160、希望と私怨
顔を上げたとき、馬車は既に家の前に到着していた。
「……すみません」
「落ち着きましたか?」
「はい。ありがとうございました」
「いいや。私は手を貸すくらいしかできない」
「……とても嬉しかったですよ」
いつまでも手を借りているのは悪い。ライナルトの手を離そうとした瞬間、手の平を上に向けてひっくり返された。
「内出血を起こしている。あまり強く握りすぎないほうがいいだろう」
「……はい。けど、もう大丈夫でしょうから」
「こと自分の事に関しては、貴方の大丈夫はあまりあてにならないな」
信用とは難しい。
ライナルトの懸念はもっともだが、今は本当に問題ないのだ。泣き笑いになってしまったけれど笑顔を作った。
「もうなにもしたくないと……そう思っていましたけど、そういうわけにもいかなくなりました」
この人にはいい加減説明せねばなるまい。
「お時間を取らせて申し訳ないのですけれど、うちに寄っていってください。まだ私も確信にはいたっていませんが、お見せしなくてはならないものがあると思います」
「――ふむ」
思います、なんてあいまいな言葉だけど、誘いに乗ってくれるようだ。馬車を降りるとハラハラした様子のマルティナが出迎えてくれたのだが、皇太子の顔をみるなりぎょっと目を丸くする。
「ウェイトリーさんにお茶を用意するよう伝えてくれる? 私は顔を洗ってきますからライナルト様を中にお通ししてください」
「は? えっ、あ、はいぃぃ……!」
ウェイトリーさんならライナルトくらいの相手でも慣れているが、マルティナにはまだ難しいらしい。それでも貴人の前で醜態を晒すわけにはいかないと考えたのか、叫び声を呑み込むとぎこちない動きでライナルトを先導し、ニーカさんもそれに続いた。
残ったジェフが階段を上がりながら教えてくれる。
「クワイック夫妻に関しては、アーベライン殿が手配してくださるようです。ニーカ殿がその方がいいだろうと……」
「そう、モーリッツさん達には改めてお礼をしなきゃね。……本当なら私が進めなきゃいけないのに、ありがとう」
「これから先は人手も足りなくなりますから、できる仕事は私に振ってくださって構いません。これでも慣れていますから、少しはご負担を軽く出来る自信はありますよ」
「……そうね。貴方が殿下付きだったこと、つい忘れそうになる」
「そうですか? 私は最近、よくあの方との日々を思い返しています。毎日が奔走の日々で……ああ、もちろん悪い意味ではありません」
「わかってる。でも迷惑かけてることはちょっと悪いと思っちゃうかな」
「あの頃より落ち着いた毎日が送れるだろうと考えていたのは確かです。ですがコンラートに来てからの日々も好きですよ」
彼は部屋の前までついてきた。そして別れ際、こう言った。
「これは私の考えですが、貴女はおそらく大変な道を行こうとされている。武芸に秀でているわけでも、魔法が使えるわけでも、特別家柄が優れているわけでもない一人の女の子がです。ですから私から言えることはあまりないのですが――」
自分の手をじっと見つめたかと思えば、おもむろに私の頭の上にぽんと乗せた。
「一人になってはいけません。誰かを頼り、共に歩んでください。権力志向が強い宮廷では人を見極めることすら苦労が伴うでしょうが、それでも困難に陥ったとき人との繋がりは必ず貴女を救い、時に武器になるでしょう」
「ジェフ」
「……過ぎたことを言いました。それでは、私はチェルシーの様子を見に行ってきます。カレン様もお早い支度を」
彼なりの激励だったのだろうか。足早に引き返す背中の存在はひたすらに心強く、優しさを感じられた。
「……鼻かも」
もっと綺麗に泣くことが出来たらどれだけよかったか。漫画や小説でご婦人が涙を流すシーンがあったけれど、現実は鼻水が酷いので私も相当醜態をさらしている。なにも言わなかったライナルトには感謝しきりだ。もし指摘されたら、向こう一年くらいは布団の中で思い返して悶絶していたに違いないだろう。
顔を拭くなどして簡単に身支度を調え階下に降りると、ライナルトの相手をつとめていたのは子供達である。傍ではウェイトリーさんと、緊張でがちがちに固まったマルティナが佇んでいたのが印象的だった。
「ヴェンデル、エミール。お客様の相手をありがとう」
私はまだ目元が充血している。二人とも心配そうだったが、笑ってみせると安堵していた。
「二人とも、それにマルティナ。せっかくなのだけれど大事な話があるから席を外してもらえないかしら。あとエミール、ジルがどこにいるかわかる?」
「ジル? ええと、この時間ならベンと一緒に庭にいるはずだけど……」
「後で呼ぶから、ジルと一緒にどこかで待っててもらえる?」
「……わかりました。ジルを連れて待機してます」
皆不可解そうではあったが、客人の前とあって反論を唱えるつもりはないようだ。これで残ったのはウェイトリーさんと、いつの間にか戻ってきていたジェフのみ。子供達はライナルトと挨拶をかわすと退室するのだが……。
「あああああ、せっかくのお召し物が……!」
「構わない、小動物に触れるのは久しぶりだ」
ヴェンデルの後をついてきたクロとシャロが、ライナルトの傍で遊んでいたのだ。あのその、二匹の毛がお洋服に……。
動物がいてなんだか締まらない雰囲気だけれど、ちょっぴりご機嫌っぽいライナルトを前に、新顔に興味津々のクロを追い返すのも気が引ける。
しょうがない、と腹を決めて居住まいを正した。
「本題を申し上げます。おそらくですが、エルが遺したものを見つける方法がわかりました」
ご機嫌そうだった雰囲気が一気に重くなった。ライナルトは微笑みを崩さないが、ニーカさんの眼光は明らかに鋭くなった。
「それをあえて口に出されるからには、なにか要求があるとみえる」
「おっしゃるとおりです」
ファルクラムから付き合いが続いているだけはある。
「ライナルト様には良くしていただいております。ですからコンラートとして皇太子殿下に忠誠を尽くすのに異論はございません。他に力を貸したい方もおりませんから。……ただ、こちらの件に関しては殆ど私の私用――いえ、私怨と思ってくださって結構ですが」
「そこを疑うつもりはない。――用件を」
「あなたの企みに私も混ぜてください」
混ぜて、なんて遊びに加わりたい子供っぽい言い方になったが、本来はそんな言葉では言い表せないくらいの大事なものだ。
コンラートはライナルトの庇護を受けている。故にライナルトに力添えするのは当然で、今後もそのつもりでいたが、それでも帝都における彼らの活動について肝心な部分は色々と伏せられたままだ。私の力不足といった諸々の部分もあるが、それも含めあえて加担させろと言ったのだ。
ウェイトリーさんとジェフにはなにも相談していなかった。それも当然で、これはついさっき……おばさんの言葉を聞いてから決断したのだ。
ジェフから言われたばかりだけれど、こればかりはなんと反対されても引き下がる気はない決定事項だ。
「貴方をないがしろにしたつもりはないが、それでは不服だと?」
「そうは申しておりません。ライナルト様のお心は……私の力量不足から話せない事も多くあるといった点も承知しております。……ですが、もし彼女の遺品を貴方に渡したとして、それで終わりと言われては到底納得できません」
近々エルの実家をしかるべき手続きと手段で調べて物品を引き取るつもりだが、どこまで手に入れられるかはかなり怪しい。
「粗雑に扱うつもりはないが、報告だけでは満足できないと」
「無理です。それで終わらせるのでしたら、ライナルト様のお考えについて口外はいたしませんが協力はできません」
「――それは困ったな。何故そうしたいのか理由を聞いても?」
全然困ってる様子じゃないから、どこまでが本心かは不明だ。ただ弱小なりに協力的ではいたつもりだから、少しは交渉の材料になると信じている。
「過程はどうあれ、私が引き金を引き、彼女を殺しました」
それにおばさんに託してまで遺された物だから、最後まで結果を見届けたいのだ。
若干強気でいられるのは……ここは不服ではあるが、ベルトランドの娘であると周知されているからだ。多少ながらもバーレ家当主と縁を繋げるきっかけになれたからだろう。
あとは……考えたくもないけれど、悪い魔法使いを退治した功績による名誉。皇帝が声明を出していた以上、必ずどこかで影響が出てくるはずだった。
皇帝はエルの脳で脳吸いをしたがっていた。バルドゥルからの報告で、茫然自失だった私が望んで彼女を撃ったわけではないはずだと聞いている可能性がある。
……エルを連れていく間際のバルドゥルの台詞からして、計画は半分破綻している。あの自信に満ちあふれた笑顔の裏で、きっと内心腹を立てている。ざまあみろとしか言い様がないけれど、嫌がらせになにかしら表彰はされると踏んでいた。
それらを伝えた上で、言った。
「私はエルの命と引き換えに栄光を授かるでしょう。託された者として、彼女が残したものがどんな結果をもたらすのであっても最後まで見届けたいのです」
視線を逸らさなかった。
今回は普段のどれとも心が違っていた。先も述べたがこれはもう完璧なまでに私怨なのだ。
いままでならいずれコンラートはヴェンデルに返すものとした前提があった。あくまでも代理人である私の個人的な感情にコンラートのすべてを巻き込むのは躊躇があるためだ。
けれど私はどうしてもエルの死に納得できない。たとえ彼女が招いた結果で、仕方ないと本人が口にしていても「しょうがない」なんて言いたくない。死んでほしくなかったのだ。
「彼女が死ぬ以前ならともかく、私にもこれまで以上に理由が増えました。ライナルト様ほど未来を見据えているわけではありませんが、あれの破壊を私も望みます」
だから私は『箱』を壊そうと思う。ライナルトの望みだからではなく、私自身の希望でエルの願いを叶え、私怨で皇帝のよすがを砕きたい。けれどそのためにはライナルトへの協力が不可欠であり、彼の計画を全て知る必要がある。
なんと言われようが構わない、これがいまの私なりの理由だ。
「貴方の思いは汲もう。私としては異論を唱えるべくもないが、いますべてを明かせと言われても難しいだろう。折を見て順を追う形になるのは承知してもらいたいな」
「仲間はずれにならなければ結構です。……ええ、そこまで子供じゃありませんので」
私がにこりと微笑んで締結は成された。
さ、そうと決まったら約束は果たさないと。ウェイトリーさんにエミールとジルを連れてくるよう伝えた。