30、少しだけ聞けた本音
手のひらを重ねると、優しく指が包み込まれる。恒例の指先への口付けはなんとか耐えきったが、この日のライナルトはさらに爆弾を投下してくるようだった。
「普段もお可愛らしいが、本日は特に驚かされた。どこかの姫君が現れたのかと思いましたよ、よく似合っておいでだ」
耳に心地良い声と言葉はもうお世辞とわかっているからそこまでダメージはないのだけれど、問題はそれ以外だ。美形が物理(顔)で殺しに来る……。こんな滅多刺しの方法があるだなんて知らなかった……。
「……ライナルト様こそ、いつも素敵でいらっしゃいますけれど、一段と輝いていらっしゃいますね」
「私など装いを変えただけです。美しくあろうとする女性の勤勉さにはかないませんよ」
着替えただけでこれなら色々な意味で女性泣かせにも程がある。
ともあれいつまでも突っ立っているわけにはいかない。ライナルト誘導で馬車に乗り込み、互いに向かい合って席に着く。ゆっくりと振動が伝わりだしたところで、浮かべていた微笑を取り下げた。
「……この度は本当にご迷惑をおかけします」
「こちらこそ兄が失礼した。そちらの立場としては受けざるを得なかったでしょう」
「いえ……それよりも、ライナルト様にもお仕事があったでしょう。支障をきたしていないかが心配で」
「部下に任せているので、彼らなら私などいなくてもうまくやってくれますよ。……兄の前で渋ったのは、あまり夜会といった場が好きにはなれないので、その口実です」
「お好きではない?」
「どうにもあのような場は合わないと感じてしまう。贅沢を厭うわけではありませんが、それらも度が過ぎれば目に余る」
……何を思い返しているのか、ライナルトは呆れた様子で息を吐いた。私は城に上がるのは初めてだからなんとも言えないのだが、そんなに派手なのだろうか。
「ライナルト様の登場を待たれている女性も多いでしょうに。そんな話を私に聞かせてしまってよろしかったのですか」
「ご迷惑でしたか?」
「いいえ、そんなことはありません。ただ、思ったよりもお話ししてくださるのだなと思ってしまって」
そこでライナルトもはたと気付いたように頷いた。
「そうですね。貴方は私との婚姻を望まず、なにより帝国の名を聞いても臆さなかった。……そこが私にとっては重要なのでしょう。ああ、それに、年下のお嬢さんとは思えないくらいに落ち着いている」
「……後半に関してはいささか引っかかるものがございます」
「褒めているのですよ。貴方は私から見ても可愛らしいお嬢さんだ、その事実は変わらないのはサブロヴァ夫人だけでなく私も保証しますよ」
こういうことを真顔で言ってのけるあたり、手慣れていると感じてしまうのは何故なのか。とはいってもライナルトの態度や仕草は砕けたものになっていて、だからこそ私も気を楽にしていられた。
「姉は少々ひいき目が過ぎるのですけれどね。……ライナルト様、少々気に掛かっていたのですが、私の姉は……その、度が過ぎた過保護があると思うのですけれど、ローデンヴァルト候はどうしてライナルト様に家庭を持たせようとされているのでしょう」
「気になりますか?」
「……正直なところ、かなり」
そしていまのライナルトなら答えてくれるだろうかと、かなり大胆な質問に踏み切っていた。
「だってライナルト様は既に独立していますもの。ローデンヴァルト候がお身内を使い、家々の繋がりを強化したいという魂胆はわかりますけれど……」
言ってよかったかな? と思ったが、ライナルトはこちらを止める様子はなかった。
「お望みになればはね除けることもできた話だったのでしょう。現にいまも独り身でいらっしゃいますし、キルステンとの話も事情があったとお伺いしました」
「……随分率直にお聞きになる」
「時間は有限です。それに、ええ、私何度かライナルト様とお話をして気付きました」
「うん?」
「変わり者同士なのです、こちらの方がお互い気楽なのではないでしょうか」
長い足を組むと唇をつり上げ、低く喉を鳴らす姿は悔しいくらいに様になっている。
「確かに、ええ、気楽でいられます」
「私もそうです。……こうして仲良くしてもらえるのなら、苦労しなくて良さそうですし」
興味を持ったようなので、重々しい表情で、もっともらしく頷いてみせる。
「私は貴族社会から長く離れていたので、皆様のように口が回る人間ではないのです。いつもいつも、公の場ではなんと返事をしたものかと悩んでいるんです。本当に大変なんですよ」
「これは異なことを。立ち居振る舞いはとても十代には見えません」
「どうしましょう、先ほどからとても褒められてる気がしません」
結局理由を話してはくれなかったが、語りたくないのが答えみたいなものだろう。ライナルトとローデンヴァルド候との間には相容れない思惑が存在しているのだ。
「……お互い苦労しますね」
苦労人同士、奇妙な共感がわいてしまった。もしライナルトと……なんて浮かんでしまったけれど、忘れてはいけない。私は発泡酒をがぶ飲みし、下着で一日過ごしても問題ない環境を欲しているのだ。駄目な人間といってはいけない。これとてある意味立派な大人の過ごし方だ。
たとえコンラートで過ごす毎日が気に入っているとしても、それはいずれあの場所から旅立つ前提だから成り立っている。貴族と婚姻する道は元からありえないのである。
「カレン嬢のお考えが見えないが、つまり貴方は私となにか手を組みたいと?」
「手を組む必要はないかと思います。私如きがライナルト様と手を組んだところでなにかあるわけではないでしょう」
ライナルトが私と手を組んだところで、一体何の共同戦線を張るって話だ。ライナルトはいまいち判断しかねるようで、こちらの様子を窺っている。
「単純に、私たちがいがみ合う可能性を作りたくないだけです」
せっかく仲良くなれそうなのに、兄姉が理由で仲違いするのは残念だ。昨日のローデンヴァルト候の態度を見て、強く感じたのである。
「難しい話をしたいわけではないんです。私はニーカさんやエレナさんが好ましいと感じましたから、あの方々が忠誠を誓うあなたのことも嫌いたくないだけです。あ、ライナルト様のこともちゃんと好きですよ」
あれ、なんで意外そうな顔をするのこの人。
「なにせ遠方に住んでいるもので情報には疎いのです。多少なりとも事情を伺えるのなら、私もローデンヴァルト候のお考えを知ることができますし、躱しやすくなるのかなと考えたのです」
あとは純粋な興味本位もちょっとあるけど。
「小娘の浅はかな考えと笑うなら笑ってください。……駄目ですか?」
「駄目というわけでは……」
べらべら喋りすぎという自覚はあったが、ライナルト相手に下手に立ち回るのもまた悪手だ。それに仲良くしておきたい気持ちは心の底から本当だし、自分の心情を明かさねば、信頼を得るのは不可能だろう。
ただ熱くなりすぎたせいだろうか、ライナルトが引いているような気が……あっ立ち直った。
「失礼。そこまで私の部下を慕ってくださっているとは思わなかった」
ライナルトは窓枠に肘を立て、手の裏を頬に押し当てる。こころなしか浮かんでいる笑みは作り笑いではなさそうだった。
「損得を持って接する相手にはそれなりの対応で挑ませてもらうが、あけすけに好意をぶつけられることに慣れていないので……なんとも面映ゆい心地だが、そうまで言われてしまっては断るなどできないか」
……それもなんだか意外だった。この人相手ならたくさんの好意をぶつけられてきただろうに。
「なんのことはない、兄は私をファルクラムに縛り付けておきたいのですよ」
ライナルトの視線につられて窓の外を見た。馬車はゆっくり走っているせいか、到着まではまだ時間がありそうだ。
「私はいずれ帰るべき場所に行かねばならないが、それが兄には怖いのですよ。その時が来れば、私は配下をすべて引き連れその場所へ戻る」
「……帝国ですか?」
ライナルトは微笑のみで返事をして、再び外を見た。
「ローデンヴァルトの権威は彼の国の威光を借りて成り立っている部分も大きい。だがそれを失うとなれば……兄はそれが耐えられないのでしょう。故に、この国に妻を、家族を残しておきたがる。繋がりさえあれば、無視するわけにはいかないだろうと考える」
……ローデンヴァルト候の権威については深く考えたことがなかったが、言われてみれば確かにそうだ。ライナルトのために寄越された戦力、有用であれば利用したいと考える人が大多数だろう。珍しくため息を吐いたライナルトは、物憂げであり同情的でもあった。
「難儀な人だ。自身の実力を信ずるがまま進めば良いだろうに、己のものでもない権威にしがみつかれて何になるのか」
ご婦人方がうっとりと見惚れそうな面差しだが、彼の言葉には引っかかるものがある。
「多少なりとも事情はわかりました。あの、けれども……ローデンヴァルト候の元にはなにも残されない?」
「残しませんね。兄の懸念は、私がこの国に未練がないから尚更なのでしょう」
これまた新たな驚きだった。目を丸くする私に、ライナルトは唐突な質問を投げた。
「カレン嬢はこの国がお好きか」
「は……え、ええ、そうですね。生まれ育った国です。……多少住みにくさはありますが、好きか嫌いかと言われたら好きです」
「好きと答えられるのは良いことです。素直に答えられるのは多少羨ましくもある」
「羨ましい、ですか。…………ライナルト様は、ファルクラムがお嫌いで?」
「好いてはいませんね」
ただし、とライナルトは補足する。
「誤解しないでもらいたいが、民といった普通の人々を嫌っているわけではない。貴方のような、小さな話し相手を得られた事は喜ばしいと感じています」
ローデンヴァルト候を語っていたときのような憂鬱はすでにどこにもなかった。咄嗟の話になんと返せばいいのかわからなかったのだが、彼は相手の言葉を望んでいるわけではなかったらしい。
「少々話しすぎたようだ。どうも貴方の前だと口が軽くなる」
そこに座る男性は貴族というよりも、公共的な地位を離れた一個人としての面差しを強く残していたのだろう。
「あ――」
の、と声をかけるより、唐突に馬車が止まる方が早かった。
身を乗り出しかけていたせいか、前のめりになって壁にぶつかる手前でライナルトに支えられた。
「何事か」
基礎体幹の違いが大きく出たのだろうか。バランスを崩しもしないライナルトは外に向かって声を放つ。すると、外から二回ノックが鳴らされた。
「ライナルト様、申し訳ありません。少々外においでいただけないでしょうか」
「わかった。……すぐに戻ります」
モーリッツさんの声だった。ライナルトは私を席に戻すと扉を開けて出て行こうとしたのだが……。
馬車の扉が閉まる間際、膝をついた男性が目に入った。複数の人が立ち並ぶ中、どうしてその人だけが目に留まったかといえば、風体が異様だったからである。古く汚れたフードを被っていたのだが、その間から覗く衣類は上等な代物だった。伸ばし放題の無精髭が特徴的な、四十頃の中年男性だ。
窓から外を覗くのは……やめておくとしよう。
それに、先ほど聞かされた話は多少なりとも思うところがある。
ローデンヴァルト候とライナルトの関係だ。先日話した限り、仲の良い兄弟のように映っていたけれど、どの家庭も複雑な事情があるようだ。
「信ずるがままに進めば、かぁ」
ライナルトの仕事の詳細や実力を知っているわけではないけれど、もしかしたら彼はとても強い人なのだろうか。うん、そんな印象はあるな。
そんな風に己を信じて進める人は、きっとそうそう見つからない。だからこんなことを断言するのはよほどの大馬鹿か、或いは自身に確固たる理念があり、それを自ら体現している人だ。ライナルトの場合は後者のように思える。理由は単純で、例の地下牢の際の応答に加え、モーリッツさんやニーカさんのような人が彼に従っているから。それだけなのだけど、案外間違っていないのではないだろうか。
私的な印象だが、特にモーリッツさんなんて人に言われた程度で主君に忠誠を誓うような人には思えない。あれはもっと利己的な目的があって、はじめて頭を垂れるタイプだ。偏見なのであてにはならない考えだが、私の中ではそんな風にまとまりそうだった。
狭い人間関係で生きてきたせいか、或いは私が他人に興味がなさすぎたせいか、こうも他人について憶測を働かせるなんて滅多にない事態だ。悩む間に時間が経っていたようで、ライナルトが戻ってくるまでの時間はあっという間だ。
「おかえりなさい。お知り合いでしたか?」
「ただの人違いだったようです」
「そう、ですか」
深くは問うまい。おそらくこれは私が関わってはいけないことなのだ。たとえ中年男性の目が、何かに追い詰められ、切羽詰まっていたのだとしてもだ。
再び馬車が動き出すが、ライナルトは考え事にふけっているようだった。先ほどまでの軽快な雰囲気は消え失せている。
「……ところでライナルト様、少々お尋ねしますが、エルネスタという私と同い年の女の子をご存知ありませんか」
「エルネスタ……。いえ、聞き覚えのない名ですが」
「おそらくシクストゥス様に関連していると思うのですが……」
「なるほど。あれは方々で好き勝手していますからね。その方はカレン嬢の知人だろうか」
「友人です。長くなってしまうので、いまは詳しく話せないのですが……」
ここでエルの特徴について話をしてみるのだが、ライナルトの反応はいまいちである。ただ、魔法の素養が高い人物だと話したところでピンときたようだ。
「そういえば最近シスの元に新しい部下が入ったと……。名は違いましたが、年齢的には貴方と同じくらいのはずだ」
「……! あの、その人に会わせてもらうことはできませんか」
「後でシスに確認してみましょう。今日であれば後ほど会う手筈になっている」
「ありがとうございますっ」
後手になってしまったが、やはりライナルトに話して正解だったようである。安堵に胸をなで下ろしたいところだが、ここでもう一つ、彼に話しておかなければならない秘密があった。
……というか、いい加減言わなくては。外はもう城に上がるための馬車で列をなしており、そろそろ私たちの番となろうとしている。
こちらが改まって背筋を伸ばしたためか、ライナルトも何かあると気付いたようだ。
「あの、これは誰にも言ってなかった秘密なのですが、ライナルト様には話しておかなければならないでしょう。ええ、本日の夜会に関わるとびきりの重要事項です」
ライナルトの瞳が興味深げなものに変じた。私も息を吸って、とうとうこの告白をせねばならないと覚悟する。
相手が兄さんならばうまく便宜を図ってもらうなりして逃げ切るつもりだったが、この人相手にはどうあがいても無理そうなのだ。なので私ももう腹を括るしかない。
兄さんのみならず姉さんすら失念し、コンラート領の人々はまさかそれはあり得ないだろうと除外していた事態。私もあえて彼らにはなにも言わなかった。
ライナルトの目を見据え、はっきりと言ったのである。
「私、踊れません」
…………だからあまり乗り気ではなかったのだ。