29、支度という名の女の戦場
ザハールのしつこさには伯やエマ先生も驚いたようだが、念押しされたのならライナルトを呼ぶしかない、というのが答えだった。
「そうまで君と彼を一緒にさせたいというのは……。サブロヴァ夫人はカレン君の幸福を祈る気持ち半分といったところだけど、彼の場合はそれだけではなさそうだねえ」
「なにぶんローデンヴァルト候とは初めてお会いしたので、どういった方かも掴めなくて……すみません」
「謝る必要はないよ。元々僕が出席できないのが原因だからね。……長い間出席していないし、ザハール君のことだからそのあたりもわかっていたんだろう」
「親切心……という理由ではないですよね?」
「弟の縁談をなんとかまとめたい兄心じゃないかな……と言ってあげたいところだけど」
エマ先生の用意した薬膳茶で喉を潤し、伯は続ける。
「僕は彼のご両親の代にいくらか私的な付き合いがあったくらいで、詳しいわけではないのだけどね。……彼が当主になってから、いささか権力に貪欲になっているようには感じる。カレン君の件も、特に縁続きになっておきたい理由があるんだろうね」
「……キルステンを抱えて有利な点といったら、姉さんのことだけです。私の頭ではほとんど見当がつきません」
「いいや、それが一番重要だ。もしもに備えて駒をもっておくのが賢いやり方だからね。特にこのご時世、いつなにがあってもおかしくない」
「…………不謹慎なのは承知でお聞きしますが、それはたとえば、お二人の殿下に何かあった場合、とか?」
話が飛躍しすぎているが、もし姉さんが懐妊したとあれば、王家の血筋が増えるわけである。不遜極まりない質問は普通の貴族相手であれば眉を顰められただろうが、教師然とした雰囲気で腰掛ける老人はなんでもないことのように頷いていた。
「悲しいことに、正当な血筋を引いていらっしゃるダヴィット殿下とジェミヤン殿下は仲がよろしくない。……ダヴィット殿下がもう少し自覚を持って素行を改めてくれるのなら……」
「あなた、カレンの前でそんな話はまだ……」
「やはり評判はよろしくないのですね」
「悪い、といっても差し支えないだろうね。しかし、かといってジェミヤン殿下も……」
「あなた!」
エマ先生の叱責が飛ぶ。伯は思わず口をつぐんだが、エマ先生は心配性だ。
「エマ先生、私なら平気ですよ。伯にはいつも色々な話をしてもらってるんです」
「いつも?」
エマ先生の表情が変わった。伯が慌てた様子を見せていたのだが、このときの私は気付くのが遅れたのが痛手だったのだろう。
「伯にお聞きしているのは商売のやり方とか、帳簿の見方や領地運営の勉強だけじゃありませんから。この間も戦時中にあった怖い話や攻城戦における……」
「…………カレン」
ここでエマ先生の声音が変化したことに気付いた。やぶ蛇をつついたと悟ったのである。
「……この人と話し合いをしなくてはならないから、席を外してもらえるかしら。それに、あの子達とお茶の約束があるのでしょうし……明日の準備もしなくてはならないでしょう?」
「…………あ、はい」
こういうときのエマ先生に逆らってはいけない。席を立ちそそくさと立ち去る刹那、遠くを見つめるカミル氏の瞳は悟りを開いていた。
「エマ、よく聞いておくれ。僕も随分歳を取ってしまってね。年寄りの話を嬉々として聞いてくれる若人というのは貴重なものだから、つい……」
「言い訳は結構です」
パタン、と扉を閉めてしまったため、以降、彼らが何を話していたかは不明である。ただ、カミル氏には申し訳なかったので心の中で手を合わせさせてもらうとしよう。
スウェンやヴェンデル達とお茶で一息、お菓子に舌鼓を打ってから明日の準備である。夕餉も終わるとそのまま寝台で眠りこけたい気持ちだったが、そうはヘンリック夫人が許さない。使用人服に着替え終わったニコや他の使用人も引き連れて参じたのである。
せいぜい三人くらいだと思っていたのに、予想していたよりもずっと多い人数だ。
「サブロヴァ夫人は奥様は身一つで来れば良いと仰ってくださいましたが、そのままの状態でお任せするほど、わたくしたちも腑抜けておりません。さ、肌着になってうつぶせになってくださいませ」
「ひぇ……」
まず前夜から念入りな時間をかけたマッサージ。昼に立ちっぱなしだったからむくんでいるだろうということで、香料のきついオイルを垂らして全身を揉まれた。不思議なことに、この世界リンパの流れなんて概念はないだろうに、内容はほぼリンパマッサージである。もう少し歳を取っていたら気持ち良かっただろうが、くすぐったいが勝ってしまい笑いを堪えるのが大変だった。
マッサージの間に顔や腕の産毛を徹底的に剃られ、終わったかと思えばいつの間に仕入れていたのか薔薇の花びらを散らした湯船に体をどぼん。頭を念入りに洗われ髪になにかを塗りたくり、垢など許すものかという勢いで念入りに、しかし柔らかい手つきで肌を擦られる。
「体ぐらい自分で洗えますよぉぉ」
「お黙りくださいませ」
「夫人、最近私に容赦がなくなってませんか。ねえ夫人」
「お黙りくださいませと申し上げました」
耳の裏まで念入りに洗われながら、これはもう諦めるしかないぞと黙ってされるがままである。
お風呂を終えたかと思えば全身に化粧水のような何かを塗られ、髪が乾くまでタオルで念入りに水分を取って少量のオイルを馴染ませる。……いやもうね、これが長いのなんの。休めるならまだしも、この間にヘンリック夫人はコンラート領とお付き合いのある方々や陛下に対する口上のおさらいをさせるのだ。
「旦那様が長らく出席していらっしゃらない分、まず奥様に陛下からお声がかかるのは必然でございましょう。決して間違えてはなりませんよ、よろしいですね」
「はぁい……」
「はいは一回!」
「はいっ」
とは言うものの、結構慣れないことをしたので眠気に襲われていたのは確かだ。なんとか夫人のお許しをいただけたところでその日はぐっすり夢の中。
だが朝にも戦場は待っていた。
「えっ、ご飯これだけですか」
「夜会に挑むためには食欲を満たしすぎてはなりません。空腹であるくらいが丁度良いのです」
テーブルには焼きたての小麦が香るふかふかパン、バターをたっぷり使ったオムレツ、作りたてのハムの切り落とし、種類が豊富なチーズに林檎やオレンジといった果物類。トウモロコシや玉葱にジャガイモをたっぷり炒めて作ったスープと理想の朝食が並んでいるのに、私が許された食事は一皿に乗った乾燥果物と木の実類、林檎の砂糖煮にチーズを少々と、あとは搾りたてのオレンジジュースくらいである。
……一人暮らしの時とか、キルステンにいた頃はこれくらいでもよかったのだけれど、コンラート領にきてからすっかり健康的な生活と食事に慣らされ、健全な胃を持つようになってしまった身にとってこれは拷問である。
カロリー概念とかない割に内容はよく考えられていて、木の実とかでカロリーや栄養はきちんと摂取できるけどぉ!!
「…………そんな顔をされても駄目です。サブロヴァ夫人の所で軽食が用意していただけるのですから、いまはこれ以上はいけません」
少な、と呟いたヴェンデルの声は意図的になかったことにされ、豪華なようで寂しい食事を終えると再びマッサージ。昼前には姉さんの館にお邪魔することになっていたので、ニコを連れての出発である。
コンラート辺境伯は今朝頃体調を崩したという流れになるのが決定したので、ライナルトにはこの時点で使いが行ったようだ。ローデンヴァルト候のしたり顔が目に浮かぶようである。
馬車でようやく一息つける頃には早くも疲れ切っていた。
「皆のおかげで足のむくみもないけど……あんなのが続いたら耐えられない……」
「ヘンリック夫人は張り切ってるんですよぉ。奥様が夜会に出るのが決まった日から、最新の美容法についてずうっと調べていらっしゃいましたもの」
「ありがたいわ。ありがたいけど……」
「ニコもできる限りお手伝いしますからねぇ」
「……あなたもついてこない?」
「昨日たくさんおしゃれできましたし、心臓が持たないから結構です!」
今晩だが、ニコは私付きの侍女といっても差し支えないので宮中まで付いてくる予定だが、使用人専用の待機室でお留守番である。ヘンリック夫人もついてくる手筈となっているが、合流は夕方頃。ニコと同じく私が帰るまで待機室で留守番である。
「ああ、準備は夕方前くらいでいいはずなのに昼頃に来いといわれた時点で嫌な予感がする」
この予感は的中していた。サブロヴァ夫人の館の門を潜ると、早速笑顔の姉さんが出迎えてくれたのだが、まず振る舞われたのはお茶と少量の肉と果物だ。パンの摂取は許されなかった。
「満腹になんてさせるわけにはいかないわ。夜会にみっともなくお腹をぽっこりさせるなんて許されないのだから」
確固たる信念があるらしく、物足りない食事の後に唇には油を塗られた。荒れた唇防止だそうだ。この頃、すでに半分諦めの境地でされるがままである。
三人はゆったりとくつろげそうなお風呂に放り込まれ、隣で全身洗われる姉さんと一緒にもう一度香油をすり込まれる。汗をかかぬよう大きな団扇で煽がれながら頭から爪先までお手入れ、下着、化粧、髪のセットである。休息を挟みながらかなり時間を掛けて準備したため、ここまでで結構な時間がかかっていた。
「姉さん、普段からこんな手間をかけて支度してるの……?」
「そんなわけないじゃない」
いっそ尊敬の念さえ抱いて尋ねたのだが、そんな幻想をぶち壊すように否定された。
「いつもなら夕方くらいから準備をしてれば間に合うけど、今日はカレンがいるし、せっかくだからと思って全部お任せしたの」
姉さんの好意なのだから、もはやなにも言うまい。滅多にできない貴重な体験なのは確かだし、綺麗になるのが嫌なわけではないのだ。……全身丸洗いは勘弁してほしいけど。
支度もほぼ終えて、とうとうやってきた夕方頃になると仕上げに丸薬である。これ、花の香りがきつくて、呑み込む際は辛かった。本来鼻で楽しむべきはずの香りが口の中に広がり、酷い顔を晒したと思うのだ。話を聞くと要はブレスケア。この特製丸薬を飲んでおけば口から吐く息がほんのり花の香りになるという代物らしい。口臭対策は嬉しい話だし、それ自体は構わなかったが、体に悪い成分が含まれていないか祈りを捧げた瞬間である。
しかし、半日かけて全身くまなく手入れされた甲斐はあったのだろう。鏡の前に立った自分は、360度どこから見ても正真正銘れっきとした美少女ぶりを発揮していたのである。
少なくとも外見だけは素晴らしく完璧だ。私だって街中でこんな子が素通りしたら二度見する。
こころなしか姉さんと、姉さんの使用人達や、いつの間にか到着していた夫人やニコも鼻が高そうだ。
「私ほどではないけれど、ええ、ええ。ちゃんと年相応に可愛らしく、清楚な雰囲気で仕立てられたわね。これなら殿方も放っておかないでしょう、素敵よカレン」
「ありがとう。姉さんもとても綺麗」
夜会用の衣装も、昼会と違って生地の仕立てがまるで変わっていた。女性の魅力を引き出すような強みがあるというか……。まあ、そういった目的もあるのだろう。
「馬車だけれど、あなたライナルトの馬車で一緒に向かいなさいね」
「一緒には行かないの?」
「私は一足先に陛下にご挨拶しなくてはならないから、向かう先が違うの。使用人には別に馬車を用意するから、彼女達はそちらに乗せなさいな。……あなたを見た彼の反応を知りたかったのだけど、ああ、とても残念だわ」
早く行ってしまえ。
支度を手伝ってくれたのはありがたかったが、それとこれは別である。
姉さんを見送り、館で待機させてもらうことしばらく。迎えが来たとの知らせを受けて表に出ると、それはもう目も眩むほど容姿が整った男性がそこに立っていた。黒い馬車、毛並みの美しい栗毛の馬に、背筋を伸ばした規律正しい複数の護衛官。
ええ、もう、何もかもが完璧だろう。おそらく夢のようなシチュエーションといっても差し支えない。
私も自分のことじゃなかったら「いいぞもっとやれ」くらいの気持ち悪い顔を晒して眺めていたと思うが、残念ながら当事者である。故にどう対応して良いかわからず、なんと声をかけたらいいのか戸惑ってしまった。
こちらに気付くと目を見張り、やがて微笑んだ男は手を差し伸べたのである。
「どうぞお手を、カレン嬢。今宵、ほんの一時ではあるが貴方の付添としてこの身をお使いいただきたい。よろしくお願い申し上げる」
「……よろしく、お願いします」
なぜだか早くも先行きが不安であった。