閑話:弱きながらに強いもの
昔の話だ。
正直なところ、夫と出会うまでのゾフィーは自身が結婚できるとは考えていなかった。
なにせ彼女はそこらの男よりも大柄で、筋肉質で、強かった。決して美人ではなかったし、同世代の女の子と並べば顔の厳つさから年上に見られる始末。器量ばかりは生まれつきのものだから変えようもないから傷つけられたこともあったけれど、周りの人達に恵まれ前を向けた。
そんな彼女を見初めたのが彼女の亡き夫だ。
『君を支えたいから一緒になってくれ。僕には君の笑顔が必要なんだ』
そんなことを恥ずかしげも無く言ってきたのは後にも先にも夫ただ一人。
愛し愛され続けて幸せいっぱいだったあの頃。
子供に恵まれたときの夫の喜びようといったらない。そうだ、子供ができたと告げたときは大喜びして、ない力でゾフィーを横抱きにしようと……。
「ぁ……?」
懐かしい夢を見ていた気がした。
寒くて目が覚めた。どうして自分は地面に転がっているんだっけ、とぼんやり考えたのは数秒。重ったるい体を動かし、鈍い痛みで意識が覚醒した。
段々と蘇る記憶は、つい先ほど起こった事故を鮮明に呼び起こす。
「そうだ……カレン……さま、は」
御者に違和感があった。
魔法院を出たときまではコンラートお抱えの御者が馬を操っていたはずなのに、宮廷からの帰りになると違う人物に入れ替わっていた。なんでも連れてきた御者が腹を壊したから頼まれて交代したらしいが、クロード・バダンテールが雇った人物が言伝も置かず場を去ったりするものか。
どうして出発時に気付けなかったのか。
理由は単純で、入れ替わった御者の格好が自分たちの御者と同じ背格好をしていたからだ。
これに危機感を覚え、カレンとチェルシーを降ろそうと至ったところで馬車が傾いた。
咄嗟にカレンを抱きしめたのは、ほとんど軍人としての性といってもいい。かつて国民を守る義務を背負った者として、若人を守らなくてはならないと反射的にクッション代わりになったのだ。
横転した馬車で気を失わなかったのは幸運だった。
庇ったものの打ち所が悪かったカレンは気絶、右も左も分からぬ状態で動けたのは危機的状況に慣れていたからだ。うっすらと瞼を持ち上げたチェルシーに緩やかな意識の覚醒を見て取ると言った。
「すまないチェルシー、私に二人は運べない。隅で毛布を被ってじっとしていて、ここなら雨を凌げるから、とにかくなにがあっても喋らず黙っていて」
酷なことを告げているのはわかっている。
だがこのときゾフィーは自分が負った怪我、体力、状況を冷静に分析していた。横転した馬車の出口は上向きになっているし、二人を持ち上げる時間は無い。狙われたのが誰であるかは明白であり、ここに三人構っているのは命取りだと判断したのだ。中は薄暗く見えづらいし、毛布を被ってじっとしていれば荷物程度に見えるかもしれない。あるいはわざわざ中に降りて手を下しはしないかもしれない。
すべて「かもしれない」が付き纏う。けれどここで判断するのがゾフィーの役目だ。
チェルシーが泣きわめきもせず大人しいのが救いだった。子供のままの彼女だったら大泣きして手がつけられなかっただろう。
「私はカレン様をここから離して隠す、いいね」
「あなた、怪我を……」
「慣れている、平気だよ」
本当は痛い。痛くてなにもかも投げ出したいが、嘘でも己を鼓舞しなければならなかったし、チェルシーを必要以上に怖がらせたくなかった。
襲撃者が迫っているかもしれない。肩に刺さった木片を抜く余裕はなく、また抜けば失血で倒れる恐れがある。激痛に苛まれたままカレンを担ぎ出口へと登った。
「くそ、もっと体がまともに動いてくれたら」
退役の原因となった怪我の後遺症はいまも彼女を蝕んでいる。おかげで外に出たあとも一苦労で、荒い息を吐きながら周囲を見渡すと命絶えた馬と御者を発見した。改めて意識のないカレンを抱え直す。
どこか木陰でも、茂みでもいい。彼女を隠して自分が離れないといけない。こうなった身では、もう囮くらいしか役目が残ってない。
耳は響く剣戟と馬のわななきを聞いていた。なぜ襲撃者達がすぐに自分たちを襲わないが不思議だったが、どこかでまだ争いが繰り広げられている。
彼らが何と戦っているのか、それを問う暇はない。
霧の中を一歩、一歩と進み……。
ぐらり、と体が揺らいだ。
次に目を覚ましたときには、目を充血させたカレンがいた。
その時にゾフィーは気付く。おそらく自分は想定する以上に疲弊していたのだ。馬車から出たあたりが限界で、そしてカレンが先に目覚めた。
ゾフィーは「逃げろ」と言った。襲撃者の狙いが誰かはわかっている、死なないでくれと願いを込めたが、そこが限界。近付いてきた男にカレンは捕まり、ゾフィーに手を伸ばそうとしたところで男の靴底が迫り、目の前は真っ白になった。
意識を失うコンマ数秒前で「これは死ぬな」とこれまでの記憶が駆け巡ったから、次に目覚めたときは不思議でならない。あれほどの衝撃を頭部に受けて生きていられるはずがないに。
どこにもカレンの姿が見当たらない。
連れ去られたと頭では理解していたが、追いかけようにも体が重く、うまく動かない。首を動かせばなぜか出血が止まっている傷口が目に飛び込むも、理由までは至れない。そもそも激しい雨が刻一刻と体温を奪っていく。なぜか生き長らえた一方で、このままでは体温の低下で再び気を失うのも時間の問題だ。たとえ冬でなくとも寒さが続けば人は正常な判断を失い、簡単に命を落とすと知っている。
あたりは雨が地面を叩く音以外聞こえない。助けが来る気配もない。霧の向こうにうっすら家々を見かけたが、戸が開かれる気配すらない。帝都は出ていないが、御者がどこに向かっていたかがわからない。自分がもっと早く気付けていたらと悔やんでも、もう後悔しきるだけの力が無い。
虚ろになっていく瞳は空を見つめ続け、ぽつりと心に漏れたのは唯一の心残り。
――ごめんねぇ、お母さん、帰れそうにないわぁ。
愛する我が子達を置いて逝く事実が悲しかった。エレナやコンラートの人たちなら後を任せても大丈夫だろうけど、やはり傍で成長を見守ってあげたかった。離れ離れの期間が多かった分、これからたくさんの「愛してる」を告げていくつもりが、それも叶いそうにない。
諦めが生への執着を離そうとしたときだ。
ゾフィーの視界に動きをみせるものがある。不思議に思い目を懲らすと、それは一人の女。上体を赤く染め上げ、足元すらろくにおぼつかないチェルシーだ。
「チェルシー」
てっきり隠れてやり過ごしてくれたと思っていたから驚いた。掠れ声を上げるゾフィーに、まだ生きていることに安堵したチェルシーがにこりと笑う。
間違いではない、場違いなまでのたおやかな微笑には理性が宿っている。彼女は自らの意志で馬車を抜け出し、傷を負いながらゾフィーの元にやってきた。
なぜ、と問う間もなかった。
チェルシーはゾフィーを覆い被さり抱きしめる。わけのわからない行動だが、その意図はすぐに伝わった。容赦ない雨粒から自分を守ろうとしているのだ。ほのかに伝わる体温に呻いた。
「やめなさい……。その、傷では……」
体温の低下は段々とゾフィーの正気を奪いはじめているが、それはチェルシーだって同様だ。どのみち自分は動けないから助かりそうにないし、カレンを連れ去られた上にチェルシーまで死んだとあっては皆に顔向けできない。
怪我の具合は不明だが、せめて雨を凌げれば体温の低下は防げるし、移動できるなら彼女はまだ助かる見込みがある。
必死に訴えるゾフィーだが、チェルシーは言うことを聞かない。それどころか体温を分け与えるように強く抱きしめた。
「おかあさんは、子供たちのところに帰ってあげないとだめよ」
その一言に目元が熱くなった。
そうだ、自分は帰りたい。本当は子供達を置いていきたくなんかない。
微かな嗚咽を漏らしはじめるゾフィーに、チェルシーはそっと笑う。
いままさに命の炎が燃え尽きようとしているのに、嬉しそうに瞳を和らげる。
「こわくない。だいじょうぶよ、だいじょうぶ。私がついてる。あなたはちゃんと、子供たちのもとに帰れるわ」
優しい声音はどこか覚えがある。
子供をあやす、母親の声音に急激な眠気が襲い……。
すとん、と意識を失った。
しくじった、と舌打ちした。
いま、マルティナは馬の腹を叩きながら雨の中を疾走している。
彼女が失敗を悟ったのは宮廷に到着してからだ。魔法院で書類手続きを終え、ジェフを置いてカレン一行を追いかけた。
そこで遭遇したのは、よりによってコンラート家の御者。慌てた御者は「皆様が先に行ってしまった」と言う。
意味のわからない発言だ。詳しく聞くと、腹を壊して厠に行っていたのだが、戻ってきた時には馬車がなくなっていたという。周囲に話を聞くと一行はとうに出発したそうで、むしろ御者が残っていたことに驚かれた。
その場にいた衛兵によれば、御者と同じ背格好の男が席に座っていたと言う。驚いているところでマルティナがやってきたのだが、さらに詳細を聞けば、どうやら御者は侍女にもらった差し入れで腹を壊したらしい。
すべてが頭の中で組み合わさった瞬間、マルティナは剣を下げた。近くの馬を無断で借り上げたのである。
誰かに助けを求め走り回る暇はなかった。
「どなたかいますぐ陛下にお伝えを、コンラート夫人の命が狙われております!」
大人しい人物とは思えぬ声だった。あたりに声を響かせると御者に事情を説明するよういいつけ、馬の腹を蹴った。
周囲は混乱したが、おかまいなしに馬を走らせる。
衛兵の制止も聞かず疾走しながら、ぎり、と奥歯を噛んだ。よりによってカレンとチェルシー、ゾフィーだけの時に自分が離れてしまったのだ。ゾフィーは元軍人で力もあるが、後遺症から激しい運動はできない。それなのに彼女達から離れてしまったのは自分の失態だ。
しかしコンラートへ戻る道を辿っても、一向に馬車の姿が見えない。濡れ鼠になりながら、あせる心を落ち着け必死に頭を巡らせる。宮廷からコンラートへ至る道は大通りになっていて、どんなに人目を避けようとも不可能だ。御者が入れ替わっていたことを踏まえれば道を逸れるしかないが、そんなことをしたらゾフィーが気付く。
「いいえ、いいえ、この霧では周囲は完全に見渡せない。襲撃に適した人通りの少ない道はどこ」
このとき、幼い頃から帝都で育った土地勘が役に立った。すぐさまあたりをつけると馬を走らせるのだが、正解を引き当てたのは二つほどあてが外れてからだ。
市街地から工業地帯に続く通りだった。道ばたに軍人が倒れているのを見つけたが、そのどれもがすでに事切れていた。あたりにも人が住んでいるはずだが、この天候の悪さと喧噪に怯えて戸を閉じている。このあたりの治安はよろしくない、従って住まう人々も自ら危険事には関わらない気性だ。
それからもぽつりぽつりと見かける倒れた人々に、動きを止めた馬車。彼らの息があるかを確認している暇はない。
馬を走らせてしばらく、ようやく見覚えのある馬車を発見できた。横転した車体には呼吸が止まったが、それより早く腕が動いている。
人が二人倒れている。その近くに明らかな不審者が立っており、いままさに伏した二人に刃を降ろそうとしている。
マルティナの手首はしなやかに動いた。剣帯に下げたポーチに手を差し込むと、手首を翻す。彼女の手から飛びたった小刃は数本外れ、内一本が男の肩に刺さる。
たまらず肩を押さえる男の手が緩む。馬を飛び降りると、乱暴な着地であるにも関わらず駆け、近づきざま抜いた刃で男を斬りつけた。
男が倒れるのを待たずに叫ぶ。
「ゾフィー、チェルシー!!」
ゾフィーにはあちこち傷があるが、口元が微かに動いている。ほっと安堵の息を吐いたが、彼女に折り重なるよう倒れるもう一人に青ざめた。
ぴくりとも動かない身体を持ち上げるも、その四肢には力が入らない。だらりと下がった腕に息を呑み、大きく瞳を見開いた。
チェルシーはもう動かない。
浅い呼吸を何度か繰り返し、震える腕で抱きしめる。
彼女は穏やかに眠っていた。幸せな夢にまどろむだけの幼子ではなく、本来の彼女たりえる優しい顔で、何かを成し遂げたと言わんばかりに満足げだった。
「……頑張ったんですね」
目頭が熱くなるのを感じたが、泣くにはまだ早い。
周囲の確認を終えるとゾフィーを近くの軒先に移動させ、怯えて戸を開けなかった家から無理矢理毛布を借りて毛布で覆う。
次にチェルシーの亡骸を運び終え、カレンの姿をどこにも確認できないいま、最後はゾフィー達に刃を立てようとした男の救護だ。
まだ息がある。
手応えは軽かったから死なせたつもりはなかった。気絶した男が持つ剣は立派だが、その服装は軍人とかけ離れている。
身体の筋肉の付き方からその辺の賊とはいい難い。なにより傭兵といった外の者を知るマルティナの勘が、この人物はそこらの物取りではない、育ちの良い人物だと囁いている。
雨の中、乱暴な手つきで男の傷口を縛りはじめた。襲撃者を救う行為は腹立たしいが、この男はいまだ姿の見えぬカレンの行方を知る一人だ。絶対に生かさねばならない。
後方では、遠くから馬が駆けてくる振動を耳が捉えた。
意図せず流れてくる涙を雨で流しながら無心で手を動かす。そして自らに流れるラトリア人の血を強く感じながら誓う。
このツケは必ず払ってもらわねばならない。
後に『シュトック=ヒスムニッツ破壊事件』と称される、帝都を揺るがす大事件の幕がここに上がった。
8日10時に3巻発売記念のSSとイラスト公開します。




