『友人』の章
人間の敵は人間である。けれども幸福を与えてくれるのもまた、人間である。
みなさんに友人がいますか。
こんな書き出しだと「馬鹿にするな」という鼻を鳴らす音が聞こえてきそうですが、ところがどっこい、真剣に向き合ってみると、なかなかこみいった問題だと気がつきます。
友人。
甘美な響きのこの言葉を解きほぐしてみると、なるほど、雨上がりに掛かる虹のように色々な種類があることに気付かされます。
学生時代に限定して考えてみます。
通学だけ一緒だったり、教室で話すけれどもそのほかでは遊ばなかったり、はたまた家にお泊まりするほど仲良しだったり。そんなこんなを含めて、すべて友人と呼ぶことができそうです。
このことから、どこからどこまでは友人と呼ぶか。それは人それぞれの価値観に委ねられそうですね。
一度話をすれば「ヘイ、ブラザー」な人もいれば、沈黙を共有できてこそ、あるいは同じ釜の飯を食べてこそ、いやいや竹馬に乗ってからでないとなど尺度が違います。
そしてこの曖昧さについて、今回は考えていきたいと思います。
そもそも「友人」とは総称であり、具体を指す言葉ではありません。
動物といってもキリンやウサギ、ネコがいるように、友人という言葉にも奥行きというかグラデーションが存在します。一口で友人と言っても状況や環境、あるいは気分によっても「友人」の範囲は変わることと思います。
すべての人に当てはまる絶対的希望が存在しないように、すべての条件に当てはまる都合のいい友人など存在しないという事実を、まずはじめにわたしたちは受け入れなくてはなりません。
正直に告白すると、わたしはここで考え違いをしていました。
本物の友人とは、共に肩を並べているだけで心温まり、決して裏切ることなく、つねに自分の頑張りを認めてくれて切磋琢磨できる存在だと。だからその尺度で他人を篩に掛けて、あてはまらない人たちは本当の意味で友人でないと切り捨ててきたこともあります。
これがいかに脅迫的で自分勝手な考えかということは、読者の皆さんからすれば言わずもがなでしょう。客観的に見れば「もうすこし肩の力を抜いてみたら」と励ましてあげたくもなります。
けれどもドラマや映画、アニメ、小説などの媒体が、友人・恋人・家族などの神話を謳っ幻想を抱かせがちです。誇張が過ぎるのです。それらが演出する美しき友情は非常に稀有で、一生に一度あるかないかの代物であることを、ここに明記する必要があります。
「そんなことを作家志望が公然と書くなんて身も蓋もない」と非難されそうですが、人生という長い長い舞台でジェットコースターな展開がそこらじゅうで待っていると期待するのは、控えめに言っても「夢見がち」と言わざるを得ないでしょう。
満塁ホームランだって3人の打者が塁に出ていてこそであり、そんな状況に出会う可能性がそもそもすくないでしょう。無論、そうであった欲しいと願うことを否定はしません。なぜなら私自身も山あり谷ありの人生がドラマチックであって欲しいと願っておりますので、自戒の念を込めてということになります。
いずれにせよ、人生の舞台の主役であるのは各人が持つ自意識である『わたし』であり、他の人ではありません。だからこそ、自分本意の世界に他人を巻き込むのは「どうかなぁ」と思っているわけです。
かくゆうわたしもいまや社会人となり、様々な友達ができました。
カラオケでクダを巻いて飲み明かして自宅で鍋を囲む友人もいれば、仕事場だけの仲で「家に招くのはちょっと」という友人もいます。内緒の話ですが「あまり関わりたくないな」と思う人もいます。
(相手にとってもそうかもしれません)
2018年の論文によると、友人になるまでの時間は200時間必要というお話がありました。1日が24時間で学校や職場で過ごす時間が8時間として、お昼休みや休憩で話す時間を多く見積もっても1時間から2時間が相場ではないでしょうか。そうすると必要な日数は100日から200日となります。斜に構えた性格のわたしは「一年も一緒にいない相手を親友とは呼ばない」と豪語していますが、あながち間違った考えでもなかったかなぁと鼻高々です。
以上、ここまでが友人に対するざっくりとした私の現在の考えです。
それでは友人とどういう距離で付き合っていけばいいのか。
次回は『友達幻想』や『嫌われる勇気』における友達感覚を比較しながら、友人の種類をふたつに分類する付き合い方をみていきたいと思います。
それでは、またいずれ。
<まとめ>
・友人と一言で括っても、人それぞれその範囲が異なるし状況によっても異なる。だから真の友情というものに固執すべきでない。
・友人はときに良いものだけれども、ときには腹立つものである。自分勝手な友達という定義に当てはめてジレンマに陥らないこと。彼も我もおなじ人間だ。
・友人になる為には時間が掛かるものだ。のんびり付き合おう。