179、貴女に贈る花束
「あいつ、ここぞとばかりにからかってきて……!」
「あの魔法使いに悪ふざけの話題を与えると面倒ですよ。こちらが嫌がる時に、ここぞとばかりに仕掛けてきますから」
「ゾフィーさんもシスに遊ばれたことがあるんですか?」
「いいえ。私は運良く標的になることはありませんでしたが、遊ばれた人は見たことがあります」
「その人、大丈夫でした?」
「あの魔法使いのせいで婚約寸前の女性に振られたらしく、やけ酒を」
「うわぁ……」
後宮区画は私の知る宮廷と違う趣をみせていた。表側は華美であらゆる絵画や贅を尽くした様相であったが、こちらはすべてにおいて地味だ。目が疲れないよう装飾は控えめだが、丁寧な彫りが施された逸品ものが揃っている。すれ違う侍女達は頭を下げて道を譲ってくれるが、腰を折る角度から表情まで統一されており機械的。
全体的に空気は張り詰め、ピリピリとした空気が流れている。
「帝国の長は皇帝陛下ですが、宮廷の半分、特にこの後宮は皇妃殿下が取り締まっているといっても過言ではありません。外部とはまるで違う世界です」
「細かいことはゾフィーさんでもわからない?」
「ゾフィーです、カレン様。そうですね、後宮は私のようないかつい女は好まれませんでしたから、長く立ち入ることはありませんでした。住まう者にしかわからない規則も多いはずですが、四妃様に会うのがこうも大変とは存じませんでした」
「他は違うの?」
「もっと気軽にお目にかかれたはずです」
ゾフィーさんは頼りになるのに、見る目がないな。もっとも彼女がここで気に入られてしまってはうちに巡り合わせる機会がなかったから、その点では感謝だけれど。
私たちを迎えに来たのは、やや年老いたふくふくしい侍女だった。
「四妃ナーディア様の元へご案内いたします」
こういう人は侍女の中でも地位が高いはず。
侍女の後ろに続く最中、通りすがりの侍女や警護に目を向けていた。ここの侍女は見目の整った人が多いのだが、それが警護の男性にまで及んでいるのに呆れてしまったのだ。
後宮事情に思いを馳せる最中では、さらに興味深い出来事に遭遇した。
四妃の地位の高さに驚かされたのだ。
ナーディア妃が古株なのは知っていたが、明らかに側室であろう女性に道を譲られたのである。
側室は侍女に対し露骨に眉を顰めるも、不承不承ながらに脇へ逸れる。これは彼女の地位が使用人にすら劣ると示しているに他ならない。
すれ違い際に聞こえた舌打ちは彼の女性ではなかったはずだが、侍女は意にも介さず進んでいく。彼女らの姿が見えなくなったところで、振り向きもせず言った。
「ナーディア様は長きにわたりこの国に望まれている御方、成り上がりの才無き者に妬まれるのは仕方ないのでございます」
「ですが……」
「心配には及びません。あの御方は半年も後宮に留め置かれておきながら侍女のしつけが行き届いていないのですから、すぐに暇を出されるでしょう」
侍女さんも辛辣だった。
皇帝カールの後宮は入れ替わりが激しいと揶揄されているけれど、巷風に言えば大抵の側室は消耗品である。大半が野心家で、あの女性も例に漏れず皇帝の寵愛を一身に受けるべく画策しているのだろうが、下げ捨てられるのも時間の問題らしかった。
四妃ナーディアの住まう館は後宮のさらに奥にあった。
宮廷内に家がぽつんと建っており、周りを木々が取り囲んでいる。一瞬街に戻ってしまったかと錯覚を覚えるが、唯一違和感を覚えるとしたら建物の背後にそびえ立つ壁。この高い壁の向こうが堀となっており、四妃を閉じ込める檻の役目を果たしている。
小さな一軒家には、わずかながら庭が整えられている。薔薇の生け垣が整っており、そこで四妃ナーディアが剪定鋏を握っていた。彼女は値の張った絹のドレスではなく、動きやすさを重視した、もっと言ってしまえば安っぽい簡素な服に身を包んでいる。
彼女の姿を見た侍女がさっそく悲鳴を上げた。
「おひいさま! お客様がいらっしゃると申し上げたではありませんか!」
「あら、もういらしたの」
日除けの帽子は麦わら帽子だった。式典会場で会った時よりも表情は活き活きとしていたし、まるで化粧っ気もない。
「いらしたの、ではございません! 準備をしておいてくださいとお願いしたではありませんか」
「病気の枝を見つけてしまったのよ。手入れが遅れてしまうと問題でしょう?」
「そういう問題ではございません! 大体お客様がくると言ったのもおひいさまではありませんか!」
ナーディアを前にした途端、居丈高な雰囲気を崩さなかった侍女が様変わりした。四妃は侍女の悲鳴にもころころと笑うばかりだ。
「お客様を前になんてお姿をしているのです! 相手はコンラート夫人でございますよ、急いで支度を……」
「山の都の話を聞きたいなんて子はまともなお客様じゃないわ。間違ってもあの男の使いではありません」
山の都。その名を出した瞬間、侍女の目がぐるりと回った。信じられないものをみる形相でこちらを見つめており、警戒心を露わにしたのだ。反してナーディアは気楽なもので、帽子を脱ぎながら笑いかけてくる。
「このサンドラはわたくしと同じ山の都を祖国とする者です。小さい頃からわたくしを守ってくれているから、このお話には敏感なの」
山の都の生き残りは王族だけと聞いていたから驚きだった。だが話を聞く前に、彼女には渡さねばならないものがある。
「ナーディア様、本日はお招きいただきありがとうございます」
「いいのよ、約束したでしょう? それより、そちらの薔薇はなにかしら。とても珍しい色をしているけれど……」
「ライナルト殿下からです。ナーディア様にお招きされたと知って、これを渡して欲しいと……」
「殿下は本当にわたくしの好みを知り尽くしているのね。でも、紫の薔薇とはあまり喜ばしくないわね」
ほんのりと陰るナーディアの微笑みだが、それよりも彼女の発言の方が引っかかった。
いまのはどういう意味だろう?
そして侍女さんは山の都と聞くなり、主への注意をやめた。固い表情のまま生け垣に近いテーブルに席を整えたのだが、宮廷側からは四妃が上手い具合に隠される位置だったと、後にゾフィーさんに教えられている。
ライナルトが贈った薔薇は花瓶に生けられた。
彼女は花弁を一枚引き抜き、指で弄びながら話し出す。
「お化粧はあまり好きではないの。今日は気分が乗らなかったし、お客様を前に失礼だとは思ったけれど堪忍してくださいね」
「化粧が手間だと思う気持ち、よくわかります。それより薔薇の手入れをされていたようですが、ここはナーディア様が?」
「そう。薔薇だけではなく、この家の植物は全部わたくしが面倒見ているの。庭師にやり方を聞いていたら楽しくなってしまって、それからはずっとね」
注視するとナーディアの爪は土で汚れ、所々にささくれができているけれど、本人はそれすらも嬉々としている。聞けば目立たぬ場所で野菜も育てているらしく、あとで食べきれない分をお土産にくれるとまで語ったのだ。お土産はともかく野菜なんてもらっていいのか、悩ましくはあったけれど彼女の一声で断れなくなった。
「なるべくわたくしたちで消費しているけど、ここにいるのはわたくしとこのサンドラだけでしょう。余った野菜は捨てられてしまうだけだし、仕方ないとはわかっていても心が痛むの」
「廃棄、ですか。せっかく作ったのに、どなたも食べられない?」
「ええ、見た目も味も悪くない出来になったから、一度厨房に使ってくださらないか尋ねてみたけれど、妃の作った野菜は恐れ多くて食べられないと断られてしまって。余ったのなら捨てなさいと皇妃様に……」
……本当にもったいない。
有難く頂戴させてもらうと返答すると、彼女はことさら喜んだ。この小さな一軒家には二人しか住んでいない。家の掃除洗濯も人の手を借りるのを好まず、後宮の中で二人暮らしに近い営みを行っていた。
「必要な衣装は宮廷のお部屋に預けてありますから、必要なときだけ伺う形ね」
「そ、そんなことできるんですね」
「長く住んでいれば、このくらいはね。……貴女は後宮のことを知らないようだけど、なにも教えていないなんて、殿下は意地悪だわ。あの方の性格は存じているつもりだけれど、もうちょっと優しくしてもいいのにと思わない?」
愛想笑いくらいしかできなかった。彼女はライナルトより年上だけれど、年齢に反し若々しいから彼と並んでもおかしくない。
どうしてこんなにライナルトと親しいのだろう?
花弁を弄る四妃の指は段々と花の汁で汚れていく。目が合った彼女は優しい微笑を浮かべたまま、不可解な言葉を口にした。
「それで、外の様子はどうなのかしら。思わしくないのはわかりましたが、よもや皆が捕まってしまったなんてことは……」
――う、ん?
「ナーディア様?」
「あの男は長年民の反乱を恐れていました。機会を得たいまは、ここぞとばかりに自らの敵を滅ぼすつもりです。今度ばかりは如何様にしてもむずかしいかもしれません」
その言葉には悲しみ、焦燥、苛立ち、色々な感情が織り交ざっており、ひとことには判別し難い。わかるのは、胸の内に留めていた言葉が溢れて止まらないようだという一点のみだ。彼女に同調したのか、サンドラさんも痛ましげに瞳を閉じていた。
「いまわたくしが口を挟めば、間違いなく彼らとの繋がりを疑われるでしょう。反逆を掲げる者の援助をしているなどと知られては、わたくしといえども処刑は免れない。ですから殿下はわたくしと距離を取り、わたくしもその判断に従った。ですが心ある民の命が危ういと聞いて、黙ってばかりはいられません」
「あの」
「どうか殿下に伝えてもらえませんか。わたくしの、山の都や滅ぼされた国々の想いはこんなところで潰えていいものでは――」
「ナーディア様っ!」
声を上げると、ようやく止まってくれた。
「あの、声を荒げてすみませんっ。ですが、あの、いまのはいったいどういう意味で……」
「え? あら?」
「か、反逆の意志とか、心ある民とか……援助……とか……」
きょとんと目を丸めた四妃ナーディアと侍女サンドラ。二人は顔を見合わせると、まさか、と呟いた。
「やだ、本当にご存じなかったの」
「ですから、なにがでしょう」
「だって山の都と……それに殿下から花束も……」
「え、ええ。渡して欲しいと言われたからお持ちしましたが、私はナーディア様に山の都のお話を伺えると思って……」
なんとも言い難い沈黙がお互いを支配した。ナーディア妃は、困惑しつつも状況を把握しようと口を開く。
「まさかと思うけど、本当に山の都の話を知りたかっただけなの……?」
互いに、なにか大きな話の食い違いが発生している。
脳裏に浮かんだのは、したり顔のシスと花束を持たせたライナルトの微笑であった。




