186、知りたい、知ってほしい
奪われないため。
そう呟いたライナルトの横顔は途方に暮れ、誰かを慈しむ穏やかさがあった。私はこの人の過去を知らないし、どんな経験を経ていまがあるのかなんて知らないが、この時は不思議な確信が胸にあった。
「以前、私に子供の頃は商家にいたと話してくれたことがありましたけれど、そこではどういった生活を送っていたのでしょうか」
――知りたい。
そう強く思って口をついた質問に、相手は薄い微笑を浮かべるだけで記憶旅行は終わってしまった。
「貴方に話すまでもない、つまらない過去だ」
すると胸元から小さなナイフを取り出し、近くの花壇から花を一輪切り取った。渡されたのは白と淡い桃色が可愛らしい花だ。
「私にですか?」
「シスから貴方に渡せと言われたのを思いだした。花をご所望だったようだが、やはり花束がよかっただろうか」
シスはちゃっかりライナルトに伝えていたようだ。余計な事を、と思う反面、ちょっぴりだけど感謝の気持ちもある。
ライナルトは花の選び方はうまくない。目に付いた花を選んだのが丸わかりで、開きすぎた花弁は瑞々しさが不足気味だけど、水をあげれば持ち直すだろう。
花柄を潰さないよう、けれどわずかに力を込めて握りしめる。
「いいえ。……いいえ、これで充分です」
これでよかった。
花束だったらきっと美しかった。ナーディア妃に贈った瑞々しく心を惹きつけられる薔薇はさぞ素敵だったと思う。
だけど私はこれが嬉しい。ライナルトが手ずから摘んでくれた、完璧とは言い難いしなびた一輪がよかった。傍目には完璧そうに映るこの人の内面を写し取っていて、胸が躍る気持ちを隠せない。
こういうのをきっと単純と言うのだけど、ええ、なんでもいい。この一本は絶対に返さないと決めて胸の前で握った。
ただ、ライナルトは私が単純にこの種類の花が好きだと勘違いしたようだ。
「庭師に言えばいくらでも摘んでくれるでしょう。束にするよう伝えておきましょうか」
「……この一本だけでいいです」
「私は花に詳しくないが、彩りが足りないのはわかるつもりだ。一本だけ飾ろうにも見栄えが足りないでしょう」
「これがいいんです」
うちに一輪挿しはおいてあっただろうか。この一本だけだってちゃんと可愛く飾れるのだから、見栄えが足りないなんて言わないでもらいたい。
駄々っ子みたいになってしまったが、束にするからと奪われてはたまらない。急ぎその場から離れると、ライナルトも諦めてついてきた。
「ライナルト様はナーディア様をどうしたいのですか」
「ナーディアですか。……どういった意味でだろうか。私は彼女の祖国を想う気持ちに共感しただけですよ」
「ここまで話されたのに、この期に及んでまだ嘘をおっしゃる気ですか」
詭弁だとはライナルト自身も理解しているようである。
なにかしら目的があって彼女を利用しているのは明白で、ナーディア妃がどこまで気付いているのかは不明だけど、決して善意でナーディア妃に手を貸しているのではないのはこれまでの行いからよくわかっている。
「皇太子が危ない橋を渡るだけの価値がナーディア様にあるとして、もし彼らが用済みになった時、ライナルト様は彼らをどうしたいのですか」
話を聞いた通りだが、大陸を手に入れたいと思う人が「反乱組織」に帝国を明け渡すような真似はしない。事を成し遂げれば「反乱組織」の運命は決まり切っているが、その時に彼はナーディア妃をどう処するのかが気になった。
「聞きたいですか? およそ満足する答えは得られないと思いますよ」
「……変わらないのですか」
「いくら貴方の願いでも聞き遂げられるものとそうでないものがある。これは後者に当てはまる」
……これがすべてだ。
彼の答えは声なくとも伝わったし、人の命に対する相互理解は難しい。
「お考えはわかりました。いま話し合ったところで私からできることはありませんから、保留にしましょう」
「おや、そう言われるということはなにか望みがありましたか」
ある。だけどそれはもう少し先の話になるだろう。いずれ、と短い返答で言葉を濁した。
それからは適当に歩いて散策を続けたけれど、時間を潰すには執政館の庭は小さすぎた。
「ライナルト様の夢は、私にすれば途方もない話です。だからこれはもしもの話になるのですが、将来的にライナルト様の望みが叶ったらあなたはどうされるのですか」
「どう、とは?」
「夢が叶ったらその先を……って考えることはありません?」
「……先か」
もはや大陸を手に入れたい、自体がとんでもないからだろうか。その先なんて考えてもいなかったらしく、腕組みしながら首を傾げた。
「モーリッツにもそこまで問われたことはなかったな。だが……やはり無難に国を治めていくのでしょうが……」
考えること数秒、どうやら彼は彼自身の性格を深く理解している。笑う姿は子供のように無邪気で、普段からは考えられない笑みだった。
「私のことだ、きっとこれだけでは足りないと言い出す。そうなったら海の向こうの国を目指せばいい。きっと私の知らない景色がいくらでも待っている」
やはり、と言おうか。大陸と聞いた時からなんとなく予感はしていた。彼の場合はひとつで終わりじゃないのだ。ひとつを終えたらまた次へ、それを終えたらまた次へと見果てぬ夢を目指してひたすら走る。
見る夢はきっとそれだけ。それ以外には頓着せず、命を省みず、だからこそ何者をも恐れないし振り返らない。……彼はそれまでにこぼれ落ちたものに手を差し伸べたりはするのだろうかと気になったけれど、私では到底届かない問いだ。
「面白い話ではありましたが、実現すらしていないものを語るのはやめておきましょう。私にはまだやるべき事が多すぎる」
「私はライナルト様のお心が聞けて嬉しかったですよ」
「カレンは相変わらずおかしな物言いをする。将来を問うなら私こそ聞きたいが、貴方にはなにか夢はあるのだろうか」
「私? それはもちろんコンラートの隆盛です。ヴェンデルが成人して、当主として立派に立ってもらうことが私の夢ですから」
「それはコンラートが滅びたからの話でしょう。ファルクラムで貴方が婚約を断ったのは目的があったと言っていた。その本当の理由を私は知らない」
参ったな、と感じるのが正直な感想だった。
ライナルトがここまで踏み込んでくるのは予想外だったし、かといって彼に色々聞いてしまった以上、私が答えないのはフェアじゃない。私は彼にできるだけ誠実で在りたいのだ。
「……ひとりに」
エルにも詳細は話したことがなかった。だから声に出すには勇気がいるし、自然と緊張に全身がかたくなる。
「ひとりになりたいと、思っていたのですが」
流石に下着で部屋をうろついてビールを一気飲みとまでは言わないけれど、これだって根本は同じだ。人の目を気にしたくない、自立したい、関わってほしくないとは自分も関わりたくないのと同意義だ。少なくとも私にとっては同じになる。
この答えはライナルトの予想を大きく裏切ったらしい。心底意外な様子で、そのため私も居心地が悪くなり、途端目線を合わせるのが難しくなった。
叱られた子供みたいな気分になるけど、あながち間違っていない。
「それは、なぜ?」
「……迷惑をかけたくない、ので」
人間社会で生きる以上人と関わらないで生きるのは難しいけれど、距離を置くのは簡単だ。私は家族や友人が好ましいと感じる想いとは別に「前世」があるから、どことなく心に距離を置いていた。いまにして思えば他人事みたいに接した部分もあった……かもしれない。自分を客観的にみるのは難しいから「かも」でしか語れないけれど、そうだったと思う。
姉さんが側室にならなかったら、きっと一人でどこかに行って、一人暮らしをしながら適度に誰かと距離を置きながら過ごしていた未来があったんじゃないだろうか。
多分、それが揺らいだのはコンラート。
頑なであろうとした心に伯やスウェン達の優しさが沁みてしまって、私は揺らいだ。
「私は……」
「迷惑をかけたくない。どう思われるのかが怖い。嫌われたくない。……なるほどねえ、甘え方を知らない臆病な心の典型的な在り方だわ。貴女の属していた社会じゃそんなのもよくある人の形のひとつだったんだろうけど、貴女ってなんてつまらない人間なのかしら」
耳の後ろで響いた声はライナルトのものではなかった。




