エピローグ
士官科の正装に身を包んだ響が見上げる先に、大きな桜の木が花を咲かせていた。コロリョフ地下市内でも数カ所にしかない桜の木の一本が、学校の校庭の隅に植わっているのだ。昔の地球上ではこんな桜の木が何本も連なって並木を成し、盛大にその花を咲かせていたと、響は聞いたことがある。きっとそれは美しい光景に違いないと思ったが、目の前に立つこのたった一本の桜もまた、それに劣ることはないと、響は思った。風が枝先を撫でるごとに、ひらひらと花びらが舞い落ちる様子に、響は見入っていた。
「おーう、尾野倉。卒業式、始まるぜ。」
背後からかけられた声に振り返ると、須津城、砂遠の二人が立っている。普段はテキトーな格好をしているが、今日ばかりは、ぴっちりと正装を着こなし、靴の先がぴかぴかと輝いている。
「・・・馬子にも衣装というやつね。」
響が思わずもらした感想を聞きながら、砂遠が笑った。
「孫って、尾野倉は婆ちゃんか、っての。」
「そっちの孫じゃないわ。」
「じゃあ、どっちの孫だよ。」
「馬子っていうのは・・・。いえ、なんだっていいわ。似合ってなくもない、って言ってるのよ。」
須津城が、にやりと笑って言った。
「似合ってなくもないって、遠回しな言い方じゃねぇか。正直に似合ってるって言えよな。・・・惚れる─。」
「それはないから。余計な心配する必要ないわ。」
響は、惚れるなよ、と須津城が言い終わる前にかぶせて否定しながら、歩き出した。校庭から会場に移動する折り、角を曲がろうとしてばったり出会ったのは、エンキドだった。エンキドもまた正装の士官服に身を包み、いつものツナギ、タンクトップ姿とは打って変わって露出は少なかったが、凛々しさは三割増しのカッコ良さだった。
エンキドが三人を見回すようにしながら言った。
「お。あんた達、急ぎなよ。もう始まる、って・・・ふふ。よく似合ってるじゃーん。」
三人の正装姿を、両手を広げて派手な身振りでほめるエンキドに対し、須津城がちょっと顔を赤らめて言った。
「う、うす! ありがとうございますっ! エンキドさんも、似合ってるっす!」
「ぉほ。あんがと。」
エンキドもストレートに似合ってると言われ、まんざらでもない様子だった。いつもと印象の違うエンキドだったが、首回りのスカーフだけは、相変わらずしっかりと巻かれていた。
エンキドのスカーフを見つめる響の視線に気づいたのか、エンキドが微笑みながら言った。
「ああ、これ? 正装してる時までつける必要、ないんじゃないかって?」
「いえ、そうは思いませんけど・・・。」
「・・まぁ、君らも今日で卒業、駆け出しの一人前になるわけだし、教えてあげてもいいか。」
「教えるって、何をですか?」
響が首をかしげながら訊くのに対し、エンキドが、真顔になって言った。
「私の秘密。」
須津城が、ずい、と身を乗り出す。
「エ、エンキドさんの秘密って! ど、どんな!」
砂遠が、須津城を小突きながら、
「おい。食いつき過ぎだっつーの。」
と、たしなめる。
エンキドは、須津城のことを見つめてちょっと考えているようだったが、やがて、言葉を続けた。
「須津城にしてみれば、知らない方がよかったと思いたくなることかも知れないけど・・・。いずれ、何かのかたちで分かることだしね・・。」
「え?」
淡々と、だが、意外にも真面目なエンキドの顔つきに、須津城は一瞬、気押された。エンキドは、無言で首のスカーフに手をやる。
するりと衣擦れの音がして、スカーフが外れた。首をひねって、うなじのあたりを響達、三人に見せるエンキドの顔は、心なしか寂しそうにも見えた。
響が、はっ、と息を吞んだ。
銀色に輝く金属製のプレートが、首の後ろにはまっている。型番の刻印されたそのプレートは、エンキドが人造人間であることの証だった。
身体機能や思考、情動など、生身の人間と遜色ない精巧なアンドロイドは、人間社会に溶け込むようにして生活している。彼らもまた、人と同じように泣き、怒り、そして笑うのだ。しかし、人の姿にしてヒトならざる彼らは、いわれのない差別にあい、不条理な待遇に苦しめられてきた。同じ都市内に住みながら参政権を持たず、市民としての権利も大きく制限されている。それを厭う声が少なからずあるにも関わらず、一目で分かるプレートを首に埋め込まなければならない義務もまた、彼らの立場の弱さを物語っていた。
沈黙してしまった三人を前に、エンキドはわざと明るい声で言った。
「別に騙すとか、そういうつもりは全然なかったんだけど、アンドロイでござい、って宣伝して歩くのも、なんだかおかしいしね。そのうち、何かの拍子に分かるだろうって思いながら、今日まできてしまったわけよ。・・・あの、なんか、ごめんね。」
謝るエンキドに向かって、響が強い口調で言った。
「謝る必要なんて・・・! 謝る必要なんて、ないです。謝らないでください。エンキドさんは、何も悪いことしてないんだから。」
砂遠も、ぐっ、と力強くうなずいて言った。
「そうですよ。エンキドさんはエンキドさんです。俺達の態度だって、変わるわけないです。なぁ。」
砂遠はそう言って、須津城の方を見た。
須津城は、うつむいたまま、じっと黙っていた。
「須津城・・・。」
須津城の肩に置こうとしたエンキドの手を、須津城は、がっ、とつかんだ。これまで須津城や響達を騙すかたちとなってしまったのだ。落胆と怒りに燃えた瞳を須津城から向けられるものとばかり思っていたエンキドは、須津城の顔を見て驚いた。
半分泣き出しそうな顔をしながら、まっすぐにエンキドを見る須津城の目に、揺るがぬ決意のようなものを見たからだ。
「・・関係ないっす。エンキドさんが何者だろうが、関係ないっす。今、ここにいるエンキドさんのことを、俺は・・・!」
今度は、須津城の迫力にエンキドが気押される番だった。思わずこみ上げてくるものを紛らわすかのように、エンキドは須津城の首に片腕を回し、ぐいぐいとヘッドロックをかけながら言った。
「子供のくせに、嬉しいこと言ってくれるじゃない。この、この・・!」
「こ、子供じゃ・・! もう子供じゃないっすよ。」
「ははん。それじゃあ、試してみる?」
「た、試す?」
「私が人間と遜色ないってところを、そのカラダで感じてみるか、ってことよ。」
囁くようなエンキドの吐息が、須津城の耳元にかかる。ヘッドロックのせいばかりじゃない。須津城の顔が真紅の薔薇みたいに赤くなった。目を白黒させながら須津城は、うんとも嫌とも言えないでいた。
「ふふふ。冗談。冗談よ。」
エンキドの照れ隠しのために、もてあそばれてしまった須津城を少しばかり不憫に思った響は、エンキド達の後ろをひょい、と覗き込むようにして言った。
「あ、踝教官。」
ふひゃ、とか、ふへっ、という、名状しがたい悲鳴を上げて、エンキドは須津城から離れると、慌てて周囲を見回す。
砂遠が響へ耳打ちするように言った。
「おい、尾野倉。」
「何?」
「今のはちょっと、酷なんじゃないか。」
「そうかしら? 照れ隠しとはいえ、須津城のことをからかいすぎかと思ったのよ。いい薬だわ。」
「いや、そうじゃなくて、須津城にとって、酷だってことだよ。」
「?」
「あれ、尾野倉、お前、気づいてないの?」
「・・? 何を?」
意外と響も鈍感である。ヘッドロックで乱れた胸元を慌てて整えながら、そわそわと踝の姿を求めて周囲を見回すエンキド。その隣で、エンキドの様子を見ながら、赤から転じて青ざめてすらいる須津城だ。エンキドの踝に対する熱い思いを、須津城へ目の当たりにさせてしまった。そういう構図であることに、響はまったく思い至っていないのだ。
「お前もいろいろ見えていそうで、結構鈍感な・・・。」
「見えてそうって、それは私に対する皮肉かしら。」
「いや、そういう意味じゃなくて。つーか、もう行かないとまずいぞ、須津城。」
「あ、ああ。分かってるよ。エンキドさん、行きます。」
須津城達三人そろって、エンキドに向かい敬礼をする。
踝の姿が見えなくて、安心したような、ちょっと残念そうな顔をしたエンキドだが、すぐに気を取り直すと、響達三人に、ぴしっ、と返礼を返した。
「うん。晴れ舞台だよ。しっかりやってきな。」
卒業式の会場は、大きな影に覆われていた。頭上に停泊する巨大なオンボロ艦、アスピディスケの作る影だ。伝統的に、士官科の卒業生達は式の最後にアスピディスケに乗り、退場する。大掛かりな演出ではあったが、新たな門出、星の海原への旅立ちを象徴するものとして、重視されてきた。ただ、今回は、象徴以上に、現実的な意味も持っていたが・・・。
頭の美しく禿げ上がった校長は、素手で熊とも格闘できそうなくらいガタイの大きな老人だが、この手の場でありがちな長い演説はせず、わずか二分のスピーチで終わらせた。最後、付け足すように校長は言った。
「なお、本年度の卒業生は諸事情により、このまま実動部隊として、アスピディスケに配属となる。」
ざわ、と生徒達にどよめきが起こった。サエラは、列の後ろに立っているエリオの方を振り向いて、どういうこと? と目で尋ねた。エリオも、さぁ? と首を傾げるしかない。
校長は続けた。
「アスピディスケは本日をもって、練習艦あらため、アンカー級強襲揚陸艦として戦線に復帰する。詳細は担当指導官に直接聞け。以上だ。」
響は、アスピディスケを見上げながら、不思議な思いでいた。火星演習での苦しい日々が思い出されたが、まさかそのままこの艦に配属となるとは。月の物資窮乏が我慢化しているとはいえ、練習艦も引っ張り出さなければならないほど、切迫した状況にあるということなのだろうか。
アスピディスケの甲板上に整列した響達は、学校に向かって敬礼する。艦が、細かく震えてからゆっくりと、前進を始めた。
ようやく。ようやくここまで来た。響は、遠ざかりつつある校舎を見つめながら、深い感情にとらわれていた。自分の力で勝ち得た今の立場に対する満足や自負、達成感はあったが、同時に、よくもまあここまで来れたものだ、という軽い驚きも感じていた。周囲の人間は皆、口を揃えて響の進路に反対したし、響自身、不安も大きかったのだ。ただ、諦めたくはなかった。壁は高く困難なのは確かだったが、しかし、ひとたび登り始めれば、決して不可能な道じゃなかった。
この姿を父に見せたかった。子供の頃、響が何をやっても、手放しで喜んでくれた父に、もう一度会いたかった。死んだ父の笑顔が、ふと、響の脳裏をよぎる。
見ろ、と誰かが指をさした。メドン方面軍旗艦、デルタベローラムがゆっくりとアスピディスケに近づき、並行し始める。艦橋から突き出た物見台に、人影が現れた。士官科の卒業生達は、一斉にその人物へ対し、敬礼をした。
響も同じく敬礼をし、その人物も返礼を返す。母だった。
響がこのアスピディスケの甲板に立っていることを、当然、母も知っているだろう。母はいったい、どんな思いで返礼を返しているのだろうか。ここからでは、母の表情までは見えない。喜んでくれたのだろうか。いや、選択した進路に、終始、母は反対していた。最後まで反抗しきった娘の態度を、よくは思っていないかも知れない。
それでも、と響は思った。
デルタベローラムが、再び距離をあけ始める。私の両隣にエリオとサエラが立った。
「お母さん?」とエリオが訊いた。
「ええ、母よ。私が士官科に進むことを、最後まで反対していたわ。」
「ふぅん・・・。」
サエラが、ぽん、と響の肩に手を置いて言った。
「それでも、嬉しかったんじゃないの? 娘が自分の反対を押し切ってまで、何かをやるっていうのはさ。それも、自分の歩んでる道じゃない。背中を見て育ったのね─って、つくづく思っているかも知れないわよ。」
「そう・・・かな。」
「そうよ。響のお母さんも、結局、あんたに似てるのよ。」
「似てる?」
「無愛想だけど情が深いとこ。」
サエラの言葉に、エリオがうんうん、とうなずいている。
母は反対したが、それでも、響はこれでよかったと思っている。自分の選択した道を、進むことができたのだから。私はもう、何も見えていない私ではない。母の心配という殻から、それを破って抜け出したのだ。雛はいつまでも雛じゃない。弱々しく、例えおぼつかなくても、空を飛ぶ翼を持った鳥になる。
響は、甲板の手すりを固く握りしめ、いつまでも、人の手による蒼い空を見つめていた。