0:出会いは梅雨の真っ只中
少女は雨が大嫌いだった。
理由は単純だった。雨の日に良い思いをしたことがなかったからだ。大きな原因としてあげられるのは、生まれた時からずっといっしょだったケンタロウ(雑種犬オス)が散歩中に車にはねられて死んだことである。他にも小学校の入学式の帰りにはしゃぎすぎて転んで制服を泥だらけにして母親にたんまりと怒られたり、バレンタインデーのチョコを送り返されたり、高校受験日に交通渋滞に巻き込まれて危うく高校浪人になりそうになったりと、挙げればキリがなかった。
そして、今日は下校中にバスから降りた途端に振り始めた雨のせいで、バス停の近くにあるタバコ屋の狭い軒下で雨宿りを余儀なくさせられていた。バスケットボール部の練習を終え、疲れているところに追い討ちをかけるようにこの雨である。疲れも当社比1.5倍にふくれあがる。
「今朝はあんなにいい天気だったのに!」
少女は雨に濡れた短い髪をハンカチで拭きながら、恨めしそうにグレーの雨雲を見上げる。タバコの自動販売機のおかげで幾分かは明るいが、雨のせいでいつもより暗く感じる。
七月某日。梅雨明け宣言はまだされていない。
「もう県予選だからってテスト期間中にまでこんなに遅くまで練習することないのに。あぁ、お腹空いたなぁ」
少女はカバンの中から携帯電話を取り出して、自宅へとかける。三食昼寝付きという永久就職についた母親に迎えに来てもらうために。しかし、電話は寂しくコールし続けるだけで、誰も出てこない。
「また父さんの悪口大会開いているな」
ご近所主婦三人組は夕食の支度を済ませ、旦那が戻ってくる合間に庭先でいつも自分の旦那の愚痴をこぼすのが日課になっている。今は雨が降っているから隣の家にでも上がりこんでいるのだろう。
少女はそんな母親達の姿を想像しながら、超特大のため息をつく。
「あーぁ。こんなことならキャプテンに傘を借りればよかったなぁ」
後悔先に立たず、である。
そこへ。
ばしゃばしゃと水溜りを弾かせて、一人の男性が少女のいるタバコ屋の軒下へと入ってくる。
「いやぁ、やはり梅雨をバカにしてはいけませんね」
男は濡れたスーツをハンカチで拭きながらひとりごちている。
同じ境遇に陥っている男を、少女はマジマジと見つめる。年齢は二十代前半といったところだろうか。短く切りそろえた髪が清楚感のある顔立ちを引き立てている。
少女の中では九十五点という高得点がはじき出された。何よりも長身の少女より頭一つ分高いというのが一番のポイントだ。
「こんにちは。あなたも雨宿りですか?」
ふいに男がこちらを向いてきたので、あからさまに目線が合ってしまう。
「は、はい!」
少女は動揺してどもってしまうが、漆黒の澄んだ双眸に見つめられて目がそらせずにいた。
「高校生、ですよね?」
「はい、二年生です」
「そうですか。うらやましいですね。ボクも高校生に戻りたいです」
にっこりと微笑む男の顔を見て、少女は頬が紅潮していくのを感じた。
「おにーさんだってまだまだ若いじゃないですか」
「ハタチすぎればおぢさんの仲間入りですよ」
少女は男にすっかり魅了されていた。会話を続けるため何とか男との接点を探そうとする。
「背、高いですよね。何かスポーツとかやっているんですか?」
「いえ。これといって特定のスポーツはやっていません。仕事も忙しいですし」
「お仕事は何をしているんですか?」
「一応、サラリーマンでしょうか。雇われの身ですから」
少女と男との会話が盛り上がってきた頃、それを引き裂くような重低音をどこからともなく轟いてくる。
音の主は狭い裏路地からタイヤの音をきしませながら現れた。
真っ赤なスポーツカーである。
スポーツカーはこちらに向かってくると、少女たちの前で急ブレーキをかけて停車する。
水しぶきが勢い良く少女たちに襲いかかる。
スポーツカーの窓が少しだけ開く。運転手の顔は見えない。
「社長自らお出迎えに来ていただけるのは光栄なのですが、もう少し歩行者に気を配る運転をしていただきたいものですね」
「何をのん気なこと言っているのよ! 約束の時間はとっくに過ぎているのよ!」
きんきん声でわめく女性の声が聞こえてくる。乗っている車とその声から女のイメージ図が浮かび上がる。気の強い胸デカ高飛車セレブに違いない。
「もう何でもいいから早く乗って!」
「あ、ちょっと待っていてください」
二人のやりとりを呆然と見ていた少女の元へ男がやってくる。
「セーラー服を台無しにしてしまいましたね。これ、クリーニング代です」
男は財布から千円札を取り出す。
「別にいいんです。どっちにしたって濡れていたし」
「いいえ、そういうわけにはいきません」
男は半ば強引に千円札を少女に押し付けると、急いでスポーツカーに乗り込んだ。
「あ、あの……」
少女の声はスポーツカーの急発進する音にかき消される。スポーツカーは登場時を同じく重低音を轟かせて土砂降りの中を走り去っていった。
少女は手の中に残された千円札を見つめた。
「あれ?」
千円札といっしょに一枚の名刺があった。少女は音読する。
「『個人から企業まで、あらゆるエキスパートを用意して皆様からのお電話をお待ちしております。人材派遣会社000。ジェイムス・ボンド』……って。ふざけてんの?」
携帯電話の番号も書かれているが、少女の男への関心は断絶されてしまっていたので自分の携帯電話に登録する気にもなれなかった。
「容姿は良かったんだけどなぁ」
少女は本日二度目の超特大ため息を吐き出すと、もらった千円札と名刺をスカートのポケットの中にしまい込む。
「やっぱり雨の日ってロクなことない!」
少女はガッカリと肩を落とす。そんな少女の気持ちに追い討ちをかけるように、雨足はどんどん強くなっていった。
もう二度と会うこともないだろうと思っていたジェイムス・ボンドと少女が再会するのは約一ヶ月後のことだった。




