2.名付け
早朝、太陽の輝きが目に沁みる。
我々、月の国の人間にとっては強すぎる光だ。それでも、多少は浴びておかねば健康に良くないという話も聞いたことがあるため、徹底的に日光を避けるということはない。
それに、早朝の静けさもまた夜とはまた違う魅力があるものだ。精霊とは違ってありふれた存在であろうと、気ままに遊びにくる小鳥たちの声はいつだって愛らしい。夜の虫たちとはまた違う彼らの音色は静かに心を癒してくれるものだった。
私にとっての朝はそういうものである。だが、今朝はいつもと少し違った。
さっさと着替えて朝食を摂り、向かう先は温室である。こんな時間に立ち寄ることはこれまでなかったが、今朝よりは変わるだろう。暇な時間の度に覗くことになるかもしれない。そう思いながら、使用人に鍵を開けさせて中へと踏み込んだ。
扉を開けてすぐに、自慢の温室の主人たるお姫様は振り返った。
どうやら日光を浴びながら庭を眺めていたらしい。
一瞬だけ、不機嫌でも何でもない、ただ無邪気で愛らしいだけの彼女の顔が見えた気がしたが、その魅力を隅々まで味わう時間はなかった。
彼女は私の顔を見るなり、眉を顰めぷいっと目を逸らしてしまった。
「昨晩からこの調子なのです」
困り果てた顔で、使用人が言った。年が明けてから我が館で働き始めたばかりの若い娘である。素朴な癒しがあり、普段から小鳥や動物たちに好かれやすい彼女ならば精霊少女の相手に相応しいかと思ったが、どうやらそう簡単ではないようだ。
「一応、お水は飲んでいますし、ご飯も食べているようなのですが……」
「それなら問題ないわ。鍵を貸して。お前は控え室に戻って休んでいなさい」
「……はい」
鍵を受け取り、使用人が廊下に下がるのを待ってから、私は生意気な愛玩精霊に歩み寄ってみた。近寄れば、甘い香りが強くなる。恐らく、蜜が体にたまっているのだろう。
傍に座って頭を撫でてみれば、その手触りは白テンの毛皮のようだった。愛らしい顔をしているのに、まだ眉を顰めている。私とは絶対に目を合わせたくないらしい。
「まだ機嫌を直してくれないのね?」
そう訊ねてみれば、彼女はさらに目を逸らした。口は堅く結ばれている。
「生家が恋しい? あの青年に会いたいのかしら?」
「……いいえ、そんなことありません」
そこで初めて私はこの子の声を聴くことが出来た。つんとした声は一本の弦を弾くようにしっかりとしている。高すぎず、低すぎない少女らしい声で、彼女は不機嫌そうにしつつもあらぬ誤解をときたいのか捲し立てる。
「兄さまになんて二度とお会いしたくないわ。あんな狐男、大っ嫌いですもの。だから、貴女の思っていらっしゃるような感情は一切ありません。でも、勘違いなさらないで。貴女をお慕いする義理は、このわたしにはございません。お金はあの人が全額受け取ってしまったもの。この暮らしだって、わたしが頼んだ覚えはありませんもの」
「そうね。でも、あなたは精霊であって、私は人間なの。そのこと、ご存知かしら?」
「人間だから何? 人間ってそんなに偉いの? わたしは絶対に貴女の思うように行きません。ご不快でしたら返品なさっては? ああ、けれど、戻されればきっとわたしは処分されてしまいますわね。でも、いいの。構いません。人間なんかに付き従うくらいならば、殺された方がましだもの」
強がる精霊の頬をそっと撫でてみると、びくりとするのが伝わってきた。
可愛いものだ。怯えているらしい。どんなにその声が堂々としていようと、目を見ればすぐに分かる。
小さくて力のない愛玩犬ほどよく吠えると言うじゃないか。身を守る術など知らないから、言葉を盾にするしかないのだ。だが、その言葉が一切通用しないとなれば、どうだろう。
怒りもせずにその肌の感触を味わい続けていると、精霊少女はがたがた震え始めた。
「私はね、喧嘩なんて同じレベルのものとしかやらないの。可愛いだけの無力なお嬢さんにきゃんきゃん吠えられたって、全然気にならないわ」
「そんな……怒ってくださらないの? 返品なさってくださらないの?」
本気で返品してほしかったのだろうか。処分は免れないといいながら。
それほどまでに、人間に購入され、このように自由のない部屋で飼われる身分が嫌だったのだろうか。だとすれば、ただ気性が荒いだけではなく、気位の高いところがあるようだ。
ならば、こうして閉じ込められ、モノのように扱われるのは、さぞ腹立たしいことだろう。そう思うと可哀想にも思えたが、それよりもずっと満足感を覚えてしまった。
これは何の欲望だろう。支配欲とでもいうものか。
ともあれ、良い買い物をしたものだ。ここから、ゆっくりと手懐けていくのが楽しみなものだ。
「あなたは買われた身なの。茨の館で咲く花として、あなたには教養を身に着けてもらう。ゆくゆくは人間の令嬢のように着飾って、共に外出してもらいましょうかね」
「……貴女の権威の象徴になるなんて御免よ。わたしは絶対にあなたの言う事なんて聞かないんだから」
なおも子猫が毛を逆立てるように威嚇してくる彼女を、そっと抱きしめてみた。
完璧を求めて作られた人形のような容姿だが、仄かな温もりと蜜の香りがふわりと伝わってくる。金で買った以上、私だけのものだ。そう思うとより愛着がわき、愛でても愛でても愛で足りないほどだった。
精霊少女の飼育に実の娘のことよりも夢中になっていた両親――特に父親の姿が頭をよぎる。世間的に見ても彼は狂人と呼ぶに相応しい男であるが、その彼の血を引く私ならば分かる。
生きるも死ぬも自分次第。人間の姿をしていながら、人間でないというだけで身分のない可愛い生き物を支配するのはそれだけ楽しく、夢中になるものだ。
私は父よりはマシだ。子どもはいないから。子どもに辛い思いをさせずに、ただこの子だけを愛でることに耽られるのだから、罪は軽かろう。
さまざまな楽しみがよぎり、それは笑みとして漏れ出した。
少女の髪を手で梳きながら、わざと耳元で囁く。
「どうかしらね」
慄きはじかに伝わってきた。
×
名前……それにしても、名前だ。早いうちがいい。どんな名前を付けてやろうか。
あまり凝りすぎた名前もよくない。気品さは確かな血統と容姿で十分現れているのだから、名前こそはシンプルでありながら美しさを内包したようなものがいい。
生命の美を象徴する名前として、最初は「華」という名前を思いついた。だが、決まりかけた頃、遠き月の森でひっそりと暮らす女神さまがお育ての〈白銀〉の姫様もその名前であるのだと耳にしたので、慌てて取り消した。
我が茨の紋章を受け継ぐ者は気高くあらねばならない。礼儀を尽くす相手は決して間違ってはならないのだ。月の国の良識ある民として、畏れ多くも月の女神さまの真似事なんてよろしくない。そういうわけで、この名前は花売りに伝えることなく候補から外れた。
では、なんという名前にするべきだろう。
気取りすぎずも、あまり誰も思いつかないものがいい。一度、そんな欲を思い浮かべてしまえば、あれほど浮かんでいた名前候補が次から次へと脱落していった。
考えがまとまらず、時折、少女の顔を覗きに行く。
「何よ……とうとう返品する気になったの?」
相変わらず、彼女は口が悪い。温室に慣れてくると、敬語も忘れるようになった。
だが、そういう時の対応は心得ている。口を結んで答えを返さないのだ。敬語で話してこない限り、会話をしない。そうするだけで、最終的にあちらが折れてくる。気位の高いお嬢さんだが、無視というものが一番応えるそうだ。結局は〈待宵〉の多くがそうであるように、寂しがりな部分も強いのだろう。
「何とか言いなさいよ!」
腕を組み、黙ったままその顔を見つめる。反応しない私にますます腹を立てたのか、名もなき少女精霊は怒りを露わにしながら、思いつく限りの悪口をその愛らしい唇からこぼし始めた。そのすべてが私に一切通用しないと言うつもりはないが、少なくとも表情を変えずに聞き流すことはできただろう。
やがて向こうも、どんな暴言も通用しないのだと悟ったのか、先に折れてしまった。わっと泣き出しながらしゃがみこみ、恨みつらみを好きなだけ吐き出したかと思えば、少しすっきりしたと見えて、またあのつんとした表情を取り戻して頬杖をつきながら窓の外を眺め始める。
「一体何の用なのですか、奥様? 惨めなわたしを笑いにいらしたわけではないのでしょう?」
そこでようやく私も答えた。
「名前を考えているの。顔を見れば何か思いつくかしらと思ってね。早いうちに系譜に書き込まなくてはならないから」
「それなら、今のままで構いません。愛するお母様のお名前に女神さまのご年齢を足したものであろうと、わたしはわたしですもの。だって、どうせ、素敵なお名前をいただいたところで、あなたの奴隷に変わらないのでしょう?」
「ええ、そうね」
否定もせずに言ってのければ、少女の表情がゆがんだ。
「でもね、今のままで結構なんてことは全くないのよ。いずれは忠実な愛玩として連れまわすことになるの。公式の場で、愛称すら呼ばないなんてこと、茨の館の格式をぐっと下げることになってしまうもの」
「わたしは忠実な愛玩なんかになりません! あなたとお出かけなんてするわけありません! そんなことをご期待でしたら、時間の無駄でしかありませんので、さっさとご返品なさってはいかが?」
「返品したら処分されると言ったのはあなたでしょう? 私がそこまで冷酷な人に見えるの?」
呆れのあまりそう言ってみれば、彼女はそっと振り返ってきた。
様子をうかがうようなその仕草には、子どものような純粋さが垣間見える。
十三歳といえば、人間ならばまだ幼いと言える。事実、精霊の女性であってもわずか十三歳で子どもを産ませることはない。昔はそんな時代もあったそうだが、時代遅れの野蛮行為としてどんなに身分ある人間であろうと精霊売りの業界から睨まれることになる。仮に花売りがそんな蛮行に手を染めでもすれば、末代まで精霊売りの業界を干されることになるだろう。
何より、精霊を蔑ろにする行為はこの大地を愛している月の女神への冒涜にもあたる。飼育はそれに当たらないが、だからと言って可愛がると決めた者を乱暴に扱ってはいけない。命に係わる虐待などはもっての外であるし、一度引き受けると決めたからには、全ての行為にほんの一滴でも愛を含ませなければならないものなのだ。
そう言った事情をこの子はしっかりと分かっていないのだろう。
当然かもしれない。この子はまだ小さく、さらに人間ですらないのだから。人間ならばいつかは分かる日が来るかもしれないが、一生支配される側である精霊となればまた違う。
自分を金で買った者に対する誤解は、常に心の奥底に燻り続けるに違いないし、そうやって反抗的な目で見られ続けるのも悪くはないとさえ思う。
それでも、死なせる可能性があると分かって返品するなんてことはできない。
あらゆる体裁だけの理由でもない。すでに一度は引き取った子なのだ。愛着がわかないはずもない。
この複雑な愛情がどの程度、彼女に届くかは分からない。
「憐れみなんて望んでいないわ」
目を逸らし、彼女は俯いた。
「同情からいただくお名前なんて結構。そんなもので、わたしは幸せになんてなれないもの」
葡萄色の目からこぼれる涙が日光を浴びて輝く。
〈待宵〉の魅力は朗らかさと明るい笑顔のはずなのだが、こうして落胆し、涙している少女の姿もまた乙なものだった。だが、いつまでもこんな楽しみに耽っていても飽きるだけ。いつまでもクリアの見えないゲームをし続けるのもだんだんと苦痛になるものなのだ。
まあいい。どうせ時間が解決してくれる。返品もされず、生かされ続けると分かれば、いつかは諦めもつくだろう。少しずつでいい。懐いていく過程を期待して、楽しもうじゃないか。
「せいぜい我が館の使用人を困らせないで欲しいものね」
そう言い残し、あっさりと退室した。
扉を閉める前、少女のすがるような目がこちらを見つめていることに気づいた。だが、その唇は固く結ばれており、私への忠誠を誓う類の言葉は一切漏れ出しそうになかった。
ならば、私の方もいつまでも傍に寄り添ってやるつもりはない。
そういうわけで、彼女の要望の有無などには目もくれず、温室の扉は閉め切ってしまった。
しっかりと鍵をかけたところで、ふと考える。
あの子にいい名前はあっただろうか。いつまでも言うことを聞くつもりはないと主張しながらも、その暴言に対してこちらが完全無視を貫こうものなら、根負けして歩み寄ってくる愛らしくも寂しがりな子。
〈待宵〉の血統は人懐こく、明るく、お喋りで、それでいて理知的で大人しく、従順なものがその性格の標準らしい。短所は寂しがりな性質であり、飼い主は常にその存在感を伝えておかねばストレスをためてしまうのだとか。
なるほど、そう考えてみれば、あの子もまた気性難ではあるが確かに〈待宵〉の血統だとも思える。
寂しがりこそが彼らの本質で、人懐こさ、明るさ、お喋り、従順さという特徴は、寂しさゆえのものなのだ。そう考えれば合点がいく。
生家の花売りは扱いに困っていたようだが、あの子もまた人々が古来より守り抜いてきた血統を継ぐ者に違いないのだろう。
ひとりで納得していると、ふと言葉が浮かんできた。
――お侠。
若くて慎みのない娘を表すその言葉。色々な意味で、あの様子には相応しい。
気にしないようにしているつもりだったが、言葉にならない苛立ちと困惑が私の中にもあったのだろう。その言葉が名前として、うっかり脳裏に定着しかけた。
ふと、我に返り、首を横に振る。あの年齢まで育て上げた花売りのことを考えるとその名はあんまりだ。名前というものは大事である。だいたい、これから手懐けようというのに、お侠だなんて名前を付ければ一生あの性格のままかもしれない。
そうだ、ならばこれから変わっていくような名前にすればいいのだ。
思い立ってしまえば、すぐにたくさんあった候補が絞られていく。
初なんてどうだろう。生家を離れたばかりで世間慣れしておらず、何もかも思い通りになると信じて疑わない。それでも、初々しいものはいつか変わるのだ。
ああ、あの子にはピッタリかもしれない。少なくとも、侠よりは花売りも困惑しないはず。
――初。とてもいい名前だ。
そうと決まれば、早く決めてしまおう。何か、わくわくした思いと共に、私は手紙を書きに向かった。