手を伸ばす
濃い夜の闇が辺りを覆っていた。灯かりとなるものは星の光と、街灯の白色だけだ。
街灯には羽虫が舞い、もうじき電球が切れるのか、低い断続的な音が聞こえる。
そして、絶え間なく川の音が聞こえ、理科室を思わせる、濃い水草の匂いが漂ってくる。
そこは橋の上だった。吹きつける風にさらされながら、二人はいた。
長い黒髪を背中まで伸ばしメガネをかけた小柄な少女と、線の細い中性的な少年だ。
ただその少年はこの暗闇の中でも、はっきりと目立つ特徴があった。
それは白だ。肌の色ではない。髪の色だ。彼の髪は老人のようなわずかに色の付いた白髪ではなく、まるで白雪を思わせるような色合いをしていたのだった。
「こんばんは」
「よう」
たたずんでいた少年に少女は挨拶をするが、返ってきたのは無愛想なものだった。しかし、慣れているのか少女は気にした様子もなく、空を仰いだ。
「今日は良い夜だね」
「そうか」
「うん、良い夜だよ」
そう言うと少女は視線を川へと向けた。
「ホラ、夜の闇に惹かれて、死霊が川面から姿を現しているよ」
川面からは手が浮かんでいた。
白い、骨のように、不気味な光沢を放ちながら、それは何かを掴み取りたいかのように、手のひらを広げ流れることなく留まっていた。
「今年だけでもう6人が死んでいる。死因は全部溺死。アイツに引き込まれてみんなおぼれて死んだようだ」
少年は欄干に腕を載せ、死霊を見下ろしながら口にする。そこに感情の揺れはなく、時折強く吹く風に、言葉さえも流されてしまいそうな風情だった。
「アレは生者を呼んで、同じ仲間にしてしまう。けれどそれは、力を付けたいとか、妬ましいとかそういう理由じゃないの」
川面に漂う手はなんの変化もない。そこに救いがあるかのように、空に向かって仰ぎ続けるだけだ。それはどこか祈りに似ていた。
ただひたすらに願いを請うしぐさのような。どこか固くて遠い、気配のせいかも知れない。
少女はそんな死霊を悼むように目を細め、見つめていた。
「アレは、ただ願って、苦しんでいるの」
少女の言葉は続く。歌うように。ささやくように。
「死にたくない、もっと生きていたい。だから、助けてって叫んで、必死にもがいているだけなんだよ」
「悪意があるから悪なんじゃい。誰かを苦しめるから、悪なんだ」
「ねえ。更夜、人はどうして手を伸ばすと思う?」
少女の言葉が夜のしじまの中を舞う。それは消え入らない存在感を持って、少年の心に問いとなる。
「届かないからさ。手を伸ばして掴み取りたいから、手を伸ばすんだ」
「そうだね、掴むために、届くために、伸ばすんだよね。でも、伸ばしたからって届くわけでもないんだよ。届かないとわかっていても、手を伸ばす時があるんだよ」
わずかに唇だけを動かし、少女は微笑んだ。
「世界はね、遠いんだよ、たぶん。そして、近くにあってほしいんだよ、きっと」
「――近くて遠い。だから、手を伸ばすか」
少女と少年は空を見上げる。そこには月があった。遠いゆえか揺れる不確かさを備えた、鮮やかな満月が二人を見下ろしていた。少女がその白く細い腕を伸ばす。
「決して、届かないことは知っているんだよ。でも、驚くほど近い気がする。まぶしいんだと思う。いつもそばにあって、でもそばにないから、その近さがまぶしいんだと思う」
少女は腕を下ろし、名残惜しげに月を見つめた。その瞳は夜の中、まるで太陽を見るかのように細くなっていた。
「川面にいるアレはまだ奇跡を信じて、手を伸ばしているんだよ。近くて遠い、生を忘れられなくて」
「もう、死んでいるのにか。どうあがいたって、無理な相談だ」
「そうだね、でも、願いってそういうもんじゃない。叶わないとわかっていても、そうせずにはいれないものなんじゃないかな。――誰かが救ってくれるって、信じて、手を伸ばしているんだよ」
「助けて欲しいから、溺れたくないから、相手に捕まって、しがみついてるだけなのかもしれな。でも、それでもだよ」
少年は眼下に死霊を捕らえながら、告げる。そうではないのだと。たとえ、そこに悪意がなくともそれは悪行なのだと。
「誰かを傷つけてしまった時点で、どんな理由があっても加害者だ」
「うん、わかってる。わかってる、わかってるんだよ」
口にした言葉は自らを無理やり納得させるための、言い訳めいた響きを持っていた。
それがやさしさなのか、弱さなのかは誰にもわからなかった。
「それでも、言ってみたかったんだ」
それは花びらのように揺れながら、川面に抱かれていった。
白い人の形をした紙だった。小さく文字が片面に書かれていた――少女が投げた物だった。
「今、川に投げたのは形代。ここで溺れた全ての人の名前と生年月日を書いて、その人たちと同じ存在にした術だよ」
眼下を見ることなく、少女は目を閉じ、橋の上から風を浴びながらそう口にした。
「あの形代を沈めるということは死霊にとって、自分たちを殺すということ同意義になる。死を認めきれないからこそ存在している以上、自分達を殺すということはこれ以上のない死の認知になる」
死霊は突然舞い降りた形代に近寄ると、掴むというよりは締め付けるな握力で形代を握った。
「逆に沈めなければ、それは救われたいという行為の放棄にあたる」
だが、握れば握るほど、力を込めれば込めるほど、それに応じて、死霊の姿は不鮮明になる。暗闇の中で目立つ青白さが、夜の闇に溶け込むようにしてその姿を消していく。
「……願いを無くして奇跡は起こりえない。どちらにせよ、これで全ては終わりだよ」
いつのまにか、川面に浮かぶ手はなくなっていた。最初から何もなかったかのように、川の流れだけが音を立てていた。
少女はなにも言わない。少年もなにも言わない。ただ、ぎこちなく、少年が少女の手を握った。
少女はなにも言わない。少年もなにも言わない。ただ、かすかに微笑む気配がした。
「――更夜の手って、あったかいね」
「……そうか」