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深海、新月。

死は別れと同時に、出会いでもある。

死。

それは、別れの終着点である。

それは、出会いの出発点でもある。


―――――


「...あ」

DDG-172『さちかぜ』のCIC(戦闘指揮所)の中で目線を上げると、朱紅色の死を呼ぶ刃が眼前に迫っていた。

刃の鋭い音が鳴る。


――世界が傾く。

自分の身体が見える。

切口から血潮が溢れ出していく。それはまるで、長年耐え続けてきた(せき)が決壊し、荒れ狂う海がすべてを呑み込もうとするかのようだった。

青い迷彩柄の作業服が、見る間にどす黒い赤へと染まっていく。その鮮やかさは、皮肉なほど美しかった。

足元の冷徹な床には、私の命だったものが音を立てて飛び散っている。


その刹那、艦長の声が自分の脳内に響き渡る。


「すいちょおおおぉぉぉぉぉぉ!!!!」


聞き覚えのある叫び。

――いや、言い覚えのある叫び。

いつだったか、悠久の時を遡り、自分は見覚えのある景色を見た。


―――――


鋼鉄の隔壁に反響し、艦内に張り詰めた声が鳴り渡る。

現代の電子音ではない。肉声が空気を震わせ、熱を帯びて伝わっていく。

薄暗い通路を、脂ぎった軍靴の音が激しく叩く。

飛び交う怒号。蒸気の噴き出す音。主砲が旋回を始める、重厚な機械の軋み。

鼻腔を突くのは、焦げた重油と、火薬の煙、そして荒ぶる潮の匂い――。


そのすべてが、狂おしいほどに懐かしかった。

けれど同時に、それは決して懐かしんではならない光景だった。

そこは、栄光の頂点などではない。死へと邁進する、巨大な鋼鉄の棺だったのだ。


昭和二十年、四月。

戦艦『大和』を旗艦とする第二艦隊は、燃え盛る沖縄の海を目指し、豊後水道を南下していた。

片道分の燃料。

上空を護る友軍機は一機もなし。

文字通りの海上特攻。

この航路の終点が、冷たい海の底であることを、理解していない者など、この(ふね)には一人もいなかった。


「通信長、対空警戒電探、異常なし! 感度、依然良好です!」

「了解。......引き続き微弱な信号も見落とさないでね」


受話器を置きながら、私は自分の震える指先を隠すように拳を握った。

まだ二十代で天然気味で穏やな若輩。だが、駆逐艦『幸風』の通信長という重責が、その肩にのしかかっていた。


艦内の空気は、澱んだ水のように重い。

それでも自分が守る通信室には、奇妙な静寂が横たわっていた。

電鍵(キー)を叩くカチカチという規則的な音。真空管が発する熱。モールス信号の断片。

その「平時と変わらぬ音」が、外の世界で加速する破滅を逆に際立たせ、私の皮膚を粟立たせた。


―――――


「中佐ぁ、そんなにほわほわしてると威厳を感じないですよぉ。もうちょっと厳しく、ね?」


緊張の糸を断ち切るような、間延びした声。

振り返れば、通信員の青年が白い歯を見せて笑っていた。

海鳴。

まだ少年のような幼さを残した丸顔。潮風で跳ねた癖毛。サイズが合っていない不格好な敬礼。

彼はこの地獄への行軍の中でも、妙に明るい空気を纏った男だった。


「これでも厳しめだけどなぁ...」

「じゃあもっと!」


海鳴はほほ笑みながらそう言う。


「この作戦が終わって、無事に生きて帰れたら、内地(ないち)で一番上等な甘いもん食わせてくださいよ。羊羹とか、もうっっっっっっ山ほど」

「ん、なんで?」

「だって、死ぬ前に苦いもんばかり噛み締めるのは嫌なので」


けらけらと、彼は無邪気に笑った。


「……『死ぬ』なんて言葉、簡単に言わないで」


自分の少し低い言葉に、海鳴は一瞬だけ目を丸くした。だが、すぐに彼はいつものように、愛おしそうに艦の壁を掌で叩いた。


「大丈夫ですよ。幸風は沈みません」


その言葉に、周りの通信兵たちからも微かな苦笑が漏れる。

幸運艦『幸風』。

数々の激戦を潜り抜け、僚艦が次々と沈みゆく中で、一度として致命傷を負わなかった奇跡の駆逐艦。

死神が素通りする艦。

だが――自分は、胃の奥が冷たくなるのを感じていた。


艦は沈まなくとも、人は沈むのだ。

死神が艦を避けるとき、その鎌は、甲板に立つ人間をこそ薙ぎ払っていく。


―――――


空が鳴った。

正確には、空を埋め尽くす鉄の羽音が、海を震わせていた。

瞬間。艦橋から叩きつけられるような警報が鳴り響く。


「敵艦載機、大群接近!! 距離、方位……来るぞ!!」

「総員、対空戦闘!!」


直後、世界は崩壊した。

腹に響く対空機銃の掃射音。

海面を爆ぜさせる爆弾の衝撃波。

無線機からは、阿鼻叫喚のノイズが流れ込んでくる。


「取舵一杯! 魚雷回避ィ!」

「右舷高角砲、撃ち方始め! 落とせ、一機でも多く落とせ!」

「『大和』被弾! 傾斜増大、復元不能!!」


視界の先、巨大な大和の艦体が、炎と黒煙に包まれながらゆっくりと海に吸い込まれていく。

空は燃え、海は血と油で濁っていた。


――坊ノ岬沖。そこは、人間が足を踏み入れていい場所ではなかった。


通信室は、激しい振動と共に大きく揺さぶられた。天井の電灯が砕け、火花が飛び散る。


「うぐっ……!」


至近弾の衝撃で、海鳴が床に叩きつけられた。私は咄嗟に彼の肩を掴み、引き起こす。


「大丈夫!?...そんな、額が...」

「こんなんで心配しないでくださいよ。軽傷ですって」


彼は額から血を流しながらも、まだ笑おうとしていた。その健気さが、自分の胸を締め付けた。

その、直後だった。


空間が白熱した。

通信室のすぐ外、甲板を直撃した爆弾が、鋼鉄の障壁を紙細工のように引き裂いた。


熱風。

飛び散る破片。

そして、鮮血の奔流。


「あああああぁぁぁぁぁ!!!」


爆風に呑み込まれ、自分の身体は宙を舞った。

耳鳴りがすべてを消し去り、重力さえも失われたような感覚。

霞む視界の中で、自分は見た。


吹き飛んだ隔壁の向こう側へ、海鳴の身体が投げ出されていくのを。

その先にあるのは、炎に染まった地獄の海だ。


「海鳴!!!」


自分は本能的に、右手を伸ばした。

指先が、彼の袖に触れる。

だが、血と油に濡れた手は、無情にも滑った。

掴めない。

届かない。


「先輩」


炎と黒煙の向こう側。

海へ落ちていく刹那、海鳴は自分を見た。

恐怖に歪んだ顔ではない。

泣き出しそうな、けれど、すべてを許すような、優しい笑み。


「生きてください」


その言葉を最後に、黒い海が彼を呑み込んだ。

泡の一つさえ残さず。


「――うみなりいいいぃぃぃぃぃ!!!!」


自分の叫びは、虚しく海へと叩きつけられた。

幸風は沈まない。

自分だけを乗せて、非情な「幸運」を維持し続ける。

それでも――自分の世界は、彼と共に海の底へと沈んでしまった。


―――――


戦争は終わった。

残ったのは、静まり返った港と、潮風に錆びゆく鉄の塊だけだった。

誰も座らない寝台。

誰も笑わない、静かすぎる食堂。

そして、主を失った遺品。


『海鳴』


そう記された名札を、私は何時間も見つめていた。

通信長として、彼に生きるための情報を与えることができなかった。

彼が最期に発した「音」を、私はただ聞いていることしかできなかった。

守れなかった。

帰せなかった。

私だけが、こんな静かな世界を生きていいはずがない。


舞鶴の、月の出ない夜だった。

誰もいない静室で、私は一振りの金色に光る軍刀を前にしていた。

鞘から引き抜かれた刃が、わずかな灯火を反射して、朱紅色に妖しく光る。


「……ごめん」


その言葉が誰に向けたものなのか、自分でももう判らなかった。

海鳴にか。亡き戦友たちにか。それとも、生きることを放棄しようとする自分自身にか。


刃を、喉元に当てる。

冷たい。

全身が震える。

死ぬのが怖いのではない。

前世の私は、「自分だけが生き残ってしまった」という事実に、もう耐えられなかったのだ。


「海鳴……。今、行くからね……」


頬を伝った涙が、刃の上を滑る。

そして。

私は迷いを断ち切るように、その刃を横へと走らせた。



(――ああ、まただ)


現代。DDG-172『さちかぜ』の床。

溢れ出す血の中で、私は思い出した。

あの時も、今も。

自分の喉を裂いたのは、同じ「痛み」であり、同じ「悔恨」だったのだ。


だが、今の自分には聞こえる。

海の底から響いてくる、あの懐かしい笑い声が。

そして、私の背後で目覚めようとしている、鋼鉄の鼓動が。


(...死にたくない。まだ、あの時の分まで、生きたい)


首の傷口から溢れていた血が、次第に青白い燐光へと変わっていく。

物理法則を支配するヤツが覚醒するための、産声だった。


――


――そこから先の光景を、私はまるで、分厚い水槽の向こう側を眺めるような、ひどく無機質な感覚で「視て」いた。


ドクン、と。

心臓が一度、大きく跳ねた。

それを合図に、首の断面から溢れていた燐光が、意志を持つ糸のように(もつ)れ合い、編み上げられていく。

熱い。けれど、凍えるほどに冷たい。

肉が繋ぎ合わさり、血管が結ばれ、神経が回路のように火花を散らしながら再起動する。自分の身体という「個」が、何か巨大な「システム」へと強制的に再接続(プラグイン)されていく感覚。


「……あ、繋がった」


そんな場違いに冷静な思考が脳裏をよぎった瞬間、自分の背後の影から、そいつは這い出してきた。


それは、おぞましいほどに美しく、悍ましいほどに神聖な「鋼鉄の怪物」だった。

汚れなき純白の帝国海軍制服。その肩からは、錆びついた鉄塔と無数の対空機銃が翼のように生い茂り、背後には巨大な、それこそ駆逐艦の主砲塔そのものが浮かんでいる。

顔は――判らない。ただ、深く被った軍帽の陰から、海鳴に似た...いや、似ても似つかない全く別の慈悲なき深海色の光が二条、爛々と輝いていた。


かつて数多の命を奪い、見送り、そして救ってきた「沈まぬ艦」の怨念と執念が、私の叫びに呼応して受肉した姿。


「ギャ……ガ、アァァァァ!!」


CICに侵入していた怪獣が、その存在に本能的な恐怖を感じたのか、喉を鳴らして飛びかかってきた。その鋭い爪が、自分の、あるいは「ヤツ」の喉元を再び裂こうと迫る。


だが、遅すぎた。


「……凍れ」


声を出したのが自分なのか、背後の「ヤツ」なのかは分からなかった。

パキィィィィィン!! と、鼓膜を劈くような硬質な音がCICに響き渡る。

瞬間、空気が凍りついた。

怪獣の足元から奔ったのは、ただの氷ではない。それは深海の底、太陽の光さえ届かない暗黒で数千年の時をかけて凝縮されたような、美しい「絶対零度の牢獄」だ。

飛びかかった姿勢のまま、怪獣の身体がみるみるうちに蒼白い結晶に覆われていく。細胞の一つ一つ、流れる血の一滴までが、圧倒的な冷気に凍結され、彫像へと成り果てた。


だが、ヤツの攻撃はそれだけでは終わらなかった。


凍りついた怪獣を見下ろすヤツの手が、優雅に、そして残酷に宙を舞う。

それは、流体工学さえ嘲笑うような、水による圧倒的な質量攻撃だった。


「……重水塊(ちがえみず)


何もない空間から、突如として数トンもの「海水」が噴出した。

CICの機材を、壁を、天井を一切傷つけることなく、その奔流は怪獣だけに牙を剥く。

猛烈な圧力。

深海一万メートル、地上の数百倍にも及ぶ水圧が、一点に集中して怪獣を圧し潰す。

メキメキ、ミシミシと、凍りついた怪獣の肉体が悲鳴を上げ、粉砕されていく。

それはもはや戦闘ですらなかった。

まるで行き先を塞ぐゴミを掃除するかのように、ヤツは淡々と、かつ徹底的に、敵だったものを塵へと変えていった。


「……嘘、だろ」


呆然と立ち尽くす艦長の声が、遠くで聞こえた。

「まさか、これが――。あの......『オルタ』だというのか……」


艦長が漏らしたその言葉の真意を、今の自分は知る由もない。

怪獣が完全に消失し、静寂が戻ったCICで、自分の視界は再びゆっくりと暗転していった。

再生したはずの身体から、魂がズルりと抜けていくような、耐え難い脱力感。


「あ……。やっぱり、船酔い……きついなぁ……」


最後に残ったのは、そんな図太い、けれど切実な感想だった。

自分の声も、電子音も、すべてが泡の中に消えていく。

自分は、自分を抱き留めるような冷たい鉄の感触を感じながら、今度こそ深い、深い深海へと沈んでいった。

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