22、騒動は向こうからやってくる
15「危機/後」の挿絵できました
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イラスト真ん中、髪を結っている女性はニーカとのこと。
コンラート領の季節の移ろいは感嘆に値する素晴らしさだった。
紅葉に色づく森林もだが、あちこちに植えられた草花は目を楽しませるように計算されている。本格的な冬の気配が訪れだすと、皆は今年は寒くなると口にし始めていた。
私はせっせと鹿の臓物を外しながら、後ろの切り株に腰掛けてこちらの手元を見守るおじさんの話を聞いていた。
「保存食を作らにゃならんからなあ、そろそろ動物も減りはじめる。大丈夫だとは思うが、熊にあったら逃げるんだよ」
「熊は怖いっていいますからねー」
「そうそう、いまはまだ食いだめしてるから問題ないが、冬眠し損ねた熊は怖いからね。この間の冬は猟師が二人も食われちまった」
「お、恐ろしいですね。猟のお手伝いができないのは……」
「解体だけでも助かってるよ。奥さんのおかげで年寄り連中が休めてる」
結構な頻度でお手伝いをしていると、解体もそこそこ上手くなった自覚がある。はじめこそ下手くそ過ぎて迷惑をかけていたが、いまはお荷物にならないくらいには腕も上がったはずだ。
「正直ねえ、奥さんがここまで続くなんて思ってなかったよ」
「そーですねえ。血の臭いもきついし」
「そう言いながらきっちり仕事をなさるじゃないか。解体だけじゃなくて後片付けまでちゃんとしてくれるんなら、わしらとしちゃ文句もないわ」
猟師のおじさんはがははと笑い、乾し葡萄を口に放り込む。
「今日は干すまでやるかね」
「はい、エマ先生が出かけてしまったので予定がなくなってしまいました」
「そうかそうか、じゃあ帰りに塩漬けを持って行くといい」
「冬の備蓄用では……」
「この間軟膏を分けてくれただろう、そのお礼だよ」
「見習いの作ったものですが……」
「わしらには効けば同じさ、効けばね!」
エマ先生の手伝いをするようになってから、簡単な軟膏作りくらいは頼まれるようになっていた。エマ先生、にこにこおばちゃんの装いとは打って変わって、仕事面では現場主義らしく実地という形で仕事を叩き込まれている。でも薬草の見分けはいまだに不得手なので、雑草や毒草を摘んではヴェンデルに叱られるのが定期であった。
吊された鹿は生気がないものの、つぶらな瞳は健在だ。死した動物と目が合って、心の中で手を合わせて深呼吸。解体といってももの凄く力を使う作業だ。うっすら汗をかきながら切り込みを入れ、皮を剥ぐ。綺麗に落とせた臓物は後で埋められるようまとめていた。
さあ肉を部位ごとに切りわけようと言うときだ、遠くから女の子の声が聞こえてくる。
「おーくーさーまー!」
両手を振ってこちらにアピールしてくるのはニコである。彼女が私を呼びに来るのは珍しくないが、その後ろを歩く人は、本来コンラート領にいるはずのない人だ。
「アヒム?」
以前よりも仕立ての良い服に身を包む男性は兄さんの乳母兄弟兼護衛を務めるアヒムである。さらにもう一人、見覚えのある男性がいたが……。
よいしょ、と立ち上がったおじさんが革でできた鞘から刃物を抜き出しながら言った。
「ここまでだねえ。後のことはやっておくから、今日はもう屋敷に戻りなよ」
「と、途中なんですが……」
「あの派手な格好、ありゃ都の人だろ? ってなりゃあ、旦那様のお客さんだ。ここで話なんてさせるわけにはいかんよ」
派手だろうか。アヒムの格好は普段より整っており、見た目凜々しさが増したくらいで都では普通だと思うのだが、おじさんの目には派手に映るらしい。
「そう……ですね。すみません、今度は最後までお手伝いしますので」
「気にしなさんな、十分助かってるからね」
おじさんにお礼をして、手に嵌めていた分厚い手袋を外した。手ぬぐいで刃に付いてしまった鹿の血と脂を拭いながら鞘に戻す頃に、ちょうどニコ達と合流だ。
「奥様ー。都の方からお客様ですよぅ」
「ええ、それはアヒムの顔を見ればわかったのだけど……」
アヒムはやたら驚いた様子でこちらを見ているから、その前にもう一人の男性に向かって軽く頭を下げる。いまは普段着ではないから、それらしい礼はできないのだ。
「シクストゥスさんもお久しぶりです。お元気そうでなによりです」
「こんにちは、我が同胞の小さき友人殿。きみも元気そうでなによりだ」
なんとライナルトの配下である魔法使いシクストゥスだ。毛皮でできた上着を羽織っているが、全身から醸し出される胡散臭さは相変わらずである。
「どうしてシクストゥスさんがアヒムと一緒なのでしょう。もしや何かお仕事で?」
「旅の途中できみのお兄様とお会いしてね、せっかくなので同行させていただいている。ただの娯楽、というか趣味の一環さ。仕事ではないので安心してくれ」
彼の仕事を知らないので安心もなにもあったものではないが、確かにシクストゥスは以前と違い浮かれたような雰囲気があった。
「それと私の名前は言いにくいだろう。皆にはシスと呼ばせているから、きみもそう呼んでおくれ」
「は、あ……。ではシスさんと……」
「違う違う、シスで結構だ。さん付けはむず痒いから嫌いなんだ」
他人なのに名前で呼ばせようとする変な人だ。逆らう理由もないのでシスと呼ばせてもらうと、満足げに頷くのがまた奇妙である。
「ところでアヒム、先ほどから黙ってどうしたの」
「あっ。はい、すみません」
「謝られても」
「いえ、お嬢さんが珍しい格好してたんで最初は誰かと……」
ですよねーとニコが頷いている。軽装しているだけだが、そんなに見慣れないだろうか。
猟師達の手伝いをさせてもらうようになって、スカートでは邪魔になると感じたのだ。最初は乗馬服といった装いで挑んでいたが、それも違うと思って汚れてもいい作業着を用意したのだ。服の質は落ちるが、これが丈夫で一番動きやすく、なによりかつて日本人だった私には一番馴染みやすい軽装である。ズボンスタイルは楽でいい。
アヒムはおじさんの手で行われているであろう鹿の解体現場をちらりと見ると、なんともいえない表情をしていた。
「解体してたんですか……」
「奥様は大分前からお手伝いをしていらっしゃいますよう」
「そうなんですか……。坊ちゃんに会う前には、血を落としてくださいね……」
「着替えるから。血が苦手な人に嫌がらせなんてしません」
苦手っていうかちょっと流血しただけで真っ青になり気分を悪くする。
いつまでもこの場に留まるわけにはいかないから、残りは屋敷に戻りがてら話すことになった。シスがいることから、最初は彼の話題を中心に話そうと思っていたのだけど、当の本人が「おかまいなく」と言うし、本人は楽しそうに領内のあちこちに興味を移しているのだ。それでは遠慮なくというわけでアヒムに話しかけていた。
「それでアヒム、どうしてコンラート領に来たの? そんな知らせなかったと思うのだけど」
「どうしてって……まあいいや。急になったのは謝ります。用事があって都を離れてたんですけど、その用事が先方の都合でなくなっちまいましてね。ちょっと足を延ばせばコンラート領が近いってんで寄らせてもらいました」
「都を離れる用事って、珍しいわねえ」
「新しい領地を預かることになったんですよ、その視察を兼ねてたんですがね」
新しい領地って……。収入が増えるのはいいことだが、その分管理も大変だろう。特にキルステンは本拠地が都にあるし、果たして人の手は足りるのだろうか。
「……どんどん忙しくなるのねえ」
「そのせいで行こう行こうと言っていたコンラート領の視察も後になってましたからね」
ああ、たしかに一度はこちらに挨拶に伺いたいとか言っていたような気がする。手紙のやりとりは定期的に行っているが、最近はそろそろ休みたいと弱音を吐いていた記憶もあった。
「せっかくゆっくりできる田舎に来たわけだし、ついでだから休んでくれるといいわね」
「じつはおれもそう思ってこっちに誘導しました。カレンお嬢さんも協力してください」
こちらに来たのはアヒムの企みか。けれど兄さんに休んでもらうのは賛成、彼がここまでして兄さんを連れてきたのであれば、よほど見かねたのだろうと推測できるからである。
その考えが間違っていなかったというのは、兄さんに再会するとすぐに理解できた。
屋敷に戻るとニコに手伝ってもらい急いで支度を調えて向かった先、ソファに深々と腰掛ける兄さんは、以前あったときと比べて明らかに痩せていたのである。
「なんでそんなに痩せたの!?」
挨拶もそこそこに私の放った一声がこれだったのだから、察してもらいたい。まだ瞳に生気が宿っているからいくらかましだが、それにしたって何キロ痩せたのだ。
「カレンは元気そうだなあ」
「暢気に言ってる場合じゃないのではっ」
「こらこら、お前ももうコンラート伯の妻なのだから、もう少し落ち着きを……」
口では注意しつつも、べたべた触ってくる手を拒絶しないのは兄馬鹿ゆえか。肌に潤いが足りない、唇はかさついている、何より顔色が悪い!
「いくらなんでもこれは酷いわ、なんで倒れなかったの。倒れた方がまだ休めたのではない」
「それは少し酷くないかな?」
「カレン君、彼も義務を果たしているのだから……」
「義務だろうがなんだろうが健康を損なわれては意味ありません。……前はこんなに痩せ細ってなかったんですよ」
兄さんの対応をしていたらしいカミル氏。最近は領地の事や、ついでに戦の経験談を聞いているためか、いっそう教師と教え子みたいな関係が強まっている。私がむくれるためか、伯は困ったように微笑むと両手を組んでいる。
「アルノー殿、すぐに発つとのことだがカレン君もこう言っているし、身体を休めていかれては如何かね。お忙しい身であるのは理解するが、体を壊しては元も子もない」
「いえ、しかし……」
「なにより、戻れば当主交代が待っているのだろう。僭越ながら、そのような顔色で臨まれても親類縁者も不安に感じるのではないだろうか」
こういうとき、年月を重ねた年長者の言葉は焦りを隠せない青年に有効だ。無駄に皺を増やしただけではない重みが言葉に乗っている。
「なにより我が領地にお越しいただいたというのに、有能な若者をそのような状態でお帰ししたとあっては沽券に関わる。食べ物と酒しかない田舎だが、御身を休めるにはちょうど良かろう」
伯がウェイトリーさんに視線を走らせると、既に主人の意を了解済みの家令が頭を垂れた。
「キルステン家の方々、並びにお客人におかれましては二階に部屋を用意してございます。足りないものがあれば遠慮なくお申し付けください」
「いや、助かるねえ。固い床でばかり寝ていたから、そろそろ柔らかな毛布にくるまって昼まで寝たいと思ってたんだよ」
ほくほく顔で頷いたのはシス。この人は多分遠慮の二文字が脳にない。
……いいな、私もたまにでいいから昼まで寝かせてもらいたい。
「コンラート伯、突然押しかけたというのに申し訳ない」
「気に召されるな。どのような理由があれ、コンラートとキルステンはすでに近しい間柄なのですから」
ここで仮にも親族、だとか言わずに言葉を選んだのはカミル氏なりの気遣いだったのだろう。……表向き、伯は兄さんの義弟だし、実の夫婦でないことを知っているのはカミル氏一家とウェイトリーさんにヘンリック夫人だけだ。ニコには良くしてもらっているし、真実を話してもいいのではと思っているが、なんとなく話しそびれている。
兄さんもそれが理解できたのか苦笑を零すと、しばしの間だがコンラート伯の申し出を受け入れた。
「カレン君、せっかく兄君がいらしたのだから兄妹水入らずで楽しみなさい。予定はすべて変更して構わないよ」
「それでは御言葉に甘えまして……。ええ、兄達のお世話は私が引き受けます」
「助かるよ。こちらはいくらか仕事がたまっていてね。後でゆっくり話そうじゃないか」
外せない仕事がある伯は退室、私は兄さんを寝台に放り込まねばならない。
「兄さんはこっちに来て。アヒム、先ほどからなにか言いたげだけど、どうしたの」
「そんなわけないですよ、気にしないでください」
そうかなあ。なーんか物言いたげな目をしていたから気になっていたら、これはアヒムがいなくなった隙に兄さんが教えてくれた。ちょうど部屋に到着したタイミングである。
「アヒムはね、伯とお前の仲が良かったから複雑だったのだろう」
「心配してくれるのは嬉しいけど、仲が悪くていいことなんてないのに」
「実を言えば私もいささか複雑なのだけど、お前が不幸になってないのなら良しとするよ。それより、手入れが行き届いていていい部屋だね」
「コンラートの人達は働き者なのよ。それでね、私のことはそこまで心配してくれなくてもいいのよ」
「まだ十七だよ、心配もするさ。……それと誕生日おめでとう。お祝いもできず、すまなかったね」
「お手紙と宝石をくれたでしょう。充分です」
外見が変わったわけではないけれど、バイタリティーは上がったのではないかと思う。
「……都にいたときよりずっと元気そうだ」
安堵の笑みを浮かべて瞳を閉じる。妹だけしかいないのをいいことに、そのまま休むつもりらしい。兄さんの書記官も付いてきていたが、仕事は持ってこないように言い含めておこう。
「ところで兄さん、戻ったら次期当主って……」
「ああ、それも話そうと思ってたんだ。聞いての通りだが、父さんから正式に当主譲渡の話が出たよ」
「父さんは現場から身を引くって事?」
「いや、私の補佐に回ってくださるそうだ」
なんでもローデンヴァルトと付き合うようになってから、兄さんの方が国内の著名人と会う機会が増えたそうだ。長男でしかできない仕事も増えてきたため、負担を減らすためにも裏方に回るとの話になったらしい。
「それでいまは準備が進められている。盛大にお披露目を行うから、できればお前にも一度帰ってきてほしいんだ」
「もちろん喜んで参加するけど……伯も一緒によね?」
「当然招待するよ。それにこの数日後には陛下主催の夜会がある、ついでだから顔を出してもらいたいと思ってね」
「いえ、そっちは別に……」
「色々あったから夜会に出る機会を逃していたし、結局出ずに嫁いでしまっただろう、大きな夜会ではないから一度くらいは出て場の雰囲気を掴んでおきなさい」
……最初のだけ出席できたらいいのだけど。
ごねてみようと思ったが、疲れ果てた様子で目に腕を押し当てる姿を見ていると、とても断りづらい。まあ夜会の方は置いといて、兄さんの当主就任は顔を出すべきだ。
「本当ならおめでとうって祝福したいのに、どうしてそんな状態で来ちゃうのかしらね」
愚痴は兄さんには届かない。病人と見紛うばかりの体でやってきた客人は、ほんの数秒の間に眠りの淵に落ちていた。