猫のお仕事
その日、高野明は浮かれていた。
大学に入ってからずっと気になっていた沢木彩佳を知り合って二年目でとうとう、デートに誘い、なんとOKまで貰ったのだ。
相手は同じサークルの一年先輩で、明は彼女目当てに興味もない文芸サークルに入った。
新入生に勧誘のチラシを配っていた彼女の輝くような笑顔にやられた男は、一人や二人ではない。
その年の新入生は、男ばかりなんと八人も、その零細サークルに参加したのだ。
サークルの代表も、「こんなのは前代未聞だ」と、苦笑いしたものだ。
そして始まった、牽制し合う男たちの暗闘を明は戦い抜き、とうとう彼女をデートに誘いだすという偉業を達成した。
だから今日のデートだけは、決して失敗するわけにはいかなかった。
なんとしても彼女を楽しませて、次のデートに繫げなければならない。
朝は待ち合わせの三時間前に起きて、念入りに準備を整えた。
あらかじめ決めていたはずの服が、直前になってやっぱり変えたほうがいい気がして、何度も着替えた挙句、結局最初のをまた着たりもした。
待ち合わせ場所にも早めに着いて、近くの喫茶店で時間を潰した。
しかし、頼んだブレンドコーヒーは、まったく味がわからない。
どうせ落ち着かないのなら、喫茶店などに入らずにそのまま待ち合わせ場所にいれば良さそうなものだが、一時間もずっと待ち合わせ場所に突っ立っているのもなにかみっともない気がしたのだ。
けれど、彩佳よりも待ち合わせ場所に遅く着いて、待たせてしまうようなことがあってはならない。
念のために三〇分前になると喫茶店を出て、待ち合わせ場所に向かう。
スマホで時間を潰している風を装ったが、実のところ明は、時刻表示をずっと睨みながら、約束の時間が来るのをいまかいまかと待っていたのである。
「おはよう、明君」
「あ、うん。おはよう、沢木さん……」
彼女が来たのは待ち合わせのきっかり五分前だった。
(今日も彩佳さん、綺麗だ……)
いや、いつにも増して、美しく見える。
彩佳がニッコリ笑ってくれるだけで、世界がキラキラと輝くようではないか。
「えー、えっと、まずはどこ行こうか? 午後は映画の予定だけど、それまでは沢木さんの行きたいところに付き合うけど……」
「そうなの? じゃあ本屋を回りたいな」
「うん、じゃあそうしよう」
文芸サークルに入っているだけあって、彩佳の読書量はかなりのものだ。
明もサークルに入ってからはそれなりに本を読むようになったが、彩佳には全然敵わない。
「このあたりには結構大きな本屋もあるし、古本屋さんも多いんだよ」
そう言う彩佳に先導されて、二軒の本屋と、五件の古本屋を明ははしごした。
本屋ばかりこんなに回るのは初めてだったが、明的には彩佳を見ていればそれだけで幸せなので、まったく問題ない。
昼は食べたいと彩佳が言うのでラーメン屋で済ませ、午後になって映画館へ向かった。
このままだと上映開始よりも結構早めに着いてしまいそうだったが、話でもしながら少し遠回りして歩けば時間は潰せるだろう。
そう思って、駅前の歩行者天国を、二人並んでのんびり歩くことにした。
そのとき、斜め前から一人の男性が、こちらに近づいて来る。
手にはなにか、プラスチック製のボードを持っている。A4サイズのボードで、クリップのついているやつだ。
そこにアンケート用紙らしきものを挟んでいる。
「あのう、すみません。アンケートにご協力願えませんか?」
案の定、そう訊いてくる男性に、彩佳が「どうする?」と言ってこちらを見上げてくる。
明はなんとなく嬉しくなった。
年上の彩佳が、自分を立ててくれたのも嬉しかったし、アンケートに声をかけられたこと自体も嬉しかった。
今までこの通りを一人で歩いたり、男友達と歩いたことは何度もあるけれど、アンケートに声をかけられたことはない。
ああいうのは流行を追っているような、いわゆる『イケてる若者』を狙って声をかけるものだと思っていた。
彩佳と一緒に歩くことで自分もそっち側と認められたような、そんな気分になったのだ。
(俺は全然そんなんじゃないんだけど、でもなんとなく気分いいよな)
多分、化粧品とか食品とかのアンケートなのだろう。
試供品を試してみるとか、パッケージデザインを見比べるとかして、どれがいいかと、訊かれるのだろう。
大学生の自分たちに声がかかるのだから、ターゲットは十代とか二十代の若者向けだ。
まだ映画の上映時刻には余裕がある。少しくらいなら付き合ってもいいだろうと、明は思った。
だから、「あまり時間がかからないなら」と、明が男性に告げると、「もちろんです。十五分もあれば終わりますよ」と男は答える。
男に案内されたのは、近くのビルの三階にある、会議室のようなイメージの部屋だ。
「ではこちらに座ってください」
と勧められて、長机に向かって置かれたパイプ椅子に座った。
「では始めますね」
そう宣言した男性は、入り口のドアを少しだけ開ける。
するとその隙間から、猫が入ってきた。
「にゃあ」
鳴きながら、まずは黒い猫が。次に三毛。その後ろから白猫が。
色んな毛並みの猫が全部で五匹、次々と中に入ってきた。
五匹の猫を中に入れると、男はドアを閉めてこちらに戻って来た。
そして猫たちは、明たちの目の前に置かれた、長机の上に飛び乗ってくる。
「どうでしょう? どの子が一番可愛く見えますか?」
「えっ?」
突然訊かれて、彩佳は言葉に詰まる。
「ええっと、これがアンケートなんですか?」
「はい、そうです」
男は重々しく頷いた。
明と彩佳は唖然として顔を見合わせた。
(――確かめはしなかったけど、てっきり化粧とか食品とかのアンケートだと思ったんだけどなぁ)
目の前の机の上では、五匹の猫たちが座ってこちらを見ていた。
「にゃあお」
白猫が、大きく口を開けて鳴いた。
なんとなく、「ホラ、誰が一番可愛いか早く決めなよ」と促されているような気がした。
「えっと、じゃあ俺は三毛かな」
「私は……みんな可愛いけど、このハチワレの子にしよっかな」
「そうですか、ふむふむ」
男はアンケート用紙に、なにやら書き込んでいる。
書き終えると、男性はボールペンを置いて、「では次にいきますね」と微笑んだ。
すると、行儀よく座っていた猫たちが動き出す。
黒猫が明の足元にやって来て、ふくらはぎのあたりに顔をこすりつける。
「きゃっ!」
一方白猫は、彩佳の膝の上に乗ってきて、大きくのびをする。
茶虎の猫が机の上でごろりと仰向けになり、ゴロゴロと喉を鳴らした。
腹をなでろと要求されているように感じて、明は白いお腹を軽く掻いてやった。
三毛とハチワレは、少し離れた机の上で、二匹でじゃれ合っている。
「さあ、これならどうです。どの猫の仕草が一番可愛いですか?」
また男がそう訊いてきた。
これもアンケートの一環、ということらしい。
明と彩佳は、再び顔を見合わせた。
そしてお互いの表情に、同じような困惑の色をみつける。
彩佳が小さく首を傾げ、それに明が頷いた。
「…………あの、これってなんのアンケートなんでしょう?」
「あー、なんだと思いますか?」
質問に質問で返されて、仕方なく明はなんとか答えを捻り出す。
「ペットショップとかですか? どんな猫が売れるか調べているとか……?」
「はい、そんなところです」
「そんなところって……」
「すみません。契約上、はっきりなんのため、とは答えられないんです」
「ああ、そうなんですか。じゃあ仕方ないですね」
「ええ。で、どうでしょう? 仕草が一番可愛いのはどの子ですか?」
明は少し考えて、目の前で腹を見せている茶虎の猫を指差した。
「この子ですかね」
「ではそちらの方は?」
「私はやっぱり、この子です」
と、彩佳は膝の上に寝ころんでいた白猫を抱き上げる。
「なるほど、なるほど……」
また男は、手元のアンケート用紙に結果を書き込む。
「……では次に行きますね」
◎
それからもいくつかのアンケートに答えてから、男は「これで終わりです。ご協力ありがとうございました」と頭を下げた。
「あ、どうも」
「えっと、その……はい」
最後までなんとなく腑に落ちないものはあったが、明と彩佳は男に促されるままに部屋を出た。
ちょっとしたお礼だと言って貰った白い箱は、振るとカサカサと小さい音がする。
「……なんだったんだろうね?」
「さあ? でも猫は可愛かったから私は別に良かったかな」
階段を下りかけたとき、さっきの部屋の中から、声が聞こえてきた。
数人でなにか話し合っているような声だ。
「んん?」
彩佳が立ち止まる。
「どうしたの?」
明は尋ねるが、彩佳はちょっと待ってと言うように、手の平を明に向けた。
彩佳はソロリソロリと廊下を戻り、さっきアンケートを受けた部屋に近づいていく。
「ちょっと、ちょっと。沢木さん、なにする気?」
「しっ! だって変じゃない。今話し声が聞こえたよね?」
「うん、聞こえたけど?」
「でもあの部屋には今、アンケートの人が一人しかいないはずよね?」
「独り言なんじゃないの?」
「違うわ。一人の声じゃなかったもの」
「そういや、数人が話し合ってるみたいな感じだったかな。じゃあスマホじゃないかな?」
「いいえ、そういう感じでもなかった」
とうとうさっきの部屋の前まで来た。
ドアが小さく開いていて、そこから確かに数人の話し声がまた聞こえてくる。
「なぁ、どう思う?」
「今回は割とはっきり傾向が表れてたと思うぞ」
「だな、要は普通に愛想の良い猫が可愛くて、スキンシップは多めがいいってことだ」
「普通だよな」
「普通でなにが悪い? 普遍的ってことだし、常道は正道でもあるんだ」
「しかしその普遍的なやり方で上手くいかなくなってきたから、今回他のやり方を模索しているんじゃないか」
なにやら熱い議論が巻き起こっているようだ。
彩佳がドアの隙間から中を覗く。
「!」
目を丸くして振り返ると、彩佳は明を手招きした。
その手の動きは激しくて、彩佳が興奮しているのがわかる。
躊躇いながらも、明も彩佳に呼ばれるままにドアの前に行き、隙間から中を覗いた。
「しつこいな、だからそれじゃダメだって言ってるだろ?」
「ダメなんてことはないんだよ。方針は間違えてないんだ」
「方針の問題じゃない。バリエーションが必要だと言ってるんだ!」
そう怒鳴ったのは、ハチワレの猫だった。
「バリエーション? 個別にサービスの仕方を変える余裕なんかどこにある?」
「余裕の問題じゃない。必要かどうかの問題だ!」
「そういうのを机上の空論っていうんだ!」
ハチワレと熱く語り合っているのは、全身が真っ黒の黒猫だ。
「まぁまぁ、二人とも落ち着けよ。まだデータが揃ったわけじゃない。ここまでのところははっきり傾向が出てるといっても、まだ五組しか試してないじゃないか」
そう言って二匹を仲裁したのは、アンケートを取っていた男だ。
ハチワレが、その男を金色の目で鋭く睨んだ。
「もしかして、お前の連れて来る人間が偏ってるんじゃないのか?」
「おいおい、俺のせいにするなよ。最初に決めたろ。対象は若い男女にするって。ちゃんとルールに従ってるじゃないか」
「しかし、猫カフェに来るのがそれだけってわけじゃない。もう少し上の年齢層も調査対象にすべきだ」
「自分の望む結果が出なかったからって、ルールを変えようなんて本末転倒だろう」
黒猫の言い分に、他の猫たちがにゃあにゃあと賛同する。
「ああ、うるさいな。わかったわかった。対象はじゃあ、若い男女でいい。ただ、次は俺が人間を連れて来る。それは構わないだろ?」
「はぁ。結果は同じだと思うけどな」
「だったら問題ないだろ?」
「ああ、わかったよ」
男はそう言うと、ぶるりと身体を震わせる。
すると、男の身体が突然、縮み始める。
やがて着ていた服が床の上に落ちる。
服の中から現れたのは、耳と顔、それに足先と尻尾が黒で、残りが白い毛並みの猫だ。
「人間が、猫になった!?」
呆然と、明が呟く。
知らず一歩後ずさる。コツッと足音が鳴る。
その瞬間、六匹の猫が同時にこちらを見た。
「ヤバい!」
彩佳は叫ぶと、ドアを完全に閉め、明の手を引いた。
「誰か見てたぞ! 捕まえろ!」
「ぎにゃあ!」
「ぶなぁ!」
切羽詰まったような猫の叫び声。
と同時に、ドアになにかがぶつかるドシンという音がする。
さらに続いて、ドアを引っ掻くガリガリという音が響いた。
「明君、逃げるよ!」
「わ、わかった!」
明は手を引かれるままに、転がるようにその建物を出る。
歩行者天国の道路に出ると、全力でそこから離れた。
滅茶苦茶に走ったつもりだったけど、気づくと映画館の前にいた。
中に入り、並んで薄暗いシアターの椅子に座った。
「危なかったね?」
「うん、滅茶苦茶怖かった!」
あの、大きな猫の瞳が一斉にこっちを向いた瞬間、味わったことのない程の恐怖に襲われたのだ。
「あれって結局、なんだったんだろう?」
「うーん、話を聞く限り、猫たちがカフェを経営してるって感じに聞こえたよね」
「猫カフェ? 猫自身が経営する?」
「うん、それで客が減ったとかで、店の方向性を考え直してる? そんな感じかな?」
「だね。俺もそう思った。で、意見の対立ができて、試しにアンケートでどういう猫が好きか、調査してたと……」
「人間に化けて、ね」
「……化け猫じゃん」
「化け猫カフェだ」
「ヤバいね」
「うん、ヤバい」
しかしそんな化け猫でも、生きていくためにはどうやら、経営努力が必要なようだ。
「世知辛いね」
「うん、仕事って大変なんだね」
彩佳は苦笑いしていた。
それを見ている明も、きっと自分も似たような表情をしているだろうと思った。
「そういや、お土産もらったよね。あれまだ持ってる?」
「うん、確かポケットに……」
明はジャケットのポケットから、少しだけ潰れた白い箱を取り出した。
恐る恐る箱を開けてみると、中から小さなカナヘビの死骸が出てきた。
「……ま、猫だもんな」
「私のほうはこれだった」
そう言って彩佳が見せてくれたのは、蝉だった。
「猫だしね」
「うん」
もしかして生きてたりしないかな、と思って明は蝉を突いてみたが、どうやらそんなことはないようだ。
ジリリリリリ、と開演のベルが鳴り、照明が落ちる。
スクリーンの幕が開く。
「なんの映画だっけ?」
「……それがさ、怖いやつなんだよね」
「げー、間が悪い。さっき怖い思いしたばっかりなのに」
渋面になった彩佳の顔を見て、明は頭を抱えたい気分になる。
――今日は楽しんで貰うつもりだったのになぁ。
明はせめて映画に猫が出て来ないように、祈った。
彩佳は、少し頬を膨らませて明を睨む。
「……今日も面白かったけど、最初のデートはもっと普通でもよかったな」
「うっ」
俺もだよ、と明は内心で、その意見に心から同意した。
「……それで、次はどこに行こうか?」
「!」
思わず、明は彩佳の顔に視線を向ける。けれど、彩佳はついっと視線を逸らした。
暗いせいでよくわからないけど、もしかしたら彩佳も照れているのかもしれない。
明はガッツポーズをしたい気持ちを抑えて、努めて冷静に答えた。
「えっと、猫カフェ以外ならどこでも」




