第一章9 『異形の怪物、その一撃』
少し短めです
目の前に対峙するのは奇妙な姿形をした異形の物体。
どす黒い流動性のあるものをぐじゅぐじゅと音を立てながら、胴体らしきものが微かに動いている。
奥行き3メートルほどの黒い物体の下に、細長い手足が4本。正面にはまるで福笑いで各パーツを崩したような、歪な顔の造形が張り付いている。カ〇ナシに少し似ている。
全身から蒸気を発しながら、その今にも飛び出そうな目玉でこちらをジロジロ見ている。
言葉にするのも憚れるような、そこにいるだけで吐き気をもよおすような、そんな物体。
一目見た途端、こいつは野放しにしてはいけない災厄だ、そう思った。きっとその一挙一動で大勢の人の命が天秤にかけられる。
そして更に最悪なことには──。
「おいお前……その女の子に何をしている……?」
その怪物の、身体の中に体操座りで蹲る、俺よりも小さい儚げな少女がいた。
きっと先程聞きつけた悲鳴はこの子のものだろう。
俺はそれの返事を待つこともなく、腰の剣に手をかけた。
「お前……何者だよ」
更に質問を重ねるが、応答はない。ただそれはこちらを、目玉を小刻みに動かしながら見るだけである。
口を半開きにしながら、黒紫色の吐息が漏れている。
冷や汗が……全身を伝わる。
ガルツのような実力者と相対したときとはまた違う、ピリピリと肌を刺しながら、重くのしかかるようなプレッシャー。
ヒトはそれを、すなわち「恐怖」と呼ぶ。
「アハ、アハアハアハハハハヒィ」
不意に、両者の間に流れていた沈黙が破られる。
言わずともそれを成したのは、目の前のそれである。
不気味な甲高い笑い声を上げるそれの、感情は読み取れない。
愉快、嘲り、狂気。
今それが持つものは如何なるものなのだろうか。
「カノジョハね。グウゼンココにマヨイコンダ、アわレナコヒツジチャン、だヨ。ボクノモルモット。ボクダケノジッケンダい……ヒヒヒ」
悪寒が全身を突き抜ける。背筋が伸び、引き抜いた剣に手汗が染み込む。
張り詰めた緊張の糸が、今にも千切れそうだ。
「ボクハ、ね。カジキダユウウ。テンニエラばレタ、シコウニシテキュうキョクノソンザイ。アダナスモノニハ死、ヲ、ッてネ……ハハハハ」
「……」
無言。俺は返事を返さない。これ以上話すだけでも、気がおかしくなってしまいそうだからだ。
「死」だけ、やけに意味のある単語として強調されたその言葉が、余計に俺の恐怖を煽った。
しかし……曲がりなりにもこちらは半神。
下界の、それも得体の知れない有象無象に恐怖を抱く道理はほぼ無い。
それでもこの身体の震えは止まらない。
それが何を意味するのか──。
──プシュぅ
答えが出るよりも先に、手に持つ鋼鉄の剣を、それの顔面に突き刺した。
……考えるのを放棄した。そこから先の、答えを見るのが怖かったからだ。
強烈な刺突。おそらく上級剣士以上でもないと捌けないような、そんな鋭い一撃だ。
しかしそれは微動だにせず、むしろこちらの焦り顔を見てコロコロと表情を変えながら、小さく笑っていた。
「フフフフフフ……ハハ」
歯を食いしばりながらも剣を構え、もう一度攻勢に出る。
今度は突きではなく、目にも留まらぬ剣撃の雨で、相手を蜂の巣にせんとした。
──連撃、連撃、連撃
2回、4回、8回……と倍加して降り注ぐ鋭利な豪雨は、顔、足、胴と、少女の眠る中心部だけを避けながら、敵を隅々まで切り刻む。
あまり手応えは無いが、ブシュブシュと音を立てながらそれは崩壊していく。
やがてそのゲリラ豪雨のように一気に降り注いだ剣の雨は止み、雲を晴らして残った残骸を青空の下に晒す。
「……えぐいな」
そう呟きながら、足下に転がるのはゼリー状のどす黒い物質。薄気味悪い紫色の蒸気を発生させているが、木っ端微塵に分裂したせいか、元の原型は跡形もない。
「終わった……か?」
随分とあっさり終わったな、と思いながらまだ汚れている剣を鞘へと収める。
そして未だに広場の中央に残される、異物が全身にこびり付いた、焦げ茶色の髪をショートカットにした少女の元へ走る。
「今助けるからな!」
威勢よく言葉を発するが、もちろん返事はない。
少女は身じろぎもせず、ただその助けを待っているように見えた。
幸い外傷は少ないようだったので、急いで回りのものを引き剥がし、彼女を抱き抱えようとした、その時。
「──っ」
僅かに、鼻の粘膜を引き裂くような臭いが、鼻腔を刺激する。
このままは危険だと判断し、少女を抱えたまま跳躍してその場を離脱する。
同時に、辺りに散らばっていた先の怪物の破片が、細かに震え始める。
「なっ──」
次の瞬間、目の前で起きた出来事に俺は絶句した。
怪物が、あの鳥肌の立つような異形の怪物が、再びその形を成していたのだ。
「アダナスモの、コ、ロ、ス」
え──
と口を動かしたときにはもう遅い。
自分の右肩、腕と胴体とを繋ぐ部分が急に熱くなった。
──熱い熱い熱い熱い熱い。
火傷をしたような、そんな熱さが皮膚の上から全身に伝わる。
少しでも逃れようと、抑えようと、その熱源に手をやる。
すると、手になにかみずみずしい──いや水というには少し粘度の高い──感触を覚えた。
赤黒い、ドロドロした液体が手についていた。
いや、違う。
今まで感じたことの無いものに俺は神経が麻痺したらしい。
これは──痛みだ。
どうやら「痛み」を「熱」と勘違いしていたようだ。
そう自覚した途端、今まで抑えていた、今度は痛みと恐怖が一気に襲いかかる。
「かはっ」
一度膝を地に付け、衝撃に抵抗する。
しかし血を吐き、袖でそれを拭いながらも、すぐに足を震わせて地面に立ち上がる。
視界がぐらつく。経験したことのない立ちくらみだ。
脳味噌も麻痺して、冷静な思考ができない。
──万事休す、か。
先程無惨に四散していたそれも、今は再生を終えこちらを舐めるように見つめている。
今俺の目にも見えない程の攻撃を受けた。それは間違いない。だが──その対抗策が見つからない。
それは細長い1本の足を持ち上げ、こちらに標準を定めた。
もうダメだ、とそう思った瞬間、
──ブシュッ
「勝手に死ぬなよ!ヤヅル!」
聞き慣れた声が、耳に届いた。




