社交界の花
【第84回フリーワンライ】
お題:
お願い、お強請り、あら上手
肉食と草食
フリーワンライ企画概要
http://privatter.net/p/271257
#深夜の真剣文字書き60分一本勝負
「そんなこと、無理です、奥様」
エレナはかぶりを振った。キャップの下から覗くお団子髪が遅れて揺れる。
「無理? なぜかしら、エリー」
女は艶然と微笑んだ。美しく華開いた、しかしあやしげな女王の笑み。エレナの主人、ベアトリス・バースリーだ。
「なぜって、わたしはただの侍従です」
エレナは腰の横でエプロンを握った。
ベアトリスがくつくつと笑いを堪えている。
「わたくしの年齢で子どもがいないなら、お家のために養子を入れるのはなんの不都合もないわ。エリー、その上であなたが適当だと思ったの」
エレナは恨めしげに主人を見た。身に着けた真っ赤に広がるドレスは高貴なバラを思わせる。もし自分なら衣装に負けてしまうだろう。
四十をいくつも過ぎていなかったはずだが、そうは思えないほど若々しい。丸みを帯びた肉感的な肢体は、同性の彼女から見ても惚れ惚れする。
目を落とすと、自分の身なりがみすぼらしく感じられた。面白みのない黒いワンピースに、染み一つないエプロン。その上に乗った下層民出の顔には、そばかすが散っている。
堂々たる主人と、おどおどした侍従。その関係以上など考えられない。
「奥様に拾っていただいたことは感謝しております。ですから、一生をかけてお仕えも致します。しかし、わたしのような下賤の身では到底……」
ベアトリスは椅子の肘掛けに頬杖をついた。
「いいこと、エリー? 生まれなど問題ではないわ。
問題なのは生き方よ」
生き方。それは生まれ持ったものではないのか。エレナは思った。侍従で一生を終えるのが自分の領分のはずだ。
「それに、奥様や社交界の皆様のような艶やかさなどわたしにはありません。いつまでもそばかすが消えなくて、子どもっぽくて、わたし……」
「そんなこと。そばかすなんて化粧で繕えばいいでしょう。女はいくつも顔を持っているものよ。素顔を覆うなんて大したことではないわ」
女手で家を切り盛りするベアトリスを言い込めるなど、出来るわけがなかった。
エレナはほとんど悲痛に聞こえるような声で言った。
「出来ません、私には出来ません」
ベアトリスは、ふう、と吐息を一つ。椅子に背を預け言い含めるように囁いた。
「このわたくしが命じるのです。出来ますね、エレナ?」
誰も彼もを見下す、尊大な女主人の顔だった。否やを許さない。
「……はい、奥様」
作法については、それほど苦労はしなかった。侍従として厳しく躾けられて来たからだ。だがそれがあだとなって、バースリー家に相応しい養子の振る舞いが難しかった。
最もつらいのは衣装だった。エレナとて、若い女の性質で、貴族の華やかな格好には密かな憧れを抱いていた。実際に身に付けてみるまでは。
コルセットのつらさ。侍従の時にしていたものの比ではない。万力で締め付けられるようだ。初日など、あまりの苦しさに倒れてしまったほどだった。そしてまた、広がる大輪のようなスカートを支える、骨組みたるクリノリンの重さ。
遠からず、腰か膝、あるいはそのどちらも悪くするだろう。
(今すぐ、奥様の考えを改めさせなければ……)
日増しに思いは強くなった。とはいえ、最初に断り切れなかったことを、どうすれば変えさせることが出来るのか。あの社交界を泳ぎ切る切れ者の女主人を、如何にしてやり込めるか。
(弱みを握る)
方法はそれしか考えられなかった。
どれだけベアトリスが強権を持とうと、バースリー家の威光があろうと、醜聞には抗しようがない。たちまち地位を狙う有象無象が引き落としにかかるだろう。刹那の享楽を嗜むことはあっても、本当の凋落を望みはしないはずだ。
折良く、エレナを養子に仕立て上げ始めてから、小言を呟く侍従が減ったのをいいことに、ベアトリスが若い男を囲った気配があった。
屋敷の片隅にある貴賓室で、一体何をしているのか。もし不貞を暴くことが出来れば、それを条件にベアトリスの考えを変えさせられるはずだ。
それは最良の考えに思えた。エレナの口元に、小さく笑みが咲く。
貴賓室の扉に耳を当てる。それ自体が芸術品のような楢の扉だった。衣擦れの音。紐を解く音。それらを微かに聞き取った。
エレナは中から気付かれない程度に隙間を開け、覗き込んだ。僅かに露わになった肌が目に入った。浴室で付き添った時に幾度となく見た、ベアトリスの肌に間違いない。
「いかがです、トリス?」
男の声だった。ただの客がバースリー家の女王を親しげに呼ぶことなどあり得ない。
もう間違いない。彼女の奥に暗い満足感が広がる。とうとう、あの女主人の上を行ったのだ。敬愛する主人をやり込めて喜ぶ自分がいることを、エレナは初めて知った。
勢いづいたエレナは無礼を承知で扉を開けた。決定的な場面を押さえるつもりだった。
「奥様、ここで何をしておいでですか。旦那様はこれをご存知、なん、で――」
言い募ろうとしたが、途中で詰まってしまった。
ベルベット地のソファに、素肌で腰掛けているのは間違いなく女主人だ。一糸纏わぬ姿。肌理にこそ衰えは見えるが、染みやたるみとは無縁な肌。四十とは到底思えない。
若い男は、そのベアトリスの対面に立っていた。キャンバスを前に、木炭を手にして。男は絵描きだった。
裸婦画のモデルになっていただろうと、一目でわかった。
「血相変えて、一体どうしたのエリー」
ベアトリスが足を組んで艶然と微笑んだ。
予想が外れて、言い訳も思い付かず、エレナは口ごもった。
「当ててあげる。わたくしの弱みを探していたのでしょう?」
女主人は愉快そうに目元を歪めた。挑発的に胸を張る。軟性の強い双峰が惜しげもなく晒される。
エレナは身を竦めた。罰せられる。女王と恐れられる、主人から。それは想像を絶するものに違いない。
しかし、今度もエレナの想像は外れた。
「いいわ、思った通りよ」
女王の口から下されたのは非道の裁定ではなかった。その口調からは、むしろ賛辞を感じ取れた。
ベアトリスは絵描きを退出させた。
「他人を信用しない。自分の力だけを頼る。代々のバースリー家の女がそうだったように。私がそうだったように」
ベアトリスの口元に深い笑みが刻まれる。
「その生き方は、あなたになら出来る。そうでしょう、エレナ?」
妖しく咲く、女王の笑み。
エレナはようやく気付いた。自分はずっと生い立ちの感謝ではなく、その魔性に惹かれていたのだと。
彼女は引き合う心に従った。
「……はい、お母様」
妖しい色香を振りまく花が、また一つ咲いた。
『社交界の花』了
なんか、こう、もうちょっとねっとりと耽美な感じにしたかったのだが。ううむ。
エマニエル夫人的な。違うか。
追記:
読み返すと、書くつもりだった箇所がすっぽり抜けていたので修正した。実は女主人もメイド上がり、みたいなニュアンスを入れたかった。これでもまだ足りないと思うがもう面倒になった。
それに伴い、「お家」「お家」と具体性がなかったので家名を追加。元ネタはかの有名な吸血鬼を擁するハンガリーのバートリ家。
名前と言えば、主人公をイニシャルA、主人をBみたいなつもりで名付けたはずなんだけど、そういやエレナのスペルはEだ。最初アイリーンにするつもりだったんだけど、なぜかエレナに変化してた。そんで上記の「女主人もメイド上がり」を示唆するには女主人をAのアイリーン、主人公をBのベアトリスにした方が順番的に良かったかも知れない。