275、責任とってください、と連れ出した
生臭い天幕を抜けると、こちらの様子を窺う兵の姿があった。皇女か、あるいはヘルムート侯の人払いはしっかりしていたのだろう。号令がないためか中に入ろうとする者はいない。のんきなシスの手を取り、足早に馬の元へ戻っていると一台の馬車が到着する。
実に慌ただしい馬車だった。馬に疾走させたのか、周囲の注目を集める中で降りてきたのは、今日別れたばかりの兄さんである。
「へ?」と素で驚いてしまった。どうして兄さんがここにいるのか、原因は後から降りてきた美女だ。
「……マリー?」
まさかのいとこだ。腰に両手を当て立つ彼女をサミュエルがさりげなく守っている。
兄さんは私の姿に気付くと歯を食いしばり、頭を下げた。
「すまなかった」
キルステンの屋敷で見た弱々しさはどこにもなかった。何かを告げる前に、遠くに何かを見つけると、はっとなり走り出す。
後ろではちょうど天幕から皇女が出てきていた。足元がおぼつかず、アヒムの助けを借りる彼女のもとに駆け出す後姿は、もはや頼もしささえ覚える。
「兄さんが説得に応じてくれたの?」
「そうよ。好きな女を守りたいなら黙ってないでとっとと動けってね。……ご覧なさい、あのヘタレの尻を叩いてきてやったわよ」
「流石だわ、マリー。でもどうしてここにいるのがわかったの」
「わかるわけないでしょ。アルノーがちゃんとできるか見届けるつもりで同行しただけ。あなたがいるのはいま知ったところよ。正直びっくりよ」
私に出来ないこととはこれか。確かに姉さんと同じだけ勢いがあるマリーだったら兄さんに発破をかけられただろう。
「ちょっと説得に手間取ったけど、ま、私の手に掛かれば……ちょっと、大丈夫?」
「ん?」
「いえ……表情が硬いというか……」
「ああ、それなら大丈夫よ。もう終わったから。それよりも兄さんを説得してくれてありがとう」
最初の様子だと恋人相手でも説得に応じなかっただろうけれど、いまなら兄さんの声も届くはず。自殺的行為で突撃命令なんてされたら――と思っていたけれど、おかげで自棄になる可能性もぐんと低くなった。最悪戦が起こっても皇女は死なないから私の目的は果たせるけれど、やっぱり無為な犠牲は出したくない。
「あとのことは兄さんに任せたら大丈夫だから行きましょう」
物言いたげなサミュエルは視線で封じて、そそくさとモーリッツさん達が待つ陣地へ引き返した。
そう経たないうちに降伏宣言が成されるはずと告げた私に、はじめトレンメル伯は半信半疑だった。失敗をはぐらかすための言い訳だとチクチクお小言をもらい、お茶に入って数時間。ヴィルヘルミナ皇女からの使いを経て、彼女がライナルトに降伏する旨の書状を受け取る。
唖然とするトレンメル伯を尻目に、改めてモーリッツさんの元でヘルムート侯の死を伝えた。
「本当によろしかったのですね」
「初めに言ったが、あの御仁はどちらにせよ死んでもらうほかなかった。いずれ死ぬのはトレンメル伯や親族一同も了解済みだ。なにも問題はない」
……そうだ。問題はなかった。
いざとなった際は皇女を脅迫するしかない。
あらかじめ話をしていたが、その際は『誰』を使うか相談した折にヘルムート侯が適していると言われた。
ヘルムート侯はヴィルヘルミナ皇女が幼い時から助力してきた人物だ。皇女はこの人を誰よりも信頼し、下手をすれば実の父親よりも頼りにした。全幅の信頼を預けているから効果があるはずだと淡々と勧められたのだ。もとより降伏しなかった場合は皇女諸共に、降伏した場合は皇女を誑かした全責任を負わせ処刑する手筈になっていた。
「犠牲は出ましたが、皇女殿下が降伏したことで死ぬはずだった命が救われました。気にするなとは言いませんが、悩み続けないでほしい。貴女はその分だけ人命を救った、私の部下が傷つくのを止めたのです」
「ありがとうニーカさん。モーリッツさん、あとはお任せしてもよろしいですか」
「いまさら約束を違える気はない。私たちと君の目的は一致している、我が君には上手く取り計らおう」
皇女はもう兄さんに任せて大丈夫だ。どのみち彼女は当分死ねないし、死ぬことも許されない。ヘルムート侯の死に心を痛めているだろうが、その傷を癒やすのは兄さんの役目だ。
「ただ、殿下には貴女を戻らせるよう言いつけられている。宮廷には行くかね?」
「すみませんが、慣れないことをして疲れました。いま殿下の元に参じてもお休みの邪魔をするだけですし、一度休みます」
「承知した。では私とニーカで後事を進めよう。それとだが、本件に関しては君は本来ここにいるべきではない人間だ。表向き一切関与はなかったのだと忘れないように」
「重々承知しております。――じゃあ、あとはお願いします」
「……送らなくても大丈夫ですか」
「もう帰るだけだし、シスがいるから平気です。ありがとう、ニーカさん。ライナルト様には謝っておいてください」
何故か悲しそうに目を伏せられた。
ライナルトとの約束を破るのは心苦しいが、いまはどうしても会える気がしない。マリーの待つ馬車に乗ろうとすると「夫人」と呼び止められた。
わざわざ天幕の外に出てきてくれたモーリッツさんは、ただひと言、私を労った。
「ご苦労だった」
私はこの鉄面皮さんから労いの言葉を引き出せるくらいにはなったのだと誇ってもいいだろうか。
帰り道はマリーとサミュエル、私とシスという不思議な組み合わせで馬車に揺られていたのだが、マリーはいつまでも窓の外を見ていた。
きっと彼女はこれからキルステンに待ち受ける波乱を憂いていたのだ。
「……蹴り上げといてなんだけど、アルノーとは二度と会えなくなるかもしれないわよ」
「うん、でも、きっと死ぬことだけはないから大丈夫」
モーリッツさんなら上手くやってくれるから、最悪だけは免れられるだろう。
私の発言にマリーは何かを言いかけたが、深い息を吐き、そして口を閉じた。
「もういい加減休みなさいな」
「そうね。……そろそろ疲れたかも」
「気付くのが遅いのよ、馬鹿」
家に帰り着いたころはもう真夜中だ。寝ずに待っていたのはジェフであり、玄関に近付くなり扉が開かれた。
寝ていてくれてもよかったのに、といえば首を横に振っていた。お礼をいうべきかもしれなかったけれど、どうにも疲れてしまって無言ですり抜ける。お風呂は明日でいいだろうと思ったら、マリーにお風呂に連行されて無理矢理洗われる始末。ほうほうの体で三階に上がった先で気付いた。
……ヴェンデルの部屋の前にクロがいる。
毛繕いをしていたクロはこちらに気付くと、ゆっくりとした動作で猫用扉を潜り、飼い主の部屋へ引き返す。なんとなくつられて扉の前に来るけれど、自分の行動に戸惑った。
寝ているヴェンデルを起こすのは忍びない。そもそもこんな真夜中に部屋に入るなんて失礼だ。だから引き返そうとしたら、扉の隙間から橙色の明かりが漏れている。
……もしかして起きてる?
ノブを回しても鍵が掛かっていなかった。おそるおそる部屋を覗き込むと、寝台の上に仰向けで転がっている少年がいる。私に気付いた様子はなく、枕元には開きっぱなしの本が転がり、毛布もまともに被っていない。本を読んでいる途中で寝入ったのか、このままでは風邪を引くと思ったときには足が室内に踏み出していた。
枕元近くにはシャロが丸くなっていて、足元ではクロがこちらをじっと見つめてくる。
毛布は被せ終わったけれど、つい安らかな寝顔に見入った。そういえばコンラート脱出からそんなに経っていないのに、すでにこの子は成長をみせている。これからもっと背が高くなって、様々な事を学んでいくのだろう。
私はこの子の将来を守ろうと決めてコンラートに残る選択をした。いまも後悔はないけれど、過去を思い出すと力が抜けてきて、寝台の端に腰を下ろす。
いまに至ったのはあの時と同じで私が選択し続けたからだ。その経過を思い返して、ようやく終わったのだと思えば、じわじわと全身から力が抜けていく。
実感はあとからやってくるもので、あ、私とうとう普通に人を殺したんだなってぽっとあの瞬間を振り返ると、いまさらだけど腕が震えてきたのだ。
どうすればよかったのだろう。
いまだに正しい答えがわからない。
今日だってもっと違うやり方があったのだろうかと思わずにはいられない。
「……頑張ってきたんだけどなぁ」
知らず呟いていた。
実力が足りないなりに頑張ってきた……と、思う。私なりにその時々の選択をした。
自らの意志を貫く傑物達に囲まれながら、そんな中で迷い続ける自分が弱くて情けなくて、本当は迷わない彼らを羨みながら見つめていたけれど、それでもようやく至った道がこれだ。
だから頑張った。
どれほど足りなくても、そのときの私にできることはやった。
エルの仇を取れたし、望みも叶えた。ヴィルヘルミナ皇女と兄さんを生かす道も掴めた。これでよかったのだと思う反面、わけもなく心が沈む。もう元気に振る舞う必要がなくなって、もしかして私は無理をしていたのかと、ようやく皆の言葉の意味を理解しはじめた。
肩が丸まった。部屋から出て行くべきでも、もう足が動かない。その間にたくさんの想いがかすめて、ますます動く気力がなくなってしまった。気付けば塩水が服に染みを作っているが、こうして泣くのも何度目なのか。いい加減慣れたらいいのに、悲しくてたまらない。
からからに張り詰めていた心が一気に解放される。抑えていた感情が吹き出して、心を通り抜ける。
……きつい、と思う。
そんなときに服の端を掴まれた。
まともに直視できなかったが、口をへの字に曲げたヴェンデルがこちらを見上げていた。起こしてしまったのだ。黙って入ってごめん、と言うべきが口が動かない。
「いいたいことあるなら言ったほうがいいよ」
情けない話なのだけれど、これで息が楽になった。私よりもずっと年下の男の子に言ってもらって普通に息ができたのだ。
「…………昨日は、ごめん」
「いいよ。許してあげる」
これだけだった。
私を責めなかった。この子はなにも知らないから当たり前だけど、ただただそれに救われた。
「で、どうしたのさ。ずいぶん遅かったけど、今日はなにをしてきたの」
だからいうべきではなかったけれど、つい言葉にしてしまった。
「……ひどいことをしてきたの。ほんとうに、ひどいことをした」
もちろん私の意志だ。状況のせいになんかしたりしない。でも迷ってはいけないはずなのに、無性に悲しくなってくるのが止められない。
「悪いことを……。たぶん、許してもらえないことをやったと思う」
うん、と小さく頷かれて、クロが膝の上に乗せられる。いやいやいや、なんでこんなときに猫を渡すのだろう。しかもクロは逃げないし、あの崩壊を生き抜いただけあって妙に賢い。おかしくて笑ってしまったけれど、そうするといっそう涙が止まらなくなってしまった。というか嗚咽が激しくなってしまってだめだ。
「……おつかれ。カレンは頑張ったよ、ちゃんと、頑張った」
エルを二度殺した。本当は殺したくなかった。
リューベックさんに殺意を抱いた。そんな自分が嫌で、感触を思い返していまだに気持ち悪い。
ルカがいないと、帰ってこなかったらどうしようと不安で堪まらない。
ヘルムート侯と名も知らない人の命が流れた。彼らを愛する人によって一生恨まれる。
アルノー兄さんとその恋人の命を救った。その結果私は彼女に憎まれ、そして兄とおそらくは永久の別離となる。
アヒムはきっと私を軽蔑するだろう。
そんなことがどっと一気に押し寄せた。
あの人を好きになった中で、好きな人達を助けることがこんなにも難しい。
それでもやっぱりこの『好き』は止まってくれなくて、こんなところで泣き出してしまって、ごめん、と繰り返しながら泣くのを止めようとしたけれど――。
誰に謝っているのか、もうわからなかった。
起きたらクロがいた。
ふわふわの毛並みで、触ってもまったく逃げはしない。
目が重い。頭がいたい。二度寝しようとしたけれど、自分の部屋ではないことに気付いて飛び上がる。部屋の主は……いなかった。私が寝台の半分を占拠したから、さぞ寝にくかったに違いない。
「クロ、お前のご主人様はもう起きちゃった?」
……猫に聞いても仕方がないけれど、この子達を飼い始めてからは妙に尋ねてしまう。
きっと見せられる顔ではないから部屋に籠もりたいが、あまりにも瞼が重いから一度顔を洗いたい。階下に降りると、ちょうどあくびをしていたヴェンデルと目が合った。
おはよ、と普段と変わらぬ挨拶をしてきたが、その格好は違和感がある。傍にいたウェイトリーさんも同様で、少し枯れた声で尋ねていた。
「……どこに出かけるの?」
どちらもよそ行きの服装だった。ウェイトリーさんもだが、ヴェンデルにいたってはいざというとき用に買っておいた礼服だ。まだ一度も袖を通していないはずの装いに身を包んだ少年は、じろりと私を睨んでいった。
「出かけるんじゃなくて、出かけてきたんだよ」
「こんな早朝に、いったいどこまで……」
「僕のことはどうでもいいって。それよりも遊ぶ約束があるんだ、着替えたいから通してよ」
詳しいことはなにも教えてくれない。淡々と部屋に戻るのだが、その後ろ姿にウェイトリーさんは、いつになく恭しく頭を垂れる。
「あの、ウェイトリーさん。ヴェンデルの外出は控えるようお願いしたはずなのですが、一体どういうことなんですか」
が、ここでも返答は得られない。ただ私の顔を観察し、ふむ、とひとりで納得してしまう。
「……少しでも元気になられたのならようございました。わたくしからこんなことを言う日が来るとは思いませんでしたが、やはり貴女様はもう少し遊ぶか、感情を表に出された方がよろしい。我が儘を言ってくださいませ」
「えっと、ウェイトリーさん?」
「顔を洗ってから食堂へお越しください」
……部屋に戻りたいのだけど、なんとなく逆らいづらい雰囲気がある。渋々従うのだが、そこに本来いるはずのない人がいた。
「おはよう。その様子ではよく眠れたようだ」
ライナルトが優雅にお茶を飲んでいた。




