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ウルテリオルム・ルナエ  作者: 桜田駱砂 (さくらだらくさ)
6/7

6 地球人の憂鬱

 遠くの方から鳴り渡るくぐもった爆発音と振動によって、響は意識を取り戻した。周囲の状況を確認しようとEVから入る情報に集中するが、何も見えない。はっ、となって顔に手をやると、EVがない。辺りを探ろうと手を伸ばしたところで、全身を激痛が走る。

「・・くっ・・!」

 傷口が見えないものだから、致命傷を受けているのかとっさに判断がつかなかったが、大きな出血はしていないようだった。骨折も・・・なさそうだ。だが、ここは・・・?

「コックピットの中、じゃないみたいね・・・。」

 響はようやく、自分が硬い床のようなものの上に寝かされていることに気がついた。時折、大地が小刻みに震えるような振動と遠い爆発音以外、ほとんど何も聞こえない。かすかにうなるモーターの駆動音のようなものからして、人工の施設内であるようだったが、具体的な場所はまったく思い当たらない。しかも、寒い。

「EVを落としたのは痛かったわね・・。」

 これでは行動が極端に制限されてしまう。

 足音が、近づいてくる。響が、痛みのある身体をやっとの思いで起こしたところで、扉と思しきものが、軋む音をたてながら開かれるのを聞いた。

「誰・・?」

 響は身を強ばらせた。入って来た相手が誰なのか、ここがどこなのかすら分からない。怖かった。冷や汗が背中を伝い、今さらながら口の中がからからに渇いていることに気づく。

 部屋に来た者が静かに言った。

「気がついたか。貴様は国際宇宙法上の捕虜として扱われる。無駄な抵抗はよせ。おとなしくしていろ。」

 身体の芯に突き刺さるような、冷たい男の声だった。捕虜・・・。ということは、ここはギリトニアの基地か何かだろうか。

「ここは・・どこ?」

「・・・・・。」

 響の質問に、声の主は沈黙で応える。

 男は黙したまま、部屋の中で何かをやっているようだった。いったい何をしているのか。自分が捕虜ということは、ここは監禁されている部屋ということになるのだろうが、何かをこじ開けようとしている音が聞こえる。

 拷問・・の準備でもしているのだろうか。国際宇宙法などと言われたところで、拷問されない保証などどこにもなかった。響は、震える唇をぐっ、と噛みながらも、じり、と座ったまま後ずさった。

 男が息を吸って、ぐっ、と力を籠める気配がした。しかし、何の音もしないまま、ふっ、と息が吐かれる。しばらく沈黙が続いた後、男は舌打ちと共に、響へ言った。

「おい、貴様。もう動けるんだろう。こっちへ来い。」

 この状況で、来いと言われて行けるものではない。男の声とは反対の方向へさらに身を引く。相手が一人だけなら、格闘戦に持ち込んで制圧することを考えないでもなかったが、それも、相手が丸腰であれば、の話だ。もし男が銃を持っていれば、響に勝ち目はない。

 男は若干いらついた声で、再び言った。

「来いと言っている。手を貸せ。」

「手を・・?」

 いったい、どういうこと? 捕虜に手を貸せ、とは。

「どうして・・? 基地の他の人間に頼めば・・。」

 そこまで言って、響は思い当たる。手をかしてくれる人間が、いないんじゃないか。となると、そもそもここは本当にギリトニアの基地なのだろうか。

「頼む人間がいないのね。」

「・・・。」

「だから、私に頼むのでしょう。」

 男はそれに直接答えず、言った。

「・・・発熱剤がこの中にしかない。手を貸せ。凍えて死にたいか。」

 なんとなく状況が飲み込めてきた響は、男に向かって続けた。

「捕虜、というのは嘘ね。手足が拘束されているわけでもないし、この寒さ。ギリトニアの基地なのかしら、ここは。温度調整システムが十分に機能していないのね。発熱剤、と言ったわね。どうするのか知らないけれど、私の手を貸りなければならないほど、切羽つまっている、ということだわ。」

「! ・・・・。」

 図星をつかれたのか、男の沈黙にいらだちの気配がこもるのを響は感じた。響は、畳み掛けるように言った。

「捕虜という扱いを取り消しなさい。対等な立場であれば、手を貸さないでもないわ。」

「・・・・。いいだろう。貴様を捕虜として扱うことはやめる。」

 案外、あっさりと行った。ダメ(もと)で言ってみただけなのだが、男もそれだけ、切迫した状況に置かれているということに他ならなかった。

 響は、痛みをこらえながら立ち上がり、そろりと足を運ぶ。注意はしているつもりだったが、金属製の箱のような物につまづく。

 男が驚いたような声で言った。

「お前、目が・・・?」

 男は続けた。

「墜落の時からか?」

 目のことを男に知られたくはなかったが、隠し通せるものでもない。響にとって、圧倒的に不利となる要素ではあったが、言ってしまうことにした。男の声は冷たいものだったが、しかし、信頼はできるような気がする。響の目が見えない状況をいいことに、ひどいことをしてくることはない、という確信のようなものを感じていた。

「生まれつきよ。ご心配には及ばないわ。」

「ふん。心配などしていない。」

 響がそろそろと近づいて行くと、男の手が、がっしりと響の手の甲を捉えた。驚いた響は手を引っ込めようとするが、思いのほか力強い。細身だが、大きな手だった。そのまま、金属の棒のようなものをつかまされる。

「棒を力一杯押せ。」

 男は、棒をつかませるために、響の手を引いただけだった。響は、動揺したことが悟られていないことを祈りながら、こく、とうなずく。渾身の力を金属棒に籠め、男も呼吸を合わせるように棒を引っ張っているようだった。てこの原理で、重く、さびついた扉のようなものが開くのを、響はその手に感じた。

 ぎごご、という耳障りな音をたてて、扉が開いたようだ。中から土っぽいような、埃っぽいような、自然の匂いが室内に広がる。

 男はがさがさと音を立てながら何かを部屋の中央に運び出した。

 カチッ、という金属音が鳴った後、軽い異臭が鼻をつき、次いで、ほのかに暖かい空気が漂うのを響は感じた。チチッ、と何かが小さくはぜる音がする。

「・・・?」

 男は発熱剤を混合させたのだ。炎こそあがらないが、大きな熱量を得られる。

「どういうつもり?」

「・・・・発熱剤を使った。」

 響の質問に対する答えになっていなかった。それは分かっているのだ。

「なぜ・・? ここはいったいどこ? 温度維持システムの故障、どころじゃないみたいね。」

 響は疑問をそのまま口にした。ギリトニアの基地、などというご大層な場所ですらないのではないか。

「・・・・・。」

 男は再び沈黙し、やがて、この状況の実態を響に隠しても無駄だと思い直したのか、静かに言った。

「火星調査隊の観測拠点だ。かつてのな。空調機能が低下している。このままでは火星の夜に耐えられない。」

「火星の夜・・・。」

 響はつぶやくように言った。ここはギリトニアの基地でもなんでもなく、観測拠点の一室ということになる。

「火星に落ちたのね。」

 よく無事だったものだ。火星表面に墜落する直前、逆噴射がオートでかかったのだろう。そうでなければ、今頃響は、火星の砂っぽい嵐に吹きさらされたまま、二度と目覚めることはなかったに違いない。

 けれど、響には、自力でここまで歩いた記憶がまったくない。墜落地点から、ここまでいったいどうやって来たのだろうか。答えは半ば明白だったが、それでも響は男に言った。

「ここまで、運んでくれたの?」

「・・・。そうだ。」

「なぜ? 敵、でしょ、私達。」

 敵、という言葉を口にしたことで、男と自分の間に、再び緊迫した空気の生まれる気がした。

「この状況で。」

 と、男は感情の起伏を感じさせない、淡々とした声で言った。

「単独のままいるのは、危険だと判断したまでだ。現に、お前の手を借りなければ、これを取り出すこともできなかった。」

「そう・・・かも知れないけれど・・。」

 大胆というか不敵というか。男は、墜落した敵機から、敵軍のパイロットを引っ張り出して、ここまで抱えてきたということになる。響は、この男がいったいどういう人間なのか、よく分からなくなった。男の言うように、単独でいる危険を避けたといえば、確かにその通りなのだろうけれど、響が敵意をむき出しにして襲いかかるということを、男は考えたなかったのだろうか。抑揚のない喋り方をするが、案外、芯の部分は優しくできあがっているのかも知れない。響はそんなことを考えている。

 響は部屋の隅の方へ移動し、うずくまるように座った。寒さが厳しい。火星環境改造(テラフォーミング)が進み、厚くなった大気層によって気温が上昇しているとはいえ、それでも、夜間の地表温度はマイナス二十度近くに達する。響の座る金属室の床材に、体温が溶け出して行くような寒さだった。

 歯がかちかちと鳴るのを必死になって食いしばり、我慢していると、不意に男の近づく気配がした。何をするつもりだろうと訝しむ暇もなく、男の手が、ぐい、と響の腕を取って立ち上がらせる。

「何を・・・!」

「もっと熱源に寄れ。そんな隅に座って、寒そうにされても目障りだ。」

「目障りなら、見なければいいわ。」

「・・・・・。」

 響の言葉など耳に入らないというように、男はぐいぐいと響を引っぱり、熱源のすぐ脇に座らせる。床には毛布のようなものが敷いてあるようだった。床に直接座るよりは遥かに楽で、間近に感じる暖かさに、響は思わず、ほっ、と息をついてしまった。それから慌てて、膝を抱えて身体を丸め、反抗の意志のようなものを示す。子供じみているとは思ったが、この状況で、それ以外に響が男に抗う手段がなかった。

 男がごそごそとやる音が聞こえ、響の手に四角い棒状の、小さな固形物が握らされる。

「何、これは?」

「レーションだ。食べろ。空腹で力尽きられても困る。」

「・・・・。」

 響は、手に持たされたレーション(軍の配給食)の匂いを嗅いでみた。男から渡された食べ物を食べるということは、なんだか、この状況における自分の決定的な負けを認めるような気がしてためらわれたが、思いのほか良い匂いのするレーションの香りに誘われて、響はひとくちそれをかじってみた。

 甘い野菜の匂いが口に広がって、人参やほうれん草、さつまいも、ひよこ豆をコンソメでよく煮込んだスープのような、つまり、とても美味しいのである。月軍で配給される携行型の戦闘糧食は塩味の粘土みたいなもので、たいへんまずい。それと比べれば、天と地ほどの味の差だった。

 むしゃむしゃと食べる響に、男はもう一つ同じ形のものを手渡す。今度は、ほんのりと甘いチョコレートのような味で、これもまた美味しい。響は、あっと言う間にたいらげてしまった。

 男が、平坦な声で言う。

「うまかったのか?」

「・・・いいえ。全然美味しくなかったわ。食料を分けてくれたことには、お礼を言うけれど。」

「まずかったようには、とても見えないがな。」

「・・・・・。」

「月の食料事情も、決してよくはないのだろう。」

「・・・・・。」

 なんとなく、身内の懐具合を探られているような気がして、響は沈黙で返す。男は続けて言った。

「地上でも状況はたいして変わらない。大規模な地殻変動に伴う火山活動が、海水温を含む地上環境を一変させてしまった。こうしたレーションが出回るのも、軍内だけだ。民間の食料流通量は減る一方だ。居住可能な領域は年々狭まっている。早々に地上を離れる決意をした者達の、勝ちだったのかも知れない。」

「・・・・。」

 無口だとばかり思っていた男が、意外とよく喋るのに響は驚いた。つられるように、響も男へ尋ねてみる。

「どうしてあなたは、月へ移住しなかったの? 今でこそ移住は制限されているけれど、十年ほど前までは、世界的に月への移住を推奨していたのよ。」

「国や故郷を裏切ることになる。どんなに地上が荒廃しようとも、俺は地上の住人でありたかった。それだけだ。」

「地上の住人・・・。大地が失われようとしているのに?」

「だからこそだ。俺はその失われつつある大地を見届けたかった。見切りをつけて、地上を去ることが、どうしてもできなかった。地球にしがみつく俺と、地球を捨てて月に行ったお前が、こうして火星上にいるというのも皮肉な話だがな。」

「別に捨てたわけでは・・。」

「分かっている。言ってみただけだ。・・・・もう寝ろ。明日はお前のエコービジュアライザーを探す。お前には力になってもらわないと困る。」

 寝ろ、と言われるまでもなく、響は先ほどから、のしかかるような睡魔に襲われていた。暖かい空気の揺らめきを傍らに感じながら、うっかりすると、気絶するように寝入ってしまいだった。眠気に必死で耐えていたが、それへ耐えるには、響は疲れ過ぎていた。自分でもそれと気がつかない内に男の肩へ頭を載せ、そのまま響は深遠の闇へと落ちるかのように、深い眠りへついた。


 火星の自転周期は、地球と比較してほんの数十分長いだけだ。つまり、昼夜のリズムは概ね地球と変わらない。目を覚ました響は、まどろみの中で、良く眠れたことを自覚しつつあった。気がつくと、手に何かを握らされている。触った感触、形からして、どうやら自分のEVのようだった。

 そっとEVをかけると、室内の状況が鮮やかに浮かび上がる。片方のレンズにひびが入っていたが、機能自体に影響はないみたいだった。

 室内は倉庫として使われている一室のようで、いくつもの金属ケースが、部屋の半分くらいを占めている。目の前の発熱剤はほとんど尽きていて、小さな残り火のような暖かさががまだちょろちょろとくすぶっていた。

 何の前触れもなく、いきなり部屋の扉が開く。ギリトニアの古びたパイロットスーツに身を包んだその男は、年の頃、二十五、六であろうか、響よりも少し年上で、背はそれほど高くなかったが、視線は落ち着き払った肉食獣みたいに鋭い。図鑑で見た、豹、という動物を響は連想した。

 響と目が合った男は、昨夜と変わらない平坦な、だが、緊張感を帯びた声で言った。

「来い。」

 男は廊下に出て、大股で進みながら、振り返らずに言った。

「故障はしていなかったようだな。お前の機内に落ちていた。」

 EVのことを言っているのだろう。礼を言うべきか、響は迷ったが、

「・・・・ありがとう。」

 小さな声で言った。

「礼は行動で返してもらう。」

 男は、響の口にした礼などどうでもよいという態度で、ずんずんと廊下を進む。響も後に続いた。

 廊下には非常灯のような、淡いグリーンの光が所々で灯っていたが、ひどく暗い。エコーの反響を視覚化している響にとっては、なんてことのない暗さだったが、目の前を行く男にとって、前が見えるぎりぎりの明るさではないだろうか。施設は地下にあるのか、外光は一切入ってきていないようだった。

 響はさっきから気になっていたが、廊下の壁にある赤いランプが回転しながら、一定間隔でアラート音を放っている。

「これは・・・?」

 響は前を行く男に訊いた。

「酸素濃度が低下している。」

 その言葉に、響はぎくりと、背筋が冷える緊張感を覚えた。

「どれくらいもちそうなの?」

「二十時間程度だろう。あるいはもっと短いかも知れない。」

 この状況で、酸素を失うことはそのまま死を意味する。果たして、その間に救助が来るのであろうか。さっきから、男のまとう空気がぴりぴりしている理由が分かった。

 男は、左右にスライドして開いたままのドアの前に立って、中を親指で示した。

「中央制御室だ。通信系のシステムが完全に落ちている。こいつが稼働すれば救助を呼べる。お前、できるな。」

 腕組みをして、ぐい、と顎で制御室を指しながら言う男だったが、上から命令口調で喋る男の態度が、響には気になった。

「尾野倉よ。」

「何?」

「名前。お前、と呼ばないでくれるかしら。」

「呼び方などどうだっていい。」

「捕虜扱いしない、と言ったわ。お互いの助けが必要なこの状況で、立場は五分五分(イーブン)なはずよ。あなたにお前呼ばわりされる筋合いはないわ。」

「・・・ふん。EVを得た途端に、随分と強気だな。月軍の少将と同じ名前とは、お前も色々とやりにくいだろう、尾野倉。」

 尾野倉(’’’)、と言う男の言葉には、名を呼んでやったのだから、ありがたく思え、という恩着せがましい音がうっすらとにじんでいた。響は、うっかり自分の名前を言ってしまったことに内心焦ったが、男は、まさか響がその少将の娘だとまでは思わなかったようだ。

 響は男に言った。

「通信なら、OCMのを使えば・・・。」

「だめだ。」

 男が言下に否定した。

「大気中の嵐がひどい。OCMの通信機では出力が足りない。」

 大量の砂や微粒子を巻き上げる猛烈な嵐によって、通信電波が大幅に妨害されてしまうのだ。

「だが、この施設の大出力通信システムなら、救援を呼べるはずだ。」

「・・・分かったわ。」

「予備パーツはそこらにあるのを使え。だいたい揃っているはずだ。俺は酸素供給システムの方を見てくる。」

 きびきびとした口調でそれだけ言い残すと、男はさっさと部屋を出て行ってしまった。

 響は演算システムの内部機構に特別詳しいわけではなかったが、内部のマザーボードを予備のものと丸ごと交換することにした。システムのどこに問題があるのか分からない以上、中のパーツをひとつひとつ取り替えながら、原因を探るしかない。マザーボードと中央演算装置、電源ユニットあたりをおおざっぱな区切りとして、交換しては起動テストを試みる。結局、問題があったのは電源ユニットのようだった。電源ユニットを予備のものと交換し、残りは元に戻す。制御室の演算システムが収まった壁のパネルを開いたまま、電源オン、のボタンを押すと、低い、うなるような音をたてながら、システムが起動して行く。室内の電灯がともり、室温制御システムも再稼働を始めたようだった。風の流れる音が空調ダクトから聞こえ出す。

 作業に没頭していた響は、時刻がとっくに昼を回っていたことにようやく気がついた。酸素濃度がさらに下がっているのか、心なし頭痛がする。じりじりと天井が落ちてくるような、そんな錯覚に似た圧迫感を、響は感じた。

 男が部屋に戻って来た。

「起動できたか。」

 それだけ言って、通信システムに男は取り付く。SOSと共に、LOL(Low Oxygen Level) 低酸素状態を示すシグナルを発信した。宇宙空間におけるLOL信号は、万国共通の緊急信号だった。宇宙を活動の中心とする者達にとって、LOL発信をせざるをえない状況の恐怖は、骨の髄まで身に浸みている。SOSとLOLの組み合わせは、最高度の迅速性を要求することを意味していた。

 男はシグナルの送信が開始されたことを確認すると、振り返って響に言った。

「他への酸素供給を停止し、一室に集中させる。」

「それって・・、酸素供給システムの復旧は、だめだったってこと?」

「そうだ。交換部品が底をついている。そもそも、廃棄された施設だ。パーツが足りないことに文句も言えまい。」

 覚悟を決めるように、響はうなずいた。 

 それから響と男は、施設内の隔壁をロックしつつ、昨晩寝ていた部屋を残して、他への酸素供給を停止した。これで、多少は時間的余裕ができる。

 部屋の扉を手動で閉めてから、男が響に言った。

「よし。月の人間にしては上出来だ。役に立った。」

 相変わらすぶっきらぼうで上から目線な言い方が、響の鼻についたが、きっとこの男はこういう話し方しかできないのだろう、と響はあきらめた。別に優しい言葉を期待したわけでもなかったが、閉塞した空間内に閉じ込められているというこの状況は、響をとても不安にさせた。

 気がつくと、部屋の真ん中辺りに、金属棒を組み合わせて作った、簡単な骨組みができていて、発熱剤の真上に棒が一本、横に渡されている。そこにフックで引っ掛けられた鍋がぶら下がっていた。丁度、熱源によって加熱されるような具合だ。いつの間にこんな準備をしたのだろう。

「何・・・してるの?」

 響は思わず訊かずにはいられなかった。

「飯だ。腹が減る。」

「腹って・・・。」

 酸素が欠乏して行くという危機に瀕して、この男はいったい何を言っているのだろうか。とても何かを食べる気分にはなれない響だったが、男は着々と食事の準備を進めている。

 男が鍋の蓋を開けると、中からほわりと湯気が立ち、美味しそうな匂いがあたりに漂った。食料庫から引っ張り出してきたのか、冷凍牛乳とバター、固形のコンソメと冷凍人参やらジャガイモ、鶏肉なんかの真空パックがあたりに散らかっている。鍋の中身はクリームシチューのようだった。

 男は手慣れた様子でシチューを皿に盛ると、響に手渡す。男を見ていると、響はなんだかおかしくなってしまった。こんな危機的状況で、平然と腹ごしらえをしようとしているのだ。しかも、豹みたいな冷たい視線を持っているくせに、こんな料理を作ってしまうものだから。男にエプロンでもつけさせたら、さぞ似合うだろうと考えたら、くっ、と笑ってしまった。男は、ここで死ぬ気などまったくないようだった。

「何だ?」

「いいえ。別に。慣れてるのね、そういうの。」

「自分の食う物も準備できずに、軍人などやってられん。」

「それはそうでしょうけど、何もこんなときに食べなくても・・・。」

「こんなときだからこそ、だろう。俺はここで死ぬ気などない。食べておかなければ、いざというとき力が出ん。」

「・・・・・。」

 男の前向きさ加減に、底なしのものを感じた響は、黙って鍋の前に座ると、シチューを食べ始めた。頭の芯までしびれるくらいに美味しいシチューだった。それまであった、身体にまとわりつくような不安が、いくらか薄らぐような気がした。

 鍋の中身を二人ですっかり食べ終えてしまうと、もうやることがない。ひたすら、救援を待つしかない。たとえ。救援が来たとしても、それが月軍の救援なのか、ギリトニアの救援なのかで響の運命も大きく変わることになるだろう。ギリトニアであれば、今度こそ本当の捕虜になってしまうのだ。

 男は、そんな響の焦燥になどまるで無頓着で、そばにあった箱にもたれかかって身体をのばし、くつろいでいた。

 響は、男に言ってみた。

「どっちの救援が先に来るかしら。」

「さぁな。」

「月軍だったら、あなたは捕虜になるのよ。」

「だろうな。」

「・・・心配じゃないの?」

「心配してどうなる。俺の部下とて、無能ばかりではない。お前らの艦に乗るぼんくらクルー共よりは使えるだろうな、尾野倉。」

「ぼんくらなんかじゃないわ。」

「どっちだっていい。喋るな。酸素の消費量が増える。」

「・・・・・。」

 響は、男の横顔をまじまじと見つめた。不思議な男だった。変な、といってもいいかも知れない。こんな相手と戦っていたのかと思うと、響は、現実感を失いそうになる。敵のOCMなど、血のかよわない、無機質の塊だとしか思えなかったが、そうではないのだ。こうして、血のかよった、おかしな男が操縦席に収まっている。人間を相手に戦争していると考えれば考えるほど、皮肉なことに、響は現実感を失う気がした。敵と戦っている、という現実を失って後に残るのは、人と戦っているという悲しい事実だけだ。

 いつの間にか、響は眠ってしまっていた。けたたましいアラート音が遠くで聞こえる。何かにつつかれるような感触で、響は、はっ、と目を覚ました。男が足の先で響を小突いていたのだ。見れば、男がパイロットスーツのヘルメットをかぶり装備を整えている。

「起きろ。ヘルメットをかぶって外に出る。」

「外に・・・?」

「救援が来た。これ以上二酸化炭素濃度が上がれば、危ないところだった。」

 男が平然と言った。アラートは、基地内の空気組成が、危険域に入ったことを示すものだった。響は、急いでヘルメットを着用する。

 内側と外側、二重にロックされた部屋に入り、パイロットスーツの気密を確認する。 

 火星環境改造(テラフォーミング)の成果により、地表の気圧は0・6気圧程度にまで上昇していた。地球の三千メートル級山岳、頂上程度の気圧だ。特別な与圧服は必要なかった。

 男が外側の扉の開放スイッチを押す。ぷしゅっ、と、扉の隙間から内部の空気が外へ漏れ出す小さな音がして、扉が開くにつれ、外の光が差し込む。

 響は、火星地上へ一歩踏み出し、眼前に広がる光景に息を吞んだ。

 空が蒼い。白く、巨大な雲が点在し、すぐ先には、渚が果てしなく続いている。海だった。赤みを帯びたエメラルドグリーンの海が、水平線の先まで広がっていた。はるか遠くの方で、間断なく水柱が上がっているのは、火星に投下が続けられている氷塊が、落下しているためだろう。

 響は、外部音声入力のスイッチを入れた。途端に、風の音と、渚に寄せる波の音、砂の捲き上がる音が入り交じった、大地の響とも呼べる音の旋律が、ヘルメットの中に溢れ出した。

「ここが・・・火星・・。」

 男が、響のつぶやきへ応えるように言った。

「火星だ。数年で、第一次入植が始まるだろう。誰が来るかが、決まればの話だがな。」

 月と地球は、誰を入植させるかで意見の対立が続いている。武力衝突にまで発展している一因がその対立なのだから、結論がいつ出るのか、誰にも分からない。

 月の地下構造体に住む響にとって、これほどまでの空間の広がりを、宇宙以外で感じたことはなかった。そこには大地があり、海があった。こうして、硬く揺るぎのない地面に立って空を仰いで見ると、なぜか理由は分からないが、響はとても安心した。自分の寄って立つところが存在するという実感が、足の裏から伝わってくるかのようだった。

 男が、水平線を見つめながら言った。

「かつての地球も、こんな感じだったのだろうな・・・。」

 ヘルメット越しではよく分からなかったが、男の目に一瞬、寂しそうな影がよぎるのを、響は見た気がした。

 遠くの方から轟音が近づいてくる。

 響は、はっ、とそちらを見た。男は救援が来た、と言ったが、ギリトニアと月軍、どちらの救援か、響には知らされていない。

 じっ、と意識を集中し空を見つめていると、少しずつそのシルエットが大きくなる。

「OCM・・。あれは・・・。」

 響の胸中に落胆と、そして不安が広がる。接近するOCMはニンギルス、ギリトニア連邦の機体だった。失われた右腕の傷口を覆う包帯のように、濃緑色のシートが乱雑に巻き付けられている。この状況では、ギリトニアの捕虜となる以外、響に助かる道はない。

 ニンギルスのシルエットは見る間に大きくなり、地表に着地するのももどかしいように、機体腹部のハッチを開きながらニンギルスが降り立ち、片膝をついて静止した。通常回線で男に宛てたものだろうが、若い女の声が響にも届いた。

四國(よつくに)大尉! ご無事でしたか!」

「問題ない。針谷。貴様の迂闊な行動でこの様だ。自分の不注意を自覚しろ。」

「は、はいっ!」

 針谷、と呼ばれた女は、冷たい口調で叱られているのにも関わらず、心底嬉しそうな声で返事をする。

 この(ひと)、四國というのか・・・。響は、ようやく知った男の名前を胸の内で繰り返してみた。むずがゆいような、おかしな気持ちが響の内に湧くが、それが何を意味しているのか、響にはよく分からなかった。

 四國の背後に立つ響に、針谷が気づいた。

「大尉、その女は・・? 月の者ですか?」

 四國に寄せる好意とは打って変わって、冷たく、どこか(さげす)みを含む視線を針谷は向けてくる。響は、今度こそ敵軍の捕虜になると思うと、灰色の焦燥感が背中を伝って登ってくるような気分だった。だが、針谷から目を背ければ、その焦燥に対して屈したような気がしたものだから、ぐっ、と針谷を睨み返す。

 針谷は、何の感情も含まない、冷徹な言葉を放った。

「置いて行きますか。三人が乗れる余裕はありません。」

 四國は首を横に振った。

「だめだ。捕虜として連れ帰る。たいして重要な機密も持たんだろうが、交渉のカードくらいにはなるだろう。スペースを作れ。」

「・・・そうでしょうか? お言葉ですが、そのような小娘、捕虜としたところで酸素の無駄かと。」

「針谷。」

 四國が、じっ、と針谷を睨む。それ以上口答えをするつもりなら、分かっているのだろうな。四國の目がそう言っている。

「・・申し訳ありません、大尉。お乗りください。小娘! 貴様もだ!」

 響に向かって乱暴に腕を振り、乗れ、と針谷はジェスチャーを送る。

 捕虜となれば、どんな目に合うか分からない。国際宇宙法に基づく捕虜の扱いなど、結局、建て前にすぎない。現地のコマンダーの顎先ひとつで、優遇されもすれば、拷問にだってかけられるかも知れない。ともすればうつむきそうになるが、それでも響は、前を見て胸を張り、ニンギルスに向かって歩いた。

 腕を組み、半開きになったコックピットのハッチに片足をかけ、傲然と響を見下ろす針谷だったが、不意に、緊張がその顔をよぎった。

 針谷は慌ててコックピットの中に戻り、ヘルメットに内蔵された通信機ごしに、四國へ言った。

「大尉! お早く! 月軍の連中が・・!」

 響のヘルメットにも、針谷の声が届く。とっさに、響は火星の空を仰ぎ見た。

 黒い点のようなものが三つ見えたかと思うと、瞬く間に大きくなる。月軍のミンネジンガだ。

「・・くっ!」

 針谷が、ニンギルス左腕に持ったレーザーライフルをミンネジンガに向けようとするのを、四國が鋭い声で制止した。

「待て、針谷! 救難活動中の信号だ。撃つな。」

 降下してくるミンネジンガ、中央の一機が、ライトを明滅させている。四國の言うように、ワレ、キュウナンカツドウチュウ、のモールス信号だ。戦闘の意志はないことを告げている。武装の砲口も、すべて針谷機から逸らされていた。

「しかし・・!」

「撃つなと言っている。尾野倉!」

 四國は、片膝をついたニンギルスのコックピットまで素早く登ると、振り返って響に言った。

「お前もなかなかの強運を持っているようだな。だが、戦場には悪運がつきまとうのも忘れるな。次に俺と出会った時、お前が生き残る保証などない。それまで、せいぜい生き抜いた喜びをかみしめるがいい。」

 四國はそれだけ言い残すと、コックピットの中へ身を翻し、すぐさまニンギルスは離陸を始めた。三機のミンネジンガを用心深く牽制するように、機体正面を向けたまま少しずつ遠ざかる。やがて、十分に距離を置いた段階で、一気に加速し、そのまま空の彼方へ見えなくなった。   

 ニンギルスに替わって地上に下りたミンネジンガの一機から、転げるように人影が飛び出て、響に突進してきた。そのまま、体当たりするみたいに響に抱きついたのは、サエラだ。

「響! よかった! 無事で・・・!」

 ぐいぐいと、首の後ろに回した腕を絞めてくるものだから、響は苦し気に言った。

「ちょ、ちょっと、サエラ、苦しいわ・・・。」

「え? どこか怪我してるの?」

「そうじゃなくて、あなたに絞められた首が苦しいって言ってるの。たいした怪我はないわ。擦り傷くらいよ。」

「あ、そ、そう。ごめん。」

 サエラはそう言って、腕の力を緩めた。

 尾野倉! と言って、サエラの後に駆け寄って来るのはエリオだ。エリオが響とサエラの所まで来たところで、突然、爆発音が起こる。ギリトニアの援軍でも来たのかと、爆発の起こった方を見た三人だが、何が爆発したのか気づいた響は、安堵した声で言った。

「墜落した敵のニンギルスよ。機体データを取られないために、自爆したみたい。」

 あらかじめ、四國がセットしていたのだろう。粉々に爆散したニンギルスは、完全に原形を留めていなかった。立ち上る黒煙が、火星の風に吹かれて大きくなびく。サエラとエリオに囲まれて、響はようやく、自分が助かったのだという実感が、心の底から湧いてくるのを感じた。

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