196、老いた宿り木
「は――?」
その言葉の意味が理解できないほど鈍くはない。だからいま目の前にいる御仁がなにを言っているのか理解はできていたが、内容が突飛すぎて思考が追いつかない。
だっていくらなんでも突然だろう。
「え? い、いえ、待ってください。リューベックさんの意思? 見かけたって、何故」
「何故、と聞かれるか。どうして私が貴女を見初めたのかと」
「見初め……」
「好意を隠したつもりはありません。避けられていたようだが、本当はお気づきだったのではないですか」
さっきまでは多少なりとも平気だったのに、追い詰められたこの状況がまずく感じてきた。
「や、やっぱりけっこ……」
「グノーディアの門です。あの日、貴女が初めて帝都にいらした日、あの時私は貴女を見下ろせる場所にいた」
だとすると想像より前から知られていた。油断していたからか、片手をとられると爪先に軽く唇を落とされる。離れようにも壁についた手に髪を絡め取られているから逃げようがない。無論最終兵器として私の中にはルカがいて、彼女に頼るのも可能だ。彼女はいまこの状況を把握しているのだろうけど、この人の前で姿を晒すのも、まして魔法を使うのはもってのほかだ。だからこそルカも姿を見せない。
「……と、言いたいですが、貴女自身を存じていたのはそれよりも前だ。老いた宿り木の横に立つ貴女を見かけたことがあります。そのときはただ一方的に知っているだけでしたが、田舎で朽ち行くには惜しいとは感じていました」
老いた宿り木……。
まさかコンラート領、の伯を指している?
彼の言い様は完全に私個人を知っているから、顔を直接見られたことがあるのかもしれない。帝国からの客人となれば私の耳に入るし、ならば身分は明かさず、しかもこれだけの容姿となれば顔を隠していたはず。いつだろうと様々考えてみたけれど、コンラート領は行商人が多く滞在するところだったから特定は難しい。
やっと言えた、そんな表情を隠そうともせず続けた。
「ですから貴女自身を注目したのはグノーディアの門を潜られたときだ。あの時、私は滅亡を免れた貴女に震えを隠せなかったというのに、更には陛下の試練にたぐり寄せられる姿を見たときは運命すら感じた」
間近にみるリューベックさんは湧き上がる歓喜に震え、手を握る力を強めている。だから、と一歩踏み込まれると、さらに逃げ場はなくなった。
「わかりますか、貴女は他の女性とは違うなにかを持っている。私はあらゆる試練を耐え抜き、そして栄光を掴んだ貴女と共に陛下の御代を照らしたいのです。私なら必ず貴女を守り、幸せにできるでしょう」
リューベックさんが喋るたびに細やかな息づかいが指に触れる。熱を孕んだ瞳は力強い言葉と同様に絶対的な自信にみなぎっているが、熱さが過ぎて触れれば火傷どころで済まないのはすぐにわかった。
だから抵抗した。上体を押しやり、ほとんど睨むように離れて欲しいと態度で示す。
「お気持ちは充分に伝わりました。ですがあなたの愛は私には重すぎます、どうかその情熱は他の方に向けてあげてください」
「何故でしょう、私の心では不十分だと?」
「なぜもなにも、そこにいまの返事以上の答えを持ちません」
私はリューベックさんの求婚を受けるつもりはない。騙す理由も見当たらないから事実として受け入れる他ないけど、だからといって応える理由にはならない。
「いくら陛下がお許しになられようと私は応える気はありません」
「カレン殿、よくお考えなさい。帝都に来たばかりの新参者がここまでこれたのは陛下の威光だ。フゴ商会が陛下の機嫌を損ねたのは彼らの過失ですが、そこにコンラートを据えたのは陛下のお陰です」
「帝都の栄えある名家がファルクラムから来たばかりの新参者を御当主の妻に据えてなんになります」
「大事なのは私の気持ちですよ。いまその心は私にはないが、貴女さえ首を縦に振ってくれるのならば、私なしではいられぬ程に身も心も溶かしてみせましょう」
押してもまったく動かない。
男の人が本気になれば敵わないのは知っているけど、こうも差が出るとやはり悔しい。だからせめて曖昧にはせず、言葉と態度くらいはきちんと示そう。先ほどから胸騒ぎが止まらないし、早くジェフの所に帰らねばと本能が警鐘を鳴らしている。
「もう一度言います。その申し出を受けることは決してありません。これで終わらせてください」
拒絶は思った以上に固くなった。これをどう受け取ったのかリューベックさんは押し黙ったけれど、指に絡んだ髪は解けた。横に抜ければ逃げられると上半身を捻ったときだ。
「貴女は憐れな方だ。その考えは早急に正さねばならないでしょう」
目にも留まらぬ速さで腕を掴まれた。壁に縫い付けるように手首を押さえ込まれ、咄嗟に顔を上げると得体の知れない男がいた。
「よろしいですか、公人として我らが皇帝陛下に忠心を示すまたとない機会だとお考えなさい。私人としてならば、貴女を正しく生かせるのは私だけだ」
「私は誰かに幸せにしてほしいのではありません。与えてもらいたいんじゃない、その人と幸せになりたいんです」
「まるで子供のように愚かな考えだ、いますぐ改めたほうが身のためです」
児戯に夢中になる子供を諭す憐れみさえ感じられる。もしそこに一片でも嘲笑があれば怒っていただろうが、そこにあったのは本当にただの慈愛と憐憫だ。だからこそ本当にこの人がわからなくなった。
「みたところ貴女は上を望んでいるのでしょう。そのように反抗的だからこそ、同じように名誉を望んだ貴女の友人は命を落としたのではないですか」
「誰のせいで……」
「貴女が殺しましたね」
今度こそ声に詰まってしまった。
「責めているのではありませんよ。私はあの魔女を蹴落としてでも這い上がった貴女を心底評価している。さぁ、どうか笑ってください。そうでなくては身を挺してでも助けようとした者を手に掛けた意味がないでしょう」
彼女の死に様と引き金の感触が蘇る。ただの幻覚とわかっていても、この人から言われると腹の底にある泥だまりがいっそう疼くみたいで気持ち悪い。捕まっていなかったらたまらず平手打ちしていただろうし、実際見抜かれていたのか簡単に無力化されていた。
「気を悪くされましたか」
「は……なしはそれだけですか」
「どうあっても了承される気はないとおっしゃる」
「ありません」
「そうですか。では後日正式に我が家から申し入れをいたしましょう」
押さえつけられた手は離してもらえた。そのまま彼に背を向けて歩き出すけれど、もう別れの挨拶だとか気にする余裕はない。追いかけてくる気配もないし、このまま去ってやろう。足を動かそうとしたところで踏みとどまった。
確かめねばならないことがあったからだ。
「……あなたは亡きコンラート伯を知っていますか」
返事にはやや時間を要した。もういっそ不気味なまでの含み笑いは、どこか狂気的でもあり到底まともな人間とも思えない。ようやくなぜこの人物が皇帝カールの、そしてバルドゥルの下で飄々とやっていけるのかを垣間見た気がするのだ。
私の問いに対するオルレンドル帝国騎士団第一隊副長ヴァルター・クルト・リューベックの回答はこうだ。
「良き領主だったかもしれませんが、いささか運が足りませんでしたね。ただ、年老いてなお剣の腕は見事であったと評価しましょう」
伯は私がコンラートに滞在していた間、一度の例外を除いて剣を抜いたことはなかった。その一度を見たときだって、ほんのわずかな時間。それはコンラートの最後となったあの日なのだから、この答えはすべてを物語っている。
「……あなたが手に掛けたのですか」
「これは不思議な質問をされる。たしかファルクラムのコンラート領はラトリアの襲撃を受け崩壊した。帝国の一騎士である私には縁のない話です」
「では何故剣の腕などと言われたのですか」
「口が滑ったのかもしれませんね。好きな方には優しくするのが私の主義ですから」
本気で答える気はない。踵を返すと残念そうな声が掛かった。
「お聞きにならないのですか。私はおそらく貴女の知りたいことを答えられますよ。元ご夫君に関しても、それに御友人に関してもです」
「当てがあるのはあなただけではございません。顔を見ていると吐き気がしてくるので失礼します」
いくら情報があると言われてもこれ以上顔をつきあわせるのは耐えられそうになかった。さらにリューベックさんは私になにかを言いかけたが、止めることは出来なかった。
「これで良かった、マスター?」
「ありがと。……ばれなかったわよね」
「他の魔法使い連中にはばれないようにしたから大丈夫。あの男も外套を引っかけたと認識するでしょうよ、気取られはしないわ」
姿なき少女が私にだけ聞こえる声で囁くと、呻くように礼を告げた。振り返らずともわかった。気を利かせたルカがあの人の外套を引っ張ってくれたのだ。
「あの男は貴女の気を引きたいのか、怒らせたいのかどちらなのかしら」
「たぶん、どっちもよ。だってなにを言っても嬉しそうにしていたのだもの」
「……マスターを手に入れるって確信故の余裕かしら。愛というものらしいけど、嬉しくなかったの?」
「嬉しくない」
「そう、人間って奥が深いのね。ならところでワタシ達の行動は無駄にならなかったわ」
「ええ。引き留めてくれてありがとう」
リューベックさんにエルの話をされたあたりから、みえないなにかが足先をつついていた。完璧とは言い難いけれど、それなりに落ち着いて対処できたのはこの子達のおかげだ。