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251、外伝:本当にほしかったもの/前

  『兄』に憧れていた。

 正確には『家族』に憧れを持っていたのだけれど、ヴィルヘルミナの場合、自分の父母を理想の家族像に当てはめるのは難しい。

 彼女の憧れはこうだ。

 例えば冬の日。雪が積もった日は家族が出迎えてくれて、友達と雪玉を投げて遊んだ……なんて他愛ないお喋りをしながら温かいご飯を食べるイメージ。

 決して毎日勉強詰めで、問題を一つ間違えば家庭教師から鞭が飛んでくることに怯える日常でも、娘の成長より成績を心配する母でも、「神」とやらにしか興味のない父でもない。『皇女』にしか興味を示せない人達ではなくて、ヴィルヘルミナ個人に目を向けてくれる家族がほしかった。

 当時のヴィルヘルミナは十代と少し。この頃の彼女は好奇心旺盛で、与えられる知識より自身で物事を知りたがった。図書館からこっそり本を持ち出すのは勿論、侍女や使用人から話を聞きたがった。

 母は娘の生活を監督したがったけれど、この点においては皇后の思惑を超え、飛び抜けてヴィルヘルミナの運が良かった。皇女の教育を担った一部の家庭教師、身の回りを世話する侍女は成長していく皇女の自由意思を優先した。

 おかげでヴィルヘルミナは偏った思想に染まらず、ごく普通の感性を獲得することができたのだ。

 その中でもとりわけヴィルヘルミナを可愛がったのは侍女のアルマになる。

 雪が積もった日、ちらちらと降り始めた冬の結晶を眺める皇女に侍女は言った。


「ミーナ、もうそろそろしたらフィスター先生がいらっしゃいますよ。お洋服を整えて、お出迎えの準備をいたしましょう」

「……フィスターは嫌い」

「好き嫌いはいけません。それにフィスターではなくフィスター先生でいらっしゃいます。皇后様が御自ら選ばれた先生なのですから、そのような態度はいけませんよ」

「でも嫌いよ。アルマだって知ってるでしょう。あいつ、ちょっと間違っただけで鞭を飛ばしてくるの」

「確かに鞭はやりすぎですが……それよりも、あいつ、なんて口使いはいけません」

「フィスターなんてあいつで充分。大体家庭教師の癖に出しゃばりすぎなの。私だけならともかく、どうして侍女のあなた達にまで鞭を使うのか、意味がわからない。あいつはイライラするからってそれだけで弱い人を苛めるのよ」

「お勉強に集中できなかったのはわたくし共がいたらぬせいです。それにフィスター様はわたくし共と違って、名家に連なる血筋で……」

「詭弁よ。成績が落ちたのはどう考えたって私の問題だし、あいつの性格が悪いのはあいつのせい。あなた達の方がよほど素敵な人じゃない」


 彼女はヴィルヘルミナの成長に誰よりも一役買った人物だ。皇女と皇后の間に挟まれた立場にありながら少女が健やかに育つことを優先した。喜ばしい行いは大いに褒め、無茶をすれば叱り、少女が病気となればつきっきりで看護した。さながら実の娘に接する母が如くヴィルヘルミナを愛した人物だ。後年、皇女が皇帝皇后に似ず真っ直ぐな気性に育ったとヘルムート侯に言わしめたのは彼女の功績が大きい。


「……その御言葉は嬉しく思いますが、皇后様の前で口にしてはなりませんよ」

「わかってる。私もそこまで馬鹿じゃない」


 だが気に入らない家庭教師の授業など受けたくない。フィスターは「皇女殿下のため」と言うけれど、少女に言わせれば家庭教師達は母が怖いだけなのだ。皇女が成績を落とせば皇后の機嫌を損ね、皇后に取り入ることで地位を買っているフィスターからは侍女達に八つ当たりが飛ぶ。少女が勉強を頑張るのは侍女達に八つ当たりさせないためだ。


「ここしばらくはずーーっとフィスターの授業よ。他の先生方には会えないし、本当にもう最低」

「もう少し暖かくなれば他の方をお招きして演奏会もできましょう。ミーナの得意な笛も披露できるでしょうし、少しの辛抱ですよ。その頃にはお勉強よりも楽器の授業が増えます」

「笛も悪くないけど、私は剣が習いたいのだけどな」


 これにはアルマも返事ができず、苦笑を漏らすだけだ。皇女が剣を取ることを皇后はよく思わない。武芸は武人の仕事であって皇太子たるヴィルヘルミナにはふさわしくないと考えているのである。

 ヴィルヘルミナとしては母のいいなりになり続けるのも、アルマ達が苛められるのも、痛い思いをするのだって御免だ。いくら教育用の小さな鞭といっても叩かれたら痛いし、間違えたくらいで怒られるのは理不尽だ。

 どうにかしてあの家庭教師を懲らしめてやりたい。

 渋々衣類を整えてフィスターを迎え入れたけれど、その思いは胸に残り続けている。緊張の授業も半分を終えたところでもうすぐ休憩時間。安堵にそっと息を吐いたところで、ピシャリと腕に鞭が飛んだ。


「い……っ!」

「姿勢が悪い! 皇女殿下ともあろう御方がなんてだらしのない!」


 少し姿勢が歪んだだけでこれだ。心の備えがあればちょっとは我慢できるが、不意打ちほど痛いものはない。ぐっと歯を食いしばりフィスターを睨んだが、老婆はその目つきさえも不適切だと眉を顰めた。


「その目はなりません。貴女様は将来オルレンドルを担う皇太子なのです、たとえ姿勢一つだろうと気の緩みは許されないのだと自覚なさいませ!」


 これは恐怖で人を従わせる暴力だとヴィルヘルミナは知っている。この歳の少女が知っているべき事柄ではないが、父の背中を間近で見ていたから知っていた。

 この老婆を採用したのが母でさえなければよかったのに……。

 休憩になるや、挨拶もそこそこに外に出た。どうせ遠くにはいけないのだから侍女達も追ってこない。忸怩たる思いを抱きながら歩いていると、なにやら使用人達がこそこそと話をしている。幸いヴィルヘルミナには気付いておらず、物陰に身を隠すと話が聞けた。


「ほんとよほんと。侍医長達が話しているのを聞いちゃったんだってば」

「ファルクラムからお越しになった貴族としかきいてないわよ」

「馬鹿ね。上の人が私たちにほんとのことを言うわけないじゃないの。それにここ数日の皇后様のご機嫌斜めっぷりときたら! あの男の子は絶対に陛下の御落胤よ!」

「声が大きいってば! ……嘘じゃなくて本当に?」

「護送にファルクラムの軍人がついて、陛下が直々にお会いになったらしいから間違いないわ。あの綺麗なお顔は、よっぽど母親がお綺麗だった証拠よ。陛下の目に留まっててもおかしくないわ」

「……ヴィルヘルミナ様より年上なんだっけ。そうね、それなら皇后様のご機嫌の悪さは頷ける」


 びっくりして身を固めていたら、いつの間にか侍女達はいなくなっている。ほんの少しの出来心だったのに、信じられない話を聞いてしまったのだ。


「……お兄さん?」


 落胤の意味は知っている。自分に兄弟がいることについても、実をいえばそこまでびっくりする話でもない。父の醜聞は知っていたし、これまでも自分と血の繋がっている子供とは会ったこともある。

 ただ、誰も彼もヴィルヘルミナにはいい顔をしない。緊張するか、へりくだるか、それとも敵愾心をむき出しにするかのどれかだ。仲良くしたくとも母が許さないし、そもそも彼らは皇帝に認知されないからヴィルヘルミナとは無関係とされている。

 それにその子達の中には、いつの間にかいなくなった子もいた。アルマにあの子はどうしたの、と聞いても緊張固まり、やがてゆっくりと顔をほころばせ、こう言いきかせてきたのだから。


「遠い、遠いところへお引っ越しされたそうです」

「遠いってどのくらい?」

「とても遠いところです。もうオルレンドルへ戻っては来ないでしょうが、元気に過ごしているといいですね」


 だから驚きの意味は、ヴィルヘルミナのしらない兄弟がまだいたのだ、である。

 しかもファルクラム……隣国からきたのなら、ヴィルヘルミナを嫌ったりしないかもしれない。

 このときのヴィルヘルミナは「他国から来た見知らぬ兄」だけで夢を抱いて立ち上がった。いまから戻らないとフィスターに怒られるが、興味心に勝るものはない。


「フィスターはお母さまに怒られてしまえばいい」


 いままで授業をサボったことがなかった少女にとって、はじめての反抗は勇気が必要だったが、今を逃すなとこれまでの経験則が告げている。母は父の他の子が大嫌いだから、機を逃したら会えるチャンスを逃してしまう。

 客人を滞在させる離宮なら心当たりがある。他の人を寄せ付けたくないなら、なおさら場所を絞れるだろう。裏道を使って離宮へ移動するのは難しくなかったけれど、いざ少年一人を探すとなってどうしよう、と腕を組んだときだった。

 運命はヴィルヘルミナに味方した。

 ちょうど目の前を過ろうとしている金髪の男の子がいる。一目で目を奪われる子で、確信はないのになぜか「この子だ」と瞬時に理解した。

 そうしたらもう考えてなんかいられなかった。勢いよく飛び出すと頭から男の子に突っ込んだのだ。想像より力強い手に支えられていた。


「……驚いた」


 抑揚の少ない声だった。

 顔を上げればヴィルヘルミナを見下ろす少年がいる。金髪で薄い青の目。佇まいは夢の国の王子様然としていたけれど、感情の薄い態度や目つきは少女が知るどの男の子とも違っていた。


「大丈夫」

「うん、大丈夫。支えてくれたから怪我はない」


 どきどきしながら口を開いた。ぶっきらぼうになってしまったのは、相手を試す意味を持っている。


「ここは離宮のはずだけど、どこの子」

「どこもなにも、私よりあな……お前が名乗るべきじゃないか」


 母にこんな口調で話していたなんてばれたら折檻される。けれど周りにはだれもいなかったし、胸を張って男の子に問うていた。相手はヴィルヘルミナをしばらく観察した後、溜息を吐いた。


「ライナルト。ファルクラムから来たライナルトだ。理由があってここに数日世話になっている」

「そっか。いい名前だな」

「……どうも。で、君は?」

「見ればわかるだろ」

「わからない」


 嬉しくなった。推測が合っていたのもそうだし、相手が自分を知らなかったのも、男の子みたいに喋っても叱られないのが嬉しかった。普段は女の子らしく振る舞っているけれど、本当は凜々しく皆の前で立ちたいのだ。観劇で覚えた騎士の振る舞いを思い出しながら言った。


「私から名乗らせるなんてありえない。だけど、お前は外のやつみたいだから許してやる」

「……それはどうも。ところで、君はひとり?」

「そうだけど?」

「君みたいな子がひとりでこんなところを歩いてるのが不思議だ。どうしてこんなところにいるの」

「勉強がつまらないから抜け出してきた!」


 ……勇気をだして出てきたのに、呆れられたのは本当に納得できなかった。

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