7.お転婆
目が覚めてしばらく、思考が冴え渡ると、目が覚めたということに並々ならぬ感動を味わった。
起き上がろうとすれば体は痛く、ついでに頭も痛かった。今がいつで、ここが何処なのかがすぐには分からない。ただ、ぼんやりと天井を見上げ、左右を見つめ、次第に理解していった。
客間だ。私が泊まっていたあの場所だ。
「お目覚めになられましたか」
声を掛けられ、はっとした。
部屋の隅の椅子に腰を掛けている人物。人と言うべきではないだろうが、親しみやすい人の姿をしている。美しい容姿の精霊の女性――鈴であった。
その顔にほんの少しの安心感を含ませているのが目に入り、すぐさま起き上がろうとして、そこでやっとベッドの重みに気づいた。よく見れば、部屋にはもう一人の人物がいた。倒れ込むようにベッドに突っ伏している少女だ。見慣れぬ衣服に身を包み、象牙色の髪をざんばらにしている。
半面をべったりのベッドにつけ、よく眠っているらしい。その寝顔はとても愛らしく、単純に生き人形と呼ぶには有り余る活き活きとした温もりがあった。
「お嬢様のお傍を離れたがらなかったのです。それでも、一応、昨夜は説得して温室で寝て貰ったのですが、眠れなかったようで」
鈴が声を潜めて言った。
「出来れば、叱らないでやってください、お嬢様。初さんのお陰で、間に合ったのです。初さんったら、お嬢様に置いていかれたことが気に入らなくて会場を飛び出してしまったのです。心配して後に続きましたが、まさかこんなことに――」
こんなこと、で記憶が一気に鮮明になった。
「……あの人は?」
我ながら怯えが含まれていたと思う。
当然だ。悪夢でも何でもなく、現実にあったことなのだと今の状況が教えてくれるのだから。傷は今も痛み、身動ぎするだけでも辛い。
だが、何よりも、彼がどうなったのかが怖かった。また危害を加えられるのではないかという、これまで感じたことのない純粋な恐怖だった。
「ご安心ください」
だが、鈴は落ち着いた声で言った。
「あれから丸一日です。彼はとっくに連行されましたよ。自身のご両親のお顔にたっぷりと泥を塗って。逮捕の際に、初さんの後で、お兄様方がお嬢様の受けた仕打ちを倍にして返しましたので、とりあえずご安心ください。今後もまた、相応の罰も免れないでしょう。その内容がどうであれ、二度とお嬢様には近寄らせないとのことです」
それを聞いて、ようやく落ち着いた。
眠り続ける初へと手を伸ばすと、あの白テンの毛皮のような手触りの髪に触れることが出来た。その姿を見つめているうちに、気を失う前の事をはっきりと思い出し、また背筋がぞっとした。
「初は……怪我をしなかった?」
「大丈夫です。彼もまさか花に襲われるなんて思っていなかったのでしょう。お兄様方が駆けつけるまでの間、とにかく混乱していらっしゃいましたから。それに、怒った初さんは本当に小さな猛獣のようでびっくりしました。……旦那様の用意してくださった衣装もすっかり汚れてしまって……旦那様は構わないと仰ったのですが――」
鈴は私の表情を窺うようにそう言った。
彼女は純粋なる〈待宵〉の精霊だ。初と同じ先祖からなる高貴な血統であり、初よりも望まれる部分は多い。だからこそ、初の行動にぎょっとしたのだろう。
それに、鈴は人間というものを初よりも長く知っている。精霊を買い求める人々の性質を理解しているからこその表情だろう。初を庇うように、といった様子なのは、姉のようなものだからなのだろうか。同じ母から生まれているとは限らないし、交配の方法も違うわけだが、身内だからこそ庇いたくもなるのかもしれない。こういう部分が人間に似ている。それが、我々人間にとって彼らのような精霊たちが親しみを持ちやすい理由でもあった。
「お父様がお怒りでないのなら、私が叱る理由もないわね」
初の頬をそっと撫でながら、私はそう呟いた。
「初はね、お侠な子なのよ」
そして、部屋の隅に座る鈴を見やると、彼女は首をかしげていた。
「お侠……?」
端から理解できないといったその様子に思わず笑みが漏れる。不思議そうなその表情は、素直で可愛いものだった。年齢が私と変わらないと分かっていても、かつては両親の愛を独占する存在として激しく嫉妬していた相手だとしても、やはり彼女も精霊なのだ。愛せずにはいられない。
「春の市場で購入を決めた時、他の精霊の子たちは屈託のない笑みを見せてくれたけれど、この子は愛想笑いの一つもしてくれなかったのよ」
「え……だって私たちは……」
初を見つめながら不思議そうに首を振る鈴を目にすると、今更ながら世間の初への感想を思い知らされ、少しだけ寂しい気持ちになった。
花売りだって初の価値を心から信じていなかった。辛うじて市場に出せる程度のぎりぎりの精霊少女。それが物好きな人間の目に留まり、運よく買い取ってもらえた。きっと、花売り界隈ではそういう話で盛り上がったことだろう。
私としては自分の力試しのつもりだった。その為だけに選んだのかと問われると答えに詰まるものだが、大方の理由はそちらのはずだった。
それでも、そんな野望は曖昧な理由の一部でしかなく、初の精霊としての魅力と跳ね返りの強い人格との組み合わせにある種の可能性を感じたのも強かった。
だが、今ではそのどちらでもない魅力を、私は初より感じていた。
「返品まで想定された子だったのよ。そんな子が……面白いものよね」
呟くようにそう言うと、鈴はますます不思議そうに首を傾げた。
私の言葉を揶揄いなのか、本心からのものなのか、そのどちらとして受け止めたのかは分からない。ただ、彼女は腕を組み、精霊ながらに大人の色気を含んだその顔に眉を寄せ、少しだけ思考に耽ってから、ようやく返すべき言葉を見つけたと見えて、こちらへと視線を戻してきた。
「事情はよく分かりませんが……お嬢様が初さんの事を大変気に入っていらっしゃるということは理解できました」
「ええ、もちろんよ。それに、この子はたいそうな値打ち物だったようね。花売りたちも気づかなかったほどの」
「そうでしょうね。兄さま方は売ることしか考えていらっしゃいませんもの」
そう応えてくすりと笑う。鈴にしては大胆な発言に思えた。
「武器を持った大の男に飛び掛かっていくなんて、私には怖くて真似ができません。初さんの姿は、まるで勇ましい番犬のようでしたよ。ご両親も驚いたようですが、お嬢様を救われたとあってとても感心なさっていました。お兄様方だけではとても間に合わなかったでしょうから……」
「全く……無傷なようで安心したわ」
でも、この子の向こう見ずなところに救われたのだとしたら、複雑ながら誇らしい気持ちもまたあった。
眠りこける初の頭を撫でながら、私は静かな触れ合いを心から楽しんだ。これまでずっと、この子は私に反抗することしか考えてこなかった。そして、私の方は支配することしか考えてこなかった。
それなのに、こうして救われるとは。我ながら恰好が悪くて苦笑が漏れる。けれど、その一方で、愛着は深まっていく。いつにも増して、この寝顔が愛おしく感じられた。
「兄たちにも礼を言わなくてはね……」
「お嬢様の都合がよろしければ、私から皆さんにお伝えして参りますよ。旦那様も奥様も、お嬢様のお目覚めを今か今かとお待ちでしたので」
「ええ、お願いするわ」
と、鈴が立ち上がったその時、初がふと目を覚ました。
「奥様……?」
寝ぼけたその眼が私を見つめ、だんだんと表情を変えていく。
そんな初の様子を見つめつつ、鈴は静かに目を細めて頭を下げてきた。
「では、私はこれで」
そう言って立ち去っていく鈴に視線で応じた。初の方は全く彼女の方を見ようとしない。私を見つめたまま、固まってしまっていた。
ただ、その手が私の手に触れ、力強く握りしめてくる。少々痛いほどの触れ合いを受け止めながら、私はそっと目の前にいる小さな恩人に向き合った。
「初」
名を呼ぶと、初は身構えた。
葡萄色の目には不安が窺える。それに、反抗的な色も。だが、それらの色のすべてを見つめ、私は彼女の手を握り返して言ったのだった。
「ありがとう」
初はきょとんとしていた。
×
こうして、散々な里帰りは終わった。
茨の紋章を受け継いでいないものとはいえ、血族の中に邪な心を持つ者がおり、まんまとその者に危害を加えられたという噂は、私が故郷で傷の治りを待っている間に一足先に都に帰っていたらしく、いまや住み慣れた我が館に初と二人で帰り着いてみれば、使用人たちが戦地からでも戻ってきたかのように出迎えてくれた。
帰宅して間もなく、初の生家である〈待宵〉の家の花売りが久しぶりに訪ねてきて、私の見舞いと言いながら初が傷一つないことに泣いて喜ぶなどの事があったり、はとこ側の親族――私とは血の繋がりもない親戚の兄妹――などが詫びの挨拶に来きたりするなどの諸々の事が落ち着くと、後は今までのような平穏な日々が訪れた。
規格外の気性難の花が、悪い人間を取っ捕まえた。
この噂は瞬く間に広がり、使用人からその噂を聞かされるたびに、初は鼻高々であった。
もちろん、調子に乗らせっぱなしになるのは癪に障るが、かといって、今までのように一方的に支配してやろうという気がもはや起きなくなったのも事実である。私は初に命を救われたのだ。もしも、初が鈴のような優しい気性の子だったとしたら、私は助からなかっただろうし、初も鈴も危害を加えられていたかもしれない。
それでも、私は時々不安になった。喧嘩っ早い性分は、やっぱり心配の種である。
「初、よくお聞きなさいね」
だから、度々、私は初に温室の中でよくよく聞かせるのだった。
「あなたは確かに素晴らしく勇敢な花だったわ。おかげで、ほら私の傷もだいぶ塞がって、こうして一緒に触れ合えるのだからね」
初は私に身を寄せつつも、不満そうな顔をする。文句ありありの顔だ。それでも、私から離れようとしないことを思うと、それだけでも可愛いものだった。
そんな愛らしさをいっぱいに宿した姿で、初は私を見上げて呟く。
「それでも、何か不満がおありなんですね?」
「不満じゃないの。不安なの」
静かに語り聞かせる。
「今回は上手く事が進んだけれど、もしも同じようなことがまたあったら、あなたまで怪我をしてしまうかもしれないわ。そうなったら困るの」
「どうして?」
「どうしてって――」
情愛を認めて素直に伝えてやるのは何だか恥ずかしいものがある。性愛などではなく、家族愛のようなものだが、それでも、わざわざ言葉にするとなると気位の高さが問題になるものだ。
人によっては苦も無く家族に愛を伝えられるものだろうけれど、私はそういう性格ではない。だから、初に面と向かって伝えるのは私としてもかなりの覚悟がいったものだった。
それでも、私は勇気を出して、答えたのだった。
「初のことが可愛いからに決まっているでしょう?」
その葡萄色の目が驚いたように真っすぐ私を見つめてくる。
「初が怪我をしたら、私も怪我をしてしまうの。無傷に見えてもね、大切な存在がひどい目に遭ったら、心に怪我をしてしまうものなのよ」
思うままに伝えてみれば、初は不思議そうに俯き、何やら考え出した。
やがて、思考がどこぞへと至ったと見えて、満足げな表情をこちらに向けてきた。
「分かります」
自信たっぷりに彼女は言った。
「だって、わたしも心に怪我をしてしまったのですもの。奥様が――」
と、そこでふと我に返ったようで、恥ずかしそうに俯いた。
「奥様が、め、目を覚まさなかったらどうしようって」
その姿のなんとしおらしいことか。
抱き着いてくるその姿は私よりもだいぶ小柄だ。それでも、買い取った時よりも大きくなってきただろう。あんなにじゃじゃ馬だったのに――その気性の根本はきっとさほど変化がないと思われるが――今やこんなに素直な部分を見せてくれるようになったのだ。
それが心だけでなく体にまで傷を与えてくれたはとこの狂気がきっかけだったとしても、そこに至るまでのものは確かに私と初とで築き上げたものだ。
治ったばかりの傷の痛みを感じつつ、それでも笑うことはできた。今、こうして初の温もりを感じ、はっきりとではないが確かに宿っている愛情を受け取ることが出来て、本当に嬉しかった。
「心配かけたわね」
初の頬を撫でながら、かがんで視線を合わせてやる。
その動作すら、傷が塞がったばかりの腹部や足に僅かな痺れをもたらすものだったが、初の香りと表情の癒しが効いたのか、ちっとも苦痛ではない。
額と額をくっつけてみると、愛おしさが生まれた。そこで、今日ほど、自分の購入した花に愛着を感じたこともなかったかもしれないと思い知った。
「こうやって触れ合えるのも、あなたのお陰よ、可愛い子。そんなあなたの主人になれて、私は誇らしいわ。けれど、もう、あんなことはもうないでしょう。だから、もう少し勇ましさを抑えて欲しいの。可愛い見た目をしているのですもの」
「どうあろうと、わたしはわたしです! これ以上、何も変われませんわ。それに、これからも奥様の傍は離れません。ご存知ですか? 茨には悪い虫も来ますのよ。また、あのような野蛮な方が奥様に近づいても、わたしが蹴飛ばして差し上げます!」
悪い虫がつきやすいのはどちらかしらね、と言いたいところだったが、実際に助けてもらったのは私の方なので黙っておくことにした。心配せずとも初だって成長の途中なのだ。またあのような事があっては困るけれど、その時は今よりもさらに成長しているはずだろう。
それにしても、傍を離れないとは。徐々にだが、彼女の方にも私に愛着を持ってくれるようになった、と喜ぶところなのだろうか。だとしても、表面に出すつもりはない。恥ずかしいからだ。
「そう、じゃあ」
初と目を合わせ、私はそっと訊ねてみた。
「あなたと出会った市場の近くにね、美しい劇場があるの。オーナーは私の知り合いでね、この度の騒動の見舞い品として、良質な音楽と舞踏、そして演劇で体を癒してみてはとチケットをいただいたのよ。夫が亡くなったことも、子どもがいないことも、相手方はご存知のはずなのに、不思議なことに二人組でご招待くださったの……」
そして、初に囁く。
「あなた、ひとりでお留守番できる?」
初は不思議そうに私の顔を見つめてきた。だが、私の表情を見るや、次第に目を細めていった。心からの笑顔は可愛い。どんな表情をしていても可愛いものだが、やっぱりこの子は楽しそうに笑ってくれた方がこちらとしても嬉しくなるものだった。
わくわくする悪戯計画を知らされた子どものように、初は笑顔で答えた。
「できません! 奥様だけ楽しむなんてずるいもの!」
期待した通りの答えに、私もまた笑ってしまった。
「それじゃあ、どうやらその日があなたを親族以外の皆にお披露目するいい機会になりそうね」
心配は尽きないが、親族会だってあんなことがなければ初はお嬢様らしく振舞ってみせたのだ。
私が思っているよりも、この子はしっかり者なのだ。
「ああ、奥様!」
初は無邪気に目を輝かせていた。
「わたし、とても楽しみです! そうだ、もしかしたら、わたしの兄弟姉妹に再会できるかもしれませんよ。そうしたら、わたし、自慢してやるのです! 絶対に、彼らのご主人様よりも、奥様の方が絶対に美人ですもの!」
「あらまあ、美人って言ってくれるのは嬉しいけれど、あんまりいざこざを起こさないでもらいたいわね」
「起こしません! それに、事実を言ったまでです」
つんとした様子で初は言ってのける。
その様子は春の市場で初めて出会ったときのような表情で、そこがまたおかしかった。そっと立ち上がり、相変わらず白テンの毛皮のような肌触りの頭を撫でてやる。
「本当にお侠な子ね、あなたは」
葡萄色の双眸に見上げられながら、ため息交じりに呟いた。
「でもそれが、あなたの魅力でもあるのかもね」
この子を買い取ってからこっち、寂しさに心を痛める暇さえくれなかったものだ。
初めて市場で出会ったあの時、見上げてくる葡萄色の双眸に浮かぶ反抗心に、支配欲を掻き立てられたものだった。じゃじゃ馬馴らしはきっと楽しかろう。そのように考えて、想定外の気性の荒さに驚かされた日々がもはや懐かしい。
まだ一年も経っていないのに、この子は私との交流で成長を見せ、私もまたこの子との交流に影響されてしまったようだ。子どもは成長するもの。だが、私はもう大人だ。どちらに影響力があるかと考えるならば、初の方であることは認めざるを得ない。
それでも、悔しくもなんともなかった。初との交流で得た変化は、勝ち負けなどでは語れないほどの価値あるものだったのだ。愛に飢え、温もりに飢えていた私に癒しと救いをくれた。
この子は本当に値打ち物なのだ。
気骨を挫かれたのは私の方なのだろうか。そんな思いもふと過るが、もはやどうでもよかった。初の目に、そんな私の眼差しは、どのように映っているのだろう。
愛らしい精霊少女は偉そうに腕を組み、満足そうにしながら答えたのだった。
「当然のことです!」
とてもいい笑顔だった。