155、一時の眠りへ
エルが連れて行かれると、身体を動かすことが難しくなった。
何かをしなければならないのは上手く働かない頭でも理解できているが、しかし物を考える行為そのものが億劫だ。
いっそ気を失うのが正解か。そう思っても妙に冴えきった意識が邪魔をする。
結局私に出来たのは手にこびり付いた血や、辺りに飛び散った彼女の頭の痕跡を見つめるくらいだ。
立ち上がるのが難しい。
呆然と座るしかない私に声をかけたのは、聞き慣れた中年男性の声だ。
「……立てますか」
行方がわからなくなっていたジェフだった。無事だったのね、と声をかけようとしても、思うだけで声は出ない。振り返るのも疲れるから答えられなかった。
ジェフは怒らなかった。
申し訳なさそうな声で、労るように腕に手を添える。
「間に合わなかった罰はあとでいくらでも受けましょう。ですからいまは、御身を優先させてください。お疲れでしょうから運んで差し上げたいが、背中に怪我がある。……立てますか」
細かな傷を負っていたらしく、言われて初めて痛みが身体を襲い始めるのだから人間の痛覚はいい加減だ。
「どうか治療だけでも。――ここは目に毒だ」
腕を引き上げられると、身体はジェフの言うことを聞いていた。腰は抜けていなかったらしく立ち上がれたけれど、今度はあちこちに散らばった彼女の私物が目に飛び込む。
「治療はわたくしが引き受けましょう」
知らない声がした。顔はわからないけれど、年を経た女性特有の凜とした声音に隣のジェフが狼狽えた気配を見せる。
「――しかし」
「言ったでしょう。わたくしは彼女が憎いから手を貸したわけではないし、だからこそ貴男を保護した。それは他の長老とて同じ事、すべてが追放を望んでいたわけではないのです。それにこの状況がその子にとってどれだけ残酷かくらいは理解しているつもりですよ」
歩み寄ってきた人は、私の手首をそっと持ち上げた。
「おいでなさい。ここにはもうクワイックはいません」
床に散らばったパンの欠片を見つめていた。あれではもう食べることも難しいだろうな、食べる人ももういないのだけれど――。
連れて行かれたのは薬草の匂いが充満する小部屋だった。椅子に座らされると、背中に回った女性がボタンを外していく。助手らしき女性が手を貸していた。
「心配しなくても細工などしませんけれど、不安でしょうからそこに立っているといいでしょう。終わったら振り向いていただいてよろしいですよ」
「……そうさせてもらう」
「貴女も、聞こえてはいますね。破片を抜くから少し痛みますよ。……ああ、殆どは防護魔法が効いていたのですね」
肩の後ろらへんから鈍い刺激が全身を貫いた。ただ、やはり声は出ない。自分でも信じられないくらいに全てが億劫だ。
「背中と、腕と指です。……耳は聞こえているようですね。初期実験段階では音で耳をやられた子がいたのですが、それは解決していると。反動は……」
「腕を庇っているそぶりがあった、見てもらえるか」
「よろしいでしょう。……反動は解決しなかったのですね」
「師匠。同時に治しますか」
「やってちょうだいな。体力を消費しますが、いまは眠るくらいがちょうどいいですからね」
指と腕に触れた女性が状態を伝えていく。
引き金から指を離す際はなにも感じなかった痛みも、こうして時間が経つとじわりと効いてくる。
師匠と呼ばれた女性は色々とジェフに話しかけていた。
「帰ったらよく休ませてあげてくださいな。治療もですが、銃は使用者から魔力を奪います。わたくしたちのような魔法使いであれば威力も絞れますが、彼女のような一般人ではただ生きるためだけの魔力を奪う。クワイック製となればなおさらです」
「その銃とやら、使用者に負担をかけると?」
「クワイックの開発した薬品を使用します。ただしその薬品は魔力を帯びている、わたくしたち魔法使いの力を必要とするのです」
女性の話によれば弾丸に魔力を込めて撃つそうだ。魔法使いが扱いに長けているが人本来が持っている魔力を消費すれば使用可能だと言った。
「クワイックほど完璧に操作できたものはいまだにおりませんが、力の強い者が使用すればある程度狙いを操作することも出来るとか」
エルならば、例え天に向かって一発撃ったとしても真向かいに立っている相手を穿つこともできたようだ。一般人では真っ直ぐ飛ばすのがせいぜい、魔法使いでもある程度は狙いを付けないと難しいようである。
「そのような兵器の存在、私ですら機密であるのは理解できる。教えてくれるのは罪悪感からか」
「さて、どうでしょう。ただ誤解をしてほしくはないのですが、わたくしは確かに彼女を惜しんではおりますけれど、自身の決断に後悔はありませんのよ」
それが長老というものだ、と女性は言って治療が終わった体に服を着せてくれる。
「わたくしは彼女とあまり話す機会がありませんでしたが、クワイックにもう少し協調性が備わっていたのであればと思いはします。彼女の活躍で滅び行くだけの魔法使いは再び注目を浴び始めた。それに感謝はすれど、同時に力の均衡を崩してしまったのですから」
厚手の外套を羽織らせてくれた。呟かれた一言は独り言だったのだろう。
「それに陛下の懸念が事実であれば、あれが解放されてしまうと帝国の――」
深いため息と共に「終わりましたよ」とジェフに声かけがなされる。
「休んでいきなさい、といってもここでは気は休まらないでしょう。……迎えも来たようですから、連れて帰っておあげなさい」
手にこびり付いた血液もあらかた拭われていた。背中の痛みはなくなっており、ジェフに横抱きに抱えられて魔法院を後にする。
全身を気怠さが支配していた。全身を覆う疲労に身を任せたい衝動とは反対に、不思議と意識は冴えている。
外に出たジェフは誰かの前で立ち止まったらしかった。
「軽くだが話は聞いた。ひとまず送ろう」
ライナルト達のようだった。 ガタゴトと揺れ出した内部でジェフとライナルトは情報をすり合わせる。
彼に話しによれば、エルの研究室に到着寸前で壁に阻まれ、私の姿が見えなくなってしまったそうだ。来た道を引き返した先で人に囲まれたが、先ほどの女性に助けてもらった。
女性や服装の特徴から、ライナルトはその人が長老の一人であると即座に見抜いた。
「比較的中道派である長老まで抱え込んだとなれば、やはり魔法院全体の意思だろうな。それで、何故貴公だけが術にかかった。あの長老は無用の犠牲を嫌ったはずだ、おそらくは彼女も保護しようとしたはずだが」
「カレン様も保護したかったのだとは感じました。ただ、カレン様にはすでに防護魔法がかかっているからと」
「……クワイックの計らいが仇となったか」
会話は耳に入っているが、やはり口を挟む気にはなれなかった。他にも色々喋っていたようだが、すべてを覚えるのは難しい。
「私が保護するか迷ったが、家人が世話したほうがいいだろう。周辺には人を置いておく、なにかあったら隣に保護を求めるといい」
「は――」
「彼女にも聞きたいことが多々ある。……が、それは今度だ」
ライナルトは話を切ろうとしたが、ジェフは聞き足りなかったようである。
「貴方には聞きたいことがある。彼らの話しぶりでは、どうやら彼女が反帝国派と繋がっている……或いはそれ以上の『何か』をやたら不安視していた。貴方がそうであるとは言わないが、もしやと思うがこうなることを予知していただろうか」
「まさか。私は予言者ではない。知っていたら貴公らだけで向かわせるような真似はしなかったろうよ」
「では彼女との繋がり、その証拠を消すような真似もしなかったと? 現状、彼女との繋がりを疑われて一番困るのは貴方のはずだ」
ここで小さな咳払いが間に入った。
「……お二方、話し合いは結構ですがいまは控えられるべきかと」
ニーカさんの声だ。どうやら彼女も一緒にいたらしい。
「ジェフ殿。……義に厚いのは結構だ。貴方のその人となりは評価するが、いまは主を気遣うのが先ではないか」
「――わかっている」
「貴方が言いたいことはわかる。だが殿下も危険を承知で駆けつけてくださった点を……どうか考えていただきたい」
それきり、馬車内はシンと静まりかえる。
やがて馬が足を止めたが、玄関口ではウェイトリーさんやマルティナが佇んでいたが、その顔は緊張に固まっていた。
「皆様ご無事でなによりでございます」
固い声にただ事ではないとライナルトも気付いた。礼の形を取る余裕もないらしく、ウェイトリーさんは苦々しさを隠さず言った。
「突然我が家に第一隊なる方々が押し寄せ、捜査だといって家の中の物を……」
ジェフやライナルトに事情を説明している間に、足はふらりと家の中に入り込んだ。マルティナが私を呼び止めるけれど、止まるのは難しい。
「カレン」
「姉さん」
驚くヴェンデルとエミールの声が重なった。どうやら怪我はなかったようで、傍にはヒルさん達が控えている。
家の中はぐちゃぐちゃだ。たくさんの人が踏みいった痕跡が残っており、壁の絵画は床に落とされているし、棚はすべて開かれていた。
「カレン、なにがあったの。あの人達、家の中を突然ぐちゃぐちゃにしていって……。魔法品は特に怪しいって、それにエルの部屋の物をほとんど持って行っちゃった」
廊下に設置したはずの硝子灯がなくなっていた。
ヴェンデルの言うとおり、エルの部屋は特に荒らされている。洋服がしまってあった箪笥は肌着に至るまでひっくり返されていたし、寝台はシーツは当然、中を裂いて中身を探り、あまつさえ本体をひっくり返された痕跡があった。数少ない宝飾品はすべてなくなり、設置した金庫は姿形もない。
「ねえ、怪我したの?」
ヴェンデルの問いには答えず、部屋の中央に落ちていた無残な枕を抱きしめた。わずかに香るのは、エルの髪の匂いだ。
視界の端にお揃いにした帽子が落ちている。踏まれたせいで飾りが飛び散ってしまっていたから、もう使えないだろう。
あれも結局、お試しで被ってくれた以外は身につけないままだ。
彼女にお揃いだといったらちょっと恥ずかしそうに唇を尖らせたのを覚えている。「気が向いたらね」と素っ気ない返事だったけれど、いつか私と並んで身につける予定だった帽子だ。
後ろからジルが鼻を擦りつけてくる。
動けなくなった私に、ヴェンデルは何かを悟ったようだ。
そっか、と寂しそうに呟くと頭を抱え込むように抱きしめてくれる。
「おかえり」
どうやらもう休んでもいいようだ。
現実は覆らないけれど、ひとときの安らぎになるのを願い、重たい身体に身を委ねて目を閉じた。




