248、さよならの予兆
「ねえマスター。『箱』を壊すのも重要だけど、ワタシ、言っておかなければならないことがあるの」
「それっていま話さなければならない内容かしら」
「できれば早めにいっておきたいわ。知っておいた方がいいものではあるから」
バーレ家の連絡を受けてから、我が家は一気に忙しくなった。とはいっても表向きは日常と変わらない。あれから我が家は平和だけれど、隠れた見張り以外に家の前を通っていく衛兵が増えた。
世間ではライナルトの戻りが遅い、と囁かれはじめた頃になる。
バーレ家からもらったケーキをつまみながらのお喋りで、見た目は赤や青や黄色がふんだんに使われているが、意外にも味はそんなに悪くない。
「アレの解放の話よ。塔にアクセスしたらワタシは遺跡の中枢に向かってウィルスを飛ばす。その間マスターは無防備になって、自分を守ってもらう」
「あなたが戻ってくるまでの間よね。塔の地下は人のいないタイミングを見計らって入る話だったわ」
私室には私とルカしかいなかったのもあって、この会話を聞いているのは黒鳥だけだ。
彼女につられカタカナ読みをしてみたけれど、いざ発言すると不思議な気分だった。慣れ親しんでいたはずの言語も、こうして離れて長くなると不思議な感覚がする。
私が不在の間は食物を口にしなかったルカ。彼女はフォークで人差し指程度のクリームをすくい取り、慎重に少しずつ、少しずつ舐めとっていく。
「よく覚えてました。そう、一応ワタシは戻ってくる見込み……ではあるのだけど、これは……マスター風に言えばそうね、たぶん、確定事項だから伝えておくわ」
「なにを?」
「いまのマスターが健康な人と同じように走っても簡単に息切れを起こさず、ちょっと頑張ったくらいで熱も出さずにいられるのは、ワタシが宿ってアナタを調整しているおかげ。だけど遺跡から戻ったら、身体は多分元通りになる」
「元通りって、前みたいによく寝込んでたあれかしら」
彼女がたぶん、を躊躇しながら使うのは珍しかった。
「調整って身体の仕組みごと変わってる印象だったけど、違うのね」
「違うわよ。やってるのはただの補強作業であって、元の性質を変えられるだけのものはワタシにはないわ」
「なるほどねー。……でも突然どうしたの?」
「別に」
「別に、なんてことはないでしょう」
ルカは時間が経つほどに仕草や雰囲気が人間に近くなっていく。学習の賜物なのだろうが、久しぶりに会った彼女はわずかな仕草から変わって見えた。
「不確定事項だから話すのはやめておこうと思ったけれど、遺跡の情報が集積されるにつれて、遺跡を停止させることは可能でも、ワタシはワタシを相当消耗するのではないか、と結論を出し始めている」
「あなたはどうなってしまうの?」
「それより先に、目の影響について教えましょう」
「『箱』の魔力の影響?」
「そう。ワタシの作った術式を残していくし、マスターもひよっことはいえ魔法使いのはしくれだもの。少しは耐えられるだろうし、なにより『箱』からシクストゥスが解放されれば、あふれ出た中身がどんなものであれ、貴女を殺しはしないと思う」
「不安な言葉だけど、一応大丈夫って考えていいのよね」
「……箱は嫌いだけど、シクストゥスという元半精霊の男なら嘘は言わないわ。アナタに危害は加えるなって約束させたから、そこはきっと大丈夫よ」
「いつの間にそんな約束をしてたの……」
「秘密。女の子には隠し事のひとつやふたつ、あるものよ?」
目の前を黒鳥が飛んでいく。相変わらず何を考えているかわからない、そらとぼけた白い虚空の目だ。
「がっかりしない?」
「別にがっかりはしないかな。……だってそこは、ええ。これが永久的なものだなんて思ってなかったし、降って湧いた幸運くらいの気持ちだったもの」
「そう、なの? ワタシはてっきり嫌がるかと思ってた」
「そこまで我が儘じゃないけどな」
「人は、一度得たものは手放したがらないでしょう? 貴女は弱い自分を情けなく感じる傾向が強いし、なにより健康になってからの喜びも増えた。だったらこのままでいたいと思うのは普通よ」
「言ってることは正しいのだけど『箱』を壊すのは大前提だからなぁ」
でも事前のお知らせは助かったかも。
できたらいまのうちに腸詰め肉や脂がたっぷり乗ったお肉を堪能しておきたい。
「でも私よりもあなたよ。自分を消費するって、帰ってこられなくなるなんて言わないわよね?」
「ワタシ? 戻ってくる見込みだって伝えたじゃない」
「でも遺跡の破壊を終えた後は、私があなたに補強してもらっていたこと自体が難しくなるような言い方だった。どのくらいのあなたが削れてしまうの」
「だいぶ、ね。予想では五割、でもそれ以上の可能性が高い」
ルカは淡々と告白した。
「ワタシの集めた魔力に対して、見積もり以上に遺跡の機能が高い……というより、まだ活動している防衛機構が存在しているの。それでもワタシならシクストゥスを捕らえている『箱』の破壊は可能だろうけど、妨害が働く可能性が高いからワタシも自分を削るしかなさげ。帰巣本能があるから事が済めば帰ってくるけど、十全のワタシであるのは難しいだろうし、機能は極端に落ちていると予測している」
「削るって……簡単に言うけど……。ええと、そうだ。例えば一部をこちらに残しておくとかはできないの。ルカは……」
魔力でできた魔法生物みたいなものなのだし、不可能ではないはずだ。
ただ目の前の彼女は人間くさいから「お前は人ではないから」と声にするのが憚られた。それを彼女は正確に読み取った。
「不可能ではないけれど、今回においては不可能」
「どうして?」
「ワタシはマスターのものではあるけれど、基本は製作者に作られた『箱』を破壊するための機構よ。この目的を前に全力を出さないなんて、ワタシの存在にかけて許されないわ」
だからこれは決定事項だ、となんてことはないように彼女は語る。
「何か、私にできることは……」
「ワタシを案じてくれるのなら、帰ってきた際にワタシが速やかな休息ができるよう大人しくしていて」
神秘によって作られた遺跡に対し、人ができることには限界がある。
黙り込んでしまった私に、ルカはなぜか嬉しげに笑う。
「ワタシを惜しんでくれているのよね。けれど心配はいらないのよ、ワタシという個が残って魔力さえ残っていれば、自力で復旧は可能なのよ」
「じゃああなたがあなたでなくなるわけじゃない?」
「その通りよ。大分不器用になるくらい」
ルカは大丈夫と言うけれど、なぜかその言葉を信用する気にはなれず、代わりに彼女を抱きしめた。
「大袈裟ね。ワタシじゃなかったらいまごろ服が汚れていたわよ」
私たちの抱擁に何を思ったか、黒鳥が間に割り込み、喉から出かけた言葉を呑み込んだ。
「この子もあなたと同じようになるの?」
「そいつ? そいつは……よくわからないわ。ただ活動しているだけだし、知性だって高くない。弱すぎて連れて行くこともできないし、これまでと変わらないのではないかしら」
「相変わらずこの子に関しては何もわからないのね」
「こうしているからには理由があるはずだけど、調べているだけの時間がないといった方が正しいかしら。だってなにを聞いても答えないのだもの」
ちょっとムキになったのかごん、と軽い頭突きをお見舞いされた。
「……大丈夫よ。ワタシは考えながら、自分で動くことができる、エルネスタの最高傑作なんだから」
うん、と言ってあげたいけれど……エルの例があるからなぁ。
それも今回は危険とわかっていながら送る側にしかなれない。彼女の前だから溜息こそ控えたけれど、己の才のなさに無力を感じるのは当然だった。
「――あら」
ルカの姿が消えていた。フォークが床に落ち、彼女を呼ぼうとしたところでノックが鳴る。姿を見せたゾフィーさんの顔は緊張を孕んでおり、その姿だけで緊急性が高い要件だと伝わった。
「うちの前にたくさんの馬車と、物々しい数の軍人が集まってきています」
「どういうこと」
「わかりません。ただ事ではない様子なのですが、かといってうちに押しかける様子もないのですが、念のためにお伝えしておこうかと」
「……うちの前なのよね、問い質す権利はあるはずだわ」
なにかが動きはじめる予感がする。
はっきりとした確信はなかったけれど、そんな風に感じたのだ。
いま帝都にライナルトはいない。私は私で戦いを始めねばならないと決意を固めた矢先、さっそく私は叫ぶことになった。
「何をしているの!」
玄関を開けた途端に、軍服の男達が隣家の家の鍵を壊し、扉をこじ開ける現場に遭遇したのだ。
玄関に佇んでいたのはヘリングさん。その後ろ、夫に庇われながらこちらの様子を伺うエレナさんがおり、彼らは明らかな敵意を向けられていた。




