200、決別
「あー……これはその、ですねぇ」
「私相手に言い訳とは良い度胸だアヒム。貴様、もう一度ヘルムートの指導を受けたいらしいな?」
「とんでもありません! ……アルノー様!」
皇女の剣幕にびびり倒しているアヒムは兄さんを盾に差し出したが、兄さんは賢明にも言い訳をしなかった。気まずそうに床に座り直すと、ごめん、と頭を下げたのである。
「すまない。気になって戻ってきた」
「お前な、せっかく私が……」
「わかっている、私に気を使ってくれたんだろう。けれど家族が来ている以上、私もこれ以上先延ばしには出来ないよ」
驚くことに、これには皇女の方が気まずげな居住まいで顔を背けた。兄さんの言葉から推測するのなら、私たちが険悪化するのを考慮した皇女が兄さんをわざと遠ざけたのだ。平手打ちなどと言っていたし、物騒な事態になるのは覚悟していたはずだ。
「ありがとう、ヴィルヘルミナ」
「知らん。礼を言われる筋合いはない。それより戻ったのならお前も妹を見送っていけ、どうせこちらに気を使ってろくに会いに行ってないんだろう」
「まーた強がっちゃって。皇女殿下って人前じゃとことん素直になれないんですよねぇ」
余計な口を挟んだアヒムが耳を引っ張られた。それはもうはなから遠慮なしの力で引っ張るから、特大の悲鳴があたりに響く。
「ああ? 一介の従者がよくぞそこまで言えたな。貴様何度礼節をたたき込んだら済むのか、やはりヘルムートに直に指導を受けねばその性根は治らんらしい」
「皇女殿下におかれましてはこの不甲斐ない男にも寛大なお心を賜りたく……!」
知らない間に彼らは彼らなりの関係を築いていて、楽しくやっていけているのだろう。兄さんはともかくアヒムに関しては心配していたところがあったから、皇女と仲良くやっていたのならよかった。先ほどからヘルムート侯の名前が出ているのが気にかかったので聞いてみると、アヒムは一時期ヘルムート侯の元でお世話になっていたらしい。
「色々問題のある噂を聞いているかもしれない。確かに厳しい人だが、面倒見の良い方であるのも本当だからね」
私たちは部屋を出ていた。説教だなんだのいっていたが、皇女が私たちを気遣い、アヒムも空気を読んであえて残ったのだ。
「兄さんもだけど、アヒムも思ったよりうまくやっててよかった」
「最初はなかなか苦労したのだけど、いまはなんとかうまくやっているよ。一番はヴィルヘルミナの助けが大きいけれどね」
ヴィルヘルミナ皇女同様、兄さんも彼女の名を口にすると目元が柔らかくなる。本当に想い合っているのだと一目でわかるだけの関係は少し羨ましくもあったが、和やかな雰囲気は長続きしなかった。人気のない一画に誘導されると相対したのだ。緊張の眼差しはほんの少し悲しみにも染まり、それ故に大事な話があるのだろうと私も覚悟を決めた。
「カレン、私はお前に謝らなければならない」
そうして、兄さんはファルクラムからこちら、抱いていた気持ちを今度こそと告げた。
「ファルクラムで私たちを助けてくれようと奔走してくれてありがとう。そしてそんなお前を裏切ることになってすまなかった」
以前の兄さんには、多少なりとも頑なにライナルトを拒む意思があった。けれどいまはどうだろう、まるで自分の弱さもすべて納得済みで受け入れる潔さがある。
続けてこう言われた。「自分は臆病だったのだ」と。
「私がライナルト殿下に反発した理由を話したけれど、本当の理由は違う。私が彼を受け入れがたかったのは、ただ恐ろしかったからだ」
「恐ろしい?」
「そうだ。私は彼が怖かったんだよ」
ようやく言えた、と安堵する様に嘘はない。ぽつぽつと語り出したのは、ファルクラム国王崩御の時からライナルトに感じていた違和感と不安である。
「陛下の崩御の折から彼を見ていて、違和感はあったんだ。どうして彼は容易く人を裏切り、兄上まで殺しておいて平気でいられるのだろうと。だから以前話した理由も、少しは事実になるんだが……」
漠然とした不安は段々と形を伴って恐れとなった。ライナルトは自分とは違う。ただ相違があるにしてもこれまで見たことすらない種類の人間であり、またライナルトの部下達を見ていて、ライナルトの元では、己のような人間では残ることが出来ないとも感じたのだ。
「お前は平然としていて、彼を語るときも恐怖なんて抱いていなかっただろうが、私はどうしても彼が信用しきれなかった。だからいっそう、なんて情けない兄だと思わずにはいられなかった」
「兄さん、私は兄さんを情けないなんて……」
「知っているよ。私が勝手に抱いていた思いと、あとはそうだな、劣等感だよ。アヒムにさえこの思いは話せなかった」
側室になった妹の威光だけで成り上がったキルステン。自分なりに背伸びをしたけれど、選択にいつも責任が付きまとう不安。父やローデンヴァルト侯みたく毅然と立派に振る舞えない自身に、兄さんは胸を張りきれなかった。そんな思いを抱えて、アヒムにすら話せず過ごしていたから、感情はずっと泥沼だ。
「恐ろしいと素直に言えなかったのは私だよ。ヴィルヘルミナの話に飛びついたのも、お前に頼らずキルステンを盛り返せるかもしれないと……そういう思いもあった」
打算があった。下心があった。他人にとってはちっぽけな悩みでも、兄さんにとっては世界を占める全てだった。そしてそんな悩み全てを、いまの兄さんは苦笑一つで笑い飛ばす。
「私の弱さが招いた結果だ。あのとききちんと話をできずにすまなかった」
「すまなかったって、ごめんって言うなら私こそ謝らなきゃならないでしょう。私だって兄さんや姉さんと話をしなかった。それが結局……」
「そうだね。でも、そのときの選択があるからこそいまがある」
「……後悔してないのね?」
返ってきたのは私たちの決別だ。
「苦しかったし、辛かった。だがそれこそが私と彼女を引き合わせてくれたのなら、あのときの臆病な私にも意味があったと思える」
「ヴィルヘルミナ皇女に、いえヴィルヘルミナ様に救われたのね」
「ああ。弱いままの私を必要としてくれたのは彼女だった。もしかしたら彼の元でも居場所はあったのかもしれないが、私のような平凡な人間では、怯えたまま終わっていたのだろう。……彼の所に私の椅子はなかったんだよ」
それが答えだった。
自分を臆病だったと評していた人は、いまや胸を張って一人の傍にいると決めたのだ。
「だから私はヴィルヘルミナの近くにいるよ。どんな結果になっても、最後まで結末を共にする」
「……そっか」
「カレンはヴィルヘルミナの誘いを断ったのだろう?」
「ええ。彼女の人となりを知っておきたかったから話をしたけれど、私の意思は変わりそうにない。ライナルト様の力になります」
「わかった。私こそ勝手をした身だから、もう止めはしないよ。これがどんな結果を招くかは……あまり想像したくはないけれど、どうなってもお前だけは助けよう」
「強気ね。私が兄さんを助ける側になるかもしれないのに」
「信じる相手の勝利を望むのは当然だろう。……そういうことさ」
皇帝カールの子供達はどちらも皇位を譲る気がない。だからこそ穏やかな決着は迎えられないないだろうと、兄さんすらも予感している。
「……友達のことは残念だった。髪の色は戻りそうかい」
「いつかは戻るんじゃないかって思っているけどわからない。それより皇女殿下にも話をしたけれど、エミールをお願いします」
「責任を持って任されよう。帝都にいる間にやりたいことが見つかればいいのだけどね」
「補佐させるつもりはないの?」
「あの子次第さ。挑みたいことができたのならやらせてみようと思っているよ。せっかく次男に生まれたのだから、わざわざ家に縛る必要はないさ」
以前の兄さんだったら、こうもあっさりとエミールを放す発言はできなかったかもしれない。人はこうも変わるのだと目の当たりにして、嬉しいはずなのに悲しいような複雑な心地だ。そんなだから、次の兄さんの言葉にははっとさせられた。
「アヒムに求婚されたって?」
「へぁ!? あ、う、うん、されました。断っちゃったけど……」
「咎めているわけではないよ。ただの確認だから身構えなくてもいいさ」
「ええと、残念、だったり……?」
どうだろうね、と言わんばかりに微笑まれた。なんだかちょっと、意地が悪くなったように思うのは気のせいだろうか。
「ごめんね、って兄さんから謝ってもらうのは……」
「私に言っても仕方ないだろう。話をするなら本人にしなさい、こういった話に第三者を介入させることほど厄介なものはないよ」
なにやら実感がこもっているのだが、苦労でもしてきたのだろうか。この忠告はありがたく受け取らせてもらうと、最後に言わねばならないと思っていた言葉を伝えた。
「アルノー兄さん、兄さんは彼女が必要としてくれたからといったけど、ここで居場所を作ったのは兄さんの努力があったからよ。それは忘れないでね」
「……ありがとう。それと、力になれずすまなかった」
「それは私もおなじ。本当にごめんなさい。そしてもう、ここで謝るのは終わりにしましょう」
お互い道を決めてしまったから、いくら謝ろうにも交われないのだ。だったら悲壮的になって「ごめん」よりは「またね」と笑っていたほうがずっといい。
アヒムが現れたのは、兄妹の話し合いが終わってからだ。相当絞られたのかげんなりとした様子だったが、若干反省した様子にも……見えなくはない。
さて、彼にはどう対峙しようか。対応に悩んでいると、アヒムは切り出した。
「お嬢さんは最近マリーお嬢さんとは会っていますか」
「え、マリー? それだったら、会ってない。お礼をしようにも忙しいって断られちゃってるから」
まったく予想もしない人物の話題だ。
彼女は恋人の家に居候しているし、以前来たときは恋人とうまくやっているとマルティナに話していたらしい。
だが状況は変わった。アヒムは困ったように髪を掻くと、彼女の現状を教えてくれた。
「最近その恋人と別れたんで、あちこち転々としてるんです。いまのところ仕事をしてる様子もないし、大変なら援助すると伝えても、キルステンには借りを作りたくないの一点張りでして。もし気に掛かるようなら一声掛けてあげてもらえませんか」
「わかった、後で寄ってみる」
「助かります。生活費が足りないようなら融通すると旦那様がおっしゃっていたので、必要ならこちらに言ってください。あ、マリーお嬢さんには気付かれないようお願いします。旦那様に話したってばれたら大目玉食らっちまうし、うちからの資金提供は受けたくないっていまは思ってるようなんでね」
「そこは気をつけるけど、だったら私は大丈夫なの?」
「キルステンとコンラートは別物ですよ。少なくともマリーお嬢さんはそう思っている感じです」
そのあたりはマリーなりの意地があるんだろう。
……彼女にはこの間お世話になったし、そういうことなら力になりたいが、アヒムは告白など忘れたようにけろっとしている。
こころなしか兄さんが呆れているのだが、口を挟むつもりはないらしい。
最後に皇女まで見送りに出てきてくれたのだが、別れ際、彼女はこんなことを言った。
「最後の忠告だ。あいつの傍にいるのは不幸になるぞ」
嫌っているのではない。彼女は真実、私の身を案じているからこその投げかけだ。アヒムはわずかに下唇を噛んでいたのが印象的で、彼らはライナルトを危険分子とみなしているからこその発言だったのだけれど、私の意見はちょっと違う。
「まだ決まったわけではありませんから」
心から笑えた。寂しそうだが穏やかに微笑む兄さんと、わずかばかりでも通じ合えたと信じられた瞬間だった。