176、道交わりて
家に帰り着いた途端、影から黒鳥が飛び出した。
「影の中って居心地悪いのかしら……」
「様子を見るにはしゃいでるだけでは? 問題があるようなら捕まえますが」
「聞き分けがいいから構わないのだけど……なんなのかしらってずっと考えちゃうのよね。……ただいま、ウェイトリーさん」
「おかえりなさいませ」
軽快に跳ねる黒鳥がウェイトリーさんにまとわりついても、柔らかい微笑で受け止めてくれる。
マルティナがいるかと思ったのだけれど、彼女は家に帰ってしまったらしい。ここのところまともに話せていないな。
「ひどく慌てておりましたので、わたくしが帰しました。ここのところ思い詰めたように働き尽くめでしたので、ちょうど良かったかもしれません」
「最近様子がおかしいのですよね。でももう栄典が終わって落ち着けそうですし、そのうちマルティナと話す機会を設けないと」
「お願いできますか。エミール様もお気づきになっているらしく、それとなく聞こうとしてるのですが、なんでもないと言うばかりで……」
「顔色も悪いし、ちょっと痩せたような気がするの。本当にどうしちゃったのかしらね」
マルティナは気がかりだが、先に用事を済ませてしまうべきだろう。重苦しいドレスから解放され、向かった二階の書斎。秘書官部屋となっているその一室に、予想外の人物が座していた。
「どうも、お邪魔していますよ」
「クロード、行儀が悪い」
「癖だよ、許せ。いい机を見るとつい格好つけたくなる」
バダンテール調査事務所所長、クロード・バダンテール氏だ。黒を基調とした金銀の刺繍が入った派手な衣装が眩く、ニヒルな笑みを浮かべている。
ウェイトリーさんの椅子に座り、机に足をかけた姿は若々しい。机の上には猫のクロがだらりと横になっており、まるで悪の幹部の佇まいだ。
「クロードさんがいらしていたのなら教えてくださったらよかったのに」
「申し訳ありません」
「ウェイトリーは私抜きで話をするつもりだったのだろうが、無理矢理押しかけさせてもらった。栄典が終わった後に話をするといっていたので、いつになるかは目星がついていたんでね」
「クロードさん抜きでって……ウェイトリーさん?」
話が見えなかった。二人は示し合わせたように頷き合うのだが、持ちかけられたのは、意外な提案だ。
「カレン様さえよければ、クロードを我が家の顧問として迎えたいのです。以前はバーレの件で建前上名乗っていましたが、今回は嘘偽りなく本格的にです」
驚きの内容だった。ウェイトリーさんによれば以前から考えていたそうで、クロードさんには内々に相談していたらしい。
「コンラートはわたくしが考える以上に名が大きくなってきました。初めのうちは徐々に人を迎えれば良いとマルティナや新しい秘書を迎えていましたが、やはり人手が足りません。特に今回は……おわかりでしょう」
「トゥーナ地方ですか」
運営はトゥーナ公が保持する方向性だが、建前上はコンラート所有にしなければならない。これに伴う取り決めはもちろん、本格的に決まればいくらかお金が流れてくるだろう。さらに言えばトゥーナ公たっての願いで新しい貿易が結ばれる予定だ。
ウェイトリーさんは、到底いまの人手では足りないと言いたいのだ。
「フゴ商会から誰か引き抜ければとも思いましたが、それでも限界があります。帝都にとってわたくし共は新参者、信用できる人材を見つけるには時間が必要です」
「それでクロードさんを?」
「元外交官ですからいささか畑は違いますが、口は回りますし、少々ながら経営にも明るくございます。加えてこちらに住んで長い。顔も広いのであちこちに融通が利くでしょう」
ウェイトリーさんの言葉に合わさるように、ご老体が気障っぽく片手を振る。
クロードさんと会えばお小言が増えるウェイトリーさんだが、実力を認めているのは確かだ。これまで帝都で経験は必ずコンラートのためになると説明された。
「クロードさんがコンラートに付いてくださるのは、もちろん嬉しいです。ウェイトリーさんの紹介だからというのもありますが、元外交官である方をお迎えできるのは嬉しく思いますが……」
さて、なんと説明したものか。
反対したいわけではないのだ。全面的に信頼を置くウェイトリーさんのお墨付き、大手を振って歓迎できる人材だけれど、不可解なのはその理由。
これに対し、クロードさんはウェイトリーさんに席を外すよう頼んだ。
「お前がかつてないくらいに私を褒めてくれるのはなんというか……嬉しくもむず痒いが、ここは私が当主代行と話すべきだろうよ。この年になって面接とはさて、どう売り込むかな」
わくわく顔でこう言われるのだから、こちらが身構えてしまう。まったくどちらが面接官かわかったものではない。
ウェイトリーさんが席を外したのを確認すると、握手を交えた挨拶と労いの言葉をかけてくれた。
「色々あったと聞いているが、ひとまずは元気そうでなによりだ。あまり休む暇がなかったと聞いているが、体調はどうかね」
「こうしてお話できるくらいには問題ございません。いまは動いていた方が考え込まなくて楽なくらいです」
「そうか、まぁ誰しもそういう時期はある。病気だけはしないよう気をつけたまえ」
「ありがとうございます。クロードさんはお変わりありませんか」
「美味い茶を飲みながら他人様の面白おかしい秘密を知る日々は刺激に溢れている。おかげで病気とは縁遠いから事務員に嫌がられているとも」
「所員さんにはお気の毒ですが、伏せられるよりは良かったです」
やっぱりこの人が所長だと苦労する事が多いのだろう。
「ウェイトリーは顔色がよくないな。あれで回復していると聞いたが本当かね」
「負担をかけている身で恥ずかしい限りですが、随分よくなりました。新しい人も頑張ってくれているので……」
「ああ、責めているわけではない。あいつは昔から我慢をするし、補佐官時代なんぞ特にそうだ。平気な顔をしているくせに、ある日突然倒れるもんだから苦労させられた。倒れる前に休めるようになっただけ随分良くなったのだと感心していたんだ」
「……意外です。ウェイトリーさんって無茶する方だったんですね」
「熱意の溢れる男でしたよ。私は仕事だから嫌々帝都に乗り込んだが、あいつは戦争を終わらせたい一心で食らいついてきましたからな」
本人が語る嫌々が事実かはおいといて、こうして話すクロードさんは顔色もいいし、健康なのは本当のようだ。最近はご老体の顔色をついつい気にしてしまう。
それというのも少しずつ快方に向かっているウェイトリーさんはともかく、庭師のベン老人の調子がよろしくないからだ。郊外での休暇をそれとなく勧めたが、コンラートから離れるのは断固拒否、例えこのまま死そうともコンラートと共に在るといった具合でにべもなかった。
「庭の改装がまだ済んどらんのです。坊ちゃんにはエマがいた頃の花壇を再現すると約束しましたし、薬草だってまだまだ足りてない。他に庭の手入れを出来る者がおりますか。この老体を労ってくれるのは嬉しく思いますが、頼みますから、そんなことはいわんでください」
こう懇願され、どうして断れよう。
帝都にいる限り、そこに住まう人々は微量ながらも毎日魔力が吸われていく。健康な人なら寝れば回復する程度の極々微量でも、それすら回復が及ばなくなった人にとっては害でしかないのだ。そうした背景があったから言わざるを得なかったものの、気持ちは痛いほどわかるから無理はいえなかった。子供達と一緒に休暇と称して郊外で休ませる案も浮かんだが、期間も不明だし現実的では無い。なにせベン老人は我が家で最期まで看ると決めたのだ。生かすためではあってもこんな事実は話せないし、そうなってしまったら追い出す形となり約束を反故にしてしまう。当然ヴェンデルも納得しないだろう。
いまは力仕事をヒルさんやハンフリー、ジェフといった男衆がベン老人を手伝い、少しでも負担を軽減し、現状維持の状態だ。
ベン老人について思いを馳せていると、クロードさんは真向かいの小さな椅子に腰を埋め、上半身を前のめりにした。
「さて、と。雑談に興じていたいが、流石に本題に入らねばならないか。……先にお伝えしておくが、貴女にはこの申し出を受けてもらいたい。いや、受けてもらわなくては困るとお伝えしておく」
いつになく真面目な形相で、ふざけた様子は一切見当たらなかった。
「断ると言っているのではないのです。ただ、お気を悪くしないでほしいのですが、以前クロードさんは……」
「相談役ならともかくコンラート専属にはなれない、そう言って付添人を断りましたな」
誕生祭の時、クロードさんは私の付添人を断り、そのためモーリッツさんに相手役をお願いすることになった。調査事務所を兼ねる所長として中立を保ちたいと述べた意を汲み取ったから、突然の話に戸惑ったのだ。
「正直なところ、死ぬまでこの方針を変えるつもりはなかった。中立を謳っていた方が事務所は儲かるし、方々の嫌みも少ないですからな」
などとぶっちゃけられた。そうだよね、調査事務所なら色々な秘密を握っている場合もあるはずだ。私が知るクロードさんはお金と権力が大好きな人である。その旨みを捨てる理由がわからなかった。
「表向きは所長である私と調査事務所は別とするつもりだ。うちの連中は優秀だから客足は途絶えないと踏んでいるが、それでも難しいなら現役引退くらいに持って行くかな」
「あくまで退く気はないのは伝わりました。でもそこまでして顧問になってくださるのは何故でしょう?」