口も開けず、また落馬しないよう掴まるのが精一杯だ。
先は森だ。
暗闇の中どう駆けるのか。一度馬を止めると松明を焚き、分かれ道に差し掛かると細道を選択して進み出す。全力疾走とはいかないのか、多少歩調を緩ませながらの走行だ。
「このヒスムニッツの森は迷いやすくて有名らしいです。一応順路は頭にたたき込みましたが、この暗闇なんでちょいと自信がない。慎重に行きますよ」
「うん」
「なに、ちゃんと味方はカレンを待っててくれてます。おれが伝言預かった御仁も、制止も聞かず飛び出してきちまった。おかげで向こうの方は大変な騒ぎですが、ま、そこで出張らないならおれがぶん殴ってましたしね。あと少しの辛抱で会えますよ」
「アヒム」
「はいはい」
「ありがとう」
もっと伝えねばならない感謝はあったのに、うまく思考になってこない。それでもゆっくり息を吸って、声がきちんと出ておくうちに伝えておく。
「あなたが声をかけてくれたから、まだ頑張ろうって思えたの。助けてくれて、ありがとう」
「まだ安心するには早いですよ。追っ手もかかってるはずだ、逃げ延びてからゆっくり考えてください」
一人で歩くには怖い森の道、フクロウの鳴き声、身を襲う冷気、苔むした土の臭いも、あの部屋よりずっとずっと愛おしい。
安心しすぎて泣き出してしまいそうだが、めそめそ泣くのは後だ。
馬上の人になってどのくらい進んだか、緑の天蓋から覗く空が明るくなり始めるまでの間に、アヒムは様々道を変えた。
細かい道を進んでいたかと思えばまた街道に出たり、一見道とは思えない場所に入ったりと様々だ。私の不安を嗅ぎとってか、シュトック城に入ってからは地理の把握や脱出路の確保に勤しんでいたと教えてくれる。
「本当はもっと早くあそこを出たかったんですが、どう考えても正面から出られそうになかったんで裏道を探してました」
「あそこ、お城だったの? たしかに大きいけど館かと思ってた」
「正面側に古びちまった小さな城があるんです。かなり昔に破棄されたのを皇太后の祖先が譲り受けて、改築を重ねたそうです。昔は周りに町もあったそうですが、いまじゃ拠点の役目を失って、貴族の遊び場だ」
「そんなに大きなところだったんだ……」
「大体は森に埋もれて風化しちまったとか。だから場所はわかってても規模が把握できてなかったそうなんですよね。それに貴女がいたのは新造の別館だから、中の作りがわからなかった」
ヒスムニッツの森にあるシュトック城は皇太后が所持する別荘の中では一番規模が大きく、しかし距離がある場所らしい。森は入り組んでおり、そこ自体も手つかずの自然が残る。沢も多いが崖も多く、一度道を違えたら戻るのも難しい私有地だから、知る人も少ないのだそうだ。
「後宮跡地はもう調べが入ったんです。……爪の入った箱、あったでしょ。奴さん、あの男があそこまで怒るって予想外だったみたいで、慌てて引っ込……」
私の不在中の話だ。気になることを口にしていたが、語りを引っ込めたのはわけがある。
森の奥から馬が数騎やってくるのだ。アヒムはすでに灯りを消したが、その動作で友好勢力ではないのが知れた。アヒムも余程驚いたのか、ついぼやいてしまっている。
「あの見回りは知らんぞ」
「どうするの」
「あとちょっとなんです。ここで引くのは得策じゃないし、なによりもう気付かれちまってる」
決断は早く、馬を猛スピードで駆け出させた。向こうはこちらに制止をかけるべく叫んでいたものの、ぶつかる勢いでやってくる馬におののき、道を譲ってしまう。
その中の一人が「追え」と叫んだのを皮切りに追いかけっこが始まったが、二人乗りの私たちは不利だった。荒くれ者を離すことができず、時が経つにつれ罵声は着実に距離を近づけてくる。
空は完全に白くなり、私に出来るのは祈ることだけ。魔法が使えないなら援護も出来ない。
揺れる馬上で歯を噛みしめていると、ひゅん、と風を切る音がした。
自然の音じゃない。人工の、例えば矢みたいな鋭い物が過る、聞き覚えのある音だ。
前方にいくつもの人影が現れていた。兵が矢をつがえ、中央に立つひとりが腕を振る。
「放て!」
矢が放たれると背後で馬が倒れ、人が悲鳴を上げていく声がする。
兵に指示を出した軍人とすれ違う瞬間、うっすらと漏れる光がその人の横顔を照らし出した。
ニーカさん。
安堵なのか、それとも自嘲なのか、判別の付きにくい表情だったが、たしかに彼女と目が合った。
だが彼女が私をみていたのも一瞬だ。
アヒムは一切馬を止めることなく走り抜けるから、指示を下している背中が遠ざかる。そのままひたすら走り抜け、やがて到着したのは森の中に隠された天幕の一群だ。
「カレンちゃん」と聞き慣れた人の声がしたけど、アヒムは止まらない。ぐんぐん馬を動かして、いちばん奥まった場所、ひときわ立派な天幕の前に一直線だ。
「ほら、到着ですよ」
声をかけてもらう前に目は釘付けになっていた。天幕の前で男の人が立っていたのだ。その見慣れた長髪と、陽の反射で輝く金の髪は間違えようがない。
こちらに気付くなり大股で歩を進めてくる。近くの護衛が慌てて後ろをついてきたが、彼らのことはまるで目に入っていなかった。
「あ」
真っ直ぐ見てもらうのは久しぶりだ。
疑問は多くある。キヨ嬢の魅了は解決したのですか、とか。どうしてこんな森深くに出て来たのですか、とか。迷惑をかけてごめんなさい、助けを送ってくれてありがとう……とか。
でもそういうのが全部吹き飛んでいる。
――ライナルトだ。
ゆっくり手を伸ばされる。いつも冷ややかな顔を崩さないのに、この時は瞳が懊悩に染まっている。怪我をしたわけではないのに苦しそうで、それでちゃんと理解できた。
この人は私を心配していた。
「カレン」
無言で背中を押されていた。
ほとんど滑り落ちる勢いで前のめりに落ちたが、彼は受け止めてくれる。絶対的な自信があったから平気だった。実際倒れずに抱き留めてくれたから不安はない。
ちゃんとそこにいる、触れられる、抱きしめてもらえている。
もう無理だと思ってたぬくもりがここにあった。
活動報告:西小路キヨ香(設定) を追加
書籍は展開を少し足します。




