263、見えなかったのは他でもない僕
私たちはやっとお別れができた。
幼い子供みたいに彼女を抱きしめて離さなかった。髪に顔を埋めていると、やがて遠慮がちな声がかかってくる。
「カレンちゃん。早く、ここを……」
「――ごめんなさい。やっぱり私は残ります」
エレナさんの言いたいことはわかっている。上がどうなっているのかわからない。いつリューベックの仲間が来るとも限らないから避難しようというのだ。地下に入る前はその約束もしていたけれど……首を縦に振れそうにはなかった。
エルの上半身は人だけど、下半身はまるで違うもので質量がある。だから彼女を運ぶには、いくらジェフが力持ちでも厳しい。エレナさんは困った様子で言い淀み、サミュエルに質問した。
「ちょっと、ここ内側から閉じられないんですか」
「無理。そういう造りにはなってないんでね。だがいつ人が来てもおかしくはないぜ」
「あなたが魔法をかけるのは?」
「異変を悟られたら院長が出張ってそれまでだ。ああ、魔法特化の魔法使いと複数人でやり合うのは別の意味で面倒だぜ」
サミュエルは早くも脱出したそうだ。
『エル』が動きを停止したからか、ジェフが『箱』に近付くのも容易になった。私を諫めるつもりなのか、膝をつき肩に手を置いたところで気付く。
頭上が明るい。
肉片に覆われていた『箱』から徐々に光が溢れ始めている。覚えのある緑色の光ではなく、白く眩い光が零れているのだ。
ジェフは私たちを引きずれないとみるや、自身の体で守ろうとした。その間にも肉片は光に侵食され、ぼろぼろと崩れていく。
……もっと時間がかかると思っていたのに、こんなにも早く崩れるものなのか。
岩で出来た八面体が端から砂のように崩れ、サミュエルさえも呆然と口を開く。砂が山となり積もる中、最後にある塊がぼたりと落ちる。『箱』が設置されていた宙に残るのは深い深い漆黒ほどの闇で、ぼうっと浮かぶそれはやがて一つの形をとった。
見ようによっては銀にも見える鮮やかな白髪、銀鼠色の瞳に、左目の下のほくろ。体躯には何一つ纏っておらず、痩せ気味の体躯が嫌でも目立つ。
砂の上に降り立つと、彼は深く息を吸った。
「……ああ」
世界を愛おしむ喜びに満ちた声だ。何度も指を握りしめ、ようやく取り戻した自由に思いを馳せる。
――シスが解放された。
いま、目を通して繋っているから解放された彼の存在の偉大さがわかる。姿は以前と変わりなく闇そのものだったが、もはや触れたら生命さえ吸い込みそうな冷たさはない。言葉にはしづらいが、たとえば涼やかな朝の森を駆ける風みたいな心地の良い魔力の波。そこにいるだけで存在を祝福される喜びに大気が震えると、世界が彼を歓迎しているようにも感じられる。
魔力の風はしばらく吹き荒れたけれど、徐々に終息していった。
砂を踏みしめ一歩踏み出せば、その感触さえも楽しむように周囲を見渡す。
「ひどい有様だ」
指をパチンと鳴らすと、目を疑う光景が起きた。一呼吸の間に床や壁面を覆っていた肉片が苔や植物に置き換わっている。毒々しい雰囲気は一変し血の臭いまでもが吹き飛んだのだ。動きを止めていた死骸はバタバタと倒れるも、見目は人間に戻り、あまつさえ傷もすべて塞がっている。
シスが彼らを見る瞳は優しい。
「僕のために頑張ってくれたみたいだし、見た目を整えてあげるくらいはね」
「ほんとにシスですか……?」
「姿を変えた覚えはないぜ。それ以外のなにに見えるんだい、エレナ」
「いえ、その、雰囲気が……」
また指を鳴らすと服が出現した。ただ着飾る気分ではなかったのか、旅人が好む軽装である。次に上を見上げ言った。
「上が騒ぎ出したな。ここには入れないように閉じておこう」
指は鳴らさなかったが、おそらく言葉通り地下に入るための扉を閉じたと思われる。
事が済むとようやく私と目が合って、声をかけようとしたところで足元の物体に躓いた。
「ん……?」
砂の山に埋もれているのは人骨だった。経年劣化が激しく、身に纏っていたであろう衣類はすでにぼろ切れと化している。それが先ほどシスとは別に『箱』から落ちた物だった。
シスはしゃがみ、しゃれこうべを持ち上げる。
「なんだこれ。人の頭……みたいだけど?」
「あなたの体じゃないんですか」
「僕の生身はとっくに一体化したから溶けてるし、こんなの残ってるわけないだろ」
……覚えがないらしい。
シスがわからないなら、伝えないと。
「シス、それが誰かわからない?」
「は? まったく覚えなんてないけど……」
人差し指で砂の山を指して、いまだ彼が思い出せないであろう真実を伝えた。その人の骸を乱暴に扱うのはやめてほしかったからだ。
「それ、その人、システィーナ」
予想通りと言おうか、シスは固まった。
思いがけない真実に脳が理解を拒むのは覚えがあるから、あえて続ける。
「あなたは覚えてないだろうけど、最初からずっと一緒だったのよ」
シスの過去を垣間見たから知っている。シスは自分が段々とおかしくなったと認識しているが、私から見れば、彼ははじめから壊れてしまった。その後の変化を逐一見せつけられていたから、あえて黙っていたのだ。
何故なら『箱』となった彼は変化前の事象を間違った記憶のまま過ごしている。『箱』のシスが自身の心を守るための結果なら、無闇に真実を伝えても認めないかもしれない。自棄を起こすよりはと様子を見ていたが、こうして解放されたなら教えなきゃならない。
「でもその人は最初から……どういうわけか亡くなっていたから……」
「黙って」
鋭い声で遮られた。片手で頭を抱え込み、もう片手はそれ以上喋るなと制している。
見開いた目がめまぐるしく記憶を辿ったのだろう。やがて落ちていたぼろ切れを掴んだ。
「きみ、僕とずっと一緒だったのか……?」
指がシスティーナだったものの頬を撫でる。
やっと気付いてくれて嬉しい反面、少し複雑な心地なのは帝国の初代皇帝は『システィーナ』となっているからだろうか。この国の歴史には一抹の不安を覚えるものの、あの夢の嘆きは嘘じゃない。半精霊シスと共に「システィーナ」は最初から一緒に在り、彼を裏切ってはいなかったのだ。
顔を上げたシスの目端には涙が浮かんでいた。すぐに痕跡はなくなったが、意外な姿に彼をせっつこうとしていたエレナさんがまともに動揺した。
「……とりあえず彼女のことは後回しだ。いまはやることもあるし、ひとまずライナルトへ報告に行こうじゃないか」
「えっ、報告って、いまから行くの」
「こうして無事に解放されたんだし、一応伝えておくくらいの義理は果たすさ」
「言ってることはわかるけど……」
「シス、ここは帝都内です。殿下はまだ城壁の外側で私たちの吉報を待っていて……」
「そんなのわかってるけど?」
当たり前、みたいに言われてもこちらの疑問はなんらおかしくない。
なのにシスは私を指さして言った。
「だから行くのは僕と彼女だけ。どうせすぐ戻ってくるし、悪いがきみらは留守番な。……あ、上の連中をやきもきさせたいから、ここは開けないぞ。彼女と……それからそこの」
私が抱えるエルの亡骸を見て、苦虫を噛みつぶした顔になった。これまたいままで見せたことのない人間らしい表情だったのだ。
「……エルネスタの体は、誰かに触らせるべきじゃないからね。動力源はまだ再生できそうだし、僕が処置するまで、誰にも利用されないようそっとしておくべきだ」
「シス、報告なら一人で行って。私はとてもじゃないけど移動できる状態じゃないし、エルを置いていきたくない」
「あー……いや、きみに拒否権はない。一緒に来てもらう」
「嫌よ。私はここでルカを待ってなきゃいけない」
あの子が帰ってくるための目印にならなきゃいけない。それに、いまライナルトに会うのは避けたかった。見た目がひどいからだけではなくて、心情的にも彼の顔は見たくない。
「きみに拒否権なんてないぞ。それに目印だったらその鳥もどきを置いていったらいいだろ。きみなんかよりよほど目立つし目印になる」
「は? それ、どういうこと」
「エルときみの魔力の混合物なんだから、これ以上にわかりやすいものはないって話だよ。おいへんてこ鳥、警戒してないでこっち来い。その姿のままじゃ消耗が激しいだろ」
シスが呼び寄せれば、黒鳥は控えめな足取りでやってきた。先ほどまでの堂々とした姿とは一変して気弱な姿。シスが触れると手の平サイズの黒鳥に戻ったのだった。
「じゃあ行くか。……きみたちは地下に時間をかけすぎだ」
……なんだか親切な人になったと思っていたけど、前言撤回。すべては『箱』たるシスのために動いたのにあんまりな台詞だ。魔力的には元の彼を感じさせるけれど、やはり封印されてからの側面も残っている。
首根っこを掴んでくるシスに抵抗したが遅かった。前触れ無しに視界は真っ白になって、いつかエスタベルデ城塞都市に跳んだときと同じような感覚が蘇る。
ジェットコースターの頂上から落下したときのふわっとした感覚はあったが、悲鳴を上げる前に地面の上に直座りしていた。ここがどこだか知らないが、文句を言ってやろうと顔を上げると、見知った青年と目が合ったのだ。
ロビン?
間違いない。バーレ家のロビンがいた。遅れて喧噪が耳に届く。マイゼンブーク卿、ニルニア領伯親子に、シャハナ老に、そして彼らすべてを総括するライナルトが座している。他にいかつい髭を蓄えた男性や、利発そうな女性など、どうみても立場あるお歴々が揃っている。
ここは天幕だ。
彼らに対しシスは片手を振った。
「やぁやぁ皆々様方はじめましてこんにちは! そしてライナルト。カールのクソッタレの切り札にして、囚われの偉大なる魔法使いの『箱』こと、いまはただのシクストゥス様のご登場だ!」
我慢できないと言わんばかりに満々の笑みで見渡した。
……そうか、彼はこれまでこうした大々的な場に登場することはなかった。
それは皇帝に命令されていたからなのだろうけれど、なにより認識阻害が働いて事件になるから避けていた。けれどいまその阻害は働かない。彼の姿は衆目に晒されようとありのままが記録に残る。
人々に己の姿が焼き付くのが嬉しいのだ。
ライナルトとシスは辛うじて声が届く距離だ。立ち上がる気力も湧かなくて彼らを眺めていたら、無理矢理シスに立たされ、半ば引きずられる形で上座へ寄った。
「ここは時間が勝負だ。情報伝達に時間差が生まれると厄介だから、わざわざ帝都から跳んできてやったぜ。僕の優しさと偉大さに感謝してくれていいんだぞ」
「シス、彼女はどうした」
「どうもなにも、一番の功労者だからね。これだけの状態で働いたのなら、君主に報告くらいはしておくべきだと思って連れてきた」
「どうやら立つ気力もないようだが、その状態で連行したのか」
「馬鹿だな。オルレンドルの要だった『目の塔』に潜り込んで無傷でいられるわけないだろ。ま、立つ力がないのは人の身で桁違いの魔力を扱ったせいだから命に別状はない」
功労者を罪人よろしく引っ張るのがシスの流儀らしい。
……左目の視力が落ちているのは相変わらずだが、目元を拭ったら、涙がほとんど血と化している。どうやったらこんな涙が流れるのだろう。
「まぁいい。その様子なら、いまさら改めて問うべきことはなさそうだ」
「わかってるならもっと喜べよ。僕が解放されて、カールの絶対の守りはなくなった。いまなら宮廷内部も混乱の最中にある。あとはしくじりさえしなけりゃ、きみが皇帝の証したる冠を手に入れられるだろうよ」
祖国にいた頃を思い出した。ライナルト達が私たちに乱暴を働いた男達を処刑していて、目撃者になってしまった直後にライナルト達に見つかった瞬間だ。あのときよりずっと状況が悪いのだけど、雰囲気的にはアレに似ている。それとも怪我だらけで国王陛下の前に立ったとき?
……いずれにしても、こういう場面で所々血を流しているのがいただけない。まったくもって嬉しくない。私の人生はなにかがおかしいのではないだろうか。




