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第1話 灰と潮風


「カイ! いつまで寝てるの! 薬草の湯気で部屋中が湿気ちゃうわよ」


 階下から突き刺さってくる姉の甲高い声で、カイ・ヴェルナーは重い瞼をこじ開けた。


 窓の外はまだ乳白色の霧に覆われている。潮の匂いが湿った空気に溶け、どこか遠くで錨の鎖が軋む音がした。マレーヴァの朝は、いつもこうして始まる。霧と、潮と、姉の小言。この三つが揃わなければ、一日が動き出さない。


「起きてるよ。今、降りる」


 あくびを噛み殺しながら寝台から足を降ろすと、素足に触れた床板が氷のように冷たかった。枕元には、養父ヨハンが置いていった短剣が転がっている。鞘の革は罅割れ、刃は薄く錆を纏っていたが、カイはそれを跨ぐたびに、あの穏やかな神父の横顔を思い出す。


 上衣を頭から被り、寝癖のついた髪を手櫛で梳かしながら階段を降りた。


 降りた先は、すでに戦場だった。


 乾燥した薬草の粉っぽい香りと、土鍋で煮立つ麦粥の湯気が、天井の低い店内でぶつかり合い、渦を巻いている。棚には硝子の小瓶がずらりと並び、中身の違いを示す色とりどりの液体が朝の薄明かりを受けてぼんやりと光っていた。


「はい、お皿並べて。今日は港の仕事でしょう?」


 エルナは作業台に向かったまま、背中越しに指示を飛ばしてきた。手元では薬研がリズミカルに乾いた音を立てている。亜麻色の髪を無造作にひとつに束ねた後ろ姿は、どこか母親じみた貫禄を漂わせていた。まだ十九歳だというのに。


「人使いが荒いな。ヨハン神父がいた頃は、もっと優雅な朝食だったはずだけど」

「お父様がいたら、あなたは寝坊する前に叩き起こされてるわよ。ほら、パン焼けてるから。冷める前に取って」


 カイは苦笑して椀を並べた。姉は二つ年上の十九歳。背丈はカイよりだいぶ低いが、この薬草店での権力は比較にならない。養父が旅に出てからというもの、家事も商売も、この小さな体がすべて回している。


 向かい合って食卓に着き、質素な麦粥を匙で啜った。塩気が薄い。最近はどこの家でもそうだと聞く。北からの塩の流通が滞っているせいだ。


「で、今日は何時に戻るの?」


 エルナが粥を吹きながら訊いた。


「昼過ぎかな。荷揚げが終わったら、市場をひと回りしてくる」

「じゃあ、ローズマリーの束をお願い。あと蜜蝋も。最近、軟膏の減りがやけに早くて。喧嘩の擦り傷やら何やらで、駆け込みが増えてるの」

「分かった」


 カイは粥を飲み込み、少し間を置いてから言葉を継いだ。


「……ところで、まだ手紙は来ないのか」


 匙を口に運びかけたエルナの手が、ぴたりと止まった。


「ないわ。先月からずっと」


 声は平静を装っていたが、わずかに固い。カイはそれ以上踏み込むべきか迷い、結局踏み込んだ。


「教区の仕事が忙しいのかな」

「そう信じたいけどね」


 エルナは匙を皿の縁に置き、小さく溜め息をついた。


「あの人、困ってる人を見つけると見境がなくなるから。自分の体のことなんて後回しにして、どこまでも歩いていっちゃうのよ」


 少し呆れたような口調だったが、その緑色の瞳には隠しきれない翳りが揺れていた。


 養父ヨハン・ヴェルナー。レスタ、ヴァルガ、ハイゼンの三つの民族が入り混じるこの島で、誰に対しても公平な愛を注ぐ神父。公平すぎるほどに。それゆえに、どの勢力からも完全には信用されず、どの勢力からも頼りにされるという矛盾した立場を、飄々と歩いてきた人だった。


「ねえ、カイ」


 唐突に、エルナが顔を上げた。


「お父様の祈り方、覚えてる?」

「祈り方?」


 思いがけない問いに、カイは粥を啜る手を止めた。


「ああ……胸の前で腕を交差させるやつだろ」

「そう。レスタの跪きとも、ヴァルガの指組みとも、ハイゼンの万歳ともまるで違う。あれ、どこの作法なんだろうって、ふと思ったの」

「さあな。ヨハン流のオリジナルじゃないか? どの神様も贔屓しないための」


 カイは冗談めかして答えたが、胸の奥に小さな棘が刺さるのを感じた。


 あの独特の姿勢。目を閉じ、世界から隔絶するかのように両腕を交差させる姿。幼い頃、夜の礼拝堂でその背中を見つめていたことがある。蝋燭の火が揺れるたびに、養父の影が壁の上で伸び縮みしていた。あれは祈りというよりも、何かを耐え忍ぶ所作に見えた。胸の内に抱えた重荷を、両腕で必死に押さえつけているような。


「食べ終わったらすぐ出るわよ。さっさと着替えて。ぼんやりしない」


 姉の声に叩かれて、カイは思考の淵から浮上した。


 



 


 港へ続く市場の通りは、朝もやが晴れきらないうちから喧騒に包まれていた。


 だが、その活気には、どこか刺々しいものが混じっている。


 威勢のいい売り声の合間に、怒声がひとつ、ふたつ。以前よりも確実に増えていた。


「おい、ふざけるな! 先週はこの半値だっただろうが!」


 魚を並べた露台の前で、日に焼けたレスタ族の漁師が声を荒らげていた。相手をしているのは、毛皮の襟巻きを首に巻いたヴァルガ族の仲買商人だ。腕を組み、漁師を見下ろすように顎を上げている。


「嫌なら買うなよ。北からの街道が封鎖されて塩が入ってこないんだ。保存料が高けりゃ、魚の値も上がる。道理だろ?」

「道理だと? 俺たちの足元を見やがって……!」

「商売ってのはそういうもんだ。文句があるなら、街道を止めてる兵隊さんに言いな」


 商人は鼻で笑った。漁師は拳を白くなるほど握りしめたが、それ以上の言葉を持たなかった。唇を噛んで押し黙り、やがてそのまま踵を返す。


 周囲の客たちは、巻き添えを食うのを恐れるように目を伏せ、足早に通り過ぎていく。誰も仲裁しない。誰も声を上げない。


 カイはその脇を通り抜けながら、眉根を寄せた。


「またか」


 この手の言い合いは、ここ数週間で目に見えて増えていた。以前なら「高い」「安い」で済んでいた値段交渉が、いつの間にか「レスタだから」「ヴァルガだから」という色に染まっていく。


「カイ、お前も気をつけておけよ」


 不意に声をかけられた。振り向くと、顔馴染みの水売りの少年が、荷車に片手をかけたまま立っている。日焼けした顔に、年齢に似合わない鋭い目をしていた。


「どうした。何かあったのか」

「空気が悪いんだよ、今日は特に。北の方でなんかあったらしい。ヴァルガの兵隊が村をひとつ潰したとかって」

「村を潰した?」

「噂だよ。けど、火のない所に煙は立たないだろ? みんなピリピリしてる。とにかく揉め事には近づくなよ」


 少年は声を潜め、それだけ言うと荷車を引いて雑踏の中に消えていった。


 カイは立ち止まり、市場を見渡した。


 天幕が連なり、荷車が行き交い、子供が走り回る。一見、いつもと変わらない風景に見える。だが、目を凝らすと、その下に走る亀裂が透けて見えた。


 レスタの老婆が、ヴァルガの看板を掲げた乾物屋の前を足早に通り過ぎていく。ヴァルガの若い母親が、レスタの子供たちの遊ぶ広場を避けるように遠回りしている。通りの角では、ハイゼンの役人が腕を組み、その両者を冷めた目で見下ろしていた。まるで、自分たちだけは高い場所にいるのだと示すように。


「……まるで、見えない線が引かれていくみたいだな」


 カイは独りごちた。


 人は見た目では区別がつかない。肌の色も、背格好も、笑い方も同じだ。なのに、祈りの姿勢が違う。言葉の訛りが違う。それだけで、昨日まで隣に座っていた者が、今日は道の反対側を歩く。


 どうしてそんな簡単な仕組みで、世界は回ってしまうのか。


 頭の奥で、歯車が噛み合うような微かな感触があった。


「分断のメカニズム」


 聞き覚えのない言葉が、脳裏をよぎる。それは自分の考えではなく、どこか別の場所から差し込まれたように唐突で、異質だった。


 だが、その正体を掴む間もなく、港の方角から切迫した叫び声が上がった。


「船だ! ボロボロの船が入ってくるぞ!」


 



 


 波止場に駆けつけたカイの目に飛び込んできたのは、異様な光景だった。


 帆柱が半ばから折れ、帆布が海水を吸って重く垂れ下がった小船が、岸壁にぶつかるようにして停まっている。船腹には焦げた跡がいくつもあり、甲板の板は何箇所もめくれ上がっていた。


 その船から、人が溢れ出していた。


 泥と煤にまみれた男たち。裸足の女たち。母親にしがみつく幼子。目だけがぎらぎらと光る老人。みな一様に顔色が土のように青白く、体を引きずるようにして岸へ上がってくる。


「手を貸してくれ! 怪我人がいるんだ!」

「子供が……子供が息をしてない!」

「水! 誰か水をくれ!」


 叫び声が重なり合い、波止場の空気を引き裂いていた。


 カイは反射的に駆け寄り、一番近くで崩れ落ちそうになっていた老人の体を支えた。腕に伝わる重みは驚くほど軽い。枯れ木を抱えているようだった。着ている外套は裾が焼け焦げ、煤の下から覗く布地はかつて白かったのだろうが、今は灰色に変わり果てている。


「じいさん、しっかりしろ。ここはマレーヴァだ。もう大丈夫だから」


 老人はカイの腕にしがみつき、濁った目で虚空を見つめた。焦点が合っていない。まだ、ここではない別の場所を見ているのだ。


「……火が。火が……」

「どこから来たんだ? 何があった」

「ハイムの村だ。夜明け前だった……突然、兵隊たちが来て……」


 老人の唇が震え、言葉が途切れ途切れに溢れ出す。喉の奥から絞り出すような、掠れた声だった。


「理由なんて……何も言わんかった。広場に集まれと……行かなかった家に、次々と火を放って……」


 カイは老人の背中に手を当てたまま、黙って耳を傾けた。背中の骨が、服の上からでも数えられるほどに浮き出ている。


「兵隊って、どこの旗だ。ヴァルガか?」


 背後から、野次馬の一人が鋭い声で問うた。


 老人は小さく、しかしはっきりと頷いた。


「ヴァルガの……軍旗だった。黒地に銀の鷲。間違えようがない。わしの妻は……逃げる途中で足を挫いて、動けなくなって……」


 老人の声が詰まった。喉仏が何度も上下し、やがて堰を切ったように嗚咽が溢れた。


「置いていくしか……なかった。振り返ったら、家が燃えていた。あいつは、あの中に……!」


 老人は両手で顔を覆い、地面に崩れ落ちた。


 その慟哭が、波止場の騒めきを凍りつかせた。


 一瞬の沈黙。そして、それを破るように囁き声が広がっていく。


「おい、聞いたか。ハイムの村だって」

「ヴァルガの兵隊がやったのか」

「焼き討ちだと? 戦でも始める気かよ」

「だから言ったんだ。あいつらは信用できないって」


 さざ波のように、動揺と怒りが群衆の中を伝播していく。声は低く、しかし確実に熱を帯びていた。


 カイはその渦の中心で、老人の背をさすりながら、自分の内側に奇妙な乖離を感じていた。


 目の前で人が泣いている。その涙は本物で、悲しみは本物で、焦げた外套の臭いも紛れもない現実だ。


 なのに、カイの頭脳は、まるで別人格が乗り移ったかのように勝手に動き始めていた。


 事実。ヴァルガ軍によるレスタ族集落への襲撃。反応。被害者の証言を媒介とした集団的恐怖の伝播。予測。報復感情の高まり。地域内のヴァルガ系住民への敵意の転嫁。


 やめろ。カイは心の中で叫んだ。分析するな。これは悲劇だ。数字でもデータでもない。


 だが、頭の奥に棲みついた「誰か」が、冷たく囁く。


 これは、教科書通りの初期段階だ。


「どいて! 道を開けて!」


 凛とした声が、カイの思考を断ち切った。


 人垣の向こうから、大きな革鞄を両腕に抱えたエルナが、肩で人を押し分けるようにして飛び込んできた。


 



 


「カイ、その人をこっちへ寝かせて! そっちの子供は倉庫の陰に! 日差しを避けて、横向きに!」


 エルナの指示は迷いがなかった。


 駆けつけた時にはすでに息を切らしていたが、鞄を地面に下ろした瞬間から、その目は別人のように鋭くなっている。手際よく包帯と軟膏の瓶を取り出し、老人の腕に添え木を当てながら、震える避難民たちに次々と声をかけていく。


「大丈夫ですよ。もう火は来ません。ここは安全です」


 泣きじゃくる子供の頬を両手で包み、目線を合わせて微笑んだ。


「痛いところはどこ? 教えて。お姉ちゃんが治してあげるから」


 火傷を負った女性の腕を布で覆いながら、落ち着いた声で語りかけた。


「見せてください。ああ、これは痛かったでしょう。でも、すぐに薬を塗れば治りますよ。私の目を見て。そう。ゆっくり息を吸って」


 エルナが手を触れ、声をかけると、恐慌に陥っていた人々が不思議と静けさを取り戻していく。技術だけではない。彼女の声には、嵐の夜に灯る小さな蝋燭のような、人を安心させる温もりがあった。養父ヨハンから受け継いだものなのかもしれないと、カイはふと思った。


 手が足りない。カイも包帯を渡し、水を汲み、怪我人を運び、できることに手を動かした。


 そうして波止場を走り回る中で、カイはある異変に気がついた。


 倉庫の壁際に、一人の女性がうずくまっている。膝を抱え、顔を伏せ、体を小さく丸めていた。周囲の避難民たちが、申し合わせたように彼女から距離を取っている。


「……あの女、ヴァルガの言葉で寝言を言ってたぞ」

「なんでレスタの船に乗ってるんだ。おかしいだろ」

「間者じゃないのか」


 押し殺したひそひそ声が、潮風に混じって聞こえてくる。


 エルナはそれに構うことなく、女性の前に膝をついた。石畳の冷たさなど気にもしない様子で、そっと手を差し伸べる。


「怪我をしているのね。見せてくれる?」


 女性は身を竦め、首を振った。肩が細かく震えている。


「さ、触らないで……私は……私は、ヴァルガの……」

「関係ありません」


 エルナの声は穏やかだったが、揺るぎなかった。


「怪我をしてるんでしょう? 私は治しに来たの。あなたが誰であっても、どこの生まれであっても、そんなことは関係ない」


 エルナは半ば強引に女性の手を取った。掌に深い擦り傷があり、砂利が食い込んでいる。逃げる途中で転んだのだろう。エルナは丁寧に水で洗い流し、軟膏を塗り、包帯を巻いていく。


 その手の温もりに触れた瞬間、女性の目から涙が溢れた。声もなく、ただぽろぽろと。堪えていたものが、一気に崩れ落ちたように。


 その光景を少し離れた場所で見ていたカイの隣に、地元の漁師がぬっと寄ってきた。日に焼けた四角い顔に、険しい皺が刻まれている。


「なあカイ。姉ちゃんは立派だよ。だが、少しお人好しが過ぎるんじゃねえか?」

「どういう意味だ」

「相手はヴァルガだぞ。北で俺たちの同胞を焼き殺した連中の仲間じゃねえか。手当てなんかしてやる義理があるかよ」

「あの人はただ逃げてきただけだ。村を焼いた兵士とは違うだろう」

「同じことだ」


 漁師は低く、しかし断定的に言い切った。


「あいつらはグルなんだよ。市場のヴァルガ商人ども、さっき一斉に店じまいして逃げたのを知ってるか? 知ってたんだよ。今日こういうことが起きるってな。だから逃げたんだ」


 カイは漁師の目を見た。


 そこには、恐怖と攻撃性が入り混じった濁りがあった。悲しみではない。悲しみはすでに怒りに変換され、怒りは明確な標的を求めて燻っている。


「……俺たちだって、黙って殺されるわけにはいかねえよな」


 漁師はそう吐き捨て、仲間たちの方へ歩いていった。数人の男たちが固まって何かを話し込んでいる。その腰には、魚を捌くためのナイフが鈍い光を放っていた。


 カイは背筋に冷たいものが走るのを感じた。


 恐怖が敵意を生み、敵意が「自衛」という名目で暴力を正当化する。


 あの老人の涙も、エルナの献身も、この巨大なうねりの前では砂浜に書いた文字のようなものだ。次の波が来れば、跡形もなく消えてしまう。


 止められない速度で、坂道を転がり落ちている。


 カイにはそれが、手に取るように分かった。なぜ分かるのかは、自分でも分からないまま。


 



 


 夕暮れ時、カイは逃げるように港の突堤へ向かった。


 人のいない場所で息がしたかった。


 波止場から離れるにつれ、喧騒は遠ざかり、代わりに波の音が近づいてくる。突堤の先端まで歩き、苔むした石の上に腰を下ろした。目の前には、茜色に染まりゆく海が広がっている。


 水平線の向こうに太陽が傾き、雲の腹を赤く焼いていた。海面に散らばる光の破片が、風に吹かれて揺れている。どこまでも穏やかな風景だった。この景色の下で、人が焼かれ、追われ、憎しみ合っているとは思えないほどに。


 カイは膝を抱え、額を腕に押しつけた。


 今日一日の出来事が、瞼の裏にちらちらと明滅する。


 値段を巡って罵り合う漁師と商人。焦げた外套を纏った老人の慟哭。壁際でうずくまるヴァルガの女。ナイフに手をかけた漁師の濁った目。エルナの、震えながらも折れない声。


「……クソッ」


 呟きは潮風に攫われ、すぐに消えた。


 頭が痛い。こめかみの奥で、脈打つように誰かの声が響いている。


「構造的暴力とは、直接的な加害者が不在であっても機能するシステムであり……」


 カイは両手で頭を抱えた。


 まただ。


 あの「教室」の光景が、瞼の裏にフラッシュバックする。白い蛍光灯の冷たい光。磨かれた黒板に書かれた、矢印と四角形で構成された図解。整然と並ぶ机と、その上に積まれた分厚い書物の山。


 背表紙の文字が、ありえないほど鮮明に見えた。


「ジェノサイドの段階的プロセス」


 その本の中身を、カイは「知って」いた。知っているはずのない知識が、まるで自分の記憶であるかのように頭の中に存在している。


 分類。象徴化。差別。非人間化。組織化。分極化。準備。迫害。そして──。


 段階を追うごとに、人間の集団がどのように狂気へと転がり落ちていくか。その過程が、チェスの定跡を読むように、冷徹に見えてしまう。


 今日、市場で起きていたこと。波止場で起きたこと。漁師たちの目に宿った光。それらのすべてが、頭の中の「教科書」に書かれたパターンと寸分違わず重なっていく。


「俺は……誰なんだ」


 カイは顔を上げ、赤く染まる海に向かって問いかけた。


 自分はカイ・ヴェルナーだ。マレーヴァの港で荷揚げの仕事をする十七歳。薬草店を営む姉の弟。それ以上でも以下でもない。


 なのに、この頭の中にある知識はどうだ。「蛍光灯」とは何だ。「黒板」とは。「ジェノサイド」とは。この世界のどこにも存在しないはずの概念が、まるで異界から持ち込まれた猛毒のように、カイの現実を内側から蝕んでいる。


 知っているだけでは意味がない。


 知識があっても、誰も救えない。


 あの漁師の怒りを、どうやって図解と理論で止めろというのだ。


 カイは拳を石に叩きつけた。鈍い痛みが指の骨を走り抜けるが、頭の中の声は止まらない。


「……考えろ。考えるんだ」


 自分に言い聞かせるように、声に出した。


 この「知識」がなぜ自分の中にあるのかは分からない。だが、今この町が、あの本に記された通りの道筋を辿ろうとしていることだけは確かだった。それだけは、目を逸らすわけにいかない。


 太陽が水平線に沈んでいく。茜色が紫に変わり、紫が藍に沈み、やがて海は墨を流したように黒く塗りつぶされた。


 その闇の中に、港の方から昼間とは異なる種類の喧騒が立ち上ってきた。


 松明の赤い光が、いくつも揺れているのが見える。


 カイは立ち上がり、突堤を駆け戻った。


 



 


「裏切り者を引っ張り出せ!」

「マレーヴァから出て行け!」


 怒号は、波止場に面した倉庫の前から響いていた。


 カイが駆けつけた時、松明の赤い光の下で、二つの集団がにらみ合っていた。


 一方は、昼間に船で辿り着いた避難民の男たちと、それに同調した地元の若者たち。数は二十人近い。興奮した目が松明の炎を映して、ぎらぎらと光っている。


 もう一方は、倉庫の壁際に追い詰められた数人の男たち。怯え、身を寄せ合い、逃げ場を探すように視線を泳がせている。その中心に、カイもよく知る顔があった。


 小間物屋のブルーノ。ヴァルガの血を引いてはいるが、マレーヴァで生まれ育った男だ。人の良い笑顔が印象的で、子供たちに飴を配るのが日課だった。その顔が今、恐怖で蒼白に変わっている。


「待ってくれ! 俺が何をしたって言うんだ!」


 ブルーノが叫んだ。声が裏返っていた。


 避難民のリーダー格らしい大柄な男が、ブルーノの胸倉を片手で掴み上げた。拳ひとつ分、ブルーノの足が地面から浮く。


「お前はヴァルガだ。お前たちの兵隊が、俺の妹を焼き殺したんだぞ」

「俺はここの生まれだ! 兵隊のことなんか何も知らねえ!」

「嘘をつくな。笑って見てたんだろう、俺たちが殺されるのを」


 男の声は低く、底冷えのする怒りに満ちていた。悲嘆を通り過ぎ、殺意の一歩手前まで煮詰まった感情が、その黒い瞳の奥で揺らめいている。


 男が拳を振り上げた。


 群衆の中から声が飛ぶ。


「やれ!」

「殴れ!」

「殺しちまえ!」


 声はひとつ、またひとつと重なり、やがて輪唱のようにうねりを増していく。松明の炎が風に煽られ、人々の顔に赤い影を刻んだ。


 カイの頭の中で、警鐘が鳴り響いた。


「第一の流血」。


 最初の一撃が振り下ろされた瞬間、すべてが変わる。集団心理の箍が外れ、暴力が暴力を呼び、報復が報復を生む連鎖に入る。二度と後戻りのできない地点を、今まさに越えようとしている。


「やめて!」


 カイよりも先に、白い影が群衆を割って飛び出した。


 エルナだった。


 彼女はブルーノと大男の間に体を滑り込ませ、両手を大きく広げた。華奢な体が松明の光を浴びて、壁に長い影を落とす。


「どけ、女!」

「どきません」


 エルナの声は震えていた。だが、足は一歩も退かない。


「この人はブルーノさんです。あなたの村を焼いた兵士じゃない。この町で小間物を売って、子供たちに飴を配って、誰にも悪いことなんかしていない人です」

「同じヴァルガだろうが!」

「違います。人は一人ひとり違うんです。悲しいからって、怒りたいからって、目の前の無関係な人を殴っていい理由にはなりません」

「きれいごとを言うな!」


 男の顔が苦痛に歪んだ。怒りの下に、抑えきれない悲しみが透けて見えた。


「俺たちの痛みが分かるかよ! 妹が焼かれたんだぞ! 十四だったんだ! まだ子供だったんだ!」


 声が震え、男の目に涙が滲んだ。だが、それを認めることは彼のなけなしの誇りが許さないのだろう。涙を怒りで塗り潰すように、男はエルナの肩を乱暴に突き飛ばした。


 エルナの体が、よろめくように傾いだ。


 その瞬間。


 カイの体は、思考の遥か手前で動いていた。


「姉さんに触るな!」


 二人の間に滑り込み、男の腕を両手で掴む。だが、相手は興奮した大男だ。腕の太さが倍ほども違う。力で止められるはずがないことは、掴んだ瞬間に分かっていた。


「邪魔だ、ガキ!」


 男の拳が、カイの顔面を捉えた。


 鈍い衝撃が頬骨を貫き、視界が白く弾けた。


 体が宙を舞い、石畳に叩きつけられる。後頭部に鋭い痛みが走り、口の中に鉄の味が広がった。


「カイ!」


 エルナの悲鳴が、遠い場所から聞こえる。


 だが、奇妙なことが起きていた。


 その一撃が、広場に張り詰めていた熱狂の糸を断ち切ったのだ。


 殴った男自身が、振り抜いた拳を見つめて凍りついている。無抵抗の、自分よりずっと小さな若者を殴り倒したという感触が、腕を伝って胸に返ってきたのだろう。拳を握ったまま、男は石のように動けなくなった。


 群衆も静まっていた。怒号が途絶え、松明の爆ぜる音だけが夜気に響く。


 カイは地面に手をつき、ゆっくりと身を起こした。口の端から血が一筋垂れ、石畳に黒い染みを作る。立ち上がるまでに、長い数秒がかかった。膝が笑い、視界がぐらぐらと揺れていたが、歯を食いしばって両足で立った。


 腫れ始めた頬を手の甲で拭い、男を見据えた。


「……気は済んだか」


 声は掠れていたが、不思議と通りがよかった。静まった広場の隅々にまで届いたように思う。


「あ……俺は……」


 男が言い淀む。拳を握った右手が、力なく下がっていく。


「あんたの村を焼いたのは、こいつじゃない」


 カイは顎でブルーノを示した。


「俺でもない。あんたの拳は、本当に殴るべき相手に向いてるのか。今殴ったのは誰だ。妹さんを殺した兵士か。違うだろう」


 男の唇が震えた。目が大きく見開かれ、そこに浮かんでいるのはもう怒りではなかった。


「……クソッ……クソッ……!」


 男はその場に膝を折り、両手で顔を覆って泣き崩れた。堰を切ったように溢れ出す嗚咽は、妹を失った悲しみそのものだった。怒りの鎧を剥がされた後に残った、剥き出しの慟哭だった。


 殺気立っていた群衆から、毒気が抜けていく。拳を握りしめていた若者たちが、ばつの悪そうに視線を逸らした。松明を掲げていた手が、一本、また一本と下がっていく。


「……帰りましょう」


 エルナが静かに言った。


 声は小さかったが、誰もが聞いた。


「ブルーノさんも、怪我の手当てをしますから。皆さん、今日はもう休んでください。お願いです」


 彼女の声に逆らう者は、もういなかった。


 



 


「痛ッ……!」

「我慢しなさい。自業自得でしょう」


 薬草店の二階、月明かりが差し込む小さな部屋で、カイは椅子に座らされていた。


 エルナが冷たい湿布を腫れ上がった頬に押し当てる。薬草を浸した布からは、清涼な香りとともに容赦ない沁みが広がり、カイは顔を歪めた。


「無茶しないでって、いつも言ってるでしょう。あんな大きな人に正面からぶつかっていくなんて、馬鹿としか言いようがないわ」


 エルナの声は怒りに満ちていたが、湿布を当てる手つきは羽毛に触れるように柔らかかった。その矛盾が、姉という人間をよく表している。


「姉さんこそ、無茶だろ。あの場面で飛び出していくなんて」

「誰かが止めなきゃ、ブルーノさんが殺されてたわ」

「……そうだな」


 否定はできなかった。あの瞬間、誰も動かなければ、本当に取り返しのつかないことが起きていた。


 カイは椅子の背にもたれ、窓の外に目を向けた。夜の港は不気味なほど静まり返っている。松明の光はすでに消え、月が海面に白い道を引いていた。


 だが、この静けさが本物でないことを、カイは知っていた。薄い氷の上に降り積もった雪のようなもの。表面は白く穏やかに見えても、その下では黒い水が音もなく流れている。


「ねえ、カイ」


 エルナが湿布を取り替えながら、ふと声を落とした。


「ん?」

「あの時、どうしてあんなことが言えたの」

「あんなこと?」

「『本当に殴るべき相手に向いているのか』って。あの言葉」


 エルナが手を止め、カイの目を覗き込んだ。月明かりに照らされた緑の瞳が、静かに揺れている。


「まるで……こういうことが起きるのを、ずっと前から知っていたみたいだった。あの人たちがどう動くか、何を言えば止まるか。全部、分かっていたみたいな顔をしてた」


 カイは息を詰めた。


 知っていた。


 本のページをめくるように、次に何が起きるかが見えていた。


 あの男が拳を振り上げた時、群衆が「殺せ」と叫んだ時、カイの頭の中では冷徹な予測が走っていた。ここで流血が起きれば、集団心理はこう動く。報復の連鎖はこう広がる。この町はこう壊れていく。


 だが、それを姉に説明する言葉を、カイは持っていない。


「……怖かっただけだよ。あのままじゃ、みんながおかしくなると思って、気がついたら口が動いてた」

「そう……」


 エルナはしばらくカイの顔を見つめていたが、やがて小さく頷き、それ以上は問わなかった。


「湿布、寝る前にもう一度替えてね。腫れが引かなかったら、明日また薬を塗るから」

「ああ。ありがとう」

「……おやすみ」


 エルナは薬箱を抱えて部屋を出ていった。扉が閉まり、足音が階段を降りていく。


 一人残されたカイは、寝台に横たわり、天井を見上げた。


 古い木の梁が影を落とし、月光が窓枠の形に切り取られて壁に映っている。頬の痛みが心臓の拍動に合わせてずきずきと脈打つ。だが、それよりも深い場所で、もうひとつの痛みがあった。


 意識がゆるやかに輪郭を失っていく。その境界で、またあのビジョンが浮かんだ。


 今度は窓辺だった。


 知らない街の夜景が、硝子の向こうに広がっている。無数の光の粒が地上に散らばり、空に向かって淡く滲んでいる。この世界には存在しない種類の光だった。星でもない。松明でもない。蛍でもない。均一で、冷たくて、どこまでも明るいのに、どこか寂しい光。


 硝子に映る自分は、今のカイではなかった。


 眼鏡をかけている。白い衣を着ている。目の下に深い隈があり、頬は削げ、唇は乾いている。ひどく疲れた男だった。


 その手に、紙の束が握られていた。表紙に印字された文字が読める。


「悲劇の連鎖を防ぐための提言」


 その下に、赤い文字で誰かが書き込んでいる。


「却下」


「お前の研究は、誰を救うためにあるんだ?」


 声が響いた。硝子に映る男の背後から。問いかけは鋭く、だが悲しみを含んでいた。


 夢の中の「自分」は、答えなかった。


 紙の束を握る手が震えている。ただ、無力感に打ちひしがれたまま、光の海を見下ろして立ち尽くしている。


「……救うんだ」


 カイは寝言のように呟いた。


 ここには、提言書を提出する相手もいない。理論を戦わせる学者の集まりもない。あるのは、血の通った姉と、泣き叫ぶ隣人たちと、赤く燃える松明の下で壊れかけた小さな町だけだ。


 知識がなんのためにあるのか。その答えは、まだ見えない。


 けれど、今日、エルナを守るために体が動いたことだけは確かだった。理屈ではなく、分析でもなく、ただ姉が突き飛ばされるのが許せなくて、足が勝手に前に出た。


 あの瞬間だけは、「前世の自分」も「今の自分」も関係なかった。


 ひとりの人間として、大切な誰かを庇った。それだけのことだ。


 それだけのことが、今は何よりも確かな手応えとして、胸の奥に残っている。


 窓の外で、霧の向こうの灯台が明滅を繰り返していた。


 頼りない光。だが、消えてはいない。


 マレーヴァの長い夜は、まだ明けそうになかった。

最後まで読んでいただき、ありがとうございます。


本作は、現代日本で「紛争研究」に没頭していた大学院生が、その知識――平和な世界では机上の論理だったものが、地獄のような戦場では「残酷な予言」に変わってしまう世界で、どう生き抜くかを描く異世界戦記です。


第1話では、穏やかな薬草店の日常に、じわじわと戦乱の影が忍び寄る様子を描きました。カイが脳裏に浮かべた「分断のメカニズム」や「ジェノサイドのプロセス」といった言葉が、今後どのように物語に関わってくるのか。そして、姉のエルナを守るために彼が選ぶ道とは……。


もし「続きが気になる!」「設定が面白い」と思っていただけましたら、下にある【ブックマーク】や、広告下の【☆☆☆☆☆(評価)】をいただけますと、執筆の大きな、大きな励みになります!


次回の更新は、カイがさらなる決断を迫られるシーンとなります。

彼らの行く末を、ぜひ見届けていただければ幸いです。


よろしくお願いいたします。

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