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二話




 鼻の負傷はどうにかなっても、唇の裂傷はどうにもならない。

 ぺたりと絆創膏を貼って校内を闊歩する直史の姿に、部屋の移動先が既に噂となっているのだろう、ひそひそざわざわと如何にもな視線と囁きが飛び交っている。


「見ろよ、俺の素敵な顔に傷ひとつついただけで心痛める連中のなんと多いこと。人望だな」

「きみの前向きさは嫌いではない」


 ぺしぺしと生徒会長の署名が必要な書類で頭を叩いても、会長である丹羽成海は気分を害する様子もなく手を差し出す。

 書類を渡せばさらさらと慣れた動きで署名される筆致のうつくしさに、直史はふんふんと頷いた。


「なにか愉快なものでもあったか」

「いやいや、会長殿の御名前のきれいさに敬服しておった次第です」

「このご時世、いつまでも書類にこだわらずデータで済ませば経費削減に繋がると思うのだが如何」

「その辺はそちらさんの会計とでもどうぞ」


 風紀の悩むところではない、と直史は笑う。

 直史としては書類運びで生徒会室や風紀の委員会室を行き来することは決して手間ではないのだ。


「ほら、風紀ってどうしてもごついの多いから、生徒会室は目の保養なんすよ」

「生徒会室はきみのために誂えられた坪庭ではない」

「眺めるくらいは許せ。こちとら面食いなんじゃい」

「知っている」


 金に物を言わせて美人と結婚できる家柄の生徒が多いからか、学園内の顔面偏差値は比較的高い。その中でも生徒を代表する生徒会の皆様は自称した通り面食いである直史にとっては心洗われるようなご尊顔だ。

 判も押した書類を手渡した成海はメッシュ仕様の背もたれに寄りかかり、くるり、と椅子を回転させて体ごと直史に向き直る。


「きみの態度は気さくだ。だから、きみが面食いを謳ったところで冗談と済ます人間は多い。同室者、四枝興元はきみに懸想しているのだろう? いつもの面食いを発揮すれば誤解されることもあるのではないか?」

「おいおい、ナルちゃんよ。俺を誰だと思っているんだ?」


 人差し指をチッチッチと振る直史に、成海は人形じみた顔へ丁寧に描いたような眉をひょい、と持ち上げる。


「今朝方、とっくにやらかし済みだ」




 興元をなんとか引き剥がして風呂へ入り、背中を流そうと言ってくる興元を「いきなりははしたない」とお断りし、ようやく寝室まで直史はこぎ着けた。

 枕を持ってちらっちらどころか凝視してくる興元に容赦なく「おやすみ、また明日」と告げて寝室のドアを閉めて施錠したまではよかったのだが、翌朝携帯電話に仕掛けた目覚ましを止めた直史の寝ぼけた眼に飛び込んできたのは興元の安らかな寝顔だった。

 男らしいが決してむさくるしいという印象はない。この学園に長く在籍していても性的指向が異性愛に寄っている直史としても「……イケる!!」と思える顔だ。

 思うだけで、行動に起こそうという発想には及ばない。

 ただ、直史はひとよりも寝起きがぼんやりしているため、理性に仲介料払わないまま行動が独断専行することがあった。

 これだけきれいなお顔をしていらっしゃるなら体はどうなのかしらねえ、と下世話なババアのような気持ちでぺらりと捲った掛け布団。


「あらまあ、全裸」


 しかしこの裸体、美術部だったら外野に煩く騒がれることを考慮しなければ全裸で、考慮するなら限りなく薄い布地で股間のみを絶妙に隠しただけで描きたくなるような肉体美を誇っている。

 きれいなものはいいことだ、と直史はうんうん頷いて両手を合わせる。

 そうしてじっくり眺めていると興元の睫毛が震え、意思の強い目が顕になった。


「……おはよう、王子様。目覚めのキスはくれねえのか?」


 繰り返すが直史はひとよりも寝起きの頭がまともに機能していない。

 きちんと脳が覚醒していれば施錠したにも関わらず寝室に侵入、ベッドに入り込んでいる全裸の興元に驚き部屋からぽいっと追い出している。体を拝もうなどとは流石に思わない。機会があれば見るけれど。

 しかし、理性ある紳士的行動を置き去りにしてしまった直史は「オーケイ、お姫様」と快く応じる言葉を告げていた。

 額に瞼に頬に鼻先に、仕上げは唇にバードキス。

 キスのために僅かに上体起こした興元を抱きしめ、背中を撫でるオプション付きである。


「……もっと」

「はっはっは、朝からいけない子だ」

「朝じゃなけりゃいいのか?」

「んー? それは心がけ次第だな。少なくとも遅刻を良しとする奴は風紀委員長がお仕置きだぜ?」


 笑いながら直史はベッドから下り、顔を洗うべく部屋を出た。

 そして数分、顔から滴らせる水滴を拭う間もなく頭を抱える直史の出来上がりである。

 洗面所を出れば、いつの間に着衣を終えたのかFクラスの生徒とは思えぬほどぴっしりと制服を着こなす興元が珈琲を用意していた。


「食堂に行くにしても、一杯くらいはいいだろ?」

「あ、はい」


 珈琲を受け取り、大人しく椅子に座る直史に微笑む興元は何気ない動作で直史の背後に立つと上体を屈めて耳元に唇を寄せる。


「ちゃーんと優等生やったら、ご褒美くれるよな? 王子様」




「ブルマンは美味しかった」

「その調子で四枝は美味しかったと報告をしにくることがあれば生徒会長として指導に当たらなくてはならない」


 風紀委員長がそんな無様を晒してくれるなよ、と言う成海は既に今日の分の仕事を終えているのをいいことに、早々に直史へ向けていた体をPCへと戻して私的なメールを認め始めていた。


「おいおい、そんなに冷たいこと言うなよ。幼馴染がピンチなんだぞ」

「きみの置かれた危機的状況というのはきみの失態が招いたものだと考える」


 直史はすんすんと態とらしく鼻を鳴らしてその場にしゃがんだ。部屋の隅に行かないのは相手をしてもらえないのが確実だからだ。足元で行えば少しは鬱陶しさから構ってもらえる可能性がある。

 その目論見が叶ったわけではないが、成海が「しかし」と呟く。視線はPCの画面から離れない。


「四枝は何故きみを『王子様』と呼んでいるのだ」

「それは誰も知らないお話……真面目に言うと突っ込むのが怖くて俺も訊けないでいる」


 直史はいかにも洒落た若者という容姿で、王子様と呼ばれるような上品さや甘やかな笑顔とは少々系統が違う。そういった理由からも「王子様」という呼称には違和感があるし、なによりも呼んでいるのが同じFクラスの生徒からも遠巻きにされている興元なのだからもういっそ笑い話にしたいくらいだ。笑い話にするために聞き込んだ結果笑えない事情が出てきてもそれこそ笑えないので直史はお口にチャックを決めている。


「そうするのはきみの勝手だが、それはそれで困らないのか」

「何故?」

「風紀委員長ともなればFクラスのほうにも顔を出すだろう。そこで四枝と出くわして公衆の面前で王子様などと叫ばれれば俺は三日は笑いに事欠かない」


 すっくと立ち上がり、窓辺へと移動した直史は飛んで行く小鳥を目で追いながら呟いた。


「呼称改めでござる」

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