理由
テレーゼが『ステルラ』に飛び込みで訪れてから、二十日余りが経った。
いまだにアイゼル=ワード大公国にいるミールからの連絡はない。
今日もテレーゼの施術の日だった。
彼女の掌は、完全には治っていないものの、最初にここを訪れた時より、ずいぶんと赤みが引いていた。もうしばらくは様子見が必要だが、ここまで肌荒れが治ってきたのならば、先日、彼女がつけていた毛織物の手袋を着用しても問題ないだろう、とドーラは触診しながらそう思った。
今日の施術はハンドマッサージと、専用ハーブティーの飲用。どちらも代謝を良くして、毒素を追い出すためのものであり、最近では、ラベンダーだけではなく、他の精油をブレンドしたものをマッサージオイルとして使用している。
「そういえば、キミの師匠って、この店の前の持ち主なんだよね?」
施術の最中、手持ち無沙汰になったのか、首だけを動かして、辺りを見回して尋ねたテレーゼ。特に隠し立てすることでもないので、ええ、とドーラは頷き、伯母の持ち物だったんです、と机の端に飾られていた小さな肖像画を見た。
「そうか。しかし、その伯母さんをここで見かけたことがないんだが、その方は、今どこに?」
テレーゼの純粋な疑問に虚を突かれたのか、手を止めたドーラ。その表情はごっそり抜け落ちていた。
「――――あ、すまない。聞いちゃいけなかったみたいだね」
フェオドーラの雰囲気に、自分一人でどうすればいいのか分からなくなって、オロオロしだしたテレーゼは、外にいる自身の警護を呼ぼうかとしたとき、突然、外から暢気な声が聞こえてきた。
「帰ったぞ」
抜け殻のようになっているフェオドーラとそれにオロオロとしている青年を見た声の持ち主は、あんた誰? と青年に声を掛けた。
「あ、私は――――」
「アイゼル=ワード大公のテレーゼさんです」
テレーゼの言葉にかぶせるように言ったのは、彼の声を聞いて立ち直ったドーラだった。
全体的にまだ抜け殻のような雰囲気だったが、目だけはしっかりと意思を持っているのを確認した金髪の若い男は、ふぅんと言って、その男装した女性の方を見た。
「あんた、もしかして、伯母さんの事とか尋ねたりした?」
青年は意地悪そうに尋ねると、テレーゼはその雰囲気に押されてか、言葉を発さず、コクコクと頷いた。
「悪りぃな。あいつにとっても俺にとっても、あの人は身内で大切な師匠だ。だけど、調香師認定試験に受かったその日に行方不明になったとくれば、あいつが答えたくても答えられないのが、分かるだろ?」
彼の口調にテレーゼは一歩下がった。
「もちろん、それを知らなかったあんたを責めるわけにはいかねぇ。だが、保護者からすりゃ、ちょっと看過できなくてね」
テレーゼの事情を考えつつも、大公という地位にいる客人よりもドーラを優先させる青年に、テレーゼは苦笑するしかなかった。
「ドーラは過去のことを詮索する人があまり好きじゃない、というか、深入りされると、使いもんにならなくなるんだ。あんただって、自分の家のことに深入りされたくないから分かるだろ、アイゼル=ワード大公殿下?」
テレーゼは青年の言葉で、テレーゼと父親との間に深い溝があった事を、彼が知っているのだと理解でき、それ以上、何も言えなかった。
「だから、申し訳ないが、今日のところは一度、引き取ってもらえないか――――ああ、施術が終わっていないみたいだから、俺も一応は調香師の端くれだ。それだけはやらせてもらう」
青年は外出着のまま腕まくりをして、テレーゼに座るように促した後、ぼんやりしたままのドーラに声を掛けた。
「とりあえず、お前は上で休め」
青年の言葉に、かすかに頷いたドーラは何も言わずに部屋を出て行った。彼はドーラが残していった処方箋を参考にしながら、テレーゼの施術を再開した。
その施術はドーラと同じくらいの気持ち良いものだった。
「――――君はそれだけの技量がありながら何故、自分の店を持たないんだ?」
黙々と施術をしている青年に、ふと感じたことをテレーゼは尋ねた。すると、一瞬、驚いたような顔をしたが、少しずつ話し出した。
「あいつ――ドーラの伯母さんに俺も調香師になるための修業をつけてもらった。だが、認定試験当日、ちょっとした事故で俺は第一級認定調香師になれなかった――いや、ならなかったんだ。そのまま、調香院に残って、昇格を目指すという道もあったが、ちょうど合格発表の日、あいつの伯母さんが行方不明になってな。
一報を聞いて、憔悴しきってしまったあいつを、一人でここに残しておけないって思ったんだ」
そう話す青年は、その当時のことを思い出しているのだろう、非常に苦い顔をしていた。
「だから、第一級認定調香師しか書けない処方箋を書けなくてもいい、第一級認定調香師しかできない、オリジナルの施術メニューを考えることだってできなくてもいい。
そん時に決めたんだ。
あいつの代わりに、経理だって買い付けだってなんだってやってやるんだってね。
今でもそういう気持ちでしかない」
青年の言葉と純粋にドーラを心配する視線に、そうなのか、と納得したテレーゼは、それ以降は黙って施術を受けた。
数十分の後、テレーゼの施術が終わった。
「そういや、大公殿下」
青年は個室を出る間際のテレーゼに、話しかけた。
「なんだ?」
ドーラのことを第一に考えている青年の口から、一体どんな言葉が出るのだろうかと身構えた。
「本当は俺がこうやって言うのは差し出がましいことなんだが、しばらくしたらドーラを連れて、国へ戻ってもらう必要がある」
テレーゼは青年の口から出た言葉に、どういう事だと訝しんだ。
だが、それには彼は答えず、また、アンゼリム殿下から話があると思うんで、その時はよろしくです、と言って、外に追い出されてしまった。
一応、彼らよりも身分は上のはずだが、追い出された格好になったテレーゼは、怒るわけでもなく、なかなか面白い奴だな、と思った反面、どこか脆そうな奴だな、とも思ってしまった。
例えば、ドーラのために何か罪を犯す、とか。
そんなことはないだろうと、願いつつも、払拭しきれない何かが残っていた。
「ドーラ、大丈夫か?」
テレーゼを追い出した青年――ミールは、ドーラの私室へノックなしで踏み込んだ。
彼女の部屋はあまり物がなく、昔から使っているもの――伯母が残していったものを含む――だけが丁寧に置かれていた。
ドーラはベッドの上で膝を抱えてぼんやりしていた。
「うん、大丈夫。ありがと」
そう言った彼女の声から、先ほどよりも落ち着いているようにミールには見えた。
とはいえども、帰って来たばかりのミールよりも疲れて見えたので、台所へ戻り、ラベンダーのハーブティーを淹れて、再び彼女の部屋に戻ってきた。
そのポットから発せられる香りに気付いた彼女は目線を上げ、ありがと、と呟き、お茶を飲む姿勢になった。
ミールがポットからカップに注ぐ姿は一流の形で、ドーラもミールの姿に追いつこうといくら練習しても、追いつけないが、彼の動きを何度も目で追ってしまう。
そんなドーラの視線に気づいたミールは、ドーラにカップを渡した後、彼女の許可なしに向かいのソファに座った。
「――――いつ帰ってきたの?」
ラベンダーティーを飲んで一息ついたドーラは、ミールに訊ねた。
「ついさっきだ。大公邸には昼前には帰っていたが、エルスオング大公に挨拶したり、侯爵様に引継ぎとかいろいろしてたもんで、ちょっと遅くなった」
ミールは頭を掻きながら、すまない、と謝った。
「そうだったの――――で、向こうで何か分かった?」
ドーラは彼が帰ってきた、ということは何かがあったのだろうと思い、そう尋ねた。
彼女の疑問に、彼はああ、と頷く。
「ゲオルグ・デリュータ=フォン=ファーメナは何か――ヤツ自身が調香できない理由――がある」
ミールから告げられた言葉に、ドーラは頭の中が真っ白になった。
[補足&TIPS]
・ドーラとミールの関係性
幼馴染。互いが互いの保護者のような関係。
なので、一つ同じ屋根の下で暮らしているといえども、そういった関係ではないし、二人ともそういった気持ちは持っていない。
※ヒロインはドーラですが、ヒーローはミールではありません。