マッチ売りの少女
「マッチはいりませんかー」
大晦日の夜。
私はマッチを売っています。
私の名前はリコ。 少し前に両親が死んじゃって、 遠縁のオジサンに引き取ってもらいました。 でもオジサンの家も貧乏みたいで、 正月を乗り越えるためには私がマッチをちゃんと売らないといけないみたいです。 オジサンの家はもう大分長い間使っているみたいで、 天井には雨漏りを防ぐための木の板が張ってあります。 でもその木の板にも水が染み込んでいて、 そろそろ修繕したいなとオジサンは言っていました。 それだけではないのです。 窓ガラスにはひびが入っていて隙間風が入ってきていつも寒い思いをしなければならないのです。
オジサンは家の修理費の足しに少しでもなることを期待して私にマッチを売りに行かせたみたいです。
外は一面真っ白になっています。
「雪……かぁ」
空から綺麗な雪が落ちてきます。 雪が積もった街は新年を迎えるための準備で煌びやかに彩られています。 周囲を見渡せば子どもが雪だるまを作ったり、 雪合戦をして遊んでいます。
歩くたびに雪に靴全体が埋まって、足が凍えそうです。
「帰りたいなぁ」
言葉が不意に口をついて出ました。 でも本当は私は帰りたくありません。 なぜならオジサンはよく私に暴力をふるうからです。
暴力をふるうたびに「誰がお前みたいな孤児を育ててやってると思ってるんだ」と言ってきます。 私は振るわれる拳を黙って受けるしかありません。 商売のために私の顔には傷をつけませんが、 体や腕には傷がいっぱいあります。
私は傘を持っていません。 だから降った雪が服に溶けて、 傷に染みます。
「……寒いよ」
14歳に今年の春になって、 パパとママはとっても喜んでくれた。 学校にも毎日楽しく通ってたのに、 どうしてこんな寒い日にマッチを売らないといけないんだろう。
「……どうして死んじゃったの……」
長い金髪が雪で少し覆われています。 寒さで手がかじかんで動きたくなくなるけど、 マッチを全部売るためにはここで立ち止まっているわけにはいけません。
手袋もなくて、 薄手の長袖の服しか着ていません。
「マッチはいりませんかー」
道行く人たちは私を一目見るだけで、 みんな通り過ぎていきます。
私の目に涙が溜まってきました。
「うぅ……なんで……みんな、 買ってくれないのぉ」
オジサンなんて嫌い。 みんな嫌い。 嫌い。 嫌い。
泣きながら道を歩きます。 誰かが私のマッチを買ってくれることを願いながら。
「あっ」
坂を上っているときに、 雪で隠れて見えなかった段差に躓いてこけました。 そのせいで靴が片方脱げました。 靴は坂を転げ落ちました。
私の靴はママが 「これからどんどん大きくなるからねぇ」 と言って大きめのものを買ったのです。
脱げた靴を拾いにいきます。 裸足の足には雪は寒すぎます。 歯がガチガチと音を鳴らします。
そこへ同じ年くらいの少年が私の靴めがけて走っていきます。
「これもーらい」
そう言って私の靴を獲っていきました。
「俺に子どもができたら、 この靴をゆりかごにできるぞ」
走っていく少年を私は必死で追いかけました。 でも片方の足が裸足だとうまく走れません。
「やめて……やめてよ……」
またこけました。
涙が止まりません。 地面に積もった雪を私の涙が溶かします。
少しコンクリートがむき出しになった道路から起き上がることができません。
「なんで……なんで…」
なぜ私なの?
なんでこんなにみじめな思いをしないといけないのでしょうか。
「神様……どうして……」
「大丈夫かい?」
最初はその声が私にかけられたものとはわかりませんでした。
顔を上げると二十歳くらいのお兄さんが優しい顔で微笑んでいます。 背も高くて、 大きな黒い瞳がとても魅力的でした。
絶望に沈んだ私にとって、 このときのお兄さんはとても格好よくて、 思わず私の頬が赤くなりました。
「こんなところで倒れてたら風邪をひいちゃうよ。 僕の家に行こう」
寒さで頭がうまく働かない私をお兄さんが手を引いて連れていってくれました。
「ここが僕の家だよ」
そう言って指さした家はとても大きくて、 私なんかがマッチを何万本売っても買えないようなものでした。
家に入ると綺麗な女の人がいっぱいいました。
「この子に服と食事を」
お兄さんが近くにいるお姉さんに声をかけました。 するとすぐにお姉さんが服と食事を私に持ってきてくれました。
「さあ。 着るといい」
言われるままに私は服を着ました。 その服はお姉さんたちのもののようで、 私には大きかった。
周りを見渡すと、 家の中も豪勢な装飾に彩られていました。
でもなぜかお姉さんたちは少し悲しそうな顔をしています。
「ごちそうさまでした」
近くにあった席に座り、 食事を終えると、 同じお姉さんが食器を取りに来てくれました。
するとお姉さんが私に耳打ちしました。
「早くこの家から出なさい」
「え……」
私が質問するより先にお姉さんは私のもとを離れました。
どうしてなのかな。
この時私が出せた答えは、 お兄さんと話している私に嫉妬しているのかな?というものでした。
そしてお兄さんが私に近づいてきました。
「さて……君の名前は?」
「リコ……です」
「リコちゃんか……」
お兄さんが噛みしめるように私の名前を呼びました。
心なしかお兄さんの顔はさっきよりも恐く見えました。
「ここで働く気はないかい?」
「え……?」
突然の申し出に一瞬何を言われているのかわかりませんでした。
「ここで何をするんですか?」
恐る恐る聞きました。
「なぁに、 大したことではないさ。 ここに来る客……まぁ大抵は男だが、 その客の相手をするだけさ。 簡単だろう?」
「お話……とかですか?」
「まぁそうだな」
席に座っている私を見下ろす形でお兄さんが声を発します。
ママが昔「知らない人にはついていっちゃだめだよ」と言ったのを思い出し、 急に怖くなりました。
「す、 すいません。 お断りします。 かっ、 帰ってもいいですか?」
私がそういった途端、 お兄さんの表情が一変しました。
温和そうな表情は消え去り、 鬼のような形相を露わにしました。
「そんなことが許されるわけがないだろう。 その服、 さっきの食事の代金は、 どうするつもりだ?」
大きな声で言われて、 私は怖くてまた涙が出てきました。
「それは……払えません。 許してください。 一生のお願いです!」
席を立ち、 大きく頭を下げる私にお兄さんが言いました。
「こっち向け」
「はい……んっ!!」
お兄さんがいきなり私の唇を奪いました。
「あぁ……や、 やめっ……」
お構いなしに私の唇にお兄さんの唇を押し当ててきます。
――ファーストキス……だったのにぃ。
また涙が溢れてきました。
お兄さんはさらには下を私の口内に入れてきました。
舌が私の口の中をグネグネ動いて、 とても気持ち悪いです。
「……はっ……… っ…………やぁ……ぁ」
息が出来なくなりながら必死で呼吸をします。
気づけばお兄さんの舌に反抗するように私も舌を動かしていました。
私の顔はお兄さんに掴まれ、 動かすことができません。
「ん……はぁ……ぁ… …」
――舌が……アツい
自分ではわからないくらい長い間キスをしています。
途中からお兄さんは私の背に顔を下げるのをやめて、少し頭を上げました。 それに合わせて私は背伸びをしてお兄さんの唇を離さないようにしました。
――いやなはずなのに……なんでだろう。
でもこうしていると惨めな自分を忘れられる気がしました。 何も考えずにただお兄さんの唇と舌を貪っている間は辛い現実から逃げているような気がしました。
瞳を閉じ、 必死で舌を動かしました。
――今、 もしかして自分からキスをねだってるのかな?
私にはもうキスを無理やりされているのか、 自分も望んでいるのか分からなくなりました。
「んん……いい……はぁ……」
――あ!!
体を捩じらせる時に、 もう片方の靴が脱げてしまいました。
するとお兄さんは一端キスをやめました。
「なんだ……汚い靴だな。 おい、 捨てろ」
そう言うとさっきのお姉さんが私の靴を拾って家の奥に持っていきました。
「やめて……やめてぇ……それは私のママの……形見なの…だから…だから」
お姉さんは私を一回振り返り、 哀れそうな瞳を私に向けて、 また去っていきました。
お姉さんが去っていくのを見届けた後、 お兄さんが言いました。
「あいつも……お前と同じ貧乏な家庭から出てきたところを俺が拾ったのさ。 見たところお前に同情したんだろうが、 もう結局のところ刃向うことなんてできやしないのさ。 俺がいないと生活ができないことをあいつも知っているからな。 客にするのはさっきみたいなことくらいさ。 そうたいしたことじゃない。 みたところ顔も綺麗だし、 十分稼げるようになる」
お兄さんは微笑んで、 またキスしようと顔を近づけてきました。
お姉さんの私を憐れむような瞳をおもいだしたら、 さっきまでは少し気持ちよく思えたキスが今度は醜悪で気持ち悪いものに突然思えました。
「やめて!!」
とっさにお兄さんの頬を叩きました。 お兄さんはぶたれたことが意外だったのか、 それともショックだったのか少しの間動きが止まりました。 その隙に私はマッチ入った籠を手に取ってその場を逃げました。
「待て!!」
お兄さんの声を背に受けて、 私は家から逃げました。 何度もこけそうになりながら、 裸足の寒さを気にする余裕さえもないまま、 ただひたすらお兄さんから――人々――から逃げるように走り続けました。
「やっぱり……寒いな」
大晦日の夜はどの家もイルミネーションで覆われ、 窓から見える家の中では豪華な食事を家族で囲っていました。
――私も本当ならあんな風に今日を過ごしていたはずなのに。
足が冷たくて立っているのも嫌になってきます。
「家に帰ってもオジサンは私を殴るんだろうなぁ」
ハハ、 と乾いた笑いが出てきました。
「なんで!!……なんで私なの!!……毎日神様にお祈りだってした。 パパとママとの約束を破ったこともないよ!! ただパパとママがいる毎日を願ってただけなのに……なんでなのぉ……」
雪の上に膝をついて泣きました。 お兄さんに声をかけられた時と同じように泣いても、 今度は誰も助けてはくれません。
「知ってるよ……この世に救いがないなんてこと」
――でも、 でもさぁ。 少しだけでも幸せを願うこともダメなのかなぁ。
寒さで手も足もうまく動きません。 さっきと同じように道行く人たちは私を無視して通り過ぎていきます。
――なんとかして寒さを凌がないと……
そう思って私は売り物であるマッチに手を伸ばしました。
――使ったがのばれたらオジサンに怒られちゃうなぁ。 結局マッチは売れてないし、 ちゃんと正月を迎えられるのかなぁ。
でも寒さを凌ぐためには仕方ありません。 私は恐る恐るマッチを手にしました。 マッチを壁に擦り付けて火をつけようとします。
シュッ、 シュッ――
指先が思うように動かないのと雪のせいでマッチが湿っているせいで火がつきません。
「ついて……ついてよぉ!!」
そうして何度かマッチを擦った時にようやく火がつきました。 炎は弱くてすぐに消えてしまいそうでした。
しかし不思議なことにマッチは湿っているにもかかわらず、 火はなかなか消えません。
「あったかい。 まるでストーブの前にいるみたい」
私は暖かさに包まれて少しの間目を閉じました。 そして目を開けた時に目の前に実際にストーブがあったのです。
「これは夢なの……?」
手をストーブに当ててみるととても暖かくて、 これは本物だと私は思いました。
もっと暖まりたくてストーブに近づいた時、 マッチの火が消えて、 同時にストーブもなくなってしまいました。
手に残った燃えかすを見つめて、 私は呆然としました。 でもあのストーブの暖かさは本物だったと確信しました。
「もう一度……!!」
そう言ってまたマッチを籠から出しました。 今度はすぐに消えないように手に持てるだけマッチを持ちました。
壁に擦って火をつけると、 またストーブが現れました。 それだけではありません。 並べられた銀食器、 大きなお皿の上に置かれた七面鳥、 上を向くと華美なシャンデリアさえもありました。 まるで裕福な家の大晦日の風景を見ているみたいでした。
七面鳥を見ると自分のお腹がすいていたことを思い出しました。 七面鳥を食べようとナイフとフォークに手を伸ばそうとすると、 マッチの火は消えて、 七面鳥や食器等が消えてしまいました。
「また……」
マッチをつけている間しかストーブや食べ物が現れないことに気づいた私は今の状況の理不尽さに気づきました。
「マッチが消えても残っててよ!!私をこれ以上惨めにしないで!!」
自棄になった私は両手に持てるだけのマッチを持って火をつけました。
すると大きな火がついてまた同じような家の中の光景が現れました。 まるでパーティみたいな豪勢な食事や内装で私は嬉しくなりました。
「リコ」
突然声がしました。 声の方向を見るとそこには死んだはずのパパとママがいました。
「パパ、 ママ」
驚きと嬉しさでうまく声が出せません。 さっきみたいに手を伸ばしたら消えないかと思ってゆっくりと両親に触れてみました。 でも今回は消えません。 パパとママの温かさ感じました。
「二人ともどうして死んじゃったの?私を置いてかないでよ」
二人に泣きつきました。 パパとママは優しそうな顔で私を見つめています。
「オジサンにぶたれて、 辛くて辛くて、 何回も死んじゃいたいって思った。 でもパパとママがせっかく生んでくれた命だからと思ってずっとがんばってきたんだよ」
それから私はずっと自分の胸の内を二人に語り続けました。
パパとママは笑いながら私の話を聞いています。
「みんな私を無視してマッチを買ってくれないの。 私はこんなに必死で買ってもらえるように声をかけてるっていうのに」
パパとママは笑いながら私の話を聞いています。
「私、 パパやママみたいな優しい大人になりたい。 オジサンみたいに自分が辛いのを人に当たったりしないひとになりたい」
パパとママは笑いながら私の話を聞いています。
急に私はパパとママの様子が変なことに気が付きました。
「ねぇ、 どうして二人とも笑ってるの? どうして何も言ってくれないの? 私大変だったんだよ。 ねぇ、 何か言って!!」
パパとママはお互いに向き合って大きな声で笑いあいました。
「どうしてって……ねぇ」
「そりゃあ……ねぇ」
二人は私の方を向きました。 その表情は私が見たこともないような怖い顔でした。 まるで私を軽蔑して、 一瞬たりとも見たくないというような顔をしていました。
「――そりゃあ見たくないよ」
「え……」
私が心の中で思ったことに対して返事をしたことより、 最愛のパパからそんな酷いことを言われたことがショックで何も考えられなくなりました。
「リコは汚いじゃないか」
「そうよ汚いのよ」
「知り合ったばかりの男とキスをして」
「人様からもらった服を盗んで」
パパとママは私の行動をすべて知っているかのように言葉を投げかけてきました。 言葉の一つ一つに侮蔑の意図を感じました。
――やめて。
「ち、 違うの。 話を聞いて」
「「汚い」」
「違うの」
「「汚い」」
「もうやめて!!」
パパとママが私に呪いを投げかけながら遠ざかっていきます。 私は走るけど追いつけません。
――どうして、 どうして。 今までいい子にしてきて、 オジサンに引き取られてからも頑張ってきたのに。
「待って、 待ってよぉ」
追いかけても追いかけてもパパとママにはたどり着けません。
気が付いた時には私は雪に覆われてしまいした。
私は大声を上げて目を覚ました。
使い古した汚いベッドに私は裸で寝ていた。 部屋は薄暗い明かりだけが唯一部屋を照らす光、 窓からは影しかさしていない。 ベッドのほかにはトイレとシャワールームしかない部屋。 ここが私の「職場」だ。
ベッドからは昨晩相手をした男の残り香が漂う。 不快感を感じるもののどこか慣れてしまった匂い。
結局私はマッチを使い切ってその場に倒れていた。 あの時の「お兄さん」が私を偶然見つけたおかげで私は助かった。し助かって終わりなわけはなく、 私に目をつけた「お兄さん」がオジサンから私を買い取った。 そして私は娼婦になり、 体を売って金を稼ぐようになった。
今では以前のようにマッチを売って飢えを凌ぐようなことも、 マッチに火をつけて寒さから逃れるようなこともない。 しかし心には一抹の闇が残っている。
あのまま雪の中で死ねたらと、 ときどき思う。