130、あなたの言葉が痛い
「ライナルト様がばらしたんですか……」
「殿下の心遣いを無下にするつもりかね」
「滅相もございません」
「それで、踊りはどうだね」
「……鋭意、練習中です」
嫌みかってくらいに溜息を吐かれたけれど、反論できないのが悔しい。
知られたくない話がどんどん広がっていく。クロードさんの戻り次第といったところだが、お戻りが遅い場合はモーリッツさんにお願いするほかないだろう。
「ところでモーリッツさん、あのリューベックさんと仲がよろしいようですが……」
「夫人はどうやら頭に重大な欠陥がおありらしい。医者にかかることをお勧めする、なんなら医師を紹介できるがどうかね。医師の正しい判断が下されるのであれば、陛下の誕生祭も出席せずによかろう」
「ちょっと冗談を言っただけじゃないですかぁ」
「私は雑談に興じるつもりはない。用件は手早く済ませたまえ」
でもモーリッツさんって無下に帰そうとしないし、なんだかんだでお話に付き合ってくれるし、これで結構饒舌になっているのだよね。以前エルに聞いた様子ではシスの被害者には優しい対応だったし、案外面白い人なんじゃないかしら……と思っていたら睨まれた。
「ええと、その、間違いでなければ、どうもリューベック氏にあからさまに好意を向けられているようなのですが、やはりバーレ家関連なのでしょうか」
「ご自身にバーレ以外の価値があると?」
「……そうですよねぇ」
この人が言うことはもっともで、私もバーレ家関連かしらと考えないわけではないのだが、どうもあの人を見ていると果たしてそれだけなのかと首を傾げたくなる。ところが私の回答にモーリッツさんはわずかに片眉を痙攣させた。
「謙遜は嫌いではないが、夫人はよほどご自身に自信がないようだ」
「……別にそんなつもりはございませんが」
「殿下に気にかけていただける誉れを理解していない人間は不愉快だ」
「ええ……。でもモーリッツさん、調子に乗ったら今度は図に乗るなって言うでしょう?」
「乗ってから言いたまえ」
否定はしないんだ。
モーリッツさんは置いていた本を手に取ると、用はないと言わんばかりに開いて視線を落とす。
「なんにせよ、リューベックの嫡男には気をつけることだ。あれは陛下のお気に入りなだけはある、夫人の首を捻る程度ならば一瞬で済むだろう」
「まったく安心できない忠告をありがとうございます」
もしもだが、バーレ家関連でも役に立たないとわかればあの笑顔を向けるのをやめてくれるかもしれない。
モーリッツさんも目を合わせてくれなくなったし、ここらが潮時か。
「モーリッツさん。今日の実験の……エルの作った新しい発明は、これから軍に影響を与えますか」
ページをめくる指が一瞬だけ跳ねた。どうでもいいけど、本を読むペースが早くて本当に読んでいるか不安になる速度だ。
「夫人がそれをどこで知ったかは問わずにおくが、私の所感を述べるくらいならよかろう。あれは扱う人間によるが、危険な代物だという認識はしている」
「……やはり戦に使われると考えるべきですか」
「発言は注意することだな。エル・クワイックと親しければなおさらだ」
注意は端的だった。だがモーリッツさんの言葉は刺さりやすく、わかりやすい。
「あの長老は己の欲望に忠実だ。相手が誰であろうと技術力で乗り切った気分屋を動かせる人間は非常に少ない。ましてこちらに着任以来、大人しく手を引かれるなどと幼児じみた姿は見せた例がない」
「……エルはそこまで大変ですか」
「大変どころではない。帝都はいま、巨大な嵐に襲われている最中だからな。放っておけば害を成すと疎まれる部類の嵐だ」
「ご忠告感謝します。それでは、これで」
想定を遙かに超えてエルの状況はよろしくない。制御するならいまのうちだと忠告を胸に刻むのだが、そこでお付きの方に異常者を見る目で見られた。
帰宅しても慌ただしかった。書類仕事もあったし、ダンスの練習と、なによりクロードさんが帝都に帰ってきたとの連絡だ。クロードさん自ら訪ねてこられたが、色よい返事はもらえなかった。
その理由としては、彼なりの帝都で生きる理由が詰まっている。
「付添人に選んでいただける光栄は何物にも代えがたい喜びだが、残念ながら貴女の指先に口付けをすることはできない。なぜなら私はすでにお父上の件で相談を受けたという形で関わってしまった。この件だけならまだ同郷のよしみでと通じるが、誕生祭の二部に同伴したとなればコンラート、ひいてはライナルト殿下に肩入れしたと噂されるだろう」
だからできない、と断られた。
バダンテール調査事務所の強みは帝都内様々な著名人に通じている点である。勢力に数えるまでにもならないが、謂わばバーレ家と同じ中立を保ち、だからこそ各方面から仕事を獲得し情報を得ることができるのだ。その強みを捨てるのは難しいと、調査事務所代表として判断したのだろう。
しかしクロードさんは「ただし」と付け加えた。
「祖国を捨てた身ではあるが、かつて駆け回った麦畑や夕焼けを懐かしむ気持ちまで彼方に投げ去ったつもりはない。いまは中立である方が都合が良いのだとどうか理解してほしい」
「クロードさんのご判断ですから、無理を通すわけにもいかないでしょう。……誰か、手間をかけますけど、モーリッツさんのお屋敷に人をやってください。いまから手紙をしたためます」
急いで手紙をしたためて、これにて付添人はモーリッツさんで決定である。初めて出会った頃は、まさかこんなことをお願いすることになるなんて思いもしなかった。
私のステップを見るたびに顔色が悪くなっていくマルティナと訓練を重ね、バーレ家訪問を前日に控えた真夜中。突如として帰宅してきたエルの訪問を受けた。
家人が寝静まった夜中にドアをノックされたのである。驚きつつも迎え入れると、魔法院で会ったときとは打って変わって疲れ果てている。疲労よりはやつれている、と表現する方が正しいだろうか。
なにがあったかは知らないが、彼女のそんな顔を見るのは久しくなかった。ソファに座らせて甘いものでも持ってこようとしたところで止められたのである。
「すぐ院に戻るから気にしないで。ちょっとこっち戻れなくなったというか、一度実家に戻ったりすることになるから、その前にあっておこうと思っただけ」
「そのためにわざわざ?」
「……戻るっていった手前、顔合わせとかないと気にするでしょうが」
「よくおわかりで」
なにもこんな深夜にとは思ったが、早朝にはまた院に戻るつもりのようだ。部屋にいくと絶対寝るだろうし、起きられる自信がない、とぼやいた。
「だからって椅子で寝るのは疲れるでしょ。私のところで寝る? 朝になったら起こすよ」
「カレンは何処で寝るのよ」
「一緒に寝るよ。隣に詰めたら寝られるだろうし、私も朝早いから寝過ごすって事はないだろうから」
エルはしばらく迷ったが、私の勢いにおされて一緒に寝ることになった。学生時代を思い出して楽しいといったら、お疲れの彼女に悪いだろうか。ファルクラムでは兄妹水入らずで一緒になって寝たけれど、あの日を想起させていた。
「ふふ、こういうの懐かしいね」
「……なに、気持ち悪い声だしてるわよ」
「エルが甘えてくれるのっていつぶりかなーって思ったの。ねえ、よかったら手を繋がない。私の家に泊まったときはよくそうしてたでしょ」
「あれはカレンが寂しがるから、母さんがしてくれたみたいに真似しただけ。それより家主が端に寄るんじゃないわよ、もっと真ん中に来て寝なさい。……後ろ向いて」
背中を向けて横になるのだが、なんと後ろから抱きつかれた。さながら気分は抱き枕だけれど、不思議と悪い気はしない。
……彼女がこうして甘えてくることは滅多にないし、なにかあったのかな。
どれくらいのあいだ沈黙を共有しただろう。エルとだったら気まずくなることはないし、いくらでも構わないのだけど。背中に頭を押しつけられる感触にくすぐったさを覚えていると、こんなことを呟かれた。
「こんなこと言うと関係が壊れるかなと思って黙ってたんだけど」
途端、穏便どころではない空気である。エルは喋るのを止める気がないようだが、一体何だろう。怖いことは言わないでほしいが……。
穏やかに、驚くほど落ち着いた様子で話し始めた。
「でもその前に前のは言い過ぎた。カレンだって死にたくて死んだわけじゃないのはわかってたのに、酷いこと言った」
「平気よ。私も言い過ぎたし、エルの本心じゃないのはわかってる」
「苦労してるのはわたしだけじゃなかった」
「いいってば。そう思う時は誰にだってあるよ」
これでも付き合いが長い方なのだ。エルなりに苦しんでいたことくらいはわかるし、激怒するものではない。彼女の方が傷ついているだろうと明るく言ってみたのだが、返ってきたのは一層辛そうな溜息だけだ。
「カレン、あんたどうして怒らないの」
痛いくらいに抱きしめられた。不思議なことにこちらは怒っていないのに、悲しんでるのはエルのようだ。
友人を泣かせるつもりはない。だから辛そうにするのはやめてほしいのだが、どうにも止め方がわからなかった。それ故にできたのは否定だけだ。
「なんで? 怒ってないって言ってるじゃない。別に嘘ついてないよ?」
「カレンのこと、カレンのお兄さんに聞いてきた」
うん? まさか魔法院で兄さんをご指名した話か。個人的な用事だと言っていたけど、もしや私の話だったのだろうか。聞いてみると、答えは是であった。
「昔っから少しおかしいとは思ってて、でもカレンは元々日本人だし、自分を見せないだけと思ってたけど、それでもあんたの沸点は高すぎる」
「変っていいたいの? 私が怒ることがなかったみたいないい方は止してよ。怒ったことくらいあるでしょ」
「他人のことに関してならいくらでもね。でも自分の事はほとんど後回し」
それは、まぁ、そう見えるだけだ。
でも気性の違いは民族性もあるのではないだろうか。
エルが何を言いたいのかわからなくて、うまく声を出すことができない。その間にもエルはずっと後ろから私を抱きしめるのだけれど、不思議なくらいにそのあたたかさが体に沁みてくる。先ほどまでの懐かしい気持ちはどこへやら、無性に彼女を振り払いたい衝動に駆られてしまうのを、拳を握って堪えた。
「ええ、と、もしかしてコンラートのこと、怒った方がよかった? でもエルにも事情があっただろうし、ほら昔から話してたじゃない。車にせよ道具にせよ反対はしてないって。大事なのは使い手の問題で教育や正しい知識を……」
「違うでしょ。いまそんな話はしてない」
声には出来の悪い娘を叱るような力強さがある。そういえば彼女はかつて子を持つ母親だったか。ふと、もう声が思い出せなくなった、かつての『お母さん』の姿が脳裏をかすめた。
「ああ、と。なら、コンラートを優先した話? あれは状況が状況だっただけよ。エルは叱ったけど、一緒に暮らした人達を放っておくことなんてできないじゃない。言っとくけど、自分を蔑ろになんかしてないからね」
「あんたを見てると」
「エル」
それ以上はいけない。語気を強めてみたけれど、その気もないのに声が震えていた。これでは彼女の言葉を肯定しているようで、すぐに改めなければならない。
暑くもないのに汗を流していた。心臓がばくばくと音を立てて痛いくらいだし、たったそれだけなのだけれど、エルに気付かれるのは嫌だというわけもなく――。
お願いだから言わないで。
「自分にわざと課してるようにしか思えない。なにをそんなに怯えているの」
――やめて。