274、『ひとでなし』になる覚悟
皇女は私の来訪を拒まなかった。
人々の視線は刺さったが、通り過ぎる人々はどこか覇気がなく、それはヴィルヘルミナ皇女を囲む側近にも特徴として表れていた。厳つい顔をしたヘルムート侯が傍にいるから、誰も文句を言わず佇んでいる。
「まさか夜になって君が来るとは思わなかった、コンラート夫人」
天幕内は隠しようがないまでに鬱屈とした雰囲気に包まれているものの、ヴィルヘルミナ皇女は輝きを失っていない。疲れは見受けられたが瞳に宿る光は失われておらず、気品を損なわず言った。
「皇女殿下におかれましては、お元気そうでなによりです」
「……皮肉を言わなくともいい、と言いたいところだが、多分君のことだ。嘘ではないのだろうな。まったく、トレンメルも折れん奴だ」
それで、と彼女は顎をしゃくる。
「なにをしに来た。まさか本当にトレンメルの代理だと言ってくれるなよ」
「いいえ、そのまさかでございますヴィルヘルミナ皇女。わたくしは貴女に降伏勧告を持って参りました。どうぞいますぐに兄殿下に従いなさいますようお願い申し上げます」
と、私も前置き無しにいきなり喧嘩を売った。
顔を真っ赤にしたヘルムート侯が叫ぶ。
「貴様、誰に口を利いている!」
「もちろんヴィルヘルミナ皇女殿下にございます」
この不敬にヘルムート侯は怒りを見せ、周囲もざわめきを見せたが、そこで気付いた。端っこの方に見慣れた赤毛頭がある。兄さんの頼みで彼女を護りに来たのかと――胸が痛くなった。
ざわめきが続く中、唯一まともな対応を見せたのは、他でもない皇女だ。
「良い。ライナルトのことをすでに『陛下』とまで呼び始める輩がいる始末だ。価値のない皇女に無礼を働いたところでもはや咎めようもあるまい」
たしかにトレンメル伯がライナルトを陛下と呼んでいた。それをライナルトが気に入るかはともかく、あの人物なりの忠誠心の見せどころなのかもしれないが、またもやこれに激怒したのはヘルムート侯だ。
「殿下、殿下ともあろう方がなにを弱気になられるか。かようにご自身を卑下なさってはなりませぬ!」
「夫人には先見の明があった。私が負け犬となるのは見えていたようだからな、この姿すら嘲笑の対象になるだろうよ。なぁ夫人」
「……勝者がなにを申し上げたところで慰めにもなりません」
「ふん。強気なものだ。流石にその外道を解放しただけはある」
「あ、なに。きみ、僕のことが見えてないわけじゃなかったんだ?」
「存在すら認めたくなかっただけだ、シクストゥス」
意図的に無視されていたシス。皇女は彼の存在をようやく認めた。
「本当に『箱』は壊されたのか」
「そりゃそうさ。じゃなきゃカールがあっけなく死ぬもんか」
重い溜息。ヘルムート侯も存在を知っていたらしく、苦々しさを隠せない。これにシスは満面の笑顔だ。
「お前が付き従っているということは、彼女が次の所有者か?」
「なにいってんだよお嬢ちゃん。僕はとっくに自由なんだから、所有者だ物だ扱うのはやめてもらいたいね」
「……ならば何故来た。お前は自由を求めていたはずだ、解放されたのならどことなりと行けば良い」
「そんなもん決まってるだろ。嫌がらせだよ」
鼻で笑ったから、相当根に持っていると思われる。
「皇女殿下、少々お話ししたいことがございますので、人払いを願えませんか」
「従う理由が何処にある」
「耳を傾けるだけの理由はございます。ヘルムート侯も同席していただいて問題ありません。魔法に不安があるのでしたら、そこの魔法使いと、なんでしたら護衛を残していただいても結構です。シスが彼らに手を出すことは決してありません」
皇女とヘルムート侯は悩んだが、結局は諸侯を下げてくれた。あるいは聞かれたくない話があったのかもしれないが、アヒムを残したのはわざとだろう。場が場だけにひと言も口をきいていないが、厳しい眼差しでこちらを見据えているのは気付いている。
そうして私はいつ斬られてもおかしくない状況で皇女と対峙することになった。人払いが済むと皇女の態度は幾ばくか柔らかくなるが、かといって油断しているわけでもない。
「まったく、君が来るとはいくら私でも予想しきれん。トレンメルやアーベラインはなにをしているのだろうな」
「それも理由あってのことです。……お伺いしたいのですが、ヴィルヘルミナ皇女はご自身を取り囲む状況をどれだけ理解しておいでですか」
「この期に及んでまだ説得するつもりか? 世間はもう私に味方する者は少ないくらいは知っている」
「その通りです。お戻りになられたところで、もはやお味方は少ないでしょう」
「……ふん。たしかに私にはもう後がない」
ここでヘルムート侯が口を挟もうとしたが、皇女自ら「喋るな」と制した。
「どのみち応じるつもりはない。未来さえ違えば義妹になったかもしれん娘だ、そのよしみで話くらいは聞いてやるさ」
「恐縮です」
……ああ、やっぱりこの人はライナルトと違って甘いのだろうな。
「ではこの話はもう聞かされましたか。皇都の北にあるヘルムート侯の自治領、その北周辺の諸侯達がライナルト様に降ったという話を」
「……さて」
「誤魔化されなくとも結構です。周辺のご領主方がヘルムート侯の旧知であったのは調べがついております。こちらへ出立前アーベライン様より、彼らが矛を収め軍を下げたと伝言を預かりました」
ヘルムート侯も、ヴィルヘルミナ皇女も表情は変わらない。でも私達は知っていた。
皇女がこんなところにしがみ付いて返答を渋っていたのは、まだ逆転に賭ける一縷の望みがあったからだ。
「皇女殿下。もう貴女のために参じる兵はどこにもおりません。ほんの少し前まで貴女の元に跪いていた者は、殆どが次の皇帝であろう方に頭を垂れました」
事実だけを淡々と語ったつもりだ。皇女は無言で耳を傾けていたが、私の背後では鞘から剣を抜かれていた。
「言いたいことはそれだけか」
トレンメル伯は彼女と伯父に礼を尽くして、オブラートに何重にも包んで伝えていたに違いない。最初の挨拶といい、私は完全に彼らを怒らせてしまっている。まともな外交官がこの場にいたら減点だ。
ただ、首根に突きつけられている刃は恐れるに値しない。
「どれほど礼節を尽くそうが事実は変わりません」
「我が主を愚弄する不届き者が――」
「降伏を!」
叫んだ。
大声はヘルムート侯を黙らせるのに成功した。皇女の目を見据えて喋る。
「あなたの負けです。心ある者達を救えるうちに降伏してください。そうすれば愛する人との未来だけは守れる。ここで無為に兵を死なせることもなくなる。もしかしたら人々はあなたを嘲笑するでしょうが、カール皇帝ほど憎悪されることはないでしょう」
「……それだけか?」
「あなたの帰りを兄さんが待っています」
皇女はふ、と口元を緩めた。上体を曲げると膝の上で両手を握りしめ、深く俯く。
その仕草でまだ彼女の中に迷いがあるのを悟り、期待を胸に返答を待った。
けれど、顔を上げたヴィルヘルミナ皇女の返答はひとつなのだ。
「何度も言わせるなよ。私はライナルトに下る気はない。あれに国を任せてはただ滅びの一途を辿るだけであり、それは皇族として認められん。認めるくらいならここで死を選ぶ」
「ライナルト様を信じられませんか」
「信じられると思うか? あれは我が国にヨーの軍勢を引き入れた男だ、それだけでも信用とはほど遠い」
「サゥ氏族はあくまでライナルト様のお立場に同情されたまで。決して皇都の民に手を出しておりません」
「通らんな。自らの野望のために、自国を傷つける恐れのある異民とまで手を組む皇帝など頭を垂れるに値しない」
決意は変わらない。
もしかしたら少しだけ心を揺らしたのかもしれないが、いつか兄さんが語ったように、彼女が秘めた決意はなによりも尊いものだったのだ。
淡く抱いていた期待がガラガラと崩れ落ちる。
やはり彼女は応じない。
「戯れ言は聞き飽きた。夫人、ヘルムートが怒り狂う前に帰りたまえ。以降はトレンメルの交渉も一切――」
……でも、予期していた答えだった。
「残念です」
本当に、本当に……私はあなたが嫌いではありませんでした。ご自身の意志で生きると願ってほしかったのは紛れもない本心です。
皇女の顔に飛沫が飛んだ。
彼女ははじめ、それがなんだったか理解できなかったに違いない。
なにせまず彼女の目に飛び込んだのは私たちの背後にいた者たちだった。後ろに立っていたであろう武官が倒れた。天幕の端に待機していた魔法使いが倒れた。
アヒムもまた……倒れていた。
皇女がゆっくりと顔を横に向けると、ヘルムート侯が倒れていた。
ヴィルヘルミナ皇女の顔にかかったのはヘルムート侯の血液だ。傍らには私の黒鳥が立っていて、その鋭い爪で体を引き裂いたばかりである。
「おや、ちゃんと呼び出せるもんだね。偉い偉い」
シスだけがのんびりと私の腕を褒めちぎった。黒鳥はぬっと立ち尽くしていたが、すぐに影に沈んで消えていく。
呆然とヘルムート侯を見下ろす皇女に告げる。
「あなたの降伏には意味があります。意味があるからこそ、こうして皆が何度も懇願しているのでしょう。それを聞き届けていただけないのであれば、こうするしかないかと」
「は――」
「どうか冷静に、そして叫ばないでください。中に入ってきた者は殺します。そうしたら犠牲が増えてしまう。私も死ぬかも知れませんが、それ以上に犠牲が増えます」
……悪役みたいだ。いや、みたい、じゃなくて悪役かな。
流石に一般人でないだけあって皇女の飲み込みは早いが、すでに息のないヘルムート侯を前に思考が追いついていないのも事実だ。
「どう……」
「どうしてもなにも、降伏していただけないからです。あなたが降り、引き続きライナルト様に敵対するであろう方々を引き受けていただかなくては困ります」
「そんな、ことのために」
「そんなことではありません」
なにせライナルトは内乱を経て皇位につく。ほとんど奇襲で獲得した皇位だから、心から忠誠を誓う者なんて少ないに等しい。彼が帝国を治められないとは思わないが、二心を抱く者が多いのも事実。そういった輩をあぶり出すのには時間を要する。
けれど彼は将来的に国外を制圧するつもりだ。国外に出てしまうと、内からどんな膿が飛び出すかわからない。
けれどヴィルヘルミナ皇女が生き残っているのなら、例え敗者であろうと彼女に注目せずにはいられない。彼女は生きてもまだ使い道があるから、ライナルトの意図とは別の意味で生かしたがる人もいる。
それに……ライナルトにはきっと、先の先まで敵が必要だ。
「降伏を」
「……い、や。どのみち、この戦場にいる者は、死の責任を負うものとして――」
「では次は兄になります」
我ながら冷徹な声が出た。皇女は信じられないものを見る目で私を凝視する。そんな彼女にわかりやすく伝わるように再度言った。
「次は、兄です」
「……――は?」
「どのみちあなたが死ねば後追いするつもりだったようです。でしたらヴィルヘルミナ皇女……あなたに従った者へ対する制裁と、周囲への見せしめも兼ねて、手始めに兄に死んでもらった方が、皇女が担えなかった役目を果たせるというものでしょう」
「ば……! アルノーは君の兄だぞ!!?」
「知っています。兄だからこそ効果は高い。……跡継ぎはご心配なく、弟がいます」
これは先にヘルムート侯を殺したのが効いた。ただの脅しではないと確り伝わった。こういうときに饒舌になるなとはモーリッツさんの数少ない教えだ。
「……正気か?」
「私の正気を私が保証できるはずがありません。ですがそんなことは関係ないかと。いま申し上げていることと、目の前にあるものだけが事実なのですから」
ヘルムート侯の血がヴィルヘルミナ皇女の靴底に流れた。皇女の目は赤く充血しており、奥歯をぐっと噛みしめる。
この期に及んで皇女は降伏宣言をしない。私はじっと返答を待っているのだが、そこでもやはり皇女は諦めなかった。
なにせ腰の短剣を抜き、自らの首を掻ききろうとしたのだ。一切の迷いがないのはライナルトの血縁だと覗わせるけれど、やはりその目論見も失敗する。
「な、に――」
短剣が落ちた。
私たちは動いていない。その様をじっと眺めているだけで一歩も動いていない。
「なんだこれは……」
ヴィルヘルミナ皇女がいままさに刃を入れようとした首元にうっすらと透明な壁ができていた。それどころか、わななく皇女の指から淡い緑色の光が発している。
「あー……疲れた疲れた……」
シスが天井を仰いで肩を鳴らす。皇女の身に起きているのは明らかに魔法による奇蹟であり、彼女も自らの身に何が起きたか気付いた。
「シクストゥス、お前、私に何をした」
「いやぁ、隣の彼女に頼まれてー……死にたくても死ねない、それはもう強力な精霊の加護を麗しの皇女殿下にプレゼント? みたいなね」
「なにを――わけの、わからない」
へらりと笑うシス。なにも口数が少なかったのは喋らなかったからではない。ヴィルヘルミナ皇女が当面「死ねない」ように魔法の加護を授けてくれと頼み、ずっとその魔法をくみ上げてもらっていた。
「圧死、轢死、病死、斬死……もちろん首吊りだってカバーだ! 勝手に死なれると困るから、寿命以外じゃ死ねない素敵な加護だぜ。あっはっは、よりによって皇族に加護を授けるなんて、僕ってすごい太っ腹だよな!」
「シクストゥス、貴様!」
「もっと喜べよ。なにせどう足掻いても死ねなくなったんだ。いっそ死にたいって思いながら生きるのは中々の地獄だって体験、滅多に出来るものじゃないさ! あ、もちろん生きたいって思う頃にはちゃんと解除してあげるから安心してくれ」
女の子みたいにきゃっきゃとはしゃいでいるから、余程成功したのが嬉しかったのだろう。
激しい怒りを見せる皇女。私はといえば、先ほどから天幕に誰か入ってこないかハラハラし通しだ。
「これであなたは死ななくなった。たとえこの場で死を選択したとしても、絶対に死ねない呪いです」
「呪いじゃないよ、加護だよ」
うるさい。こんなのが加護であってたまるものか。
「もはや降伏宣言をしなくても結構ですが、兵を道連れにするかどうかはご自由に。いずれにせよあなたはこのまま生きなくてはなりませんから、未来は変わりません」
役目は終わったとばかりに天幕を後にするシス。
真っ青になる皇女へ向け、届くかどうかわからない言葉を紡いだ。
「……どうかあなた方はお幸せに」
そのための道は用意しますから。
去り際に皇女を除き唯一生かしていたアヒムを揺すった。彼が起きていると皇女を誤魔化せなかったから気絶させたのだ。皇女が冷静になれば彼だけ生かしていると気付いただろうから、ちゃんと動揺してくれて助かった。
アヒムは命に別状はなかった。幸いすぐに起きてくれたけれど、周囲を見渡し、すぐに絶望に表情が染まった。
「お嬢さ……」
「ごめんね」
彼の目の前にいるのは彼の愛した「お嬢さん」ではなく、ただの人でなしだ。
お別れの挨拶は手短に、簡潔に終わらせ天幕を後にした。




