159、ただ『それ』を伝えるために
この時ほど過ぎる時間がもどかしいと感じた日もそうそうない。
私は友人を手にかけた。それがどういう状況だったか、真実を知る人は不可抗力だったと言ってくれるかもしれないが、エルの両親にとっての事実はひとつだけ。娘は帰ってこない。彼女はオルレンドルの敵とみなされ、その友人はのうのうと生き延びている。
――ふと、思った。
私は彼らを救いたいと願った。望む形で再会は叶わなかったけど、そうじゃなかったとしても、二人に会ってなにを話したかったのだろう。
エルは自殺したんです。あのとき追い詰められた彼女は、自分で死ぬだけの力が残っていなかったから――。
そういえば納得できるのだろうか。
誰よりも娘を大事にしていたおじさんとおばさんが、そんな言葉で慰められるだろうか。
しかもそれを伝えるのは、彼女を殺したとされる女からなのだ。
……見えていなかった現実がいまになって押し寄せてくる。
ライナルトには話を聞くからなんて言ってはみたけれど、そんなこと出来るわけないこと、彼とてわかっているはずだ。あんなこと口にした自分が滑稽で、救いようのない愚か者だったから嘲笑が隠せそうになかった。
「カレン様?」
「ん?」
「……いえ」
ああ、けれど考え込むのは一人になってからでも充分できる。いまは二人を無事に生かすのが優先だ。
馬車は揺れ、帝都を走りやがて門をこえる。易々と徒歩で戻って来れない距離を稼ぐと道外れで停止し、兵士達がぞろぞろと降りはじめた。
ジェフがこっそり耳打ちする。
「いまは人気も少ないですが、蹄の跡も多い。これならすぐに商隊が見つかるはずです。ここは盗賊も少ないはずですし、この時期は夜を迎えても凍えることはないはず」
「ええ、私も見覚えがある道です。……ここで解放してくれるなら比較的安全かもね」
だからといって絶対に安全ではないが、良心的な人に保護してもらえる可能性もあるはずだ。
幌馬車から降ろされた夫婦は不安そうに周囲を見渡していたが、兵士が身柄を解放する旨を伝え、腕の縄を解いていく。
……あとは、本当にただの放逐。
私とジェフが警戒していたのはここで二人が斬られるシナリオだ。口封じのために命を奪う可能性を考え警戒していたが、兵士が剣の柄に手をかける様子も、サミュエルが魔法を行使しそうな気配もない。
兵士が放たれた虜囚の背中を押した、その瞬間だった。
大人しかったはずのおじさんが呻った。突然のことに周囲が慌てるも、おじさんは兵士をはね除け大股で私の方へとやってくる。
恨みを孕んだ目だった。
ここまでよく暴れなかったと思うのはお門違いだろうか。娘の仇が目の前にいるのに、のうのうと黙っている人ではないのだ。
ただ、そんなおじさんの思いは虚しく止められる。
兵士は一人じゃない。我に返った彼らはあっというまにおじさんを押さえつけるも、おじさんは「あーあ」と呆れるサミュエルを無視し、涙をとめどもなく流しながら叫ぶ。
「この人殺し!!」
……刃を突き立てられたわけでもないのに、胸がズキリと傷んだ。錯覚ではない痛みは、傷口からじわじわと憎悪が巡ってくるようで、けれどそれを止める術はなく、気を落ち着けるためゆっくりと息を吐く。
娘を失った父親は抵抗を止めない。兵士に殴られようと暴れるのを止めず、従って彼らの意識はおじさんに集中するのだが、その隙間を縫って飛び出してきたのは中年の女性。
私に飛びかかろうとしたおばさんを止めたのはジェフだった。伸ばした腕を絡め取ると背中に回して拘束するのだ。
護衛の名に恥じない動きだ。常であれば彼を褒めるところだが――。
「ジェフ、離しなさい」
「しかし」
「やめなさい、これは命令です」
強く言い放つと、ジェフがおばさんから手を離した。おばさんには駆け寄った勢いのまま頬を殴られたけど、想像よりはずっと弱い力だった。
「あの子を返せ!」
涙ながらに怒鳴るけれど、返す言葉はない。
真実は話せない。エルとライナルトの密約、彼女の研究結果である『なにか』は一般の人が知っていい内容ではない。従って、エルの死の真相は伏せるべきだ。
なにより夫妻は行き場のない悲しみに暮れている。家族を、生活を、財産を、何もかも失った人々をコンラートで見てきたから知っている。これ以上の絶望は彼らから生きる意欲を奪ってしまう。
なら、せめて怒りでもいい。感情をぶつける先を繋げておかなければ、お金を渡したところで娘の後を追ってしまうかもしれない。
故に、選択したのは沈黙だった。
「どうしてあんたが生きてるんだ! どうして、どうしてあの子が死ななきゃならなかった!!」
首元を掴まれると思いのほか力が強くて背中から倒れ込んだ。その私に覆い被さるようにして、肩から地面に押しつけられる。
「なんで、なんで……あんなにいい子だったのに、あんなに、あんなに……」
上から滴が降ってくる。
水にしては随分しょっぱい液体がぽたぽたと降り注ぐ。怒気は段々と嗚咽に変わって、倒れ込むように上体を倒れこませるのだ。
悲しんでいる。それがわかるのに、言うべき言葉があったのに声が出ない。
殴られて悲しい反面、むしろ安堵していたのだ。
無気力になるよりは怒りを抱えてもらった方が、この先も生きられる見込みがある。
「――――……を――……」
――――え?
「……申し訳ありません、カレン様」
ジェフがおばさんを引き剥がす。すっかり大人しくなってしまったおばさんは嗚咽をこぼしながら泣き崩れる。おじさんはあちこち青あざを作り、二人してエルの名前を呼んでいた。
もう暴れる気配は見えなかった。
兵士は夫婦の嘆きより面倒が去ったことに胸をなで下ろしており、サミュエルはなにを考えているかわからない表情だ。
呆然と二人を見つめる私に、ジェフの心配そうな声が掛かる。
「大丈夫ですか」
「え、あ、ええ……」
「殴らせてやりたかった気持ちはわかりますが、それ以上は見過ごせませんでした。お許しを」
「……いえ、あなたの行動は正しいから」
おじさんとおばさんから目を離せなかった。
やがて二人は無理矢理立たされると追い立てられるように発つのだが、なにも持たない後ろ姿に声をかける者がいた。
サミュエルである。
いつのまにか、何処かから取り出した鞄を二つ持っていたのだ。顔をぐしゃぐしゃにしながら不安そうに振り返る夫妻に鞄を渡すと、いけ、と言わんばかりに顎をしゃくる。
街道に向かって遠ざかっていく二つの背中はあまりに小さく、これから二人の行く末を思えば胸がぎゅっと締め付けられる。ライナルトの手配を信じないわけではないが、せめて、あまり遠くに行かないでもらいたいのだが……。
「サミュエルさん、二人に渡した鞄はなんですか」
「餞別ですよ。これから行く当てもないのに、身一つじゃどこにもいけないでしょ」
その台詞にこちらが驚かされた。まさか彼が二人のために荷を用意したというのか。
「ああ、変なもんは入れちゃいない。最低限の道具と食料や金を突っ込んだだけだ。……追いかけて確認します? どうせ言ったとおりのもんしかでてきませんが」
「……いえ、私が行っても追い返されるだけですから」
「おやまァ自分をよくわかっていらっしゃる」
「わかっているというよりは……」
サミュエルと会話をするのは疲れる。彼らも帰るし、私たちも帝都へ戻るべく御者に指示を送った。
「森に伏兵されていたらお手上げですね」
「そうね。でも多分、伏兵はないと思う」
「なにか確信があるのですか? そういえばあの男に対しても妙な事を言っていましたね。たしかひとかけらの真実だとか……」
「……勘、みたいなものだけど」
たいした理由じゃない。
馬車の窓から街道を眺めると、二つの背中は木々の生い茂る森の続く道へ消えようとしていた。
「殺すつもりなら処刑すればよかったのよ。それをわざわざ手続きして追放なんて手間をかけるとは思えないし、それに……」
「それに?」
……サミュエルはエルやテディさんを裏切った男だ。はっきり言って私は彼が嫌いだが、だからといってその発言全てが嘘で塗り固められているとは思わない。
彼はおそらくテディさんやエルを嫌ってはいなかった。非常に歪ではあるけれど、彼なりの感情と、望めるのであれば彼に存在する誠意が二人の命を助けたと思いたい。
「……早く戻って二人のことを伝えましょう」
「承知しました。ところで先ほどから口元をお隠しになっていますが」
「なんでもないの」
帝都に戻ると、人気の無い場所で馬車を乗り換えた。
座席にはすでに待ち人が鎮座している。
「ご無事でしたか」
ほっとした様子で出迎えてくれたのはニーカさん。奥にはライナルトが座っており、彼の真向かいに腰を下ろす。ジェフはニーカさんに二人のことを伝えているはずだ。
「どうでしたか」
何気ない質問だったが、その声を聞いた瞬間だめだった。
喋ろうとして失敗した。
コンラートのときみたいだ。あの頃のような失態はしないと思っていたけれど、またやらかした。
落ち着くように呼吸を整えてみるけれど、なかなか上手くいかない。上体を曲げるとなるべく迷惑にならないよう声を抑えて、しかしその分だけばかみたいに涙が零れる。
「……カレン」
違う。
悲しかったわけではない。おじさんとおばさんに罵倒されたのが悔しかったわけでも、言いようのない感情に胸を支配されたわけでもない。
「ちがうの」
嬉しかったのだ。
あの瞬間、本当に離れる直前までは二人に殺したいほど恨まれていると思っていた。
否、実際悲しんでいたとは思う。どうしようもない怒りに苛まれていたのも本当だ。あの慟哭に嘘はない。
我慢し続けていた嗚咽が零れる。無理、もう無理。
「ふた、り、わた……し、の……ため、に」
けれど、本当に恨んでいたらあの言葉が出てくるだろうか。
私は聞いた。確かに聞いたのだ。
押し倒し縋り泣かれた刹那、おばさんがそっと口にしたエルからの伝言をしっかりと刻んだのだ。
「…………い」
エルが二人にどこまで話していたのかは、もう知りようがない。彼女がなにを警戒して、どれほど先を見通していたのか知る術は見つからない。もしかしたらなにかを察していたのかもしれないが、彼女は既に逝ってしまった。
だけど、エルは遺していた。
『もしも』のときのために両親に言葉を託していたのだ。それを二人はきちんと受け取って、悲しみながらも私へ伝えてくれた。わからないなりに考えて考えて、私に害が及ばない方法で伝えてくれたのだ。
だって、だってだ。
ライナルトの言うとおり、愛娘を失った親が、仇を前にたとえ一時でも大人しくできようものか。例え声を封じられていようと、腕を拘束されていても暴れずにいられるものか。最後に巡ってきたチャンス、おじさんの行動は賭けじみた陽動で、おばさんを動かすために兵士の目を引きつけた。
そうと気付いたのは、ジェフに剥がされたときのおばさんの目がちょっとだけ優しかったからだ。いつだったか昔、エルと私が一緒にいたときに見せてくれた、愛情に満ちた眼差しだった。
「ふ……っ――」
二人とも娘の死の真相を知るはずもないのに、ただエルの言葉を伝えるためだけに行動を起こした。
「ごめんなさ……」
私がエルを殺しました。あなたたちから娘を奪いました。
こんなところで、本来言うべきだった謝罪を声にした。
人をはじめて殺した感触はまだ忘れられない。罪悪感も去ってくれない。頭が吹き飛んだ彼女の姿も脳裏から離れない。
けれど遺言となってしまった言葉を届けられてしまっては、言葉にならない許しを得てしまっては、泣きじゃくるだけではいられない。
差し出された手を握っていた。
泣き終わるまで握ってくれた手のあたたかさが確かに支えになったのだと、いつか彼に伝えられるだろうか。




