260、もう一度友を殺めるため
私は彼女の姿を間違えない。いくら変質していようが、人の輪を外れていようが、これは私の友人エルだ。先ほど私の姿を認識した『エル』はこう言った。
――ひさしぶり、会いたかったのほんとうよ。
怒って、笑って、泣きながら私にだけ伝わる言葉を呟いたから、認めたくないのに認めざるを得なかった。およそこの世界の人が発する言語ではなかったけれど、理解できたのは、いつかのルカと同じように変質した言葉だったせいで、それを私の中に在るルカが自動翻訳した結果なのだろう。
『そして初めまして、記憶の中のお友達と言ったのね。……マスター、わかっているだろうけどあれはエルネスタではないわよ。彼女に残った脳のカケラから情報を読み取っただけの、ただの――』
目の前で見たから知っている。エルの亡骸は回収されていった。シスは「腑分け」と言って、シャハナ老からは不穏な言葉が伝わっていた。
だからもっと考えれば良かったのだ。なぜなら彼女が何かしらの形で利用されていると、ちゃんと伝わっていたのだ。
覚悟から逃げたツケが、いまやってきた。
「こいつぁたまげた」
「――待て。笑った、そのうえ声を発しただと。いまのは言葉か?」
「意味はわからんが喋ったのは見りゃあわかるでしょうよ。いやぁ、ただただ肉を生み出すだけのモノかと思ったら…………なんだ、記憶のカケラでも拾ってんのかね」
サミュエル、リューベックさんが交互に反応を示す。ここで私の意識はようやく彼らに移った。きっと私は酷い顔をしていたのだろう、リューベックさんは憐れみを、サミュエルはわざとらしくおどけて肩をすくめる。
「エルに、なにを、したの」
もっと言うべきことがあるはずなのに、喉から絞り出たのは陳腐な一言。私の問いに答えたのはサミュエルだった。
「なにをといわれましても、見ての通り。ご覧の通りこれが『箱』を覆う結界だ。門番兼再封印ってヤツです」
「彼女、死んだのよ」
「しゃーねえですよ。センセ、ただでさえ強かったのに死んだ後も肉体に魔力宿してるんですもん。院長に目を付けられたのが運の尽きだ」
――サミュエルはお喋りだからもう少し情報を吐かせようと思っていたのだけど、リューベックさんがゆるりと首を振ると「おっと」と口を噤んだ。
同時に剣を抜き、私の後方に立っていたジェフが前に立つ。
「元皇太子殿下からなにか指令を受けているとは思いましたが、まさか貴女が直接ここに来るとは思いませんでした。大人しく私に捕まるまで隠れていれば、無傷でいられたろうに。なんとも残念です」
演技とは思わなかった。悲しそうな表情も、いまさら嘘とは思わない。この人は心からの本音で語っていたが、反面、行動は凄惨だった。
近くに倒れていたエレナさんに刃を落とそうとしたのだ。息をするように行われる行動は、従来なら距離もあって間に合わないところだが、寸前でファインプレーを見せたのはルカである。
「やらせないわよ間抜け!」
ルカの実体が出現し、見えない糸でエレナさんを引っ張り寄せた。触腕が緩んだ隙を狙ったのだ。
突然引っ張られたエレナさんだが、彼女のバランス力は素晴らしかった。状況も理解できなかったろうに、くるりと一回転して華麗に着地したのだ。おまけにあんな状態で攫われたのに剣の柄から手を離していなかった。
「ルカ、いま姿を見せたら――」
「問題ないわ。……ないっていうか、これ以上手を貸せないから、ここでやることをやっただけ」
尋ねようとすれば、狼狽えたサミュエルの呟きが耳についた。
「……センセ?」
いまのルカは少女ではない。最初に出会った頃とおなじ、ドレスを纏った私と同年代程の女性だ。彼女は何処からともなく出現させた扇を揺らし口元を覆った。
「いや、いや違うな。センセに似てるがセンセじゃない。かといって人間でもないなら――なんだ、使い魔の類か?」
そして信じられないものを見る目で私を注視する。学者じみた探る眼差しがじろじろと私を探るのだ。
「魔法使いでもないのに使い魔を使役してる。……後天的に才能が開花した? いやそんなはずないがそいつを使えるとしたら……」
「……独り言をぶつぶつと、五月蠅い小蠅だこと」
ルカの悪態にハッと顔を上げ、照れくさそうに頭を掻く。
「や、失敬失敬。考えても仕方ないのについ驚いちまって。その口の悪さ、あんた、先生が遺したなにかに違いない。……なぁ、センセがいつの間にそんなもん仕込んでたのか教えてもらえないかい」
「――ザムエル」
「副長、上に行って増援を呼ぶべきです。俺らだけで対処しきれるか怪しくなってきた」
「これでは不足だと?」
「ですねえ、あの兜のおっさんもですけど、あちらの姐さんの方もやりますよ。壊れかけのヒトモドキでどうにかなりますか?」
二人は呑気に会話しているが、余裕に満ちているのは理由があった。
それこそ先ほどから一言も喋らないエレナさんが、その背中だけで、いまにも噴火寸前の火山の如く怒っている理由だ。
『目の塔』地下にいたのはこの二名だけだが、それ以外のものなら他にもある。『箱』から下がったエルだったものはもちろん、床に転がる三十を超える死体の数々だ。彼らの正体はもはや語るまでもない。
亡骸はいずれも死んだばかりで、その上凄惨だった。水路で亡くなっていたような即死ならまだいい。そうではないと語るのは、明らかに弄ばれて一部が欠損した死骸であり、その誰もが苦痛の形相を露わにしている。
明らかに人の所業ではない。
だからこの悲惨な状況を作り上げたのが誰かと言えば──。
「死んだふりはもういい。やれ」
リューベックさんの合図で肉の蔦が鼓動すると、死したはずの死体達が立ち上がる。各々が武器を持っていたのは生前の名残か、私たちを妨害すべく進み始める。
ここから『箱』までの距離を見た。
『箱』まで辿り着くのは難しくない。全力疾走すれば箱に触れるが、その前に立ちはだかるのはあの二人だ。
「副長、嫌な予感がするんです。あのお嬢さんを『箱』に触れさせんでください」
「任されよう。お前は上に行って増援を呼んでこい」
「へいへい。……結界張ったのが下手に出ちまった」
――さながらゾンビだ。弄ばれた名残が残る屍は歩行に失敗しがちだが、五体満足の屍は生きている人間と変わらない動きを見せる。
「……今回は素直に落ち度を認めておくわ。ごめんなさい。こうして目の前に対峙するまでワタシはあれの存在に気付けなかった」
「ルカ……」
「あの抜け殻がそうさせるのかわからないけど、ワタシはあれに攻撃を加えられない。創造主と敵対する行動は原則不可能だって、ワタシの中の法則が訴えてる」
「じゃあ、もしかして」
「あの亡者共もだめ。どんな形だろうとエルネスタの作ったものに手出しするのは、ワタシの中の核が拒んでる。こればっかりは逆らえないから、せめてあいつらの方を――」
うつろな目でこちらを見ていた『エル』が吠えた。絶叫じみた甲高い悲鳴は、まさしく吠えたが正しい。その瞬間にルカの姿は消え失せたのである。突然の事態に混乱したが、微かな声が内側から聞こえた。一瞬のうちに膨大な情報量が脳に流れ込み、まともに立っていられなくなる。視界がカチカチと火花を散らすが、ふらつきかけた上体を足で支えた。
死にそう。
「……ジェフ、私を彼女のところまで行かせて」
「勝算は如何ほどか」
「わかりません。でも、あなた達じゃ彼女には触れないと思う。彼女は多分、私が近寄るのは許してくれる──気がします。どのみちいま到達しないと後がない」
「任されましょう」
『箱』を覆っているはずの結界の存在が感じられないから、『エル』が結界の役割をこなしている。サミュエルの発言に嘘はない。
『箱』の解放のために何をしなければいけないのかはわかった。たったいまその手段も教えてもらった。
……やだ。本当はやりたくない。
「私がもう一度エルを殺します」
エレナさんが後ろに回した手で、自らの腰に下げていた短剣を投げて寄越す。
柄を握りしめたけれど強がりだった。あれは『エル』だとわかっているのに嫌悪する自分に泣きそうでもあった。覚悟していたはずなのに足が震えてどうしようもなく怖いし、これから襲ってくるであろう痛みと恐怖に打ち勝たねばならなかった。
他のことは意図的に考えるのを放棄しなければならない。生ける屍達、彼らを直視して痛みを覚えては、こみ上げる吐き気に屈してしまう。
「エレナ殿はあの男を――増援を止めてください。彼らは私が引き受ける」
私の意気がくじけないうちに飛び出したジェフの決断は正解だった。豪腕が屍の胴体ごとなぎ払い、ひとつの冒涜を斬り払った。




