ため息はつけない
「聞いてきたぞ」
夕食後、翌日の準備をしているところにミールがやってきた。
ほい、と言って、紙束を投げてきたので、受け取ると、評価は良かったぞ、と言って去っていった。どうやらそれを伝えるためにわざわざ来てくれたようだった。
「ふーん。なるほどねぇ」
その紙に書かれていたのは、仕事の合間にしっかりと嗅いでくれたのだろう。
どんな精油が入っているのかまで考えてくれているようで、かなり細かくチャートで分析をしてくれている。
そこにはミールと同じ意見もあったし、ミールとは反対の意見もあった。
隅々までしっかりと目を通したあと、いくつかの瓶を取り出し、瓶の中から数滴たらしたり、混ぜたりと昨日の朝と同じ作業を行った。
出来上がったものは二種類。あとはそれぞれの顧客の要望に合わせたものを売ることにした。
「すっごく気持ち良かったです」
そろそろ寝ようと考えて自室へ戻ろうと二階に戻ると、居間にアリーナがいた。彼女はちょうど全部の仕事が終わったようで、温かい飲み物を飲んでひと息ついていた。
ドーラは一瞬、自分に向けられたものだと気づかなかったが、アリーナの視線に立ち止まって、それは良かったです、と笑みを浮かべた。
「アリーナさんのバスソルトにはラベンダーとネロリが入っていて、精神的な疲れを取りやすいものにしておいたんです」
彼女は全ての人に細かい話をしない。求められたとき、しなければならないとき以外はしたところで、難しい単語や説明が入ってくるから理解できないことが多い。
だからこそ、わかりやすく説明することをモットーに省略できる部分は省略する。
アリーナもその説明だけで満足したようで、少し考えながら呟いた。
「まあ、私のお給金は決して安くはないといいますか、伯爵家で働くのには妥当な金額なのですが、あまりこういった余分なことへ多く使えないのですが。ですけども、私的にはちょっとでもこのすっきりした気分を味わいたいので、その。できたらでいいんですが、月に一回くらいでも大丈夫でしょうか?」
普段はクララと友人のようにおちゃらけている彼女は、別人のように、真剣に聞いてきた。その質問に対し、ドーラはもちろんです、とすぐ答えた。
「そうですね。クララさんやアンナ様のように私の処方箋を一から作り上げる、というのにはかなりの額がかかってきますが、ある程度の既製品でしたら、アリーナさんのような方でも買われることもありますよ。だから、月一回のご褒美としてでも問題ありませんので、お好きなときに買いにきてください」
彼女の返答にばっと明るい顔をしたアリーナはありがとうございます、と頭を下げた。
「私はもう寝ますので、アリーナさんもなるべく早くお休みくださいね」
ドーラはそう言って自室に入っていった。
翌日以降も似たような日が繰り返され、気づいたら七日めになっていた。
三日めくらいからクララはミールと普通に会話できるようになり、アリーナと三人で賑やかな声が聞こえてくるようになった。
「さて、今日は私、大公邸に行かなければなりませんけど、クララさんたちはどうされますか?」
今日は二ヶ月に一度開かれるエルスオング大公国内の調香師会議が開かれる。前回はアイゼル=ワード大公国に行っていた最中だったので、参加できなかったのだ。
「そうですね、一度自宅に戻って、状況報告をしておこうかと思います」
クララの言葉に頷くアリーナ。
「馬車で帰ってもいいですけど、たまにはゆっくりと歩いて帰るというのもいいですよね」
彼女の言葉にどうしたものかと迷うドーラ。いくら昼間だからといっても良家の令嬢をメイドだけで送りだすわけにはいなかったのだが。しかし、それにはアリーナが大丈夫ですよ、と笑う。
「実を言いますと、奥様とアレクサンドル様があまりに心配されて、この屋敷の周りに何人も護衛を配置されておりまして」
もうやら気づかない間に厳重な警備をしかれていたらしい。ありがたい話だけれども、少し卒倒しそうになってしまったドーラ。
「――――わかりました。では、お気をつけてお帰りください」
それしか言えなかった。
会議のときに着なければならない白衣と必要なものを持ったドーラは、クララたちを送りだしたあと、戸締りをして出かけていった。
「さあ、はじめましょうか」
女性調香院長のその声でエルスオング大公邸の一室で会議は始まった。
会議にはエルスオング大公国内の全ての調香師たちと調香院の理事たちが集まっており、ポローシェ侯爵も理事の一人に名を連ねているので、そこに着席していたし、今まで気づかなかったが、クララを連れてきたハヴルスク侯爵の長男であるアレクサンドルもポローシェ侯爵の並び、調香院の理事の席についていた。
「まずは『調査』業務の報告をしてもらおうか。前回、ちょうど『調査』業務で出かけていたラススヴェーテ嬢」
調香院長の指名により立ち上がったドーラは全員を見渡し、報告をしはじめた。
「患者はテレーゼ・アイゼル=ワード大公殿下。症状は手のかぶれ、発疹。ヒアリングの結果、大公殿下お抱えの第一級認定調香師であるゲオルグ・デリュータ=フォン=ファーメナの作製したハンドオイルを使用したことによるものだと判明いたしました。アイゼル=ワード大公国における詳細の調査により、アンジェリカ・ルートの精油を使用したことによるものとわかりました」
そこまで告げるとざわつく会議場内。確かな腕である第一級認定調香師、そして大公の信頼もある一方で、彼女の体を預かっているという責任もある大公家お抱えの調香師のトップであるゲオルグが誤ってしまったのだろう、と誰もが思ったのだろう。
だけども、その真実は違う。
「ですが、彼がアンジェリカ・ルートの精油を誤って入れた、故意に入れたという訳ではありませんでした」
そう。それはたった一つの小さな隠し事。
「彼は嗅覚に障害があり、テレーゼ殿下にその事実を伏せ、見習いの少女にハンドオイルを含むアロマクラフトを作製させていました」
そのドーラの言葉にざわめきはさらに大きくなる。
すでに事実を伝えている調香院長やポローシェ侯爵はそのざわめきに対して無言を貫いているが、そのほかのひとはその事実を知らない。
だからこそ本当にそれが真実ならばいずれは自分の身に降りかかることにもなりかねないし、ただの第一級認定調香師であるフェオドーラが解決したのはに驚くことだろう。それについては事実、ドーラでさえ驚いている。
「つきまして、ファーメナ調香師については大公家への偽証並びに調香師見習いに対する監督不十分という理由による資格剥奪処分をアイゼル=ワード大公国調香院長の同意のもと下しました。また、彼のもとについていたバルブスク第一級調香師についてはファーメナ調香師の嗅覚に何らかの障害を持っていることに気付きながら、彼の業務を止めようとしなかったこと、そして同じく見習いに対する監督が不十分だったという理由によりエルスオング、アイゼル=ワード両大公国調香院長との連名で書面注意の上、減給処分、さらに誤ってアンジェリカ・ルートの精油を入れてしまった元見習いのアイゼルワーレ令嬢については、一年間の見習いの資格を停止処分とさせていただきました」
三人についての処分を告げると、その場はすっと静かになった。
貴族の調香師への処分はかなり難しいところだ。そして、大公家お抱えというのはさらに難しいものとなる。その処分を各方面に波風が立たないようにこなしたドーラの功績はかなり大きいものだ。簡単に否定できるものでもないし、国内の調香師たちが見逃したことを拾ったドーラを否定してはならない。
「これにて、私からの『調査』報告を終了させていただきます」
たった一人で戦ったドーラはそう締めくくり、静かに座った。そのあと、調香院長とポローシェ侯爵の拍手を皮切りに、全員から静かな拍手を送られた。
[補足&TIPS]
・バスソルト2
精油は高価であるので、安易に手に入るもので長期的に使ってもらった方が効果的……でも、あまり100均などの安価すぎるのもアレなので、よければそこそこいいお値段のものをお使いください。
とはいえども、高価=よく効くという訳ではないので、例えば、
・『リラックス』:ラベンダーやローズ
・『体の温め』:ジンジャー
・『気分転換』:オレンジやグレープフルーツ
といった手に入れやすいものでお試しあれ…





