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ウルテリオルム・ルナエ  作者: 桜田駱砂 (さくらだらくさ)
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1 虹色の憂鬱

 尾野倉響(おのくらひびき)は波の音が好きだ。寄せては引き、引いては寄せる細かな細かな波粒(はりゅう)の音が、幾重にも重なって聞こえるのが、好きだ。

 靴と靴下を脱いで裸足になって、砂の浜を歩く。湿った砂が、一歩踏み出すごと足形を作り、できた足形はすぐ波に消されて歩いた足跡は消えてしまう。そこまで歩いた跡はきれいに消えて、あるのは、今、足下にある砂跡(すなあと)と、数歩前のそれだけだ。音の残響みたいなもの、と響は思った。

 尾野倉響は目が見えない。生まれつき視力がなく、裸眼では色も、物の輪郭も、光すらも見えない。エコーヴィジュアライゼーション、可聴域外の反射音や光の波長を感知して、直接脳に伝える通称EV、眼鏡みたいなデバイスのおかげで、ぼんやりとした周囲の状況は分かるものの、世界の輪郭も、色も、響にとっては依然として曖昧だ。音が、世界を知る重要な手掛かりであることに変わりはない。

 尾野倉響は月に住む。銀河系近縁の中性子連星が発する指向性重力波の影響、ということで科学者の見解はほぼ一致していた。多くの人々が地球を離れざるをえなかった、その理由だ。発生した巨大な潮汐力は、地球外核とマントルの境、グーテンベルク不連続面の圧着力低下や内圧の上昇を招き、大地は裂け、地上、海底、至る所でマグマが噴出した。様々な科学的見地、観察と分析、科学者の洞察をごくごく単純にまとめ、ひとことで形容すれば、こういうことだった。

 「地球が割れる」と。

 総人類が、宇宙進出に本気を出して六十余年。月の裏側、コロリョフクレーター下を中心に広がるこの地下構造体もまた、月に建造されたいくつもの施設のひとつである。数十万人の人間が暮らすそれはもはや、構造体というよりも、都市、と呼ばれるべき規模に達している。人の生きられない荒野、「海」と称したところで水のない月の平原に望郷の念をつのらせるのか、月に来た人々は、巨大な地下空間に人工の森、浜辺、海を造ることを好んだ。人為的に波まで起こしているのは、鏡のように平板な水面の沈黙に、耐えきれなかったからだろう。空間上部からゆるやかに落ちる人工光の色がスカイブルーであるのも、自然への切実な欲求の表れかも知れない。

 人工の「空」を仰ぎ見た響は、天板の所々が大きく欠けているのを眺めた。

「ここも、メンテナンスが追いついてない。」

 響はつぶやいて、人工の浜辺を後にした。時間だ。

 市街地に入ると、人の往来が多くなった。喧騒はあったが、厚着の襟をかきあわせるようにして、足早に過ぎて行く人々の顔は皆、どこか険しい。電力不足から、市街地ですら呼気が白くなるほど気温が下がるのは日常茶飯事だった。家電量販店の店頭に貼られた、紙のように薄いディスプレーから、ニュースキャスターが繰り返し告げている。

「現在、第五十二、五十四区画において一酸化炭素、二酸化硫黄、ホルムアルデヒドなどの有毒ガス濃度上昇が検知されています。当該区域には近づかないようにするか、ガスマスクを着用してください。繰り返します。現在、第五十二、五十四区画で・・・。」

 キャスターの口振りは淡々としたもので、午後の雨模様を伝えるかのように、緊迫感はなかった。ガスの発生は、珍しい話ではない。何人かの通行人はニュースを横目に見ながら、不機嫌な様子で腕時計を確認している。迂回路を行くか、マスクを付けて突っ切ってしまうか考えているのだろう。響の行く先は、ガス発生区域と反対の方向だった。

 いくつかのブロックを通り過ぎ、狭い道を乱暴に走り抜ける電気自動車にかすめられながらも、響はどんどん先へ歩く。滞りがちな小麦供給のせいで、午前中には「耳」まで売り切れてしまうパン屋の前を通り過ぎ、角の花屋で売られている今日のイチオシが、これは、ブルーアネモネかしら? とその香りを気に止めながら、響は通りを渡って校門に入って行った。

 コロリョフ中心区にある高校、校名はそのままコロリョフ市立高校といったが、この近辺に高校はひとつしかないものだから、町の人間にはただ、高校と言えば通った。

 響は、光量不足でしおれかけた葉ばかりの植え込みの間を通り、正面玄関に向かった。室内用の上履きに履き替えようとして、響はぴたりと手を止めた。上履きの片方がない。

「またか・・・。」

 小学生でもあるまいし、嫌がらせの幼稚さにいい加減、うんざりした。上履きの片方を見つけられない様子を見て、くすくすと影から笑うつもりかしら、馬鹿馬鹿しい。響はそう思いながら、黙って周囲を見回した。この手の嫌がらせをする奴の行動など、すぐに察しがつく。

「・・・・・。」

 響は、右手に片方だけの上履きを持ったまま、玄関ホールの隅っこにあるゴミ箱へ脇目もふらず向かった。がぼ、とゴミ箱に手をつっこむ。隠すとしたら、この辺りだろう。しばらく中をまさぐって、すぐに見つかると高を括っていたのだが、ない。予想に反して、そこに上履きはなかった。

 少し考えた後、響は生徒用とは別にある来客用の入り口まで行き、スリッパを一つ取り出してつっかけた。もう一方の足には上履きを履き、左右ちぐはぐなそれは、スタ、ペタン、スタ、ペタン、と独特の足音を生み出す。すれ違いざま、思わず吹き出す生徒、指をさしてあからさまに笑う生徒、リアクションは様々だったが、すれ違ったあとに聞こえる、声をひそめた会話はどれも同じようなものだった。いつもの、何百回となく繰り返し、聞きたくもないのに聞こえてくる陰口だ。

 ちょっと、あれ、見た? 虹子(にじこ)。なんでかたっぽスリッパなのよ。知らない。どうせいじめられてるんでしょ。あれで平気な顔して歩けるんだから、どんだけ心臓毛深いんだよ、女のくせに。親の威光で神経麻痺してんだよ。愚民の前で何しようと、お前らの知ったことじゃないとか思ってんだろ。いじめられてんだから、めそめそ泣いてればいいのよ。そうすれば、優しい誰かが偽善ぶって助けてくれるかも知れないんだし。偽善で助けてもらっても、って感じじゃない? いいじゃん、別に。かわいそうな私と、かわいそうな子を助ける優しい友人(仮)、きもい友情のできあがりよ。それうけるわー、てか、引くわー。なんであんな堂々としてんの? いじめられても気にしてないわ、的なアピールしてんのよ。やせ我慢でしょ、どーせ。陰では泣いてんのよ、きっと。親がちょっと偉いからって、いい気になるなって感じ。あんまりあからさまに悪口言うの、やばくない? 平気よ。何もできやしないって、目も悪いんだし。つけてるEV取っちゃえば、泣きながら謝ってくるわよ。何も見えないですごめんなさいってね。

「ちょっと。」

 響は急に立ち止まって振り向き、にやにや笑いながら悪口を言っていた女子生徒へ、いきなり歩み寄った。そのまま、ぐい、と女子生徒の襟を片手でつかむ。

「な、何よ・・・。」

 笑みを凍りつかせた女子生徒が、響をにらみ返そうとするが、それができない。おでことおでこがくっつきそうなくらい顔を寄せ、響は言った。

「さっきからうるさいわね。誰が陰で泣いてる、ですって? 泣きながら謝るのはどっちか、試してみる?」

 響の気迫に押されて、女子生徒はただ口をぱくぱくとさせるばかりだった。響は畳み掛けるように言った。

「それと、虹子って、何? 七光りだから虹子って、馬鹿なの?」

 女子生徒がほとんど涙目になって、口をわなわな震わせているところへ、追加でたっぷり睨みつけておいてから、響は手を放した。

「陰口なら、本人の聞こえないところですることね。」

 そう言い捨てて、ペタン、スタ、ペタン、スタ、ペタン、足音を鳴らしながら、響はその場を後にした。

 響の母親は、軍の上層部にいた。階級でいうところの少将というやつで、月暫定自治政権の管轄下にある月軍(げつぐん)の、実務上のトップといっていい。テレビや何かでも、その名前と共によく映るものだから、だからというわけではないにしろ、響がその娘であるということは、入学早々学内に広まってしまった。

 以来、響が高校の最高学年となった今でも、親のコネで入学した、教師に便宜をはかってもらっている、成績が水増しされている、などという噂は、尾ひれがついてよく出回った。この市立高校が進学コースの一つとして、士官候補生への道というものを持っていることも、そうした噂に拍車をかけた。響についたあだ名は、親の七光りだから虹子。七光りと言われることには慣れているが、目のことを言われると、響はひどく腹が立った。好きでこうなったわけじゃない。自分の責任なんてこれぽっちもない。だから、それをネタにからかわれるのだけは、我慢ならなかった。

 

 結局響は、その日、一日を上履きとスリッパのちぐはぐ状態で過ごした。なぜ片方だけスリッパなのかと担任の鮫皮(さめかわ)に聞かれても、片方失くしました、とだけ言って後は黙った。あんまり毅然と黙ったものだから、鮫皮も、それ以上は何も言わなかった。無くなった上履きの片方は、授業が終わって帰り際、下駄箱の中に戻っていた。

「・・・・・・。」

 響は、勝った、と思った。上履きが無くなってもまったく動じないものだから、隠した犯人が面白くなくなって、元に戻したのだろう。おたおたと慌てていれば、思うつぼだったのだ。歩きにくい片っぽスリッパで一日を過ごした甲斐はあった。

 靴に履き替えて、響は出口に向かった。都市内上面に設置されている人工灯の光波長は、時間帯に応じて調整される。今は夕陽を模して、淡いオレンジ色の光が降り注いでいた。ただ、地球上と違って影が横に長く伸びることはない。

 目が外の光に慣れるまで、響は反射的に手を額にかざした。EVに入力される光の強さによって、脳がまぶしさを感じるのは肉眼と変わらない。茜色に染まって人気(ひとけ)のない校門までの道を前に響が立っていると、背後から声がかかった。

「お、尾野倉。」

 振り向いた先には、男子生徒が立っていた。同じクラスの、確か佐井山(さいやま)といったか・・・。

「何?」

 面倒くさそうな空気をたっぷりとかもして、響は言った。

 自身にあまり自覚はなかったのだが、響はどちらかといって美人の部類に入る。一重(ひとえ)瞼の、見ようによってはジト目といっても過言ではない物憂げな目つきと、整った顔の輪郭は、何と言えばいいのか、そう、好みは分かれるものの、ひとたび好きになれば、ついかわいいと思ってしまう、目つきの悪い子犬、そんな顔立ちをしていた。親の七光りで楽な思いをしているなどと陰口をたたかれながらも、響へ密かに声をかける男子生徒は少なからずいるのである。

 そんな男子の一人と思ったものだから、響はほとんど睨みつけるようにして、佐井山の顔を見た。佐井山は、響に睨まれ居心地が悪そうに言った。

「上履きさ。あれ・・・。」

 それを聞くなり、響はつかつかと佐井山に近づき、きつい口調で言った。

「あなたがやったの? あれ。楽しいかしら、あんな幼稚なことして。」

「い、いや、ち、違うよ。違うって。下駄箱の上の奥の方に落ちてるのが、二階の廊下から見えたからさ。戻しておいたんだよ。」

「・・・・。そう。」

 響は佐井山の顔をじっと見た。EVを通して、ぼんやりと見える佐井山の表情から、その言葉が嘘か本当かは分からなかったが、少なくとも佐井山の言葉の調子からして、嘘を言っているようには思えなかった。

「・・・・・・ありがとう。」

 だいぶ間を置いてから、響はひとこと、そう言った。

「それじゃ。」

 用はそれで済んだとばかりに(きびす)を返す響を、佐井山は慌てて呼び止めた。

「ま、待って、尾野倉。」

「何? まだ何か用? 上履きを見つけたお礼が、ありがとうのひとことじゃ不足だとでも?」

「い、いや、違くて・・・。何か、尾野倉って、クラスの中でいつも孤立しちゃってるから・・・。」

「から?」

「もう少し打ち解けてもいいんじゃないかって思って・・・。」

「・・・・。それだけ?」

「え?」

「言いたいことはそれだけなのかって。」

「う、うん。」

「そう。一応、気に留めておくわ。じゃ。」

「あ、うん・・・。」

 取りつく島もないとはこのことだった。こういう態度で通してしまうものだから佐井山も心配したわけだが、完全に余計なお世話だったようである。夕暮れ色の明かりの下を、まっすぐ背筋を伸ばして歩く響の後ろ姿をぼんやり見つめていた佐井山だが、意を決してその後を追った。

 校門のところで佐井山が追いついたところ、響は首だけ横に向けて立ち止まった。無言だったが、何でついてくるんだという佐井山への批難が、その背中に現れていた。

「ぼ、僕も帰る方向、一緒だから・・・。」

 佐井山が言った。

 響は、

「私、一人で帰るから。ついて来ないで。」

 と、一言、冷たく言って、歩き出す。ついて来るなと言われたわけだが、それでも、佐井山は響の後ろを歩き始めた。佐井山は、前を行く響に声を掛けるでもなく、ひとり言のように言った。

「つ、ついては行かないけど、僕も帰らなきゃいけないから・・・。・・・今朝のガス漏れ、結構ひどかったみたいだね。一時、閉鎖された区画もあるみたい・・・。学校までの道と離れててよかったけどね・・・。」

「・・・・。」

 響は何も言わずに歩き続ける。正直、響は佐井山を変な奴だと思った。

 佐井山江理緒(さいやまえりお)。身長は響と同じくらいで細身、性格は温厚でクラスでも目立つタイプではな

かったし、いじめられることの方が多そうな感じなのだが、運動神経だけは良いみたいだった。球技だろうと体操だろうと、かなりの技を見せることもあるのだが、元来、人前で自分の能力を誇示するような性格ではないものだから、それがきっかけで他の生徒から注目を集めるということはなかった。

 響は運動神経のいい、おとなしい男、という以外、これといった印象を佐井山に対して感じていなかったし、興味を持ったこともない。ただ、ついて来ないで、と冷たく言ったにも関わらず平然とついて来るのには少し驚いた。たいていの場合、あのひとことで相手の男子はがっくり肩を落として去って行くものだが、佐井山はその点、あまり気にもしていないようで、響の後ろを歩いている。

 いったい、どういうつもりなのか、と響が思っているところへ、佐井山が後ろでひとり言みたいな話をし始めた。

「クラスでは、親の七光りとかなんとか、色々言う人もいるけど・・・、あんまり気にしない方がいいと、思うよ。尾野倉は尾野倉であって・・・、親とは違う、から。僕は、早くに両親を失くしてしまったから、親がどうというより、親がいないことを寂しく思うことはあるけどね・・・。」

「・・・・・。」

「ところで、前に一度、尾野倉を見かけたんだ。朝、学校に来る前、浜辺でさ。何をしてるんだろうと思ったけど、なんとなく邪魔しちゃ悪いような気がしたから、声は掛けなかったんだ。ここの海は小さなものだけれど、地球の海はあんなもんじゃないんだって。水平線が直線じゃないんらしいんだ。地球は丸いからね。今じゃ荒れてしまって、かつての輝きは失われた、なんて言われてるけどさ。一度見てみたいと思ってるんだ。」

「・・・・・。」

「・・・お、尾野倉は、海が好きなの?」

「・・・・・。」

「今の時勢じゃ、とても地球になんて行けないけどさ。いつかは行ってみたいんだ。鮫皮先生なんて、二言目には、地球が、地球が、って言うけど、望郷の思いっていうのはあるのかもね。鮫皮先生、地球生まれだからさ。尾野倉は(こっち)生まれ・・・? 僕は(こっち)だよ。色々言われてるけど、(ここ)は嫌いじゃないんだ。食料も不足するし、電力も足りてない、生身で地上には出られないわけだけど、それでも、自分が(ここ)の一部だという感じがするんだ。人が必死で造り上げた希望の城。理想に燃えた先人の想いってやつが、ここにはこめられてる気がするんだよね。尾野倉は─。」

「私。」

 響は突然立ち止まると、佐井山の言葉を遮るように振り向いた。

「帰り、あっちだから。佐井山君はこっちよね。」

 響は視線で、あっちとこっちの道を指し示した。区画の境で、十字路になっている。佐井山も、響にぶつかりそうになりながら立ち止まって言った。

「え、江理緒(えりお)だよ。みんな、僕のことはエリオと呼ぶ。だから、尾野倉にも、できればそう呼んでほしい・・・。強制はできないけど、佐井山君て呼ばれるの、苦手なんだ・・・。」

 名字で呼ばれるのが苦手という人間を初めて見た響だが、相手が苦手だという呼び名をあえて使うほど、響も意地は悪くなかった。

「そう。じゃあ、エリオ君。さよなら。」

「うん・・。また明日。」

 エリオが立ち止まったまま、こっちを見つめているような気配があったが、響はそれを無視して、エリオとは別の道を行く。十字路でエリオと別れて歩く響は、やっぱり変な奴だと思った。エリオのことだ。自分が話を聞いていようがいまいがお構いないしに、一方的に親のことや、海が好きだ、水平線が丸い、希望の城だと喋りとおして、挙げ句、名字では呼ぶなと言って別れるのである。エリオはおどおどした態度であるものの、饒舌な性質もあるようだ。響はいつも一人きりで帰るものだから、おかしな連れを迷惑だと思いながらも、背後で勝手に喋るエリオに対し、不思議と嫌悪感は湧かなかった。

 第二十四区を東から西へ大通り沿いに進み、途中で急に狭い路地へと入る。それなりにあった人通りが、路地に入るなり急に途絶えた。直上の天井光がメンテ不足で所々欠けているせいもあって、ビルに囲まれた路地は薄暗かった。

 反射音響を物体計測の一部として使用しているEVにとって、暗さはあまり障害とならなかったが、それでも、入力光量の減少は響にある種の意識を生み出す。

 警戒心。

 日中にして薄暗い場所がそうした感情を呼び起こすのは、ここが月であろうと、気の強い響であろうと、変わりはなかった。無意識の内に、響の足取りが早くなる。一人暮らしの部屋へ帰るのに、この道が一番近道だった。

 路地の角を曲がって、表通りからは完全に目の届かない場所を足早に歩いていると、突然、真横から声を掛けられた。思わず一歩退きながら、響はわずかに身を低くした。いつでもダッシュをかけられるように、だ。

「いよぉ、七光りさんのご帰宅だぁ。」

「そんなに身構えるなよ。ちょっと話をするだけだぜ。」

 聞き覚えのある声だ。響は他人の声をよく覚えている。顔よりもむしろ、声や足音の方が、個人を識別する手掛かりとして重要な要素なのだ。この声は確か・・・。

砂遠(さとお)須津城(すづき)。何の用かしら、こんなところで。」

「おほ。名前を覚えてくれてたとは、嬉しいねぇ。学校じゃ、話したこともなかったのにな。」

 砂遠、と呼ばれた、学校の男子制服姿の少年が驚いたように言った。響よりも頭二つ分大きく、がたい(’’’)がいい。

「ふへっ。エリート様は、記憶力もいいんだろーぜ。俺達みたいな脳みそプリンと比べたらなぁ。へっへへ。」

 へらへらと笑いながら、小柄な方の制服男、須津城が言った。それを聞くなり砂遠は、須津城に向かって食ってかかる。

「おい、俺達ってなんだよ。俺のプリンは脳みそじゃねぇぞ。」

「いや、砂遠、逆。逆だって。」

「何が逆だよ。」

「脳みそとプリンがだよ。何だよ、お前のプリンが脳みそじゃねぇって。」

「プリンは脳みそじゃないだろうが。」

「知ってるよ、んなことは。脳みそがプリンみたいなほど、馬鹿だって言いたいんだよ、俺は。」

「誰がだ?」

「俺達がって、言ってんだろ! この馬鹿!」

「なんだと、ゴラ。馬鹿に馬鹿と言われても納得できねぇ。どこがどう馬鹿だってんだよ、お?」

「どっからどう見ても馬鹿だろーが! コロリョフの二底辺三角形といや、俺とお前と蓑出(みのいで)の三人で固定じゃねーか。」

「ふはっ! やっぱ、お前の方が馬鹿だ。二底辺三角形じゃねぇ。二塔辺三角形だぜ。小学生以下だな、お前は!」

「いや、ぶっち最下位だから「底辺」ともじってるだけだろ。だいたい、砂遠、二等辺て、書けるのか?」

「書けるに決まってんだろうが。二つのタワーで─。」

「って、おい、尾野倉の奴!」

 須津城が指をさしながら叫んだ。砂遠、須津城の小芝居を完全放置で、響は既にその場を走り去っていた。

「待て、この野郎!」

 野郎じゃない。追って来る砂遠と須津城に心の中でツッコミながら、響は走った。あの二人に関わっても、ろくなことがない。響は全身でそう感じながら、どんどん加速した。

 街区(がいく)を抜ける疾風のごとく駆ける響だったが、須津城の足が、意外と速い。

「ぬぉあらぁぁぁ!」

 須津城が、響を抜いて前に立ちはだかった。背後に砂遠も追いつく。

「ぜぇ、ぜぇ、はぁ、に、逃げてんじゃねぇよ。」

 息を切らしながら、須津城が言った。響の方はといえば、息を切らせる様子もなく、平然と言った。

「何の用かしら? 君達のくだらない掛け合いを見てる暇なんて、ないんだけど。」

 砂遠が息を切らせながら、

「く、くだらなくねぇ。」

 と凄むのだが、すぐに須津城が、

「いや、砂遠、そこつっこむの? そうじゃねぇだろ。」

 と否定する。砂遠は言われて、本来の用件を思い出したようだ。

「あ、ああ、そうだな。尾野倉、お前、生意気なんだよ。親のコネでいろいろうまいことやってんだろうが、世の中そう甘くはねぇんだってことを、その身体に教えてやる。」

「!」

 ぐっ、と響が身構えた。こいつら・・・。

 須津城が響越しに、砂遠へ言った。

「おい、砂遠、顔はやめとけ。腹パン、五、六発にしとけよ。」

「分かってんよ。女の顔殴って楽しむほど非道じゃねぇ。」

 須津城が響へ視線を戻して言う。

「へっ。尾野倉さんよ。砂遠の拳は痛いぜぇ。今の内に謝っとくなら、パンチ半額にしてやっても、いいんだぜ。」

 どうやら、と響は思った。砂遠、須津城の言う、身体に教えるというのは、殴る、蹴るの域を越えないらしい。もっとひどいことを、いや、殴る蹴るも十分ひどいことだったが、もっと陵辱(りょうじょく)的なことをするつもりかと警戒していた響は、鼻で笑って二人に言った。

「謝るって、意味が分からないわ。何に対して謝れと言うの?」

 須津城が半分キレ気味に言った。

「全部だよ! その生まれ、その立場、他人を見下したようなその態度。すべてが鼻につくんだ。お前がいるから俺達が「低く」なる。持つ者と持たねぇ者の差を、お前が作り上げているんだ。だから、落とす。」

 逆恨みもいいところだった。だいたい、響はその生まれとやらで、得をした覚えなど一度もない。むしろ、損をしている方が多いくらいだ。

「生まれ? 持つ者ですって? どういう見方をすれば、そう・・・。いえ、いいわ。言っても分からないんでしょう、どうせ。」

「だとぉ、コラ!」

 砂遠が背後で凄むのを無視して、響は続けた。

「だいたい、身体に教えるって言うけれど、殴るだけなの? 女の私に対して。」

「何?」

 須津城が(いぶか)し気に響へ聞き返した。

「身体に教えるっていったら、%#$&を&“#*に%%したり、%#$&を顔にお#####するとか、上から$$#%&#&とか、いろいろとあるはずよ。」

「なっ・・・!」

 想像を絶する恥ずかし行為を響が口にし、砂遠、須津城の顔が見る間に赤くなる。須津城があからさまに動揺して言った。

「おま・・! 女の子がなんてことを・・・!」

 砂遠も茫然としながら、

「女が%#$&って言うの、初めて生で聞いた・・・。」

 と言ったきり、言葉が続かない。須津城が気を取り直して言った。

「くっ・・・。やるな、尾野倉。俺達を動揺させて、その隙に逃げる気だな。だが、そうは問屋が卸さねぇぜ!」

 響の背後から、横へ顔を出すようにして砂遠が言った。

「おい。おい、須津城。」

「何だよ、砂遠。今盛り上がってんだから、邪魔すんなよ。」

「問屋が卸さねぇ、って、古くね? 時代劇だろ、それ。」

「何? うるせぇな。そんなことで話の腰を折るな。」

 もう帰ろうかな、と響は思った。

 思っただけではなく、響は行動に移した。数歩、軽く助走をつけて須津城の肩へ手をつくなり、そのまま前方倒立前転の要領で須津城を飛び越えにかかる。

「な・・に!」

 口をぱかっ、と開けたまま、響の突然にして大胆なモーションを見上げる須津城と砂遠。だが、須津城がとっさに、自分の肩へかかった響の腕を鷲掴(わしづか)みにした。

 須津城の肩の上で倒立状態になった響は、バランスを崩し、危うくスカートまで逆さにめくれかけたその時、猫のように身体を「つ」の時に折って、膝を須津城の顔面に打ち当てた。

「ぶはっ!?」

 倒立状態の響から、完全に予想外な動作で膝蹴りを受けたものだから、須津城は何が起こったのか、とっさに理解できない。一瞬、間を置いて、響のつややかな膝先が自分の眉間に入ったことが分かり、同時にふらふらとよろめく。

「この・・・!」

 着地した響の背後から、砂遠がつかみかかった。が、響は振り返ることすらせず、そのまま腕が地面につくほど上半身を倒し、後ろに向かってハイキックを炸裂させた。

 響の制服スカート内側が見えるか見えないか、ぎりぎりのところで、砂遠の視界が暗転した。響のキックが顔面に入ったのだ。

「うげっ!」

 砂遠の巨躯が、響の一撃でふらつく。響の背後からはさらに、顔を片手で押さえながら須津城がパンチを見舞わんと振りかぶるのだが、響は、とん、と軽やかなサイドステップでその攻撃をかわした。この時も、響は後ろを見ていない。

 響の前後から、須津城、砂遠が突きや蹴り、羽交い締めにせんとつかみかかる、諸々の攻めを試みるも、風をその手でつかもうとするかのごとく、響はするすると身をかわすのだ。一対多の喧嘩においては、壁を背にするなど背後へ回り込まれないようにするのが常套だが、その点、響は完全に常識を無視していた。そもそも、そのような常套手段に頼る必要が、響にはなかった。響の掛けるEVは、潜水艦のソナーのように信号音を発射し、その反響音から得られたイメージを脳に伝達する。信号音の発射範囲は、デバイスを基点として周囲360度、文字通り、響には死角がなかった。

「この野郎!」

 だから、野郎じゃない。砂遠の怒声に内心ツッコミながら、響はその突進をぎりぎりまで引きつける。

「調子に乗んなよ、こらぁ!」

 背後からも、須津城が助走付きの大振りパンチを打とうとしているのを、響は「見た」。

 タイミングを合わせ、ふっ、と短く息を吐き出して、響が大きく上半身を逸らした(スウェー)。その上で、須津城、砂遠、二人のパンチが交錯する。相打ちのクロスカウンターみたいに、須津城と砂遠はお互いの拳をこめかみに受け、二人の目が泳ぐ。意識が飛んでいた。

 ぐにゃ、と二人の身体が膝から崩れ落ち、響はスカートの埃を払いながら、今日の晩ご飯は何にしようかと考えながら二人へ言った。

「力づくで謝らせるには、実力不足みたいね。そもそも、謝らなければならない、意味も分からないわ。こんなことする暇があったら、勉強すれば。」

 冷たく言って、その場を後にしようとした時、もう一人、近づく気配があった。砂遠、須津城の連れかと思ったが、違った。エリオだ。

「尾野倉! 大丈夫・・・って、大丈夫じゃないのはこっちか。」

 エリオは響に駆け寄りながら、仲良く伸びている砂遠と須津城を見た。響は、エリオが何の為に来たのかまったく見当がつかないという表情で言った。

「何?」

「いや、砂遠と須津城が、待ち伏せがどうとか言いながら走って行くのとすれ違って、嫌な予感がして来たんだ。」

「この二人、待ち伏せするために走って先回りしてたのね。そのエネルギー、別の方向に使うべきじゃないかしら。」

「え?」

「いいえ、こっちの話。それで、何?」

「何が?」

「エリオ君。なぜ来たの?」

「ああ、だから、嫌な予感が・・。」

「それは分かったけれども、嫌な予感がしたからここまで来て、それで、どうするつもりだったの。」

「いや、尾野倉が危ない目に遭っていたら、助けを呼ぼうかと・・・。」

「そう。その気持ちは嬉しいけれど、でもいらないわ。」

「え?」

「助け。この程度の火の粉、払えるもの。自分でできることは、少なくないのよ。」

「そう、なの・・。」

「ええ。」

 自分でできること、という響の言葉が、エリオには心なしか、重く聞こえた。目のせいで、いろんなことができないと思われたくない。エリオは、響がそう言っているように感じた。

「喧嘩、強いんだね。」

「喧嘩が強いというより、打たれないように逃げ回っていたら、こうなっただけよ。」

「それにしては、須津城も砂遠も鼻血だらけだけど・・・。どういう逃げ回り方をすれば・・・?」

「こんな風になるのかって?」

「うん。」

「ひらひらと逃げれば、じゃないかしら。。」

「あ、そう。ひらひらと・・・。尾野倉は、怪我、なかった?」

「ええ。」

「一人で帰れる?」

「ええ。晩ご飯の買い物して、帰るわ。じゃあ、さよなら。」

「あ、うん。また明日・・・。」

 今日、二度目の別れの挨拶をかわして、エリオは歩き去る響の後ろ姿を眺めていた。変な子だと思った。

 突然、響が振り返った。変な子だと思ったのが、まさか悟られたんじゃないかとエリオが一瞬ぎくりとしたところへ、響が言った。

「その二人。大丈夫だと思うけど、一応、気がつくまで見ててあげて。」

「ええ? 僕が?」

「そう。平気よ、弱ってるから。」

「弱ってるからって・・・。」

 須津城、砂遠は学年でも折り紙付きの乱暴者で通っている。エリオは、うずくまる野犬でも見るかのように、恐る恐る二人を見た。

 響はそれだけ言い置くと、路地の角を曲がって去って行った。やっぱり変な子だと、エリオは思いながら、

「わ、分かったよ。」

 と、返事をした。

 エリオは路地脇の小さな段へ腰を下ろし、ビルの合間から見える擬似的な空、つまり天井をぼんやり見つめた。街全体の空調を行っている、ごぅん、ごぅん、という低い音が、遠くの方から響いて聞こえている。調光による天井の光が、心なしか暗くなっていた。そろそろ、日が暮れる。実際に、太陽が地平線の向こうに沈んでいるわけではないのだが、街全体を暗くし、人工の夜が訪れる現象を称して、人々は「日が暮れる」と呼んでいるのだ。地球時代の名残がここにも残っていた。

「む・・ぐ・・・。いってぇ〜。」

 顔の横をさすりながら、須津城が目を醒ました。

「だ、大丈夫?」

 エリオが須津城に向かって言った。

「・・・・あん? ・・・・エリオじゃねぇか。」

 須津城がその姿に気付き、声の主がエリオだと気がつくまで、少し間があった。

「お前、何やってんだよ、こんなとこで。」

 と、須津城が訝し気な顔で言った。エリオは身を引きながら、須津城に答える。

「い、いや、尾野倉を追って様子を見に来たら、二人がやられてたから。何があったの?」

「ああ? うるせぇな。お前の知ったこっちゃねぇ。・・って、あ! 尾野倉の奴、逃げやがったな。」

 須津城が路地の前後をきょろきょろと見回す。エリオはおどおどとした口調で言った。

「逃げたというより、須津城と砂遠が見逃してもらえたんじゃ・・・?」

「何だと!」

 びく、と身を固くしてエリオは言った。

「だって、二人とも完全にのびてたし、あとは尾野倉の考え次第で、どうとでもなりそうだった・・・・。ズボンを持ち去るとか、顔に落書きするとか。」

 はっ、となって須津城は自分が制服のズボンを履いていることを確認し、顔をごしごしと袖で拭いた。

「大丈夫だけど・・・ね。」

「ちっ、あの野郎。調子に乗りやがって。」

「野郎じゃないと思うけど、尾野倉は・・・。」

「さっきからちくちくうるせぇな、エリオ。だいたいお前の方こそ、何でここにいるんだよ。尾野倉のこと、つけまわしてたんじゃねぇのか? このストーカー野郎。」

「ち、違うよ!」

「本当かよ。だったら、何でタイミングよくここにいんだよ。」

「たまたま・・・。須津城と砂遠が待ち伏せするとか言いながら走ってたから、それで来てみたら、二人とも尾野倉にのされてて・・・。」

「のされてねぇよ。相打ちだっつーの。」

「砂遠と須津城の相打ち・・・。」

「むぐっ・・・!」

 おどおどしたエリオの物言いだったが、言ってることは本当なものだから、須津城は言葉に詰まる。

「じゃ、じゃあ・・・。」

 エリオは立ちながら、須津城に言った。

「僕、もう行くから。怪我も大丈夫そうみたいだし・・。もう暗くなるよ。」

 夜は電力節約のため、空調温度もいっそう低くなるから、かなり冷え込む。

「言われなくたって分かってるよ。おら、砂遠。いつまでも寝てんじゃねぇ。」

 砂遠の頬をぺちぺちと叩きながら、須津城が起こしにかかる。砂遠が、目をつむったまま、むにゃむにゃとひとり言を言っている。

「むあ? ああ? まだだ。俺はまだ抜ける。」

「寝ぼけてんじゃねぇって。何を抜くんだよ、おい。」

「・・・・あ? 須津城・・・か?」

「他の誰だってんだよ。起きろ。」

「あ〜、顎いってぇぇ・・・。・・・あ! 尾野倉の奴、逃げやがった!」

 砂遠がおんなじことを言って周囲を見回すのに対し、エリオが言った。

「逃げたんじゃなくて、立ち去っただけ・・・・。」

「何だと、こら! って、エリオじゃねぇか。お前、何やってんだよ。」

「二人とすれ違ったから、尾野倉のこと、気になって・・・。じゃあ。」

 立ち去ろうとするエリオに向かって、須津城が呼び止めた。

「あ、ちょっと待て、エリオ。」

「な、何?」

 ぎくりと立ち止まって、エリオは振り返った。

「てめぇ、言うんじゃねぇぞ。」

「何を・・・?」

「だから、尾野倉の奴に、その、勝てなかったことをだな・・・。」

「二人がまったく歯が立たなかったってことを、学校で言い触らすな・・・・?」

「この・・・! ・・・・ああ、そうだよ。」

「う、うん。分かってるよ。そんなこと、言い触らさないよ。でも・・。」

「でも、何だよ。」

「尾野倉には、あまり手を出さない方が、いいと・・・思う、よ。」

「なんでだよ。親が軍の偉いさんだから、とか言うつもりじゃねぇだろうな。」

「そうじゃなくて・・・。」

「じゃあ、目のことがあるから、優しくしましょーってか?」

「それも、違う。尾野倉は自分の信念や生き方を曲げないタイプの気がするよ。だから、それを邪魔したり、ちょっかい出したりすると、全力で反抗してくると・・思う。今回だって・・・。須津城と砂遠が力づくで痛い目に合わせようとしても、尾野倉は折れない・・・よ。」

「ふん、知ったような口を聞きやがって。折れないかどうか、試してやろうじゃねぇか。」

「試した結果が、これでしょ・・・。」

「今回はちょっと油断したんだよ。次は勝つ。」

「まだ・・・、やるの?」

「ああ。」

「や、やめた方がいいと、思う。」

「うるせぇ、エリオ。お前は黙ってろ。じゃあな。」

 片手を振って、ぶっきらぼうに別れの挨拶をする須津城にうなずくと、エリオは足早にその場を立ち去ろうとする。そこへ、須津城がさらに呼び止めた。

「・・ああ、そうだ。」

「な、何? まだ何かあるの?」

「飯食って帰るか? 二十一区の裏通りに安くてうまい店を見つけた。」

「ぇえ?」

 須津城と一緒に飯を食うか、と誘われ、エリオは戸惑った。どういう風の吹き回しだろうか。須津城、砂遠の二人で散々食べた挙げ句、自分に料金を払わせるつもりではないかと、エリオは警戒した。

 断ろうと口を開きかけたエリオに、砂遠も言った。

「おう、そうしろよ。揚げ物ってやつが、うまかったぜ。」

「あ、揚げ物? そういうメニュー・・?」

「ああ、そうだ。」

「何を揚げたのか・・・?」

「さぁな。揚げてあればとりあえず何でもいいんだよ。」

「何でもって・・・。普通は何を揚げたのか、メニューにあると思うけど・・・。唐揚げとか。得体の知れない揚げ物なんて、お腹壊しそう・・・。」

「俺は平気だった。」

「砂遠は平気でも、ぼ、僕はだめだよ。今日は寮で・・食べる、よ。」

 須津城は意外にも、ちょっと残念そうにしながらあっさりと、

「そうか、分かったよ。じゃあな。」

 そう言って、砂遠と肩を並べて歩き出した。須津城が何のためにエリオを誘ったのか分からなかったが、もしかして、とエリオは思う。須津城、砂遠はなんだかんだ言って、エリオを食事なんかに誘い、さりげなく気遣う風がある。たかられるのではないかと、毎回びくびくしているのだが、結局それは杞憂(きゆう)で、たかられたことは一度もなかった。二人がエリオを気遣うのはなぜと言って、二人は知っているからだ。エリオには両親がいない。エリオは戦争孤児だった。食事に誘うのは、エリオに対する二人の不器用な優しさであるらしいという、自覚すら須津城と砂遠にはなかったわけだが。

 響は、家の近くにある食料品店へ寄った。音楽なんだかニュースなんだか、割れてしまってよく聞き取れないラジオの音が店内には流れている。途切れ途切れの単語をつなげ、かろうじて聞き取れる内容はこうだった。

「・・・ギリト・・ア連邦との和平交渉・・び中断され、現在・・・散発的な衝・・。市民・・冷静な・・を呼びかけ・・・。」

 店の中は薄暗くて、なんとなく陰鬱とした雰囲気だ。壁に張ってある、地球との和平の道を! と大書されたポスターは、すっかり色褪(いろあ)せて、右上隅の方から剥がれかかっていた。とても、食べ物を扱っている店とは思えず、古書店のような、黴くさい匂いすら漂ってくるその店内で、棚のどの段にも物が少なく、がらがらだった。

 響はパスタの束が入った包みを手に取りその値段を確かめ、眉間にしわを寄せた。高いのである。いくつかの銘柄を見て、一番安いものをかごに放り込んだ。仕送りにはあまり手をつけたくなかった。貯金をしたいとか、そういう理由ではない。親から無償で渡される仕送りに手をつけるのは、何というか、精神的な負けを認めるようで嫌だったのである。使えば使うほど、償わなければならない負い目が増えて行くような気すらした。反対を押し切って始めた一人暮らしなものだから、なおのこと、生活費くらいは自分で工面をしたかった。ただでさえ、食料品は高い。自然、生活は切り詰めたものとなる。

 肉トマトの缶詰と合わせてレジに持って行き、ロボットなのだかヒトなのだか、いまだに区別のつけられない顔見知りの老婆へ会釈をしてお金を払い、店を出た。外はもう暗い。寒くもある。響は足早に、家へと向かった。

 グリーンのジャージ上下に着替えてパスタを茹で、温めた缶詰の中身をかけてから、皿を持って窓際のベッドのところへ行く。部屋にテレビはない。電気代節約のため明かりすら消したまま、響はカーテンを開け、外を眺めながらパスタをすすった。少し行儀は悪かったが、響はこうして食べるのが好きだった。部屋はエレベーターのない五階にあって、眺めは悪くない。といっても、EVを通して、街のぼやけた無数の光源が、広がって見えるばかりなのだが。

 寒くなってきたので早々に食べ終え、響は窓を閉めた。皿を洗って風呂を入れる。光熱費を節約している響だったが、風呂だけは、毎日入れた。温かい浴槽に左足から入って、眼鏡のような形をしているEVを外す。

 暗闇が周囲を覆った。すべては闇に閉ざされ、視覚以外の四感が急速に研ぎすまされるのを感じた。湯の感触、したたる水の音、顔に触れる湯気、肌で感じる空気の動き。それらすべてが総じて、響の世界を構成した。確かにそこは暗かったが、豊かな感触に満ち溢れてもいた。音さえ聞こえれば、どんなにその音源が離れていても、そこにあるなにものかの存在を感じられる。変化と起伏に富んだ音響の連なりは、無限とも呼べる広がりを持っていた。こうして湯船に浸かっているのが、響は好きだった。


 翌朝。響きはいつものように浜辺を通って、早くも売り切れの表示ばかりが目立つパン屋の前を過ぎ、今日のイチオシはクレマチスかとその香を嗅ぎながら花屋を横切って校門に入ると、見知った顔が待っていた。エリオだ。

「お、おはよう、尾野倉。」

「おはよう。何?」

「何って・・?」

「なぜそんなところで、待ち伏せみたいに立ってるのかしら。」

「ま、待ち伏せなんて・・・! ちょっと待ってただけだよ・・。」

「何か用? 用がないなら行くけど。」

「用ってほどじゃないけど、須津城と砂遠の二人・・・。」

「ええ。」

「気をつけた方がいい、と思う。」

「何を?」

「また、尾野倉を狙うつもりみたいだから。一人で帰るのは危ないよ。」

「帰らないと家にはたどり着けないわ。」

「そ、そういうことじゃなくて・・・。」

 取り付く島もない態度に困り果てるエリオの脇を素通りして、響は歩き出した。慌てて、エリオも響の隣に追いつく。

「誰かと一緒に帰った方がいいよ。昨日の様子じゃ、平気なのかも知れないけど・・・。須津城達、何か策を用意しているみたいだったし。」

「あの二人の策なんて、たかが知れてるわ。どうせ、ろくでもない策でしょう。」

「うん・・。それはそうだろうけど・・・。」

「だったら気にする必要もないわ。」

「でも、ろくでもないからこそ困ることもあるんじゃないかな。」

「そう? 例えば?」

「た、例えば・・・? 根も葉もない噂をこれ見よがしに書いた紙を、学校のあちこちに貼り付ける・・・とか。」

「噂って?」

「あ、いや・・・、例えばの話だけど・・・。」

 まさか、本人を前にしてエリオは言えなかった。響が高校へ入学するために裏口を使ったとか、成績がいいのは教師に甘い採点をされているからとか。挙げ句、一部の教師と個人的に「親密な」関係にあるとまで囁かれていた。

「・・・・。」

 気まずそうに沈黙するエリオを前に、その沈黙自体を答えと解釈したのか、響は、エリオに構わず校舎へと向かった。エリオはその背に向かって言った。

「何かあったら・・・。」

 相談して、と言おうとしたが、そこでエリオは口をつぐんだ。相談されたところで、自分に何ができるというのだろう。

「・・・・。」

 まるで何も聞こえなかったかのように、響は振り返りもせず、エリオを残して昇降口へと入って行った。

 数々の嫌がらせを受けてきた響にとって、いわれのない悪意を持たれること自体、珍しくもなかった。ただ、殴りかかる、という手荒な手段に出てくる輩はなかなかいない。迷惑この上ないことに変わりはなかったが、当人達が姿を見せないまま、陰湿な、そう、上履きを隠すといった卑屈で卑怯な真似をされるよりは、よほど分かりやすかったし、胸に暗く残る嫌な感情はなかった。響とて、ねちっこい、姿を見せない嫌がらせを受ければ、心が暗く沈むこともあった。

 その日は、何事も起こらず、平穏な一日だった。授業が終わり、掃除を終えて帰ろうとしたとき、響は、自分の鞄へ乱暴に突っ込まれているノートの切れ端を見つけた。汚い字で、こうある。


  畠たし場

 昨日はぬかった。今日は負けねへ。方課後、校者の裏に請い。


 無視である。響は、誤字だらけのそれをチラ見して後は丸めてゴミ箱に投げ捨てた。さっさと校門を抜けて二十四区を大通り沿いに歩き、今日は路地へ曲がらず、遠回りになるが通りをそのまま進んだ。腐葉土みたいな独特の匂いがする用水路にかかる橋を渡り、食べ物屋や呑み屋の多い繁華な街並を抜け、角を曲がればすぐそこが家、というところまで来て、後ろから呼び止められる。

「ま、まてぇ、こら・・。はぁ、はあ、校舎、裏に、来いって、言っただろーが・・・!」

 ぜいぜいと、肩で息をしながら、膝に両手を置いて苦しそうにしている、須津城と砂遠だ。響がいつまで経っても来ないものだから、さてはシカトされたものとみて、走って追いついて来たのだった。呼び出せば響が素直に来ると思っていたあたり、須津城、砂遠も案外、楽天的だ。いや、何も考えていないといった方が正しいかしら。響は、必死になって走って来たに違いない二人を上から見下ろしながら、そう思った。  

「来いと言われて、私が素直に行くと思ったの?」

 響は二人に向かって言った。

 須津城は、

「男の戦いに臨んで、まさか相手が逃げるなんて思わねぇだろが。」 

 と、信じられないという感じで言った。

「私、男じゃないんだけど。なぜ君達の決闘ごっこに付き合わなければならないのよ?」

 砂遠がようやく息を整えて言った。

「決闘ごっこだとぉ? そんな言い草はねぇだろうが。わざわざ果たし場まで書いたのによぉ。」

「あれ、砂遠が書いたの? 字、間違いだらけだったわ。」

「な、なんだと! 誤字の一つや二つで、女々しい奴だぜ。」

「女々しいって、私は・・・。もういいわ。誤字も一つや二つじゃなかったし、だいたい、君達に付き合ってる暇なんてない。」

 そう言って、行きかける響の鞄を、須津城はがっしとつかむ。

「待てよ。今日こそは逃がさねぇ。ちょっと顔貸せ。」

 振りほどいてさっさと行ってしまおうかと響はよほど思ったが、逃げたとしても、さらにつきまとわれるのはうんざりだった。ここで決着をつけて、さっぱりしてしまった方がいいか・・・。

「・・・・分かったわ。どうするの?」

「よし。こっち来い。」

 須津城は言って、用水路の方に下りて行く。水路の両脇は人工の川岸のようになっていて、数メートルの幅で足場が続いている。通りからは、身を乗り出して覗き込まない限り、見えない。

 先を行く須津城へ砂遠は並びながら、響に聞こえないよう小声で言った。

「おい、須津城。本当にやるのかよ。」

「ああ、やる。」

「なんつーか、やっぱりちょっと卑怯じゃねぇか、あの作戦?」

「今さら何言ってやがる。手段なんて選んでられねぇんだよ。必要なのは結果だ。」

「けどよ・・・。」

「お前だって、賛成したじゃねぇか。」

「そりゃそうだが・・・、しかし、いくらなんでも・・・・。」

「煮えきらねぇ奴だな。やると言ったらやるんだ。」

 最後の方は、須津城も自分自身に言い聞かせるような口振りで言った。

 高い壁に遮られて、人工灯も届かない薄暗い場所まで来ると、須津城、砂遠は響と対峙した。須津城は、響の存在を確かめるように睨みつけながら言った。

「観念するなら、今の内だぜ。お前は今日、絶対、俺達に屈する。」

「ずいぶんな自信ね。御託はいいから、さっさと実行したら、その作戦というやつ。」

 砂遠が狼狽しながら須津城に言った。

「げ。ばれてやがるぜ、おい。どうすんだよ。」

「慌てるな。内容までは知られてねぇ。おい、尾野倉! 後悔しても知らねぇからな。」

 須津城はそう言い放つなり、砂遠へうなずいた。砂遠も応じて意を決する。須津城は、響の方へ全力で走り出した。響も身構える。と、思ったら、須津城は突如反転して、響に背を向け、砂遠に向かって走る。

「・・・?」

 (いぶか)しむ響の視線を受けながら、須津城は砂遠へぶつからんばかりの勢いで突き進んだ。そこへ、砂遠が腰を落として、両手を組み、足場を作る。須津城はその足場を踏み台に、自身の足と、砂遠の背筋力を利用して宙高く舞い上がった。

 須津城はそのまま放物線を描いて響の背後へきれいに着地する。大技だ。意表を突かれた響が振り返りながら須津城を正面に捉えるのと、背後から衝撃を感じたのはほとんど同時だった。

「おらぁ!」

「!」

 須津城を放り投げた砂遠が、響へ直進し、低い姿勢からタックルをかけたのだ。須津城に気を取られていた響は、砂遠の突進をかわせなかった。二倍近い体重差のある砂遠の突撃を受け、よろめく響の両足を、砂遠は両の腕でがっしりと押さえる。

「くっ・・・!」

 足を封じられれば、いかに身軽な響といえど、風切羽を切られた小鳥も同然だ。さすがに響も焦った。そこへ、須津城の手が伸びる。

 顔を殴られる! 思わず固く目を閉じた響だが、予想した衝撃はこなかった。そのかわりに、周囲が一瞬で真っ暗闇に包まれるのを感じた。

 停電で、街の明かりが落ちたのではない。須津城が強引に、響のEVを奪ったのだ。

「よしっ! やったぜ!」

 須津城が勝利を確信して声を上げた。砂遠も、響の足を押さえていた手を離し、距離を取った。

「はぁ! ざまぁねぇぜ。これで何も見えねぇだろう。今さら謝ったところで、もう遅いぜ。おい、砂遠! おもいっきり、腹パン食らわせてやれ!」

「お、おう。」

 響は、暗闇の中にいた。完全に、右も左も見えない状態となったが、それでいて、呼吸は落ち着いていた。静かに吸って、静かに吐くその自分の呼吸の他、荒々しく乱れた須津城、砂遠、二人の呼吸、足取りはおろか、筋肉のきしむ音すら聞こえてきそうなほど、響の感覚は研ぎすまされていった。

「悪く思うなよ、尾野倉!」

 砂遠がそう言いながら、深く踏み込んでくるのを感じる。風を捲きながら近づく拳のイメージを、音によって形作られる確かなビジョンを、響は頭に思い描いた。

 拳をそのままいなし、砂遠の足の進み位置を予測して、それをひっかけるように、響は自分の足を伸ばした。

 完全に力を逃された砂遠の身体は泳ぎに泳いで、響の足に引っ掛かり盛大に地面へと突っ込む。

「ぐぁっ!」

「砂遠! 何やってんだよ! この!」

 もう一つの、荒いが、肺活量は少なめな吐息。敏捷に迫る須津城を、しかし、響は完全に捉えていた。気配が急速に近づくのを感じる。

 須津城の「呼吸」に向かって響はまっすぐに、掌の付け根を伸ばした。腕が伸び切る瞬間、重い衝撃が響の肩を伝わった。須津城の顎へ、響の掌底がまともに入ったのだ。

「・・・っ!」

 カウンターで入った掌底に須津城は言葉もなく、次いで、ごごん、という鈍い音を響は聞いた。須津城が両膝から地面に崩れたのだ。

 這いつくばった状態から身を起こした砂遠が言った。

「てめぇ・・。見えて(’’’)いるのか?」

「いいえ。」

 周囲の気配を、自分の周りに円を描くようなイメージで感じ取りながら響が言った。

「見えてはいないわ。感じているだけよ。」

「感じて、だと。そんなんであんな動きが・・・。」

 できるものなのか、と砂遠は思った。これまでも、尾野倉は見えていないふりをしていただけなのではないか。そんな疑問が頭に浮かぶ。だが、なぜ? 何の為に見えないふりをする? いや、そもそも、本当に見えないふりなのか? 砂遠は自分の頭の悪さに悪態をつきながら、響を見据えた。

「・・・・・。」

 いや、やはり、見えてはいない。尾野倉は砂遠の方を向いてはいるが、その視線は、砂遠をわずかにずれたところを睨んでいる。

 砂遠は、視界の端に倒れている須津城を見た。完全にのびているようだ。

 響は、静かに、だがはっきりと言った。

「卑怯者。」

「う・・・。」

 砂遠には返せる言葉がなかった。目が見えないというハンデを負った相手の、生命線ともいえるEVを奪った上で、たこ殴りにしてやろうという算段だったのだ。かなり汚い手だとは思っていたが、当人から面と向かって言われると、さすがに刺さった。

 それでも、砂遠は響の隙をみて、せめて一発でも当てられればとうかがうのだが、ぶらりと両手を下げ、肩幅に足を広げた響に近寄ることができなかった。どこからどう忍び寄ろうとも、響から等距離にある円の中へ一歩踏み入れれば、須津城の二の舞となる。そんな予感がしてならないのだ。ひとことで言って、隙がない。

 砂遠がどうすることもできず、参った、と言ってしまおうか躊躇していると、須津城が目を醒ました。

「う・・・。」

 砂遠が、須津城へ声をかける。

「おい、須津城、大丈夫かよ。」

「あ・・・? お、おう。」

 響の掌底があんまり見事に入ったものだから、いったい何が起こったのか、須津城はにわかに理解ができなかった。地に這いつくばる自分の姿、両膝と顎の痛みに気がつくと同時に、須津城は事態を理解した。

「く・・・、この野郎、ぜってー泣かす。」

 そう言って立つ須津城だが、膝がかくかくと笑って力が入らない。それでも意地になって仁王立ちになると、砂遠へ向かって叫んだ。

「砂遠! 同時だ! 同時にやるぞ!」

「おう!」

 須津城が立ち上がったのに力を得たのか、砂遠も再び瞳に闘志を燃やし、須津城と呼吸を合わせて響に迫る。

 だが!

 当たらない。突こうが蹴ろうが、まったく当たらないのである。まるで、風になびく絹の旗を木刀で殴りつけるような手応えのなさだ。一方で、時折入る響の掌底や蹴りはことごとく、カウンターになっている。響が力をこめているようにはとても見えないのだが、食らうたびに視界が星で埋め尽くされるような、激しい衝撃が全身を貫いた。

「ぐはっ・・・!」

「げ・・・!」

 ついに、須津城と砂遠が同時に、悶絶しながら倒れ込んだ。今度は、須津城が最初に受けたような、一瞬で切って落とされる鋭いダメージとは違う。全身にいくつものダンベルを結びつけられたような、重いダメージが蓄積された結果だった。もはや、二人に、立ち上がる力はなかった。

 スカートの埃を払いつつ、今日の晩ご飯はチャーハンにしようと考えながら、響は須津城に言った。

「もう十分でしょ。君達じゃ私には勝てないわ。さぁ、返して。」

「ぐぬぅ・・・。」

 立ち上がろうといくら力をこめても言うことをきかない身体に歯ぎしりしながら、須津城は響を睨んだ。

「返して。」

 響がもう一度言った。

「・・・あ? 何を・・だよ。」

 須津城には、響が何を返してもらいたがっているのか、すぐには理解ができなかった。

「私のEV。」

 そうだった。今の今まで、完全に忘れていたのだが、須津城は響から奪ったEVを、自分のポケットの中にしまいこんでいたのだ。

 のろのろとポケットをまさぐり、須津城は、ぐい、とそれを響に突き出すのだが、

「あ。」

 と言ったきり、黙った。

 差し出されたEVはフレームが折れんばかりに曲がり、レンズの片方は砕け、片方には大きくひびが入ってる。明らかに元の機能など発揮しえない、無惨な姿と成り果てていた。恐らく、須津城が最初に倒れたとき、身体の下敷きになって壊れたのだろう。

「あ?」

 響には、須津城の発したひとことの意味が分からない。動く相手の動作は、その呼吸や足の踏み位置から読むことができたが、物の形までは、響には分からないのである。

 手探りで須津城の手の上のEVを探り、その形状を響は確かめた。響の顔を睨む須津城であったが、睨みながら、須津城はぎくりと驚いた。

 自分のEVが無惨な姿と成り果てていることに気づいた響は、一瞬、それまでの鬼のような強さからは想像もできない、まるで、道に迷って途方に暮れる小さな女の子のような、とても悲しい表情を浮かべたのだ。

 戸惑う須津城を前に、響は壊れたEVをそっとスカートのポケットへしまうと、立ち上がって、そろそろと歩き出す。だが、その向かう先は、ほとんど流れがないまま澱んでいる、用水路の方だった。

「あ、馬鹿・・・!」

 須津城が、ふらつきながらも、その身を投げ出すようにして、響の足首をつかんだ。もう一歩踏み出せば、響は水の中へと落ちていた。

「そっちじゃねぇよ。」

「そう。」

 響は平然と答える。砂遠がよろめきながら立ち上がって、護岸に捨てられていた粗大ゴミの中から、一メートル程度の細い金属棒を拾うと、響の手に持たせた。一緒に、響の鞄も押し付けるようにして渡す。

「ん。」

「ああ、悪くないわ。これなら帰れる。どっち?」

「お前から向かって真っすぐ左手だ。その階段から上がれる。」

「そ。二度と私を打ち負かそうなんて、馬鹿なことを考えないことね。じゃあ。」

 響は言って、金属棒を杖代わりにこつこつと、左右へ打ち当てながら進んで、するすると階段を昇ると、行ってしまった。

 響が姿を消した階段を見上げながら、砂遠がつぶやくように言った。

「あいつ、結構苦労してるのかもな。」

 須津城がいまいましそうに、

「へっ、知るかよ。」

 そう言うのに対し、砂遠は、大きな身体をすぼめるようにして続けた。

「あいつのEVまで壊しちゃったな。」

「・・・・・。」

「やっぱ、学校にも連絡すんのかな?」

「・・・・・。」

「ばれたら退学か? 俺達─。」

「うるせぇな、さっきから。もともと底辺をうろうろしてたんだ。いつ追い出されたっておかしくなかったんだよ、俺達は。それが明日か、半年先かの違いだけでな。んなこと承知の上で、あいつをへこますって話だったろうが。」

「・・・・なんか、かっこ悪ぃな、俺達。」

「・・・くそっ!」

 須津城は、足下にあった錆だらけのボルトを拾うと、勢いよく用水路へ投げ込んだ。どぷん、と深い水音をたててボルトは水底(みなそこ)に沈んだ。EVが壊れていることを知った時の、響の悲しそうな顔が、脳裏から離れなかった。


 翌日の朝。響のいる教室では、響を中心としてさざ波のように、ひそひそと小声で話す声が広がっていた。担任の鮫皮が入って来ると、潮が引くように話声も消えていった。

「今日は尾野倉がEVを付けていない。」

 朝の起立、気をつけ、礼、を省いて、扉を開けるなり、鮫皮がいきなり話を始めるのは、決まって、普段と違う用件を持っているときだった。今朝もまた、それだ。

「えー、そうだね・・。蓑出(みのいで)。いろいろと手伝ってやりなさい。」

「え? 私がですか?」

 蓑出、と呼ばれた少女が、がたた、と音をあげて立ちあがりながら言った。長めの髪を後ろでまとめ、彫りの深い目鼻立ちは端正といってよかったが、端に行くにつれ吊り上がった眉と鋭い目つきは、いかにも強気を示している。

 初老にさしかかった鮫皮は、温厚だが有無を言わせない声でもって繰り返した。

「そうだ。蓑出が、だよ。委員長としての責務の一環だよ。お願いだ。」

 お願いだ、のところで、鮫皮はまっすぐに蓑出の瞳を見つめる。頭の裏側まで射抜いてしまうような、貫き通す視線を受けて、蓑出と呼ばれた少女は、不承不承、うなずいた。

「分かりました。」

 すました顔でいる響の方を蓑出は睨みつけながら、再び席に座った。

「蓑出、今日は尾野倉の隣に席を移動しなさい。ノートも取ってあげるんだよ。」

「・・・はい。」

 それから蓑出は、あちこちに机をぶつけながら、不器用に響の隣へ自分の机を移動させると、乱暴に机をくっつけた。どす、と座りながら、蓑出は響に言った。

「どうしたのよ、EV。」

「壊れたの。今日はよろしく。」

「壊れた? あれがなきゃ、何も見えないんでしょ。まったく、なんでそんな大事なものを壊すのかしら。気をつけなさいよ。」

「予備もメンテナンスに出していたから。今日だけよ。」

「ふん。おかげで、私があんたの面倒みなくちゃならないはめになったのよ。先生も先生よ。委員長だからって、何でも押し付けないでほしいわよね。ま、言っても始まらないけどさ。」

「・・・・・。」

「言っとくけどね。私はあんたが嫌いよ。」

「なぜかしら?」

「親の威光を笠にきて、いろいろずるいことやってるって、噂じゃない。」

「噂よ。そんなことしていないもの。」

「どうだか。とにかく、今日は委員長として、仕事をするだけだから。そこんところ、理解してよね。」

「・・・分かったわ。それでいい。」

「・・・・かわいくない奴。」

 蓑出はけっして成績が良いわけではない。むしろ、悪い。いや、かなり悪い。須津城、砂遠と並び、学年の二「低辺」三角形の一角と称されるほどひどい成績だったが、しかし、面倒見の良さから、満場一致の推薦でクラス委員に抜擢されたのである。成績の悪い委員長というのも珍しいと、鮫皮も首をかしげてはいたが、その信頼は厚かった。

 その日一日、朝方散々敵愾心(てきがいしん)を吐露しておきながら、蓑出は響の手を引き、一緒にトイレに行ったり、教室移動に付き添ったりした。先生が言葉で言わずに指し示しただけの図像や文章は、その都度読み上げたり、説明したりもした。間違いだらけではあったが。

 放課後、家までは帰れるんでしょ、手伝うのはここまでよ、と言い置いて、蓑出が響から離れて行ってしまうのと同時に、待ちかねたようにエリオが響のところへ来た。

「尾野倉。やっと話しかけられた。」

「用があるなら話しかければよかったでしょう。」

「いや、蓑出が、ちょっと、その、苦手というか・・、嫌われてるみたいで・・・。何かあったの? EV。」

「壊れたのよ。」

「壊された、じゃなくて?」

「壊れたの。」

「・・・・そっか。てっきり、須津城や砂遠に何かやられてんじゃないかと、心配したけど・・・・。」

「違うわ。」

「・・本当?」

「ええ。」

 響にも、なぜそこで自分が嘘をつくのか、よく分からなかった。EVを奪って襲うという暴挙に出た二人だ。当然、先生に話すなりすることで、罰を与えるべき相手なのだが、なぜか響には、そうする気が起こらなかった。面と向かって気に食わないと、拳でもって挑んできた、何と言うか、ごく単純な分かりやすさを目の当たりにしたものだから、先生に言ってどうにかしてもらう、という気も失せたのだ。そもそも、先生へ言ってどうにか、という選択肢は、須津城達がどういう手段に訴えようと、響の問題解決方法に最初から入っていなかったわけだが。

「・・・分かった。」

 エリオは、あまり分かったという表情はしていなかったが、口ではそう言って、うなずいた。

「じゃ、じゃあ、家の近くまで、お、送るよ。」

 声をふり絞るようにして言ったエリオだが、響はあっさりと、

「平気だから。これもあるし。」

 そう言って、カーボン製の細長い杖を持ち上げて見せた。

「でも・・・。」

 言い淀むエリオを置いて、響はさっさと立ち上がると、教室を後にした。付き添いは必要ないと言われたエリオであったが、それでも、響の後ろからついて行く。

 調光された人工灯が鈍いオレンジ色の光を落とす中、校門までの道を植え込み沿いに歩いていた響の前で、突然、声がした。

「待てよ。」

 須津城だ。

「話がある。」

 その隣から、砂遠の声も聞こえる。

「話? まだこりないの? 昨日の件で、もう用は済んだはずでしょう。」

「・・・尾野倉。この通りだ!」

 そう言うなり、須津城と砂遠は、がば、と両膝を地について、いきなり土下座をしたのだ。

「・・・・どの通り?」

 響には、須津城達の声と息遣いが下方へ移動したのを感じたものの、土下座をした姿は見えない。後ろからついて来たエリオが、目を丸くしながら響に囁いた。

「二人とも、土下座してるよ。」

「・・・・どういうこと?」

「・・・分からない。」

 ごん、と地面に頭をつけ、須津城が声を絞って言った。

「お前のEV奪って袋にしようとした件、悪かった!」

 やっぱり、という顔をエリオがした。須津城はさらに続けた。

「お前、昨日のこと誰にも話さなかったそうだな。EVは壊れた、とだけ言ったらしいじゃねぇか。」

 砂遠も頭を下げながら言った。

「今回の件、ばれたら退学は免れなかった。当然、俺達のやったことは学校に知られるとばかり思ってたが、教師からの呼び出しひとつねぇ。尾野倉にはでかい借りができた。」

 響は、ふぅ、とため息をついてから二人に言った。

「退学が怖いなら、あんなことしなければよかったのに。」

「ぅう・・・。面目ねぇ。」

 砂遠は大きな身体をしぼませながら言った。

 響は、

「話というのは、ごめんなさいをしたかったってことかしら。なら、その謝罪、受け入れたわ。じゃ。」

 そう言って、須津城、砂遠を避けて歩き出そうとするのだが、須津城は手でストップのジェスチャーをしながら慌てて響に言った。

「い、いや、謝りたかったのはあるが、それだけじぇねぇ。」

「まだ何かあるの?」

「ああ。俺と砂遠の二人でかかったのに、」

 二人でかかったんだ、とエリオはあきれるように思った。

「まるで歯が立たなかったあの強さ。あれは・・・、本物だ。俺達を、あんたの舎弟にしてくれ!」

「・・・・・いらないわ、そんなの。」

 響は須津城、砂遠を迂回すると、すたすたと歩き始めた。

「ま、まま、待ってくれって、尾野倉。」

 須津城は急いで立ち上がると、響の後を追った。砂遠も後に続いて言った。

「尾野倉、頼む! いったい誰に教わったか知らねぇが、あの身ごなし、体捌き、尋常(じんじょう)じゃねぇ。」

「誰に教わったって・・・、マ・・母よ。」

「ああ。」

 須津城、砂遠、エリオの三人は、声を揃えて納得した。さすがに、軍人の娘である。砂遠と一緒に、響を両側から挟むようにしながら須津城は続けた。

「俺ら二人もこの界隈(かいわい)じゃ、鬼の須津城、砂遠と少しは名も通っていたが、」

 初耳だな、とエリオは思った。

「あんな完敗は、初めてだ。どうか、あんたの下につかせてくれ! 頼むって!」

 響は、歩みを止めないまま言った。

「舎弟とか、不良グループじゃあるまいし、そんなものいらないし、迷惑よ。」

「ぅぐ・・! わ、分かった。」

 意外と物分かりがいい、とエリオは思う。

「今日から、あんたの舎弟を自称させてもらうぜ、尾野倉。」

 あ、やっぱり全然分かってない。

「それでいいな、砂遠。」

「おうよ。それで十分だ。」

 何が十分なんだろう。

 響は、ぴた、とその場に止まって、

「やめて。」

 きっぱりと繰り返した。

 須津城は、砂遠と目配せするようにしながら、

「分かってるって、尾野倉。お前の悪いようにはしねぇって。」

 そう言って、嬉しそうにしている。どう見ても分かっているようには見えなかったし、響はさらに言いかけるが、これ以上何を言っても無駄そうだと思い返すと、足早に進み出した。同じことを繰り返しても、喋るカロリーの無駄だった。この二人を相手にして、わざわざお腹を空かせることもない。響はそう結論した。

 響の背後で、砂遠がエリオに話しかけている。

「ところで、エリオ。昨日から何、尾野倉につきまとってんだよ。」

「つ、つきまとってなんかないよ。か、帰る方向が同じだから、たまたま一緒になっただけで・・・・。」

「嘘をつけ。一緒になった、とか言って、尾野倉の相手にされてねぇみたいじゃねぇか。」

「そんなことはない・・よ。たぶん。ね、尾野倉。」

「・・・・・。」

 砂遠は、ふん、と鼻で笑って言った。

「ほら。相手にされてないわけだ。分かったら、お前は一人で帰りやがれ。」

「だから、こうして帰ってるんだけど・・・。」

「なんだとぉ?」

 すごむ砂遠から、慌ててエリオは距離を置く。

 そこへ、須津城が割って入るように言った。

「まぁ、いいだろ、砂遠。人数いたほうが何かと便利なんだよ。喧嘩は頭数がものを言うんだぜ。」

 エリオは、

「い、いや、喧嘩するなんて・・・。」

 と驚いたように言った。

「そもそも、喧嘩なんてしてる場合じゃない、と思う・・・よ。」

「何でだよ。」

 と、須津城は不思議そうに言った。

「そろそろ・・・。」

「そろそろ? 何が?」

「進路変更。・・・もう来週だよ。」

「ああ、そのことか。」

 須津城は、エリオの懸念とは裏腹に、けろりとした顔で言った。学校最高学年であるこの時期、通常の進学コースに進むか、士官候補生コース、通称、士官科に進むかで選択をしなければならない。他の学校にはない特色だった。

「そのことかって、もう決めてるの? どうするか・・?」

 と、エリオは言った。何も考えていないように見えたものだから思わずそう言ったのだが、

「決めてる。士官科に進むぜ。砂遠もだ。」

「おうよ。」

 と砂遠までもうなずいたものだから、驚いた。ぴく、と響の耳も反応するが、須津城、砂遠、エリオの三人はまったく気がついていない。

「も、もう決めてるんだ・・。けど、進路の希望も決まってるのに、よく尾野倉襲撃なんて・・・。」

 痛い所をつかれて、須津城は早口に言った。

「そ、それとこれとは別なんだよ。気にくわねぇもんは気にくわねぇんだ。あ、いや、尾野倉、今は違うからな。とにかく、俺らみたいな血の気の多い人間には、格好の進路なんだよ。」

 エリオは、そ、そうなんだ、うなずきながら、続けた。

「でも、士官科は学科成績の足切りだってあるのに、よく・・・。」

 横から、砂遠が眉間にしわを寄せて言った。

「俺らみたいな頭の悪い人間が、よく士官科に進めたもんだ、ってか? そこはそれよ。苦手な科目は一切やらねぇ、一点集中突破だよ。二底辺三角形なんざ、汚名挽回だぜ。」

「い、いや、返上しよう・・よ。」

「あん?」

 汚名は返上すべきであることに気づかないまま、首をかしげる砂遠を見ながら、よくこれで通ったものだとエリオは不思議に思った。でも、この二人、体育なんかの実技ではかなりいい線行っているのだ。学年で上位トップファイブに入る運動神経を持っている。その辺が選考に加味されたのであれば、分からないでもない。

 須津城は、

「お前はどうすんだよ、エリオ。ふらふら、おどおどしてっから、何も考えてねんじゃねぇの?」

 と、エリオに向き直って言った。

「いや、考えては、いるよ。」

「どうすんだよ。」

「須津城や砂遠と同じ・・・。」

 小声で言うエリオの言葉へ、さらに、ぴくぴくと響の耳が反応しているのだが、後ろの男子三人は気づいていない。

「へぇぇ。」

 須津城が目を丸くしながら、これは意外だ、という風に言った。

「お前が軍にねぇ。」

「おかしいかな?」

「いや、全然、イメージ合わねぇっつうか。普通に大学へ行くもんだと思ってた。」

「そ、そうかな? そんなにイメージに合わないかな・・・。」

「何でだよ?」

「士官科を選んだのは、なぜかってこと・・・?」

「そうだ。」

「それは・・・。学費、その他諸々の諸経費免除、おまけに給料まで出る・・・。だから・・・。」

「・・・ああ、なるほどな。」

 ちょっと考えてから、須津城はうなずいた。なるほど、の中には、戦災孤児基金によって面倒を見てもらう境遇から、早く自立したいというエリオの思惑を前提とした須津城の共感と、口に出しては言わないまでも、わずかばかりの同情が混じっていた。

 エリオに対して、憐れみに近い同情を感じた素振りを見せないよう、須津城はすぐに、前を行く響へ話しかけた。

「尾野倉。お前はどうすんだ?」

 響は振り返らないまま言った。

「舎弟にしてくれと頼む割に、ずいぶんラフな物言いね。」

「ん? じゃあ、響さんとでも呼べばイイデスカ?」

「やめて。」

 響さん、などと須津城に呼ばれると、全身の毛が逆立つような気がした。気味が悪いのである。

 須津城は、ほらな、という顔をして言った。

「だろ? 今さらそんな他人行儀な呼び方できねぇって。」

 砂遠も、後をついで言った。

「舎弟にしてもらうってこととは、別の話だよ。で? 尾野倉は成績いいからな。院を出て、研究機関にでも進むのか?」

「・・・・・。」

 響は黙ったまま歩く。自分の進路については、教師以外の誰にも話していなかった。母親にすら黙っているのだ。電報みたいなやり取りは母親としている響だったが、進路については一切話題に触れていない。何となく、背後にいる男子トリオに知られたくはなかった。

 すたすたと歩速を早め、三人を振り切ろうとするが、響の醸す空気を読むつもりなど微塵もないらしく、三人は平然とついて来る。

 不意に、砂遠が、

「お、おい、尾野倉・・・。」

 と声をかけた。

「な・・にっ!」

 何? と聞き返す間もなく、響は路側帯の段差に思いっきりつまづいた。危うく転びそうになったところを、砂遠、須津城に両脇から支えられて転ばずに済んだのは、まったく舎弟様々である。

 響を支えている砂遠が言った。

「そんな急いだら、危ねぇだろって、言おうとしたところにこれだ。慌てるなよ。で?」

 空気を読めない男子だとつくづく思う響だが、砂遠はじっと答えを待っている。答えないと、つかんだ腕を離してくれないのではないかと思うくらい、がっしりと腕をつかまれているものだから、響は観念し、小さな声で言った。

「同じよ・・・。士官科。」

 何? というリアクションを、須津城、砂遠、エリオの三人は同時に取った。ぎょっ、として響を見つめる。

 いくらなんでも、響が士官科というのは無茶ではないだろうか。EVがあるとはいえ、響のハンデは小さくない。例え親が軍の上層にいるとしても、さすがに厳しいのでは、というのが、三人の偽らざる考えだった。

「そりゃ・・・無茶だろ。」

 思わず、須津城は口にした後、はっ、となって黙った。そんなこと、本人に言うまでもなく、本人が一番分かっているはずなのだ。

 黙りこくってしまった三人の沈黙の意味を、響も十分理解していた。無茶だというのは分かっていたし、無謀と言われても仕方がない。だが、響は自分が何にでもなれるということを証明したかった。母に心配される、か弱い子供のままでいたくなかった。年中家にいなかった母への当てつけという意味では決してなかったし、母の歩んだ道を、自分も歩ける。行動でそれを示すことで、響は自分が変わることができると固く信じているのだった。

 響は、

「転びはしないわ。ありがと。家、もうすぐそこだから、ここでいいわ。」

 そう言って、あっけにとられる須津城、砂遠からするりと腕を外すと、部屋に向かって行った。

 エリオが、思い出したように響の背後へ向かって言った。

「あ・・、じゃ、じゃあ、また・・・。」

 顔を見合わせる三人を後に残し、響の姿は建物の中に消えて行った。焼け付くような夕陽色の光が、エリオ達三人の影を地面に色濃く落としていた。


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