100、先のない部屋
扉から見る限り、部屋の作りや家具はまったく一緒で、だからこそ頭が真っ白になってしまった。だってそうだろう、普通扉の向こうは廊下で、あったとしても別室だ。最悪でも灯りすらないような暗い場所を想定していたら、同じ壁紙、同じ調度品の部屋があるなんて流石に予想できない。
ノブをつかんだまま、十数秒は身動きが取れなかった。
こわい。動くのが、こわい。
「ぐ、ぅ……」
……でも、後ろを振り返るのはもっとこわい。
喉から悲鳴が弾け出そう。
できうる限りの恐怖を頭から追い払って、見た目、まったく変わらない部屋に一歩踏み出す。目指すのは真っ直ぐ、部屋を横切るように通過すれば同じ作りの扉がある。
自分でも笑えるくらいの忍び足でそっと歩き出して、ほとんど無意識に、横目で部屋の様子を確認する。
見たかったわけじゃないのだ。私は『それ』が動かず机の上に突っ伏しているのだけを知りたかった。部屋以外はおかしなことなどないのだと自分に言い聞かせたかったのである。
だけど、そう甘くはなかったようだ。
ヒュウ、と乾いた音が立ち、それが自分の喉を通過した空気だとわかったのは一呼吸置いてからだ。
嬉しいことに部屋に変化はあったが、素直には喜べない。
机に突っ伏す『それ』はいない。その代わり、奥の壁に背を預けて座り込む『誰か』はいた。これも俯いているせいで顔はわからない。髪は短くて、服装からして男性のようにも見えるけれど詳細は不明だ。性別をわかりにくくしているのは、やはりこの『誰か』も骨に皮がくっついているだけの物体だったということだ。
どのくらい動けなかったかはわからない。一分が十分かもしれなかったし、三十秒も経っていなかったかもしれない。理解できるのは、ここにある音は私が出す呼吸音と、僅かな動作音ばかり。本来、多少なりとも耳を澄ませば聞こえてくるはずの鳥の鳴き声や、風が窓を叩く音、木々のゆらめきは一切届かない。
ここに許されるのは切り離された死と静寂だ。無意識にそれを悟ったとき、足は扉に向かってかけ出していた。
理由は簡単だ。
嫌だ、と思ったから。それ以外になにがある。
「――……は」
次の部屋へと続くノブは回せた。扉も開いた。けれどあったのはやはり代わり映えのしない部屋。違ったのは壁に背を預ける『誰か』がいなくなって寝台に不自然な膨らみがあったこと。
四部屋目は……顔が見えてしまった。上を向いて寝転がった誰かさんは、寝衣を纏っているわけでも、男物の服を着ているわけでもない。桃色のドレスで着飾った亡骸が部屋の中央で両手を組んで倒れていた。
ここまでくると、それぞれの部屋で枯れ果てている彼らは別人なのだと断言できる。四部屋目は足早に通り抜け、五部屋目。今度は部屋がぐちゃぐちゃになっていて、寝台で横になって息絶えた誰かが倒れていた。
六部屋目。部屋の中央に椅子。天井から不自然な紐が下がっていて、先端は輪っかになっている。床に落ちた亡骸の詳細は語りたくない。
七部屋目。これが通り抜けに一番苦労したし、最悪だった。一部屋目以上に逃げ出したくなったとも言えよう。遺体は二体であり、服装からしておそらく男女。女の方がしわくちゃになった布団の上に倒れているが、シーツは赤黒く染まり、近くに短剣が落ちている。
そちらだけならまだマシで、最悪と評したのは男の方が扉の前で事切れているせいである。
戻りたい衝動に駆られたが、どうせ戻っても死体しかない。それに六部屋目に戻るのも御免だ、あれを目にしていると自分まで壊れてしまいそうな気持ちになる。決断までの時間はそう長くなかったけれど、服の端をつかんで引きずって、なんとか通れる道を作る作業は始終鳥肌が立ちっぱなし。わけもなく汗をかくし、逃げたい泣きたい喚きたい感情はごちゃ混ぜになって身体の中を駆け巡る。
もう嫌だ、と口にしたら全身が動くのをやめてしまうから、奥歯をきつくかんで、次のノブをつかむのだ。
――たとえ部屋を通過するたびに、内部の惨状が酷くなっていようとも。
覚悟を決めて八部屋。次はどんな酷い光景が待っているのか、腹を据えて先を進む。
中の様子をそうっと窺いながらおそるおそる足を踏み入れると、
「来た」
背後から声がした。誰も居ないはずの部屋、すぐ後ろから知らない男の声がした。
理解するよりも早く背中を押される。完全な不意打ちに絨毯に倒れ込んで、慌てて身を起こしたけれど、振り返った先に扉はない。
「え、あ」
七部屋目に繋がる扉が消えていた。
「うそ」
我慢していたはずの声が漏れる。嘘だ、嫌だ、そんなはずはない。入室前には見えていたはずの、九部屋目に繋がるはずの扉もない。この部屋に存在したはずの出入り口がすべて消えている。
「うそ、うそうそうそ」
ない。遺体がない。この部屋にはこれまであったはずの遺体がどこにもないのだ。我慢していた怖気、蓋をしていた恐怖心が心の関を破って一気に襲ってくるのを止められない。
縋る気持ちで窓に行くけれど、足に力が入らないせいで動きは遅かった。ようやくたどり着いた窓を、それこそ壊れるくらいの気持ちで何度も叩いた。出して、ここから出してと叫んだところでようやく気付く。
……音がないとはわかっていたが、窓から見渡す限りの景色が動いていない。空も、木も、なにもかもが停止している。この部屋は二階部分に該当するようで、階下を見下ろせば、八つの黒い影がゆらゆらと揺らめいている。ぼやけているから容姿はわからないけれど、共通しているのはそのどれもが双眸を見開いているということ。そして眼球を見開いてこちらを、いや、『私』を見ていて。
その瞬間、多分、私は叫んだ。全力で窓から遠ざかって縮こまった。理解したくない。それなのに、いい加減気付けと脳のどこかが叫んでいる。
「やだ、やだ、いやだぁ……」
わかってる。本当は部屋を越えるたびに、こうなる予感がしていた。だけどそれを認めたら先に進めなくなるから、無意識に彼らを直視するのを避け、考えるのを止めていた。
部屋を進むたびに死んでいる人達の服装が変わっていく。一部屋目は夜着だったけれど、古めかしいデザインだと感じていた。それが段々と目新しくなって、七部屋目の男女に至っては最近とそう変わりない服装だった。
そしてこの部屋は出入り口が消失した。これまで見かけたはずの亡骸がないとなれば、次にこの部屋であれらのようになるのは――。
誰か助けてと呻いて、駄々をこねる子供のようにみっともなく泣いたけれど、涙は次第に尽きてくる。
涙を拭いながら辺りを見回したとき、ほんの少しだけ、曇った頭は晴れていた。
……帰りたい。
怖い、という感情が勝っている。それでも身体が動いてくれたのは、家に帰りたいと強く願っていたからだ。椅子をつかみあげると壁に振り下ろし、最後は窓に向かって椅子を投げてみたけれど壊れる気配はない。
椅子を投げるだけでもへとへとだったから絨毯に座り込んだけれど、その間、自分に言い聞かせるように深呼吸を繰り返した。
「みんな探してくれてるはずだから、下手に動いちゃ駄目」
情けない話だが、いまになるまでほとんど彼らの存在を忘れていた。私がいなくなったからには絶対探してくれているはずだ。向こうには、性格はともかく実力はあるはずのシスもついている。
パニックになっている場合じゃないはずだ。
はやる気持ちを抑えて、ぎゅっと目を閉じ、痛いくらいに下唇を噛みしめる。いまはこの鈍痛だけが意識を強く保つためのよすがだ。
「……よし」
息を整えて、改めて室内を壁から辿っていく。あちこち壁を叩いて回ったのは、もしかしたら隠し扉があるかもしれないと考えたからだ。寝台の下や机の裏も細かく見ていく。本当に、本当に嫌だったけれど窓の外にも再度目を向けた。どこかを向いていた八つの影は、私が窓に寄った途端にゆっくりと首を持ち上げて、こちらをじいっと見つめ出す。背筋はぞわぞわ粟立つが、落ち着いてしまえば睨み返すだけの強がりは生まれていた。
よく考えるのだ。これらにされたことといえば脅かされた、背中を押された。そしていまは見つめてくるだけ。直接手を下されたわけではなかったし、そういった害ならファルクラムで、そしてコンラートで受けたではないか。遺体だってただの乾いた干物で、もっと悲惨な光景を目の当たりにしていたし、こんなことで怖がってやらねばならない道理がどこにある。
たとえあれらが襲ってきたとしても、ミイラ程度なら勝てる見込みがある。
「絶対、絶対出てやる」
わざと声を出していくのも、強がりを補強するための行為だったのかもしれない。
意気込んだ直後、背後で何かが落下する音がした。振り返った先、絨毯には短剣が落ちている。子細までは思い出せないが、たしか七部屋目に落ちていたもののはずだ。
窓の外では、八つの人影にいつの間にか口が出来上がっている。それぞれがねちゃあ、と音を立てそうな勢いで大口を開け、歯茎を見せつけながら一つの言葉を繰り返す。
声が届くわけではない。けれど口の形を見ずとも『はやく』と言っているのは即座に伝わった。
『はやく、はやく、はやく、はやくはやくはやくはやくはやくはやくはやくはやく』
頭の中に響いてくる複数の声。窓から離れるといくらかましになったが、それでも気分は悪い。落ちている短剣を拾い上げて、刃先を壁に差し込んだ。
――頭にきた。絶対自害なんかしてやるもんか。
巫山戯るのも大概にしてもらいたい。私には死ぬ理由がないし、死ねないだけの理由がたくさんある。怒りを刃先に向けて、決して柔らかくはない壁を微かに抉った。
体力を無駄に使うのは避けなければならなかったから、すぐに腕を落としたけれど、部屋の中央に立つとぐるりと回転する。
考えるだけの時間はある。
寝台に座り、やがて横になって目をつむる。いつの間にか頭に響く声は引いていて、それは本当にほっとしたけれど、現状は何も変わっていない。
それでもこんな風にしていられるのは、あれらが私に直接手を下さない確信があったからだ。
参考になったのは一から七までを通り抜ける部屋の惨状。四部屋目まではさしたる情報もないけれど、五部屋目からは明らかに様子が違っている。
推測の域を出ないけれど、あれは暴れた後ではないだろうか。椅子を投げた私と同じようにここから出ようと必死になった誰か。六部屋目は出られないとわかった末の自殺。七部屋目に至っては女性が殺害された形跡があったが、刺した側が男性だと考えれば辻褄は合いそう。あの部屋だけ二人組なのが意図不明だが、どちらにせよ七部屋目以外は争った形跡がない。この部屋に至っては短剣を落としてくるだけ、かつ「はやく」などと自死を仄めかしてくる以外はなにもしてこない。
「ああもう、変に怖がってないでちゃんと調べてくればよかった」
悔やんでも始まらないが、はじめからちゃんと冷静でいられたのならこの推測も確信に変えられたであろう点が惜しい。やっぱり慌てすぎるのは人から思考を奪って良くない。こんなヘマ、伯やエマ先生達がいたらやんわりと窘められていただろうし、スウェンには笑われていたかもしれない。要反省である。
死ぬわけにはいかない。死にたくない。立ち上がって天井を見上げると気付いたのだが、天井に不自然に梁が通り縄が巻いてあった。椅子に立って手を伸ばせばほどける距離だが、いつからこうなっていたのかは不明だ。まったくご丁寧な仕事である。
短剣を逆手に持って部屋の角に立つ。そこは部屋の造りや最低限置かれた家具の位置からして、本来なら廊下に繋がる扉があると考えられる位置取りだ。今度はやみくもに斬りかかるのではなく、しっかりと狙いを定めて刃を突き刺した。木を抉るような手応えはあったので、その後も突き刺しては抉っていく。
……これで合っている確信はないが、やらないよりはましだろう。これで無駄足だったら、今度は絨毯をめくって床を剥がしてみるだけだ。
自分の体調を鑑みるに空腹や喉の渇きは普通にやってくるから、ほどほどの所で確認を終えて休まないといけないだろう。
「シスの馬鹿。あいつ絶対許さない……」
怒り半分、泣き半分で短剣を突き立てる。会ったらグーで殴ってやると決めた時だった。ブゥン、と何かが蠢く音がする。今度はなんだ、せめて物理が通用する相手で頼みたい。
薄暗がりの中、部屋中の角から中央に向かって黒い靄が集まってきていた。小さな虫の集合体と間違えそうになったが、本当にただの靄、あるいは黒い霧である。
相手は直接仕掛けてこない、なんて推測はさっそく間違えていたようで冷や汗が止まらない。え、これ刺すくらいで対処できる?
緊張が全身を襲ってくるが、抵抗もせず殺されるのは御免だ。胸の前で柄を力一杯握りしめ、霧がひとかたまりになっていくのを睨み続ける。
足が震えるけれど、多分、きっと、大丈夫。私はやれる。
一回瞬きするたびに霧はどんどん人型の実体を伴っていく。首をきょろきょろと動かす仕草はなにかを探しているようで、彷徨う腕がこちらに伸びると後ずさってしまったのだが、それがいけなかった。
次の瞬間、それが目の前にあった。黒一色の影の中から浮かび上がった眼球がはっきりと私を見据えている、両の手が頬を覆っていた。
目がそらせない。動くよりも早く、終わった、と思った瞬間だった。
「つーかまーえた」
目の前、私をつかまえた黒い塊から聞いたことのある声がしたのだ。こんな目に遭う前に聞いた声は相変わらず脳天気で、あちこち濁音が混じっているが間違えはしない。
「あんまり手間取らせないでおくれよ、お嬢さん」
――シスだ。
一瞬で緊張がほぐれると、足から力が抜けるらしいと学んだ瞬間であった。