201、タダではなく対価を
はじめこそ心配そうなジェフだったが、兄さん達との話し合いが円滑に終わったのは安堵したようだ。私の護衛には色々と心配をかけ通しである。
「すっきりした顔をしています。実りのある話し合いになったのならなによりでした」
「良い、とは言えないけど収穫はあったかも。でも……」
馬車内はジェフと二人っきりだ。だから彼相手にはいいかな、とつい苦笑が漏れていた。
「ヴィルヘルミナ皇女殿下がもっと嫌な方だったらよかったのにって思ってしまったの、兄さんやアヒムには絶対言えないわね」
「それは……」
「話したいことがたくさんあるけど、帰る前にマリーの顔を見に行きましょう。馬車を市街地に走らせてもらえる?」
教えてもらった住所は私たちが住まう住宅街よりももっと雑多な、それこそ普通の帝都市民が住まう一画だ。馬車は目立つので途中で降りて向かったのだが、その住宅街のありようにはやや驚かされた。
到着したのは一人住まいの人が集まる木造のアパルトメントだったのだけど、彼女が住まうにはこぢんまりとした住まいだったのだ。もちろん普通の人が一人暮らしにはまったく問題ないし、建物は古いけどよく手入れされている。だけど元とはいえ貴族の女性が住み、かつ派手めのマリーにしてはお手頃すぎる住まいの気がしたのだ。アパルトメントに入る機会は滅多にないためか、階段を上りながらあちこち見回していた。
「マリーが住むからもっといいところにいると思ってた」
「ですが近くに詰所がある、治安は悪くなさそうです。ここからだと商店街も近いから買い物も行きやすいでしょう」
「中も外も綺麗だし、窓を飾ってる家が多かった。住み心地はよさそう」
のんびり話していたら、三階に上がる階段にさしかかったところで二人して顔を見合わせた。どこかから女性の怒鳴り声が聞こえてくるのだけど、その声に聞き覚えがあったのだ。
階段を駆け上がり角を曲がったところで、それは飛び込んできた。
「ごめん! 本当にごめん!!」
「謝ったって遅い。大体二度と顔見せるなって言ったのに来るんじゃないわよ!」
廊下の中央あたり、ある家の扉が開いているのだけど、そこの廊下に男性が座していた。歳は二十半ば頃。頭を低くしている男性の足を遠慮なしにガンガン蹴っているのは、まごうことなきマリー。剣呑な顔で男性に罵声を浴びせているのだが、その勢いたるやジェフもドン引きするレベル。美しいふくらはぎを晒しつつ放った蹴りは男性の股間を直撃し、前のめりに悶絶する様を目撃した。
「いいこと? あんたと私がやり直す未来は、今後、一切、二度とないわけ! あんたみたいなお坊ちゃんはどこかのお嬢さんでも嫁にもらって世間知らず同士仲良くしときなさい!!」
「わ、私は、マリー……き、きみ、が……」
「しつこい男は嫌いよ! さっさと家へお帰り!!」
急所を蹴られても下がらない男性も強いが、それをみてもなお揺るがないマリーも強い。勢いが凄くて遠巻きに見つめていたら傍観者の存在に気付かれるも、私たちを認めるなりすん、と憑きものが落ちた。
「なによあんた達そんなところに突っ立って。用事があるなら来なさいよ」
恐ろしい豹変ぶりだが、マリーの目にはすでに男性の姿はない。絶望に染まり行く表情すら無視して私たちを手招きしたのだが、この状況に割り込んでいいのか判別つかずにいた。
「早くいらっしゃいな! 愚図は嫌いよ!!」
「はい! ごめんなさい!!!」
ほとんど流れ込む勢いでお邪魔すると、なおマリーの名を呼ぶ男性を無視して扉を閉めたのである。
「か、可哀想に……。ここがマリーの家?」
「そうだけど、なにきょろきょろしてるのよ、見ても面白いものなんてないわよ」
「あ、そうじゃなくて、人の家に遊びに行くってあんまり経験がないから面白くって」
「……友達くらい作りなさいよ」
アヒムの話ではあちこち点々としていると言っていたけど、この二部屋しかないマリーの城は引っ越してきたばかりとは思えないほど物が置かれ整理整頓されている。三人分のお茶を用意するマリーは呆れながらアヒム達の勘違いを正した。
「あまり帰らないだけで、この部屋自体はずっと前から借りていたのよ。だから家がないって勘違いしてたのかしらね。広い一軒家を借りていいとアルノー達は言ってくれたけど、ここに愛着があるから断ってたのよ」
「へー……住みやすそうでいい部屋ね」
「でしょう? 広くても維持費がかかるだけだから、このくらいがちょうどいいのよ」
近くに商店街があって露店が多くひしめいているから食事を作る必要はない。風呂場はないけれど、近くに湯屋があるからその分を部屋に回せる。マリーはこの家に人を招くことはないと教えてくれたけれど、荷物が多くても不快にならないよう上手に飾って、所謂見せる収納を活用している。私にも欲しいセンスだ。
なお、この部屋の維持費は基本的に彼女の恋人持ちである。そしてその恋人とは……。
「えーと、さっき玄関にいた人が……」
「愚図は嫌いと言わなかったかしら」
「はい。ごめんなさい。さっきの方が別れた恋人でしょうか」
「そうよ、馬鹿なことしてきたからこのあいだ別れを突きつけてきたら、ほとんど毎日押しかけてくるの。いい加減疲れてきたところよ」
堪忍袋の緒が切れているらしく元恋人の情報をあれこれ喋ってくれるのだが、私が帝都に来たばかりの頃に付き合っていた人とは違う人らしい。
「……どうやったらそんなにとっかえひっかえ恋人変えられるの?」
「むしろあんたが浮いた話の割に実生活が地味すぎるのよ」
「興味があるから聞くけど、私の浮いた話ってなに?」
指折り数えはじめた。
「ライナルト殿下の愛人から筆頭に始まるけど、全部聞く気はある?」
「やっぱりいいです。私が悪うございました」
出来心はやめておこう。心証が良くない話をわざわざ耳に入れる必要はない。聞き役に回っていたジェフがすかさず他の問いを口にした。
「マリー殿は相当お怒りのようでしたが、あの男性はなにをされたのですか」
「ああ、それ! あいつ本当に最低なのよ。私に身分は関係ないからきみと結婚したいとか抜かしたくせに、将来を考えたらご両親を呼びたいとか言いだして」
「あーはい、うん、もう全部わかった」
もちろん最初から別れを切り出したわけではない。マリーにとって実家であるダンスト家はもはや鬼門。縁を切ったと豪語してならない彼女は、家を持ち出すならこれ以上の付き合いは出来ないと断った。恋人も彼女の願いを聞き入れ、話はそれで終わったはずだったのに、ある日突然言われたのだ。
「きみの家はキルステン家に繋がりがあるんだろう。彼らに挨拶して、なんならご両親にも挨拶しないか? ですって。絶対詮索しないって約束だったのに勝手に私のこと調べたのよ」
「それで、どうしたの?」
「持ってた花瓶でぶんなぐってそのまま出ていったわよ。実家は嫌いだから絶対に調べない、知りたいなら私の許可を得ろ。やったら別れる。そう約束してたのに破ったのはアイツよ」
「向こうは未練があるみたいだけど」
「後悔するなら調べなきゃいいのよ。愛情が尽きた相手のことなんて知ったことじゃないわね」
とはいえ、ひたすら押しかけられる状態はマリーにとって忍耐を強いる状況のようだ。集合住宅の性質上隣人に迷惑をかけてしまうし、実際苦情が来ている最中だという。アパルトメントにはオーナーがいるけれど、男性が貴族なので強くも言えない。頭痛を堪える面持ちで、しばらくホテル住まいも検討するしかないと語るのだ。
「家があるのにわざわざ宿代を払うのも嫌だけど、背に腹はかえられないかもってところで今日の襲撃よ。そりゃ股間も蹴ってやりたくなるわ」
「……じゃあ宿に?」
「行くしかないでしょう。これでこの家は結構気に入ってるのよ。引っ越し代だって馬鹿にならないし、しばらくの宿住まいと秤にかけるなら出払う方が安上がりだもの。どこかでいい男が捕まればいいんだけど」
「そこは曲げないのね」
「当たり前でしょう。私みたいないい女が一人でいる方が世の毒よ」
援助者がいないいま、亡き夫達の遺産で暮らしていると語るマリー。彼女一人で暮らす分には質素倹約を旨としているようで、特に再婚した旦那様のお金は無駄にしたくないようだ。
私にはできない生き方だが、彼女の自由奔放さはいっそ拍手を送りたくなる。
「それだったらうちに来たらいいのに」
はぁ? と露骨に返されるとちょっと傷つくものがある。
でも実際悪い案ではない。うちなら空き部屋がいくつもあるし、家には護衛もついている。さらにお向かいにはあちこちに顔の利くバダンテール調査事務所元所長。これで並の男が押しかけるのは相当厳しい。これにはマリーも揺れた。
「……タダじゃないわよね?」
「もちろんいくつか仕事をお願いする」
マリーみたいな人の場合、タダで衣食住を提供するよりは仕事を融通したほうがお互いやりやすい。彼女にお願いしたいのは私の服装関連のアドバイザー兼クロードさんのお手伝い。最近は向こうの来客も増えたので、たまにお茶出しといった雑用をしてくれる人が欲しいと嘆いていた。顔を合わせるなら美人がいいとのわがままを言う背後で、ゾフィーさんが佇む恐ろしい光景はいまだ忘れがたい。
ずっと詰める必要もないから、空いた時間は出かけるなり自由にしてくれていいと話せば、マリーの決断は早かった。
「あんたのところなら金持ちも来そうね。よし、行くわ。たしか二階の部屋を使って良いのよね」
「あ、うん。そうだけど部屋は……」
「空き部屋の方を使えばいいんでしょ」
一部屋はエルの部屋をそのまま残しているのだ。いつまでそのままにしておくか定かではないが、いまは片付けにゴーサインを出すまでは至れない。
「……色目を使うのは程ほどにしてね?」
「心配しないで、そういう区別がつかないバカは私の方からお断りよ。さ、そうとなったら荷造りしようかしら。あなた達どうせ馬車で来てるのでしょうし、荷物を運ぶから手伝ってちょうだい。準備はすぐ終わるわ」
ジェフもいるからか、さっそく荷物持ちとして使うようだ。
宣言通り手早く荷造りを終わらせたマリーの鞄は六つ。ほとんどをジェフが持ち馬車に乗り込むと我が家に向かったのだが、道中はマリーの愚痴大会になっていた。
「こっちにきたとき最初に付き合った彼氏が一番うまくやれてたのよ。ろくでもない男だったけど面倒見はよかったし、余計な詮索はしてこない。なにより家柄も普通なのにお金の出し惜しみもなかった!」
「はぁ……うまくやれてたならどうして別れちゃったの」
「ある日突然別れるっていわれて、それっきり」
マリーはさっきの事由は差し置いてもその恋人のことは好いていた。だから理由を聞いてみたのだが、どうにも相手の態度は煮え切らない。それどころかマリーが悪いわけじゃ無いとまで断言したのだ。
「じゃあ他の女ができたか、病気でもあったか、私には言えない理由があるのか聞いてもなんにも答えないの。最後には新しい男を紹介するっていうのよ?」
「で、それきりと……」
「……そ。なんでかお金を送ってきて、あとは本当に連絡も寄越さずに終わった。あとで家を訪ねてみたけど、その家もとっくに引き払ってたから、いまどこにいてなにをしてるのか、私にはさっぱりわからない」
完全に吹っ切れてはいないのだろう、憎まれ口の中にわずかな寂しさが混在している。話を聞く限りでは、その人はマリーの怒りのツボを心得ており、その心理を突いて追い出したようにも感じるのだけど……。
和気藹々とコンラートに帰ったのだけれど、そこでまた問題に直面した。なんとライナルトを連れたシスが、マルティナを連れ立ったクロードさんと鉢合わせたのだ。
「修羅場の予感がするわ」
耳元でひっそりと囁いたルカの声が弾んでいることには気付いていたが、忠告する気にはなれなかった。